どこかで蝉の鳴き出す気配。一匹が心細そうに声を上げると、そのあとはまるで後を追うように一斉に合唱が始まる。
――ああ、そうか。窓際に大きな木があったんだっけ。
そんな風に思い出しながら、瞼を開く。とたんに飛び込んでくる明るい輝き。カーテンを閉め切っている部屋の中まで入り込む真夏の日差し。……わ、寝過ごしたかな? 時間を確認しようと、ベッドの頭の方に置いてある時計を探す。かすかなきしみを感じ取ったのか、隣で寝返りを打つ気配がした。 「う……んっ」 思わず、その方向を振り返った。どうしてどきどきするんだろ、何だか未だにこういうのって慣れないなぁ。私の剥き出しの肩にほとんど触れそうなくらい接近した唇。素肌に掛かる吐息がくすぐったい。でも、目は覚めてないみたいだ。 なんか、幸せそうに寝ているな。時々、瞼の淵がぴくぴくんと動くけど、それだけ。熟睡状態だ。私は天然の光に照らし出されたその姿を、久しぶりにまじまじと見つめていた。
*** *** ***
――当たり前みたいに、傍にいる。それがすごく不思議。
あの日。 最後に一度だけ、自分の気持ちを素直にぶつけてみようと決意した。岩男くんが言ってくれたから、私は私でいいって。甘えて寄りかかったら、きっと負担になっちゃう……とか、いつも心のどこかでセーブしてた。それは聖矢くんに対してだけじゃない、他の誰に対してもそうだった。甘えちゃ駄目、自分ひとりで頑張らなくちゃ駄目なんだって。 自分の気持ち、どうやって伝えたらいいのか分からなかった。我慢することが当たり前になって、どこか遠くに自分の置き忘れてきたみたいに。 ワードローブの中、一度も袖を通したことのないワンピースを取り出す。てろんと身体にしなやかになじむ薄手の素材。私が飛び立つのに一番よく似合うって思った。 「大好き」の気持ちだけ残して、全部脱ぎ捨てて、まっさらの自分に生まれ変わる。何も持たないけど、それでいい。大切なのは気持ちだから。 一番大切な、大好きな人に会いに行く。それだけが私の全て、私のありったけ。あとは……何もいらないから。
些細なことで、気持ちが行き違って。もう駄目だって、思ったりして……私、聖矢くんがちょっと不安げにするだけで「ああ、なんか面白くないのかな?」とか考えちゃうのよね。そんなじゃないって、言い返されるんだけど、でも心配になっちゃうんだ。 私が、必死に追いすがったみたいにして始まったから。私の方が努力しないと、我慢しないと、いつか上手くいかなくなっちゃう気がして。でも、抑えれば抑えるほど、余計辛くなる。 「私のこと、本当はどう思ってるの?」 何度、そう訊ねただろう。そう言う言い方は嫌いだって言われても、やめられなかった。だって、言って欲しかったんだもん、「ホントの本当に誰よりも好きだよ」って。
理由なんかもたいしたことじゃない。なのに、いつの間にかヒートアップしてた。何十年ぶりかの大雪の日、交通機関がほとんど麻痺した中で、ブーツとスニーカーの追いかけっこ。「どうして、そんなに意地を張るんだよ」って、鼻の頭を真っ赤にして追いついた人が、後ろから私を抱きしめた。 「馬鹿、いい加減にしろよな」 そう言いながら、でも腕の強さが緩むことなんてなくて。手袋もしてないから、すっかり氷のように冷たくなった手のひらが、愛おしかった。
