男と付き合った経験のない、清らかな崇高な少女。ちょっと近寄りがたいほどの潔癖さを備えている。声を掛けるのもためらわれるほどの、白百合のような気品。 ……。 あ〜、我ながら陳腐な表現。やはり、俺はゲーテにはなれないらしい(…最初から、無理だって?)。 小杉の話を聞いてしまったので、何だか妙にうなじの辺りがスースーするが、まあ、それはそれで…。ともかく、俺はナイトなので、美しい姫君を無事にお城…もとい家まで送り届ける任務を遂行しようと心に誓った。
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何しろ、一昨日会ったばかりで彼女のことを何も知らない。あ、一昨日は一瞬だったけど(ついでにものすごいものまで拝んだが)。質問攻めにする…というのも品がないが、まあ、長い長い道のりを黙って歩くわけにもいかず、当たり障りのない会話をすることにした。 「…もしかして、医学部とか…?」 うわっ! 言ってしまってから、しまったと思う。この一瞬で、ばばばっと想像してしまったぞっ! 彼女が白衣姿で診察室の机の前に座っているのをっ!! あああああ、何てはまっているんだっ、最高だっ…でもって、お医者さんごっことかしちゃったり…うわわわ、何考えてんだよ〜、俺はっ! 「え…?」
盛り上がる俺に対し、どこまでも冷静な彼女の声。そよそよと頬を撫でる夕暮れの風が俺を日常に引き戻す。 「は…、はぁ。そっか…」 梨花ちゃんはそんな俺をまじまじと見つめてる。本当に吸い込まれそうな瞳とはこんなものを指すんだろう。びっちりと綺麗に生えそろったまつげに囲まれた目はぽろんと落ちてきそうに大きくて、艶々と濡れている。でもって、目玉の中の瞳がでかいのだ。 「黒目がちの目」とはよく使われる表現だけど、本物はやっぱすごい。今の俺にとっては心まで見透かされるブラックホールのように思えてしまう。 「じゅ、獣医学科に入るのって、すげ〜大変なんじゃなかったっけ?」 さすがに俺の周りには獣医を目指している奴なんていなかった。と言うか、俺は文系だから、全然畑が違う。哀しいかな、いくら同じ受験生でも志望する学部が違うとちんぷんかんぷん。でも、俺は負けない。小学校の頃に学校の図書室で見た「じゅういさんになるには?」と言う本の内容を頑張って思いだしていた。人間、必死になれば何でも出来るのだ。 「確か、獣医学科ってすごく少ないんだよね、しかも国立がほとんどで。全国で15だか16だかそのくらいだったよな〜、しかも医学部と同じで6年制なんだろっ、もちろんそのあと国家試験もあるし…」 うんうん、「動物のお医者さん」でも言っていたぞ、獣医さんになるのはすごく大変だって。実習も多いし、生体実験なんかになると研究室に泊まり込んだりするんだって。生半可な気持ちで希望出来る道ではないだろう。まあ、彼女なら出来そうな気もするけど。 「うん…、まあ。そうね」 梨花ちゃんは何でもないようにさらりと答える。歩くたびに髪の毛がさらさらと流れて、もう、ひとつの映像のように美しい。こんなすごいものを間近で見てしまっていいのだろうか。何だか人生の全ての運を使い果たしてしまいそうな気がする。ちょいとオーバーかも知れないが、全く持って目の保養だ。 一応、ナイトだから…俺が車道側を歩く。だから彼女の横顔の向こうには、ガードレールがあって、その向こうに広々とした風景が広がっている。一番向こうは海。今、俺たちは線路を越えるように作られた高架の部分を歩いていた。道路がだんだん上り坂になり、また下り坂になる。下を電車が通り過ぎていく。 梨花ちゃんは自分からきゃぴきゃぴとしゃべったりしない。そう言うキャラにも見えないが、実際も口が重いというか…ぽつんぽつんと言葉を編み出していく。だから、俺は彼女の言葉を引き出す糸口を探すのだ。 「でも、どうして…。動物が好きなの?」 ――まさか、チョビを観たから感化されて…とか、彼女に限ってそんなことはないだろう。 じゃあ、何だ…? あっさりして見えるけど、実はとても動物好きで家にはハムスターのゲージが10個もあるとか、インコを100羽飼っているとか、庭には犬が5匹もいるとか…何だかそんなことまで考えてしまう。