学校からの下校時。 気が付くと、途中下車していた。ふらふらと足がひとりでに進んでいく。まるで何かのセンサーがついてるみたいに、私は聖矢くんの通う予備校の前まで導かれていた。
どっと吐き出される人の波。講義を終えたばかりの玄関口は、色々な色の服で埋まっていた。あとからあとから、本当に数え切れない人が出てくるのに、私はただひとりの人を探していた。 ――いた。 知らない服を着ている。9月も半ばになると、朝晩は涼しくなってくる。高校の制服はまだ半袖だけど、季節を先取りする私服は深い色合いに変わってきていた。 見たことのないシャツを着て歩く彼が、とても遠く思えた。ここまで来たんだから、声でも掛ければいいのに、どうしてもそれが出来ない。一瞬、こちらを見たような気がするけど……それはきっと私の願望だったんだろう。すぐにそらされた目が、思い過ごしだと告げている。
私のことなんて、もう忘れちゃったのかも知れない。
彼が色々と御託を並べたのは、ただ単に、もう私と会いたくないということを遠回しに言いたかっただけなんじゃないかな。だって、そうとしか思えないよ。私がこんなに会いたくて、ずっと待ってるのに……どうしてあんなに平気そうな顔して歩いてられるの? 知り合いらしい人と楽しそうにおしゃべりなんてして。あんな笑顔、私と一緒の時にしてくれた? もしかして、もしかしてだけど。私という存在がなくなって、彼はすっきりしたのかな。嫌々付き合っていた彼女なんて、ウザいだけだったのかも。
足の裏から根が生えてしまったように、私はずっとその場所から動けなかった。 辺りはとっぷりと日が暮れて、ちらちらとネオンの輝きが駅へ続く街並みを彩り始める。こんな風にひとりぼっちでいるのは私くらいなんだ。すきま風の舞い込む心が、ちりちりと痛んだ。
*** *** ***
こんなことして何になるんだろうって、何度も思いとどまろうとした。でも、連絡の取れない状態にあるなら、直接でも会って、話をしなくちゃ。こんな状態がこれ以上続くのは絶対に嫌。私にとっては、とても勇気のいる行為だった。無理に相手のエリアまで入り込もうなんてこと、考えたり実行したりすることなかったもん。それくらい、せっぱ詰まっていたんだ。 吹きっさらしの通路は寒くて、剥き出しの腕が震えた。時計を何度も見て、もうちょっともうちょっとと待っていた。会いたい一心で。
でも。 ようやく現れた聖矢くんは、あからさまに嫌な顔をした。一瞬は私の存在に驚いてくれたけど、その表情がほぐれることはなくて、さらに厳しいものに変わっていった。 「……どうして…待っててくれって、言っただろっ!?」 かなり苛ついた激しい口調で、彼は吐き捨てるように言った。それでもなお食い下がっても駄目で、駅まで送ると告げられた。初めて、彼の意志で私の腕が取られる。力一杯握りしめられたから、とても痛かったけど、それが唯一の彼との接点だからと思えば従うしかない。
無理に振りほどいたら、今度こそ、バラバラになってしまう……。
一度、彼の手が抜けたとき。追いすがるように指を絡めていた。しっかりと外れないように、私たちの「今」をくっつける。 少し離れると、闇に隔てられそうな薄暗い道。見慣れないシャツの背中だけを見つめていた。引っ張られてるから、表情なんて見えない。彼は振り向きもせず、私の方を見ようとはしない。
――好きなのに、こんなに好きなのに。
どうして、こんな風になっちゃったの? 始まりがおかしかったから、そのあともどんどん歯車が噛み違っていったのかな。私から、望んじゃいけなかったの? 好きになっちゃ、駄目だったの?