*** *** ***
「うわ、……なんだよっ! 梨花ちゃんかぁ……」 寝ぼけ眼で、鼻の頭をさすってる。大きく身体が起きあがりかけたから、胸の半分までタオルケットがはだけた。それを慌ててたぐり寄せる。 「聖矢くん、のんびりしすぎ。もう起きようよ」 私は、まだむにゅむにゅ言ってる人を気にせず、思い切りよく起きあがった。 まあ、やっぱり裸で歩き回るのは恥ずかしいので、床に落ちていたバスタオルを拾い上げたり。脱いだ服が全部バスルームにあって、ここにバスタオル一枚しか落っこちてないという辺り、昨日の状況を赤裸々に知らしめてる。……ま、半月ぶりだったし……。 「あ〜っ! ちょっとっ、待ってってばっ……梨花ちゃんっ!」 先にシャワーを使うね……と言おうとした私は、強制的にベッドに戻されていた。 「なっ、何よっ! ……あんっ!」 やだっ、ちょっと待ってっ! 一瞬前まで、眠そうに目をこすってたのに、いきなりどうしちゃったのっ! いきなりがばっと覆い被さって来るから、抵抗できない。唇を塞がれて、彼の手のひらはするりするりと首筋から胸元へ。慣れ親しんだ部分を楽しむように、周りからせめたてる。 順番が逆な気もするけど。一頻り味わったあとで、ようやく状況説明。 「昨日さ、もっと頑張ろうかと思ったのに、寝ちゃったから。……いいだろ? 俺、まだ足りない――」 明るい日差しに晒されて、いつもよりも更に恥ずかしい。私がいやいやと首を振ったのに、聖矢くんはそんなことお構いなし。どんどん進めてくる。次々に落とされる唇……ちりっと鋭い痛みが走るとどきりとする。 「朝だから……知ってるでしょ? 俺の方はもういいから、梨花ちゃんが準備オッケーになってくれればすぐに始められるし……ね、我慢しちゃ駄目だよ。それに梨花ちゃんだって、物足りなかったんだろ?」 知ってるでしょって……あのぉ。それは別にいいんだけど。
そりゃあ、そうよ。お互いに、夏休み前は前期の試験でバタバタしていた。1年生はほとんど一般教養だから、無駄に試験科目が多い。学校が違えば、一緒にテスト勉強……なんて訳にもいかず、離ればなれの7月だった。 ようやく会えるかと思ったら、バイトなんだもん。それが済んでからだから、昨日の待ち合わせは9時半だったわ、もちろん夜の。 聖矢くんって大学に進学したあと、なんと今まで通っていた予備校でバイトをしてるの。もちろん「講師」なんて偉い肩書きはないんだけど、補習授業を受け持ってるんだって。千率予備校には、今までたくさんお金を落としてきたから、それを取り戻すんだとか訳の分からないことを言ってる。 ――いいんだけどね。結局のところ、文系だし。大学にも予備校の生徒にも女の子がやたらと多いの。しかも、なんか聖矢くんって、1年前に出会った頃よりも、ずっと格好良くなったのよね。私がアドバイスした部分もあるけど、服装をそれなりに整えて、髪型を決めていつも身綺麗にしてたら、知らない女の子から声を掛けられたりするようになったとか言ってる。 進路の相談をされて、予備校が終わったあと喫茶店で二人っきりでしゃべった……なんて聞いた日には、血管がぶちぶち言っちゃったわ。「何でそんなことを気にするの?」なんて、不思議そうに言うのも気に入らない。私の方がずっとゆとりがないなとか……思うんだな。 ま、そんなわけで、ようやくおち合って、遅めの夕ご飯をファミレスで食べて。そのあと、ここに来た訳なんだけど。私、前もって家には「友達のところに泊まる」って言ってきたし、実はかなり期待してたのよね。 だけど、聖矢くんってば。シャワーを浴びて出てきたときには、もうベッドの上でうとうとしてたんだ。まあ、起こしたら、きちんとその体勢になってくれたけど「今夜はオールナイトだね」なんて、耳元で囁いてくれたのに、さっさと先に寝ちゃうんだもん、ほっぺつねっても起きないんだもん。 ―― 一度じゃ満足できない、とか……言えないしね、とても。
