「ここで待ってるから、……それに貰ったらひとりで帰れるから」 玄関先に立ちつくした私は、彼の顔色をうかがいながらそう言った。
思っていたよりも、聖矢くんのアパートまでは遠かった。何だろう、この前は大雨の中だったけど、それでもこんなにかかったかなと思うほど。このまままた駅前まで送ってもらったら時間がかかっちゃう。いくら何でも申し訳ないと思った。 慣れない道のり。そこはかとない不安が胸をよぎる。その理由が見えない。当たり障りのない好きな音楽の話とか、そんなのを話しながら歩いた。先ほどまでの暗さが取れた聖矢くんは、明るい表情でどんどん話を展開していく。誰かに引っ張ってもらうのは楽だから、この状況は芳しいはず。
……でも、何か、違う……。
視線に落ち着きがない、そして声がうわずっている。いつもどこか緊張してるみたいにどぎまぎしている聖矢くんだったけど、なんか見えないものに追い立てられているみたいだ。 不安が、心に満ちてくる。どうしよう、何が待っているんだろう。私が、今一番恐れていることが、これから起こるのではないだろうか? それともただの杞憂で、ちょっと気分でも悪いだけなのかな。
「いいよ、……疲れただろ? 一息ついてから戻ればいいじゃない」 お茶でも入れるから、とか言われてしまって、断り切れなくなった。まあ、いいや。5分や10分なら。でも……、やっぱり聖矢くんどこか普通じゃないよな。何だろう、心の中に爆弾を隠し持っているみたいだ。それはちょっとしたはずみで爆発する。
――どうしよう、どうしたらいいんだろう。 彼の部屋は当たり前に男の子の部屋だった。実のところ異性の部屋は弟の樹の部屋にくらいしか入ったことがない。お泊まりに行くのも女の子のとこばっかりだし。 ……あ、あれは。私と出会ったあの日に来ていた綿のシャツ。どうなんだろう、下のTシャツはシミにならなかったかな? あんな風な明るい色が聖矢くんには似合うけど、出来ればもうちょっと品のいいチェックがいいな。たしかパパのワードローブにいいのがあったはず。 出来るだけ、そんな風に明るい思考を巡らすのに、悲しいかな、心はすぐに後戻りしてしまう。現実にぐいっと引き戻されていく。クーラーから吐き出されて来る生暖かい空気。部屋全体が冷えるまでには時間が掛かりそうだ。 かちゃかちゃと、台所の方で音がする。ああ、やだな。早くここから逃げ出したい。こんなところにいつまでもいたら、きっと一番恐れていたことが起こる。もうひとりの自分が警告する。だけど、ここまで来ちゃったんだから仕方ないでしょう? もしもヤバいと思ったら……誘われたときに、何らかの理由を付けて断ってなくちゃならなかった。
「何、身構えてるんだよ? そんなに緊張することもないだろ」 アイスコーヒーのグラスをふたつ持って部屋に入ってきた聖矢くんが、ベッドに座るように勧めてくれる。当たり前のひとり暮らしの部屋。窓の大きさから見て、6畳だな。普通の子供部屋と同じ大きさだ。そこにベッドと学習机を置いたら、床面積はあまり残らない。ようやく伺えるカーペットの上に小さなテーブルを置かれたので、もう……座るところはここしかなかった。 不安で胸がばくばく言っていて、とても聖矢くんの方を見ることなんて出来なかった。グラスに付いた水滴がつううっと流れていく。クーラーを入れ始めたばかりで、まだムッとした夏の暑さが閉じこもったままの部屋。だけど、私の周りだけ、空気までひんやりしていた。 「だってっ…」 怖い、怖いよ。でも、次の言葉が口に出来ない。それを言ってしまったら、全てが終わってしまう気がして。
――聖矢くん、私たちのこと、終わりにしようとしてるんでしょ? 思い詰めた余裕のない横顔。せわしなく動く指先が、意味もなく自分の着てるシャツに触れる。襟を直したり、袖を引っ張ったり。別れ話を切り出すときの男の人のパターンに似てるなと思った。実際に自分で経験したわけではないけど、ドラマとか小説とか、そう言うので何度も見てる。
……やっぱ、もう駄目なの? どうして、こんなにすぐに駄目になっちゃうの? 追いかけてくれたんでしょ、探してくれたんでしょ、私のこと。 もう一度、会いたいって、思ってくれたんじゃないの?