涙があとからあとから溢れてくる。こんなに情けないと思ったのは初めてだった。
*** *** ***
――嘘。
絶望を繰り返して。もう諦めかけていた。彼にとって、私はいらない人間なんだから。……たとえば、岩男くんにとっては、お姉ちゃんがいつも一番であるように。聖矢くんの大切な場所に置いてもらえる女の子は私以外の人。比べられて、切り捨てられたんだ。 元彼女さんのこと、ずっと想い続けてる人なんて、全然良くないのに。あんな風にみっともない泣き顔を見せられて、それでも彼を好きになってしまった自分が信じられなかった。信じられないけど……情けないけど、これが私。私は私にしかなれない。 お姉ちゃんという「天井」がなくなっても、それでも手に入らないものがある。悪いのはお姉ちゃんだけではなかったんだ。そう思えたことが進歩だったのかも知れないね。そりゃ、今だってお姉ちゃんは羨ましい。私にないものをいっぱい持ってる。でも……お姉ちゃんのせいで私の何かが変わるわけはなかったのだ。ようやく気づいたよ。 人のせいにしてられるうちは楽だった。だけど、こうして自分に全ての原因がある状況に置かれて……かなり、辛かった。
「…聖矢くんっ…!」 消えないで、ずっとそこにいて。願いながら、彼の元に走った。たくさんの人並みが私の目の前にあったけど、そんなの目に入らなくて。いくつかの肩とぶつかったけど、痛みすら感じなかった。 「もういいのっ? 用事は済んだんだよね? …嬉しい、わざわざここまで会いに来てくれたのねっ!」 抑えようとしても、嬉しさが溢れてくる。ああ、良かった。嘘じゃなかったんだ。本当に……本当に用事が済んだらこうして会いに来てくれたんだ。ひとりで嘆いていたのが恥ずかしくなる。
――ねえ、今日はもうこのあと何もないんだよ? 久しぶりにゆっくり出来るの。もしかして、どこか……連れて行ってくれるの? そのつもりなのかな。 彼が予備校用の鞄を持っていないことを確認する。あ……そうか、月曜日だもんね。予備校は休みなんだ。 嬉しくて嬉しくて、自分をぎゅっと押しとどめておかないと、彼に抱きついてしまいそう。少し怯えた瞳が、ふたりの距離を広げている気がしてとても気になったけど、それでも会いに来てくれただけで満足だった。
「これが…、あの。何か…?」 だけど、聖矢くんは私の待ち望む言葉を何も言ってくれなかった。その代わりに、見慣れた紙切れを私の前に差し出した。
これが何かは知ってる。模試の結果だ。正確には昨日実施された業者の。 私はまだ、結果を受け取っていないけど、同じものを受けていたし。でも……これがどうかした? 私たちのこれからのことに、どう関わって来るというの?
聖矢くんに会えた喜びで、ふんわりとふくらみかけた私の期待が、彼の何かを含んだ瞳にさすられていく。ふたりでいるのに、急にひとりぼっちにされたみたいな心細さ。 「あのね、梨花ちゃん…」 一通りの説明をしてから、彼はそれを元通りに小さくたたむ。そうしておいて、私の手の上にそっと載せた。 「これが…俺の、めいっぱいの勇気。必死で頑張る力を梨花ちゃんにあげる」 「…え…?」
何を……言ってるんだろう、この人は。 いきなり、私に理解できない言葉を話し出す。「勇気」とか「力」とか――そんなもの、どうしてこんな紙切れで計れるの? それはみんな聖矢くんの心の中にあるんでしょ? これからも私に、それをたくさん分けてくれるんじゃなかったの……!?