「ふっ……ふぁっ……んっ……っ!」 うわ、一晩寝たら、体力全快ですか? 舌の動きも、唇の吸い付きも、昨日の晩とは全然違うっ! ちゅるちゅるっと胸の先を吸われると、背筋がぴーんと弓なりになっちゃう。そんな私を確かめるように、聖矢くんの右手が下に降りていく。 「いやっ、やんっ……、駄目ぇっ、やめてよ〜っ!」 「……嘘ばっかり」 身体を必死でねじって抵抗したのに、聖矢くんは片手でがっちりと押さえ込んだまま、くすくすと耳元で笑う。 「このままおしまいにしたら、きっと梨花ちゃんは今夜も泊まりに来ちゃうよ? ……そりゃ、いつでもオッケーだけどさ、梨花ちゃんの方はおうちへの言い訳を考えるのが大変になっちゃうだろ?」 「そっ……そんなこと……っ!」 ないって、言いたいのに。 いきなり指を突っ込まれてかき混ぜられたら、もうそれ以上の声が出なくなる。 私の中が熱くなってる。欲しい欲しいって言ってる。こんな風にいつの間にか自分が変わっていった。男の人を「欲しい」って思うなんて、すごく浅ましいと思っていたのよね。精神的なつながりこそが大切で、身体を求め合うのは動物的で良くないよなって。でも……私、内側から欲しがってる。 「もう我慢できないでしょう?」 潤んだ視界。憎らしいくらいに余裕の微笑みに、必死で頷いてみせる。言いなりになってしまっている自分。情けないと思いつつも止まれない。それに……そんな私が、彼はとても好きだなんて言ってくれるから。 「いい子だね……よく言えた。偉いよ」 その言葉に、泣きたくなる。誉められると素直に嬉しい。彼は私の腰を押さえて、ぐっと自分を重ねてくる。受け入れる時の、満たされる気持ち。心の底から湧き上がってくる充実感が、私を違う色に塗り替えていく。
――それはきっと。聖矢くんのせいだよ。
聖矢くんはいつでも私が解放されるように、愛してくれるから。いつでも最初は恥ずかしくて、思ったようにいかなくて。素直に甘えたいのに、無理に声を抑えたりしちゃう。我慢してる自分が可愛くなくて、口惜しいなって思っちゃうんだけど……いつの間にか、そんなためらいの襞をひとつひとつめくるように、私が飛び立てる地点を探ってくれる。 初めて、彼を求めたときの、まっすぐな気持ち。それを思い出すことが出来る。自分の全てを壊して。一番近くに行ける、その瞬間まで駆け上がれるように。 「かわいいよ、梨花ちゃん。こうやって素直になる梨花ちゃんを俺しか知らないんだよね……ホント、役得だなって思うよ」
お姉ちゃんには近づいて、のぞき込んで頭をなでなでするみたいな「かわいい」…でも私にはちょっと遠くから見てる取って付けたみたいな「かわいい」だった。 無理矢理おまけのように付け足すなら、言わなくてもいい。ずっとそう思ってた。
頑張ることしか知らなかった、我慢して乗り越えていくことしか出来なかった。そんな私が彼の腕の中で、自分の知らなかった部分を次々に見せつけられる。
聖矢くんと私。お互いにひとつしかないぬくもりを重ね合って、ぴったりと寄り添う。他に何もいらないよって思えるくらいに満たされる時間。生み出される波が、次々に繰り出すもので、私の頭の中はいつしかひとつのことしか考えられなくなってくる。 「あっ……んっ! やっ、やぁ……んっ!」 朝から、何をしてるんだろうなとか頭の隅っこで思いながらも。私はどんどん高いところにのぼっていく。白く弾けたその瞬間が、終点。一瞬遅れて、彼が小さく呻くのを、遠いところで聞いた。
*** *** ***
いつもは照れ屋で恥ずかしがってばかりの聖矢くん。えっちなときに変わるのは私だけじゃない、彼も違う人みたいになる。その余韻が残ったままの時間。お互いに呼吸が荒いままで、寄り添う白い波の上。 こんな時間が、ずっと続けばいいのにな。 「ん……」 ああ、だるいな。もう一眠りしたいなあ……、そう思った瞬間に、ハッと気づいた。