「何だか、聖矢くんが変なんだもの。いつもと違うのっ…どうしたの? 私が何かした?」 それ以上のことはとても聞けなかった。どっちにせよ、もうすぐ彼は話を切り出すはず。でもっ……それを少しでも遅らせることが出来るなら。 私、頑張ったのに。どうしたら、もっと仲良くなれるかって、一生懸命考えたのに。空回りばっかりだよ、全然上手くいかなかった。口惜しいよっ……。 聖矢くんの身体から、ぴりぴりしたものが感じられる。張りつめている空気。私のこと、緊張してるとか言いながら、自分だって相当なもの。何度か口を開きかけて、やめてしまう。そうよ、思いとどまってくれるなら、その方がいい。あまり、衝動的になっては駄目、物事は長い目で見ようよ。短気は損気。いいことないよ?
「何だよっ!?」 ――と。 いきなり沈黙を破って、聖矢くんが叫んだ。さっきからずっとそうだったけど、ぴりぴりした空気のせいか、彼の口調もいつになくとげとげしい。あの、いつもの優しくてぎこちない誠意のこもった感じじゃない。 そう思っただけで、身体が大きく揺れた。私、怒らせてるんだ、聖矢くんのこと。聖矢くんは私のことを怒ってるんだ。それで、イライラしてる。やっぱ、……もう駄目って思ってるんだ。 頭の中で思考を巡らす。どうにかして、言い訳したい。何か……何か私に出来ることがあるなら、それをするから機嫌を直して。 けど、私の言葉にならない叫びに対して、聖矢くんは更に怒ったように吐き捨てた。 「そっ…、そんな、ビクつくことないじゃないかっ! 梨花ちゃん、俺の彼女なんだろ!? だったら、俺の部屋に来るくらい何なんだよっ!」
――え!?
歯車が、上手くかみ合ってない。そのことに気づいた瞬間。私は、いきなりベッドの上に押し倒されていた。腰から下は座っていたのと同じかたち。上体だけが彼に押さえつけられる。 しばらくは驚きの方が先に立って、必死でもがいてみたけど、それでも手は動かない。膝も押さえつけられてしまって、完全に自由を奪われていた。
いくつかの言葉を叫んで、抵抗を試みた。何で、突然こんなことをするのか、聖矢くんの心が見えない。おどおどしたり、つまらなそうにしたりして、私を不安にさせて。かと思ったら、急に……これって、何? 私のこと、好きだからこうするの!? でもっ……、だったら、こんな風にしなくてもいいはず。だって、私たち、ちゃんとしてない。何だか足りないよ、こんなじゃ駄目だよっ! 護身術、いっぱい覚えたんだった。岩男くん相手に実践もした。確か、こんな風に押し倒されてしまったときの対策もあったはず。ただ、やみくもに抵抗しても始まらないんだ。隙をねらって、弱点を的確に攻めて、体勢を逆転させないと。絶対に負けないって、強い意志を持たなくちゃ駄目だって。諦めたとき、全てが終わるのだから。
……でも。 違うの。だって、嫌いな相手になら、そうやって出来るよ? だけど、そうじゃないんだもん。
「何だよっ! 人を馬鹿にするなよっ! いいじゃないか、やらせてくれよ? 構わないだろ、時間もそんなに掛からないしっ…一度くらいきちんとやりたいんだよっ!!」 湿った手のひらが、下着の下に滑り込んで、私の胸を直に掴む。このまま、内蔵ごとえぐり取られてしまうんじゃないか。とてつもないおぞましさが背筋を震わせた。「快感」と言うにはあまりに遠い。 何でっ……、どうしてっ!?