悲しげな瞳が、私の必死の問いかけを跳ね返す。なおも食い下がろうとしたら、とうとう決定的なひとことが下された。 「彼、まだ夏休みなんでしょ? 大学。今日も、道場に来てるんじゃないの?」
*** *** ***
男尊女卑という言葉がまかり通っていた昔、夫が妻に対して突きつけた離縁状のことを言うらしい。それを渡されたら、もはや言い訳の余地もない。自分の中にどんなに伝えきれない言葉を持っていても、それを口にすることなど出来なかった。 私の手のひらに握りしめたもの。それも、そんなものなのかなって思った。
どうしてなの? 聖矢くん。 私、待っていたんだよ、ずっと待っていたんだよ。「私、あなたの彼女になるわ」って言ったでしょう? でも「彼女やめるわ」なんて言ってない。私は……ずっと、今だって聖矢くんの彼女なんだって思ってた。 「彼女」……自分で宣言したものの、それの意味もよく分からなくて。いつも一緒にいて、おしゃべりしたりべたべたしたりすればいいのかなって思っていた。だけど、想像するのと実際やるのでは全然違って、私にとっては初めての、びっくりすることの繰り返しだった。 上手くできてるのかな、不自然に見えないかなって気になって。さりげなくショップのウインドウに映ったふたりの姿を確かめて。ぎこちないばかりだったけど、いつか自然になるのかなあって……聖矢くんが「嫌」と言わない限りは大丈夫、続けていけるって思っていた。 隣に誰かがいること。他の人じゃない、私に会いに来てくれるんだと言うこと。何気ない会話で、ふたりの時間を紡ぎ出すこと――楽しかった、すごくどきどきしてた。 巻き込むつもりが、巻き込まれていた。すっかりと聖矢くんのペースになっていたと思う。
毎日ふたりで歩いていた道のりの、半分くらいの所に長い長い橋がある。二つの街を隔てる長い川があって、いつでも涼しい風が吹いていた。 そこまで来ると、急に物寂しくなる。聖矢くんと過ごせる「今日」がもう半分も過ぎてしまったことが悲しくて、仕方なかった。それなのに、聖矢くんの方と来たら、ホッとした表情になって。それに気づいていたけど、見ない振りをした。
――結局。楽しいと思ってたのは私の方だけで。会いたいと思っていたのも私の方だけで。こうして崩れてしまうのが当然の関係だったんだ。
でも、これからどうやって歩いたらいいの? 私にはもう何の支えもない。聖矢くんにもう一度会える約束だけを頼みにやってきたのに、こんな風に突き放されて。 ほら、ご覧なさい。 お姉ちゃんがいなくたって、私は「一番」にはなれない。結局はそれだけの人間だったんだもん。聖矢くんの嘘つき。こんなに期待させて、私を舞い上がらせて。一気に突き落とさないでよ。もう嫌、何もかも。信じられないことばっかり。 あんなに優しい笑顔で、私を手放さないで……。
*** *** ***
私は思わず足を止めた。どうやってここまで辿り着いたんだろう。電車に乗ったんだろうな。自分でも記憶がない。ふらふらと当てもなく歩いていた。――あの日のように。 ガラガラ、と引き戸を開ける。銀色のサッシ。真ん中から二つに分かれていて、下の半分はくもりガラス。透明な上半分に、私の背後に広がる並木が映っていた。 「やあ、梨花ちゃん。久しぶり」
岩男くんは道場の練習を見る日、時間があれば少し早めに来て、ひとりで準備体操をしたり単独で出来る稽古をつけたりしてる。前にその熱心さを誉めたら、恥ずかしそうに微笑んだ。 「子供たちは元気がいいし、身体が出来上がるのも早いから。おじさんは早めに来て、彼らと同じになるまでやっておかないとね」 インターハイにも出たのに、大学進学後は学業に専念している。大学の柔道部からも熱心に誘われたそうだけど、断ったんだって。「二兎を追う者は一兎をも得ず」って言うでしょう? ……って、笑う。大学の勉強は頑張ればどこまでも頑張れるけど、怠けるならどこまでも堕落できる。それでもどうにか卒業できるのが普通だけど、そんなことをして得た学歴がなんになるんだって、言ってた。
「そろそろ、来るかと思っていた」 岩男くんは洗面所で顔を洗うと、その奥の部屋に入って、ミニ冷蔵庫からジュースを出してきた。普段、着替えに使うことになっている部屋だ。差し入れとかが余ると入れてある。 「……え?」 制服姿の私と、柔道着の岩男くん。山ノ上の制服で岩男くんと会ったことは何度あったかな? 大学生になってしまった岩男くんとは本当に長いお休みの時しか会えなかったから。彼の中の私って、今でも中学の制服を着てるのかも知れないなとか思う。 ジュースを手渡してくれた岩男くんは私の隣に座った。ふたりで、柔道場から外を見る。大きなガラス戸が開いていて、心地よい秋風が吹き込んでくる。しばらくはふたりとも何も話さず、たださらさら揺れる木々の姿を眺めていた。