さすがに呆れられたら大変だから、想像に留めておくけど。 「う〜んっ…そうだなあ」 「ウチね、お姉ちゃんが気管支が弱くて。よくぜいぜいになったりしていたのよ。だから、動物とか全然飼えなくて、お友達の家がとても羨ましかったの。それなら獣医さんになれば、毎日たくさんの動物を触れるかなって思って…、そう言うのってすごく楽しそうでしょう?」 「…は、はあ…」 「今も、バイトしてるの。早朝と夕方、犬の散歩の。どの子もみんな可愛いのよ、私が行くととても喜んでくれるの」 ふふっと、ちょっとだけ声を立てて笑う。あ、…メッチャ可愛いかも。何だかドキドキする。こうして彼女の意外な一面を知ることが出来るのは楽しい。いいのかな、こんなことしていて。すげ〜、役得。 彼女は嬉しそうな色を瞳に残して、俺に聞いてきた。 「…聖矢くんは? 行きたいの、文学部の史学科なんでしょ?」 「え…?」 俺が、怪訝そうな顔をしているのが分かったんだろう。彼女は、あれ? と言う表情になって、それからカバンを開けてごそごそと何かを取り出した。 「あ、ごめ〜ん。あのね、荷物の中にこんなの、紛れていて…ついつい、見ちゃいました。返すね?」 そう言って取り出す。コンピューターが打ち出した紙切れ、A4版にびっちりと…、びっちりと…!? 「うぎゃああああああっ! …どどどどっ、どうしてっ!!」 思わずひったくっていた。だってさ〜、これ、この前返ってきた模試の結果じゃん。もうぼろぼろで…一浪の頃はもうちょっと判定も良かったはずなのに、今回はAとBがひとつもないっ! あるのは「志望校を再考することをおすすめします」ばかりだ。プリントアウトされた冷静な明朝体にそう言われると、とても寒い気がする…。 「よく分からないんだけど、いつの間にか入ってたの…あの夜、かな」 どっき〜〜〜〜〜んっ! そのことを思い出すと、心臓が飛び出そうだ。未だに回復する記憶のない夜。彼女は覚えているのかっ、俺が…そのっ、何をどんな風にしたのかとか。あああ、どんなに濃厚な夜だったのか、フラッシュバックでもいいから見えたらいいのに…そんな風に考えてしまう自分も惨めだ。 「あっ…、ああ、そう、…そうか…っ」 もう、あっちこっちがほころびだらけです。冷や汗たらたらですっ…うわああああああ、どうしたらいいんだ、俺っ。今、この置かれている状況はこの上なくすげ〜、ハッピーだと思うんだけど? でもさあ、…なあ…。 「あの…、聖矢くん?」 申し訳なさそうに、彼女が俺の顔をのぞき込む。だから、そんなに見つめないでくれよっ…、いやらしい内側まで暴露しそうですごく怖い。 「ごめん、フェアじゃないよね? その模試、私も受けたんだけど…良かったら見せようか、結果。そうすればおあいこだよ?」
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そこは、彼女の家から一番近い駅のひとつだ。彼女が使うのは地下鉄だから、その駅はもう少し歩いたところにあるんだけど。山を切り拓いて作った住宅地。緑を残したゆとりある設計で、ごみごみしてない。何十年もここにあるみたいにしっくりと景観と溶け合っている。
駅の周りにはデパートや銀行の建物が並んでいて賑わっている。そして、駅前には乗り降りの客をターゲットにした、ワゴンのショップがたくさん出ていた。 「今日は、売り切れてないかな?」 ここのソフトクリーム屋のチーズケーキソフトが目玉商品なんだそうだ。一度食べたら忘れられない味で、わざわざここまで足を運んで買い求める客も後を絶たないとか。ソフトクリームだけにお持ち帰りは出来ず、この場で食べるしかないのもレアなものになる一因だろう。 昨日もここまで来て、彼女が「食べようか?」と言った。でもいざ、買いに行ってみると非情にも「あとひとつです」と言われる。ここでもまた、俺の情けない人生の断片がかいま見れたのだ。すげ〜落ち込んだ。もちろん彼女はひとつしかないソフトクリームをひとりで食べるなんて酷いことはせず、また明日ねと言ったのだ。 ソフトクリームなんて、ものすごく食べたいものでもない。でも…梨花ちゃんがこうして気を遣ってくれるなら、食べてもいいかなと思う。そんな感じで、ショップの前に歩み寄ろうとした時。駅からどばばっと人並みが押し寄せてきて、俺たちの前に長い長い河を作ってしまった。 「…あ…」