ぼんやりと視界がかすむ。その焦点の合わない映像の片隅に、彼を見つけた。私のことを、乱暴に組み敷いている存在。どう猛な獣のような目をしているのかと思った。……でも、違った。 ――もしかして、怯えているの? こんな状況で、冷静にそんなことを考えている自分にも驚く。でも……、聖矢くんの心がかいま見れたとき、私の中で何かがひっくり返った。私をせめたてながら、その一方で見えない「何か」に追い立てられている。彼の悲しい本当を見つけてしまったから。 このままじゃ、駄目。私も、聖矢くんも、壊れちゃう。
もしかすると、聖矢くんは壊したいのかも知れない。全てを駄目にしたくて、それでこんな風にしてるのかも。だって、全然楽しそうじゃないし、嬉しそうでもない。男と女の関係って、そう言う風になっては駄目だと思う。もっともっと……違う、本当はどうかなんて知らないけど、私が夢見ていたのはこうじゃない。 心が、先にくっつかなくちゃ。そうしなかったら、身体だってきちんとくっつけないよね。 それなのに、壊しちゃっていいと言うの? 聖矢くんにとって私はそれだけの存在だったの? 「いずみ」さんじゃないから? 大好きな思い焦がれる彼女じゃないから? だから駄目なの……っ!?
口惜しくて……どうしようもなくて、途方に暮れたとき。彼の動きに一瞬の隙が出た。 それまでは彼にされるがままになっていた私も、突然見えた「それ」に柔道の練習中の自分がふっとよみがえった。覆い被さってくる人間の下から抜け出す手だてなら心得ている。身体を縮めて、反動を付けると、一気に床に転がり出た。 もちろん、彼はすぐに腕を伸ばしてくる。でも……もう怖くなかった。私は、守りたかったから。
「…聖矢くん…」 私は、目の前にいる彼と、彼を追い立てる何かに対して、必死に訴えた。絶望のうちに頬が濡れて、目尻がひりひりとしてる。 「何で? …聖矢くんは、したいだけなの? 私って、それだけの価値しかないの…? 『彼女』ってそう言うものなのっ…?」
目を覚まして、聖矢くん。 ……ううん、もしも本当にそうだとしても、今は言わないで。まだ壊せないの、私の心がそれを許さない。私は、まだ終われない。このまま、終わったら、きっと後悔する。せめて、私の中の真実を確かめてからにして。そうすれば、もういいから。解放してあげるから。
肩を上下させて息をしている人は、やがて大きくかぶりを振った。 「…帰れよっ…」 絞り出すような声がほとばしる。もう二度と目の前に現れるなとまで言われた。……そうなのかも知れない、彼にとって私はそれだけの存在。「いずみ」さんの代わりにはなれない、ただの通りすがり。 でも、今はまだ彼の願いを聞き入れることは出来ない。私にはまだやり残したことがあるの。心の中にほんのり湧いてきた希望を、どうかひねりつぶさないで。
……勇気を、ちょうだい。それは、聖矢くんにしか出来ないから。
「お願いが、あるの」 聖矢くんがのろのろと顔を上げる。自分が何をしてしまったか、そのショックで彼の心はとても傷ついていると思う。……でも。甘えたかった、私の信じた優しい心に。もう一度だけ。 「あした、予備校、さぼれる? …私、聖矢くんと普通の恋人みたいに一日過ごしたい。…いい?」 頬の筋肉が震えて、言葉が上手く出てこない。ようやくそれだけ告げると、彼は目を伏せるみたいに少しだけ頷いてくれたような気がした。
*** *** ***
あの夜、私がさすらっていなかったら。そもそも、お姉ちゃんと岩男くんのキスシーンを見なかったら、始まることはなかったのだ。そして、聖矢くんとそのお仲間さんたちが、次の店が決まらなくてたむろっていなかったら、雨が降っていなくて軒先で待っていられたら。 偶然を装った必然が、私たちを巡り合わせてくれたんだ。だから、運命だと思った。回り出した歯車に乗っかってみた。もしかしたらと、いくつかの期待をした。それは……打ち砕かれてしまったけど。
何が、足りなかったのだろう。
彼女になって、聖矢くんの近くにいたかった。ささやかな瞬間を一緒に過ごしたかった。そうしているうちに彼の中のためらいが消えて、いつか本当に心が通い合っていく。瞳と瞳で会話できる、言葉を超えた関係になれるかも知れない。何が私にそこまでの希望を持たせたのかは分からない。 聖矢くんが、お姉ちゃんを知らないと言ったから? 「菜花ちゃんの妹」としての私を知らないままに付き合ってくれるから、それだけのことに夢中になってしまったのかな。そんなにもお姉ちゃんが重かったんだ。気にしないようにしていたけど、自分は自分で、お姉ちゃんはお姉ちゃんだと思いたかったけど。私の欲しいものを全部持っているお姉ちゃんが、すごく気になっていた。 嫌いって思うのに、気になるのはどうして? その存在そのものを私の中から排除したいのに、どうしてもそれが出来ない。お姉ちゃんのことが引っかかってしまうんだ。
