ざわざわざわ。本日の講義が終わった構内は、出入り口へ進む人の波で溢れかえっている。「狭い日本、そんなに急いでどこへ行く」とか言う交通標語を唱えながら、俺はのろのろとその列の一番後ろからくっついていった。
何を考えていたって? そりゃ決まっているだろう、今日の午前中にファーストフードでチーズバーガーを頬張りながら聞いた、あの問題発言のことだ。 『付き合ってあげる。私、あなたの彼女になるわ』 俺をまっすぐに見つめて、彼女は親愛に満ちた目でそう言った。 え? そんなの俺の勝手な思いこみだってっ!? そりゃあさ、全部が全部、本心じゃないかも知れねえぜ? けどさ、冗談であんな事が言えるかい? そんな風に他人を貶めるような性格の悪い女には見えなかった。 あ、でも。……そう言う可能性もやっぱあるか。 膨らみかけた期待が、次の瞬間にはぷしゅーっと音を立ててしぼんでいく。そんな風にいて今日1日の講義は少しも頭に入らないまま、終了した。
俺が2限目から講義室に戻ってくると、もちろん大谷が聞きたいことがたくさんあるという表情でやって来た。でも俺と目を合わせた瞬間、彼は同情に満ちた表情になる。 「……そうか、そうか。いいぞ、何も言わなくていい、今夜は俺の胸で思う存分泣いていいぞ」 ―― っんなことっ!! 金積まれたって嫌だかんなっ、と思う様なおぞましいことを言いつつ、大谷は俺の肩をぽんぽんと叩いた。同情はされる相手によっては、とても虚しいものだと改めて悟る。 でもな〜、ほおんと。「やっぱり、嘘ぴょ〜んっ!」とどっきりカメラが出てくるのが妥当なセンだと思う。いくら俺でも「はい、そうですか」と納得出来る状況ではないのだ。 あの、衝撃の告白の後、彼女は「やっぱ、行くわ」と、さっさと席を立って行っちまったし。
「あれ……?」 出口付近。なにやら人並みが変な風に迂回する部分がある。みんな壁際の「何か」をじーっと見つめながら、のろのろと大回りに通り過ぎていくのだ。 まさかまた、捨て犬でも放置されているんじゃないだろうなっ!? この予備校は住宅地の側にあるせいか、やたらと動物が捨てられている。神社や寺じゃないんだから、やめて欲しいものだ。俺もああいうのには弱いが、アパート暮らしでは飼えるはずもない。 「……あっ……?」 その方向を見ないで通り過ぎようとして、でもやっぱ好奇心には勝てなくて、ちらっと覗いてしまった。すると、そこにいたのは、犬や猫じゃない。れっきとした人間だった。どういうことか、普通の人間のはずなのに、彼女の周りにはキラキラと光の粒が浮遊している。それくらい存在感があるのだ。 すれ違う生徒たちの視線に晒されても何ともないように微笑んで、やがて俺の存在を確認すると手にしていた文庫本をぱたんと閉じた。 「ああ、良かった。よく考えたら、名前も連絡先も聞いてなくって」 確かに俺を見つめて、にっこりと微笑む制服の女子高生。数時間前に爆弾宣言をしてくれた彼女が、綺麗な黒髪をさらさらと揺らしながら言った。
*** *** ***
そりゃあさ、そっちはあれしきのこと、慣れっこなのかも知れない。でも俺はな、そこら辺に転がってる十人並みの男なの。ま〜、中の中くらいにしときたいけど、間違っても周囲から注目されるような存在じゃない。 もう、背中にズブズブと突き刺さる無数の視線も構わず、俺は彼女を近くの公園まで引っ張り出した。少しは人間の数が減って、ホッとする。