――こんなことが、昔もあった気がする。 気の遠くなるくらい、ずっとずっと昔。私は岩男くんとふたりでやっぱり何かを見ていた。今と同じような気持ちで。
「このところ、元気がないんだって?」 やがて、岩男くんはぽつんと言った。いきなりの言葉に向き直ってその表情を覗くと、いつもと同じ穏やかなままの瞳がすうっと細くなった。 「菜花ちゃんが心配していたよ、梨花ちゃんがずっと元気ないって。家では普通にしてるけど、何だか覇気がなくて……彼氏さんとケンカでもしたかなって」 大きく目を見開いた私の姿が、小さな瞳に映った。ああ、そうか……そうだよな。お姉ちゃんと岩男くんはしょっちゅう会ってるんだもん。そんな話も出るんだろう。
お姉ちゃんはあのあと私にあれこれといっぱい質問してきたけど、ずっと無視していたし。あんな気分でいるときに、興味本位で根掘り葉掘り聞かれるのはたまらなかった。お姉ちゃんとしては嬉しかったんだろうな、私と同じ立場で恋愛の話が出来るって。でもなあ……お姉ちゃんのようにみんながみんなすんなりと上手くいってる訳じゃないんだよ? お姉ちゃんたちみたいに。いくらすっ飛んでも、きちんと受け止めてくれる腕があれば、それだけで安心できるでしょ? でもね、私はそうじゃないの。私の好きな人は、その胸に飛び込んだとしてもするりとかわされてしまう。結局は片思いだったんだから。
「ケンカ……じゃないと思う。そんなじゃない」 私も独り言みたいに答えていた。 あれを「ケンカ」と呼んでいいの? ケンカって言うのはお互いに気持ちをぶつけ合うことでしょう? 聖矢くんは私から逃げちゃったんだもん。こんな紙切れを残して、突き放すんだもん。……やだ、こんなのっ。最低だよ。 ついっと、何かが心をさする。その瞬間に、涙がどっと溢れてきた。 「岩男くんっ……!」 聖矢くんが、本当にもう私の前には現れてくれないんだって確信した瞬間、何かが壊れてしまった。今までためていたもの、ずっと押しとどめていたもの。私の裏側の全て。 「どうしたら、いいんだろう。どうしたら……好きになってもらえる? 一緒にいたいって思ってくれるの? 私、お姉ちゃんみたいに可愛くないから駄目? 私じゃ、駄目なの……っ!?」
諦めきれない自分に気づいた。あんなにはっきりと突き放されたのに、それでもまだ聖矢くんのことがこんなに好きな私。隣にいられないことが、信じられないほどショックで、壊れかけている心。
「……梨花ちゃん」 やさしい声がする。お兄ちゃんみたいだなって、その時に気づいた。「恋人」っていうのとは違う、もっと近くて……似ているもの。それが岩男くんだったのかも知れない。肩にそっと置かれた手のひらが大きくてあったかかった。 「格好悪くていいんだよ、もっと素直に自分を出していけば。梨花ちゃんは、他の誰でもない、梨花ちゃんなんだから。全部出して、それで好きになってもらえばいいんだよ」 私は顔を上げた。 涙でにじんだ視界のまま、岩男くんの方に向き直る。あのときと同じ、風が吹く。 「梨花ちゃんは……梨花ちゃんになればいい」
ふんわりと、手のひらに置かれたもの。ごつごつしてざらざらした小さな丸い木の実。 「不格好だと思うでしょう? それがヤマナシの実だよ。お店に売られてる梨を食べ付けてると、とても食べたいとは思えないかも知れない。でも……とってもいい匂いがするでしょう?」 そっと鼻先に寄せてみる。あのとき、真っ白な花の下で香っていたあの夢のような匂い。ううん、もっと熟成して凝縮された香りだった。 「ありのままの自分でいてもね、大丈夫。だから、肩の力を抜いて」 それから、内緒話をするみたいに、私の耳元まで唇を寄せて。こっそりと秘密の言葉を告げた。
「でも……肩肘張らない梨花ちゃんが素直に甘えてくれたら、やばかったかなと思った瞬間は何度かあるんだけどね」
岩男くんは、そのあとくすっと笑って。女の子みたいに口に人差し指を当てて「内緒だよ」って言った。心のベクトルが、きちんと正しい方向を向いていた私は、その彼の言葉ごと、すんなりと受け止めることが出来る。 「練習を見ていく? そろそろみんな来ると思うけど……」 私は笑顔で首を振った。岩男くんも微笑み返してくれた。
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自分の今一番欲しいもの、それに向かって。私はまっすぐに歩き始めていた。
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