……聖矢くんのそばにいると。 そんな大嫌いな自分が、すうううっと消えていく気がした。聖矢くんの前では「槇原梨花」になる必要がなかったから。いつもいつも聖矢くんのことだけを考えて見つめていれば良かったから。私は、初めて解放されたんだ。 本当の、恋人になれたなら。 どうなるのかなって、考えてみたよ。いつか一線を越えることにもなるんだろうなとか。そのときはどうなるのかなとか、期待と不安でいっぱいだった。とてもすぐにそうなるとは思えなかったけど、聖矢くんならきっと。そして、ますます仲良くなるんだ。聖矢くんだって、私のことを大切にしてくれて。抱きしめられて、心が満たされて。そんな幸せな未来を夢見ていた。
――望むことが、間違っていたのかな? 彼が私たちの関係を壊そうとした。ようやく積み重なった、たった1週間のつながり。硝子のダイスを注意深く積み重ねて、やっと少し形になってきたのに。それを一気に崩してしまおうとした。それだけじゃない、崩れ落ちた幸せは粉々に砕け散る。再生が不可能になるほどに。もう元には戻れない。 あの瞬間、彼は間違いなくそれを望んでいた。いつまでも続く関係ではないから、一気に捨て去ろうとした。私の意志に関係なく。……限界、だったのかな? 私なんかじゃ物足りなくて、いい加減飽き飽きして。あんな風にして、全てをおしまいにしようと思っていたのかも。 でもね、聖矢くんは間違っていた。あんなことしたら……きっともっと好きになっちゃう。何も望まなかった私に希望が生まれてしまう。そうなったときにもう自分を止められなくなりそうな、そんな気がした。 だから、拒んだのだ、自分が怖かったから。
*** *** ***
ベッドを壁に付けて、窓際に机を置いて。6畳間に個室に必要なものを配置した典型的な間取りが、左右対称になってる。洋服や小物はクローゼットにしまうんだ。
私は白木の扉をぱたんと開けて、中を見渡した。
ママはセンスがいい。それはよく分かっている。ただ自分の好みを押しつけるんじゃなくて、その人にとって一番似合うデザインや色・柄を考えてくれるんだ。ちっちゃい頃から、お友達にも洋服のことはよく誉められた。私に与えられる服はシンプルなデザインが多かったけど、決して地味すぎない、ちょっと遊び心の隠れた素敵なものばかりだったから。 ……でも。大きくなってくると、もうちょっとこうしたいな、と言うのが出てきた。 花柄にしても水玉にしても、好みってあるでしょう? ママの見立て通りに私はあっさりしたデザインが好きだったけど、たまにはちょっぴり女らしくしたいかなと思う瞬間がある。お小遣いで服を買っても良かったから、バイト代を貯めたりして、時々自ら求めたりした。
その一枚、透け素材のオーバーブラウスを取り出してみる。これに何かを合わせよう。スカートの方が女らしいかな? でも動きやすくパンツの方がいいかな。 何枚も何枚もベッドの上に並べて、飽きることなく組み合わせを考えた。これでいいかなと思うと、実際に試着してみる。それからまた脱いで、もう一度違う服を手にする。全身の映る鏡の前でポーズを取っていた自分に気づいて、思わず苦笑してしまった。
ああ、……お姉ちゃんが、よくこうしていたな。 服なんて何だっていいと思うのに、デートの前になると部屋中を服だらけにして、であっちに着替えこっちに着替え。そのたびに私に意見を聞きに来る。「う〜ん、困っちゃうなあ。決まらないよ〜!」なんて言いながら、すごく楽しそうだった。 「馬鹿ねえ……どれだって同じじゃない」
……明日は晴れるといいな……。 カーテンの外、満天の星空が輝いている。綺麗に流れる天の川。織り姫と彦星はお互いに好き合っているから、長い間待ち続けることが出来るんだね。相手を思うその気持ちが、会えない時間も優しい色に変えてくれる。 願いが天に届くように、私はひとしきり祈り続けた。
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