突っ立ったままの俺をじーっと見つめて、何かを思うような瞳を揺らされたら、それだけで手のひらにじっとりと汗をかいてしまう。もしかして、ものすごいカロリー消費量なんじゃないだろうか? 「だって。私、あなたの彼女なんでしょ? だったら、会いに来たっていいじゃないの。……違うの?」 どっしゃ〜〜〜〜〜っ!! そんなぶっ飛んでしまいそうなことをさらりと言い放ち、更に彼女はカバンの中から、水色のスケジュール帳を取り出す。透明なカバーには白い小花がたくさん飛んでいて、何とも女の子らしい。備え付けのペンを取ると、またこちらを見た。 「はい、名前。それから住所と携帯の番号と、メアドと…生年月日? とりあえず、個人情報を教えてちょうだい。携帯は空メール送ってもらっちゃえば簡単だけど、やっぱりきちんとメモっておいたほうがいいし」 「―― は……!?」 まるで駐車違反で免許証の提示を求める婦人警官みたいだ(ちなみに俺はまだ免許なんて洒落たものは持ってないので、あまりいいたとえになってないかも知れないが)。俺がもたついていると、それをなんと受け取ったのか、彼女はすっと手帳を差し出した。 自分で書け、と言うことなのだろうか? 必要以上に汗ばんだ手をTシャツの裾でごしごしして、それから恐る恐る受け取る。水色のラインが横に走った普通のメモページ。ここにも小花が浮き模様で入っている。 どどど……どうしよう。ペン先を紙の上に置くまでにもものすごく躊躇してしまう。俺はノートに似合わない汚い字で「上條」「聖矢」と書いた。それからアパートの住所、携帯の番号、メアドは覚えてなかったから、仕方なく携帯を出して、アルファベットの部分を確認した。 「ええと。上條くんって、呼ぶのと、聖矢くん、って呼ぶのとどっちがいい? あら、本当に年上なんだ、2才違いなんだね」 そう言いながら、さらさらと自分も何か書き込んでいる。やがて、顔を上げると、ノートを一枚ぴりぴりと破いた。もとから切取線が入っているのだ。 「はい、じゃあ、私の分。槇原、梨花―― 梨の花、って書くの。山ノ上高校の3年生ね」 両手で受け取って、それを見る。うわっ……なんて頭の良さそうな字っ!! 近頃の女子はヘタウマ文字って言うのを書くんじゃないのか? あのちんまくて角張っている奴。でもっ、ここに並んでいるのは、まるで硬筆のお手本のような見事な文字で。隙がないのに、どこか女の子らしい。 ああああ、俺っ! どうしちまったんだっ!! 書き文字見て、こんな風に感動するなんて、雅な平安貴族じゃあるまいしっ! それにそれに、ケータイの番号だぜっ、いいのか、こんな不用意に教えちまって。もしも俺がタチの悪いストーカーだったらどうするつもりなんだろう。
「じゃ、行こうか?」 「……は、……へ……?」
ぼおんぼおんと、身体の中で花火がはじけ飛ぶ。こんな事があっていいのだろうか!? 盆と正月とクリスマスとバレンタインが一緒に来ちまったっ…!!!
―― あれ? ふと見ると、彼女は俺のアパートとは反対の方向にすたすたと歩き出している。俺が付いてこないので、立ち止まって振り向いた。 「あ……あのっ……?」 違うんですけど、そっち。方向が逆なんですけど? もしかして。人間って、誰にでも欠点があると言うけど、完ぺきに見える彼女は実は方向音痴だったりするのかな? 「―― あれ?」 「もしかして、聖矢くん、この辺の地理に暗い? あのね、私の家、この街道をずーっと行ったところにあるの。40分か50分くらいかな? これからは天気のいい日は自転車を持ってきてね。歩くのはちょっと辛いでしょ」 「へ……?」 まだ、彼女の言おうとしている言葉の意味が分からない。俺の飲み込めないでいる顔をちょっと呆れた目で見つめて、もう一度首をすくめる。まっすぐな髪の毛が彼女の動きにあわせてさらさらと流れるのも気持ちいい。 「彼氏って、彼女を家まで送ってくれるんでしょ? ……そうじゃないの?」 「もしかして……、あの、私と歩くの嫌? 早く家に帰りたい?」 「えっ……、ええっ!? 違うっ!! 違いますっっ!!! ……お供させて頂きますってっ!!!」 慌てて後を追いかける。なんかよく分からない。でも、彼女は「一緒に帰ろう」と言っているのだ。言葉になってないけど、そう言うことなんだと気付いた。
さらば、ヨコシマな考えっ! ……あああ、俺って馬鹿っ! こんな清らかな女の子に何を妄想してるんだっ!! そりゃさ、期待しちまうけどっ……でもっ……、多少の「お預け」があった方が感動が広がるのかも知れないしっ!? 真っ赤な夕日に照らされた、極上の微笑み。何をしゃべったか何て良く覚えていない。でも彼女が俺のことを気に入って、一緒にいていいって思ってくれてるんだ。それが、本当に嬉しかった。