前にもちらっと言ったかも知れないが。俺は西の杜をわずか1年足らずでやめている。まあ、やめると言っても、中学は義務教育だから、普通の公立中学に移っただけのことだが。でも、せっかく受かっておきながら、通い続けられなかった情けなさは今でもあの制服を見るたびに思い出す。 …ああ、いやだなあ…。 そんな風に暗くなりながら、隣りの梨花ちゃんを見る。…すると意外なことに。彼女も俺と同じものをみて、凍り付いた表情をしていた。
それを見なかった振りをして。ふたり分のソフトクリームを買って、その辺のベンチに座る。こうしてほっと一息つくと、ほんっとにこの辺は高校生カップルが多い。ソフトクリームを舐めているのだって、ほとんどが高校生の男女ふたり組だ。もしかして、カップル限定販売なのかと思ってしまうほど。 「おっ…俺さあ…」 「中学の頃っ、1年だけ『西の杜』に通ってたりするんだよな〜っ…なんか、あの制服っ、懐かしくてさ」 別に自慢している訳じゃない。だって、梨花ちゃんは山ノ上高校の生徒だ。しかも校内での成績もトップクラスらしい。私立なら西の杜、公立なら山ノ上、と言うのが伝統的な進学校。ちょっとひねた考え方かも知れないが、6年間も私立に通うなら、公立で同等の教育を受けた方が親孝行だ。
でもさ〜、いつまでもこだわっていても仕方ないと思う。 ほら、見てみろ。 あっちにいるカップルもこっちにいるカップルも…みんなみんな、俺と梨花ちゃんに注目している。まあ、ほとんどの視線は梨花ちゃんに注がれていると言ってもいいが。道を歩いている時だって、俺はずっと夢心地だった。想像すら出来なかったことだ。こんなに可愛い彼女とふたりで歩けるなんて。ベンチに座って、ソフトクリームを舐められるなんて。
でも、次の瞬間。彼女の身体がぴくっと跳ねた。 「…あ、じゃあ、もしかして…?」 「聖矢くん、私より2学年上だから…もしかして中等部で、ウチのお姉ちゃんのひとつ後輩だったんじゃない? 知らない? 何だか有名だったらしいけど」 「…へ…?」 いきなり「知らない?」と聞かれても…覚えがなかった。 西の杜に入学して。余裕があったのは1週間のガイダンスの期間だけだった。授業が始まってみると、いきなり落ちこぼれてしまう。夜中までかかっても終わらないほどの宿題が出る。他のクラスメイトもさぞ大変な思いをしているのだろうと思ったら、そうでもないのだ。 周囲に気を配る暇もなく、必死に勉強したが追いつかない。そして、いつの間にか努力をすることまで面倒くさくなっていた。だって、少しぐらい頑張ったところで、結果なんて出ないんだから。俺が頑張っていい点数を取っても、他の奴らはもっと高得点なのだ。
「ごめん、…分からないや」 俺が言うと、梨花ちゃんはきょとんとした顔でこちらを見た。 「知らないの? …本当に?」 ふうん、そっか〜とソフトクリームを舐める彼女が、何だか少し表情を変えた気がした。俺の気のせいだったのかも知れないけど。てろん、と指に溶けかけたクリームが流れてハッとする。夕暮れとは言っても、まだまだ夏の盛り、やわらかいソフトクリームなんてすぐに溶けてしまう。俺はどろどろになりかけた表面をひと舐めして、そして、ふと気付いた。 「え〜、梨花ちゃんのお姉さんは西の杜の生徒だったんだ?」 「うん、…お姉ちゃんはもうとっくに卒業したけど。今、弟が高等部の1年にいるの」
何でもないように彼女は言うが。お姉さんも弟くんも、西の杜!? で、どうして彼女だけ公立なんだ!? 俺のように途中で転校したと言うこともないだろう。山ノ上トップの成績だったら、西の杜だって余裕のはずなのに。…でも、まさか。
「もしかして、受験に失敗したとか…?」
もしも…もしも。こんなに完ぺきに見える彼女にもそんな過去があるのだとしたら。俺たちは似たもの同士なのかも知れないっ! だからっ…だから、惹かれあうのかっ!?