「あ、――聖矢くんっ、時間っ!」 「う……、何かあったっけ? 今日はバイトも休みにしたし――?」 ああ、駄目だ。完全に寝ぼけてる。昨日、一応確認したんだけど、今日のスケジュール。もうすっかりその頃には心ここにあらず状態だったのね!? 「言ったでしょ? 今日はお昼にバーベキューのパーティーをやるって。パパとママが張り切って準備してるから、絶対に行かなくちゃっ!」 「うっ、……うわっ! そ、そうだったっけっ!?」 これにはさすがの聖矢くんも、がばっと身を起こした。また、腰の辺りまでタオルケットがはだけて、恥ずかしそうに大切な部分を隠してる。 「いやぁ……そうだったっ! ど、どうしようっ! 梨花ちゃんのお父さんって、なかなか厳しい方なんでしょう? 俺、友達から色々と脅されてるんだけどっ……サボっちゃ駄目? こ、心の準備がぁ……!」
岩男くんが大学の夏休みに合わせて、こっちに戻ってくるのに合わせて。今年はバーベキューなんてすることにした。弟の樹も彼女を招待するとか言い出したから、もう大変っ。パパはもちろん、ママまで浮き足立ってる。 そんなわけで。いい機会でもあるし、そろそろ聖矢くんをパパとママに紹介しようかなとか思ったのよね。
「大丈夫よ〜、パパもだいぶ丸くなったし。大変なことは全部お姉ちゃんと岩男くんがやってくれてるから、二回目になる聖矢くんは余裕よ」 「え……、えっ、でもっ……」 なーにをそんなに脅されてるんだろ。こんな風に焦る聖矢くんも可愛いんだけど……でも、やることはやってもらわないと。 「大丈夫よ、私が付いてるわ」 にっこり、微笑んで。そして、彼の首に腕を回す。どきどきしちゃうくらいの至近距離。彼の瞳に私が映る。とても綺麗な笑顔。 「じゃあ、……その。とりあえず、と、友達ってことでいい?」 私の顔が近づくのを感じながら、聖矢くんはまだ話し続ける。やだなあ、もう。再び、動き始めようとした唇に指を当てて。もうこれ以上近づけないぞ、ってくらい顔を寄せる。 「友達、でもいいけど?」 ほっと少しほころんだ口元に、私からキスした。さすがにちょっと元気がない感じだったけど、どうにか応えてくれる。どきどき言ってる心臓の音が耳元に響いてきて。
こんな風に、少しずつ。寄り添っていこう。 私たちの物語は……あの夕方、私がお姉ちゃんたちのキスシーンを見たことから始まった。それがなかったら、こうやってふたりで一緒にいる時間もなかったのかなって思うとちょっと怖い。誰かに後押しをされて始まった恋。そこには自分たちの意志がなかった気がする。 それが、不安だった。もしも、何にもないところから純粋に始まっていたなら、こんなに迷わなかったのに。
名残り惜しく、唇を離して。もう一度、彼の顔を覗き込む。私の言葉が効いたのか、さっきよりは余裕が戻ってる瞳の色。私は用意しておいた言葉を、さらりと告げた。 「パパとママにはね。いつも泊めてもらってる友達を連れてきます、って言っちゃった。……いいかな?」 「えっ……?」 背中に回っていた腕が、びくんと跳ね上がる。 必死で平静を保とうと努力しているようだけど、どうしても気が動転するのは防げないみたい。大丈夫かなあ、心配だなあ……頑張ってよ、って思っちゃう。う〜ん、このままおじけづいて逃げられちゃったら、やっぱり悲しいよなあ。 ――ここで裸足で逃げ出したら、それこそパパに地球の裏側まで追い回されるわよ……とか言いたくなって。でも、それって脅しみたいだよなあと考え直す。何だかものすごく不安になって、そっと見上げると。緊張した面持ちの彼が、それでも必死に微笑んでくれた。 「……2、3発、殴られる覚悟でお邪魔しなくちゃ、だね」 震える手のひら。私の頬を包む。聖矢くんが、私の唇に熱を落としてくれる瞬間に、そっと瞼を閉じた。
*** *** ***
やわらかい、ふたりだけの夢まで。
おしまい♪(031222)
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