*** *** ***
「そうですよ〜、何でそんなことになるんですかっ!?」 明くる日。全くの骨抜きになって、ふにゃふにゃしている俺は、昼飯の時間に予備校の食堂で大谷とあのオタクくん・小杉とにしつこく尋問を受けた。 ふたりと向き合って、きつねそばをすすりながらあれこれ話をしている時も、四方八方からちりちりとした視線を感じている。 ―― そうなのだ。 俺が昨日、誰もが振り返るような美人を伴って予備校の玄関から消えたという話は、あっという間に広まっていた。ひたすらに勉学に励んでいるはずの予備校生たちが全くどうしたことか。ワイドショー並みの噂話に興じているなんて。 予備校の建物に入った時も、講義室に入った時も、周囲の空気がどよめくのを感じていた。それを繰り返されれば、さすがの俺も思い違いじゃないと気付く。 何で彼女がわざわざ俺を訪ねてきたのかっ!? その事実を確かめるため、ふたりの目はらんらんと輝いていたのだ。はっきり言って、男ふたりにじーっと見つめられて、今にも違う方向に走りそうな気がしないでもない。だが、危なくなるとしても、このふたりだけは避けたいぞ。俺にだって、選ぶ権利はあると思う。 変に誤解されるのも面倒なので、かいつまんで説明する。でも、この際、アパートでうんたら、のくだりは秘密にすることにした。だって、そうだろっ!? そう言うことは男女の秘密のことなんだから。誰彼となく話していいものではない。だから、あの飲み会の夜に意気投合して、彼女も俺に興味を持ってくれたのだと、ちょっと曖昧にまとめた。 だが、敵もさるもの。付け焼き刃な言いぐさでは到底納得してくれない。 「そんな馬鹿なことっ!! 信じられませんよっ、たとえ先輩だって。……ああ、こんな情報じゃ高く売れやしないっ!!!」 「……情報!?」 俺が、余りの馬鹿馬鹿しさにあきれかえると、それに負けないくらいのリアクションを小杉はしてくれた。 「分かってませんねえ……先輩、それで本当に地元の人間ですか? 槇原一家のこと、本当にっ! ご存じないんですかっ!?」 「……はにゃ?」 小杉のいきなりの剣幕に、びっくりして視線を泳がすと、大谷もやはりあきれかえった顔で俺を見ていた。 「お前って……やっぱ、馬鹿だわ」 何だと〜〜〜〜〜〜っ!! 馬鹿って言う奴は自分が馬鹿なんだっ! 昔からそう言うだろうが、ボケっ!! 味付けのイマイチな油揚げを噛みしめつつ怒りを露わにすると、目の前のふたりは親密にアイコンタクトを取り合い、大袈裟にため息を付いた。
『槇原夫妻』―― その伝説となったカリスマ夫婦の話を、迂闊ながら俺は全く知らなかった。あのひげ面むさい男・大谷でさえ、必要最低限の情報は持っていたのに。 知る人ぞ知る、海を目の前に背後を山にした理想的な住宅地。その小高い丘の一角にまるで清里か軽井沢から持ってきたようなカントリーで少女趣味な雑貨屋がある。ベージュの外壁に濃いめのグリーンの窓枠。屋根もグリーン。窓にも戸口にも敷地内にも咲き乱れる四季の花々。『Apricot
Green』……その店主こそが槇原氏なのだという。 その夫妻に3人の子供がいることまでは、大谷も知っていた。 梨花ちゃんは3人兄弟の真ん中で上にお姉さんと下に弟がいる。ちょっと想像しただけでかなりすごそうだけど、実際にもファミリーで買い物とかしてるのに遭遇すると、みんな初めはドラマの撮影でもしているのかと思うのだそうだ。