「え…? 何言ってるの。西の杜になんて、最初から行く気もなかったもの…」
「お姉ちゃんが西の杜に合格した時に、パパとママがものすごく難しそうな顔をして。夜中までずっと話し合っている時期があったの。やっぱり、ひとり行けば、3人とも…って考えるよね? でもウチは自営業だし、そんなにゆとりもなかったんだと思う。塾やお稽古ごとだって、結構な出費だもんね」 …梨花ちゃんとお姉さんは3歳違い。と言うことは、お姉さんが西の杜に合格した時、梨花ちゃんはまだ小学校の3年生だったことになる。そんなに小さな女の子が、両親の悩みを感じ取っていたなんてすごすぎる。 しかも彼女は。弟はきっと西の杜に入った方がいいと思ったという。だったら、自分は公立に行こう。公立に行って、国立に行けば、親は少しは楽になる。難しい顔をしなくてすむと。 「弟はね、バスケが好きで、部活やりたがっていたの。西の杜のバスケは全国レベルだもんね。私はそう言うのないし、だから、いいかなと思った」 特にすごいことをした、と言う感じでもない。梨花ちゃんはなるようになったという風に、淡々と語った。
ああ、対して。俺の情けなさと言ったら、何だろう。さんざん金を使わせた挙げ句に、西の杜を首になって、そのあとも進学のための塾や予備校に通ったが、全然身にならなかった。今では堂々の二浪。あとがない状態なのに、この悲惨な模試の結果。もう夏休みには受験の勝敗が見えてくる、とか言うのに…。 「聖矢くん?」 「私、犬の散歩のバイトがあるから、帰るね。聖矢くんもお気を付けて。…じゃ、また明日」 のろのろと顔を上げる。目の前の彼女は夕日の後光をバックに、静かに微笑んでいた。
*** *** ***
マジにそんな気がして。ちょっと勉強に身が入るようになったと思う。そんな単純に行くのかと、誰かに突っ込まれそうだけど。
そんなわけで、昼飯をかきこんだあと、午後の講義の部屋に行って参考書を広げていると。ひげ面の大谷がきょろきょろしながら入ってきた。 「おおう、上條…っ!」 何だ何だ? すげ〜、神妙な顔をしていると思ったら、俺のことを探していたのか。全く、そんなに慌てて、なんだって言うんだ…!? 「なんかさ、知らね〜男が玄関のとこでお前を待ってるんだよ。連れて来いって言うからさ…なんだ、あいつ」 「ふに?」 いいところなんだけどな、一体なんだろ? 別に面会の予定もないんだけどなあ。ぐるぐると首をひねってしまう。でも、何も浮かんでこない。 う〜んっ、…誰だあ??? まあ、昼休みもまだたっぷりあるし…行ってみるか。俺は席を立つって、正面玄関に向かった。
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