「もっと、詳しくお話ししましょうか? ええっ、いいんですよ、それくらいのことっ!! もちろんこれからも先輩と仲良くさせて頂くと言うことで特別におまけしますっ!」 そう言って、また分厚いノートを小杉が取り出したので、それは丁重にお断りした。何だか、こんな風に裏からこそこそ調べるなんて嫌だった。彼女に知れたら幻滅されそうだし。彼女をきちんと知る前に、こんな風に情報で偶像を創りあげるのはちょっと違うなとか思った。 「そうですかぁ……」 明らかに「交換条件」の提示をもくろんでいたらしい小杉は黒縁眼鏡の奥で恨めしそうに俺を見た。でも、すぐに気を取り戻したらしく、ごそごそと黒くて大きながま口みたいなかたちをしたカバンを探る。 「じゃあ、これっ! 特別にお見せしますっ……ああっ、駄目ですよっ! 触っちゃっ……!!」 そんな風にもったいぶりながら彼がテーブルの上に出したのは、パウチした二枚の写真だった。バストアップのかなりはっきりと写っているもの。一瞬、芸能人の生写真かと思ったが、その一対の男女は見たことのない顔。俺は訳が分からずに、首をひねった。 「これが、槇原透さん。そして、奥様の千夏さん……あああ、だから〜っ! 触っちゃ駄目だって言ってるでしょうっ! 見るだけにして下さいっ、御利益がなくなりますっ!!」 「……御利益?」 また、訳の分からないことを言い出す奴だ。それにしても、コレが梨花ちゃんのご両親か〜、うわわ、本当にTVタレントになれるレベルだなあ。梨花ちゃんはどちらかというとお母さん似になるんだろうか? この人たちはウチの親と同じくらいの年齢のはずなのに、どうしてこんなに若々しいんだろっ!? 「んもう〜、先輩は常識なさ過ぎっ! どうして、そんな風にボケボケしてるんですかっ!!」 「このカードはねっ! 今や老若男女を問わず、誰もがあがめ奉る究極のレアアイテムなんですよっ! あのねえ、素敵な彼女が欲しい男は千夏さんカード、格好いい彼氏の欲しい女性は透さんカード。肌身離さず持っていれば、必ず願いが叶うと言われてます。ついでに、お店で売っているオリジナルブレンドの紅茶を毎晩飲んで寝るといいとか〜、……ああああっ! 何ですかっ、その不審の目はっ!! 本当に効力あるんですからねっ! 馬鹿にすると罰が当たりますよっ!!」 この箔押しカードは本当に貴重品なんですからねっ!! 最後にそう言って、そそくさとしまいこむ。 けどなあ、だいたい小杉なんかが肌身離さず持ち歩いている事からして、怪しい気がする。とても「御利益」があったとは思えないぞっ! それに、男用と女用と両方持ってるって、どうよ!? まさかお前、実は両刀遣い……っ!? そして、予鈴が鳴る。貴重な休息の時間は何とも無駄に過ぎてしまった。
*** *** ***
「ごめんっ、待ったっ!?」 予備校のタイムテーブルの都合で、彼女の方が講習の終わる時間が30分ほど早い。栄進光予備校はNOVAの様に駅の目の前。地下鉄に乗って、俺が定時で上がってくるのに余裕で間に合うのだ。昨日、あんな風に注目を浴びてしまってすくんだから、今日は直接公園に行って貰うことにした。 「ううん……でも、遅かったね?」 「あ、うんっ。……ちょっとね」 ふたり連れだって歩き始めるのは、昨日と同じ彼女の家への道のり。涼しい風の吹き始める夕方の散歩はなかなか快感だ。受験生には時間のロスとも思えることなのに、昨日はそのあと、ことのほか勉強がはかどった。今までどうしても解けなかった応用問題が、すらすらと答えられる。あれには自分でも驚いた。 ―― でも。 隣りの彼女をちらっと盗み見ながら、若干の不安を抱えた自分を感じる。どうして、彼女は俺なんかを選んだんだろう? やはり、この前の夜のことを気にしてるのか? そうでもなければ説明が付かない。
ただですら、信じられなくて狐につままれた気分。しかも……さらに不安になるようなことを、さっき戻りがけに小杉に教えられたのだ。 「これは、僕たちの仲間内でもすごく謎とされているんですが。梨花ちゃんって、今まで特定の彼氏がいたことないんですよ? あれだけの上玉ですから、みんな落としたいとあの手この手で応酬したらしいんですが……み〜んな、まとめて玉砕。箸にも棒にも掛からない状態だったらしいんですよ。先輩っ、今に後ろから刺されますよ? くれぐれも、夜道には注意して下さいね」
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