TopNovel Index>朱に散る・3


…3…

 

 木々の間から浅黄の女装束が見え隠れし、その人影が女子(おなご)のものであることが確認出来た。その瞬間に、凍てついていた身体が少し楽になる。そんな自分の心内が、ひどく滑稽に思えた。

 ――どうしたことだろう。この場で自分を殺める刃を持った男が出て来ようと、少しも驚くことはないはずなのに。

 その女子は先の男といくつかの言葉を交わした後、こちらに視線を向ける。足早に近寄ってくる面差しは相応の年期を感じるもので、男と丁度同じ年頃のように見えた。腰よりも長く伸ばされた赤髪、紛れもなく「西南の民」である。やはり地形は変わってもここは異郷ではないらしい。

「まあまあ、これは遠路はるばる……お疲れになったことでしょう」

 目の前までやってきたその人は、一度頭を深く下げた後にこちらを見つめ、にこやかに微笑んだ。落ち着いた色目の装束ではあるが、野良仕事の時の衣ではない。しかるべき家に仕える侍女として恥ずかしくないような装いであると思えた。そして彼女はさりげなく螢火の手を取る。

「さあ、まずはお部屋にお上がりください。急なことで十分とは言えませんが、お迎えの準備は整っております。まあ……こんなに冷え切って、すぐに温かいものもご用意致しましょうね」

 

 まるで旧知の知人を迎え入れるような。その自然な仕草には、少なからず驚かされた。何としたことか、どうしてこの者は尋常でないほどにみすぼらしい身なりの自分を見ても少しも態度を変えないのであろう。

  囚人となってから、あまたの視線に晒されてきた。見せ物のように荷台に乗せられ道を行けば、沿道から矢継ぎ早に罵声を浴びせられる。
  石つぶてが飛んで来るような時も、後ろ手に縛られていてはそれを逃れる術はない。どうせならなぶり殺された方がどんなに良かったかと、うつむき唇を噛みしめるしかなかった。 

 

「私は荻野(おぎの)と申します。これより螢火様の身の回りのお世話を務めさせて頂きますゆえ、どうぞ宜しくお願い致します」

 柔らかく、親しみを込めた微笑み。それが自分に向けられているものだと承知しても、すぐには受け答えをすることが出来ない。胸奥から戸惑いの想いが溢れ出でて、喉を詰まらせる。そのまま傍らの人に優しく導かれ、屋敷の中へと案内された。

 

………………


 さらさらと肌に心地よい寝具。それになかなか慣れることが出来ない。あの穴蔵のような場所での生活がそう長くあったわけでもないのに、もうすっかりと身体は慣れ切っていたようだ。
  瞼をゆっくりと開くと、辺りはもう明るくなっている。節々にひどく痛みの残る身体をいたわりながら起こしていく。するとすぐに障子戸の向こうでことりと物音がした。

「お目覚めにございますか? 螢火様」
  するりと軽い音を立てて障子戸が開き、そこから荻野が顔をのぞかせる。ここに辿り着いてから三度目の朝、いつもぴたりと同じ動作だ。さりげないようではあるが、実際にこなすのは難しいと思う。だが、彼女の表情に特別なものは見られない。

「まずはお召し替えを。そののちに、朝餉の膳をお持ち致しますね」
  言葉と同時に手が動き出す。こちらが何も告げずともさっさと戸を開け放ち、光に溢れた庭を眺めながら今日の天候にあわせた衣を行李から取り出していた。それほど大袈裟な造りではない庭であるが、それでも季節の花が目を楽しませてくれる。気の早い秋草がぽつぽつと花をつけ、季節の移ろいを感じさせた。

  荒んだ日々を送ってきたためか、季節を数えることも忘れている。あの荒れ果てた座敷牢は心までも吸い取ってしまう死神が巣くっているのだろうか。この辺りはかなりの丘陵地で、秋の訪れが早い。下界ではまだ夏の盛りだと聞かされた。

「まあ……、またこのようにお残しになって。少しは召し上がってくださいませんと、私も作り甲斐がございませんわ」
  決して押しつけがましい言い方ではないが、さすがに手付けずの膳を戻すのは気が引ける。螢火は返す言葉も見つからず、ただ俯いていた。

 

 辿り着いた先は、ひとりで暮らすにはもったいないほどの居室(いむろ)であった。

 一日のほとんどを過ごしているこの奥の寝所の表にもふすまで区切られた続き間で二部屋、それから廊下を通って上がり口に進むまでにも向かい合った二組の部屋があるようだ。
  金も時間も大層掛かった建物であることは間違いないが、ゆったりと落ち着いたしつらえで少しも浮ついたところがない。揃えられたお道具なども控えめで数もそう多くはなかった。
 
  男はあれ以来姿を見せない。聞くところによると、彼の住まいは庭向こうに見えるもうひとつの居室。こちらは長いこと空き家になっていたと言われた。

 どうしてここに連れてこられたのか、自分が今後どういう風になってしまうのか。その答えを見つけることも出来ず、ただ時を過ごすしかない。いくらこのように身の回りの世話をしてくれるとはいっても、荻野は結局のところあの男の息の掛かった者だ。そう易々と真実を話してくれるはずもないであろうことは、最初から承知している。

 

 ―― 一体、あの男はこの者にわたくしのことを、何と説明したのかしら?

 

 どこまでも慈悲深い荻野の態度には、偏見というものが一切感じられない。もしや何も耳に入れてはいないのではと期待してしまうのは、いささか虫が良すぎるというものか。まだそのように考えてしまう自分が愚かしい。ある日突然手のひらを返される屈辱は、何度も味わってきた。そろそろ懲りてもいいはずなのに、何を期待しているのだ。全く、馬鹿げている。

「……あなたは、あの方の妻ではないのですか?」

 不思議に思っていたことを、ある時ふと口にしてしまった。彼女に言葉を掛けたのは、先にも後にもそれきりのことである。ここにはあの男と荻野以外の人影はない。男の身の回りのことも全て彼女がひとりで仕切っている様子であった。このように広い屋敷ならば両手で足りぬほどの使用人がいても少なくはないはずなのに。
  螢火の言葉を耳にして、荻野はひどく驚いた表情になる。そして青ざめた頬で大袈裟なほどにかぶりを振った。

「まあ、滅相もございません……! そのような、畏れ多いこと。私などはおよそそのような身分ではございませんわ」

 もともと、荻野の家は代々あの男の一族に仕えていたという。縁があって、彼女の母があの者の乳母(めのと)に選ばれ、乳兄弟として育った。それで今でもこうして身の回りの世話を続けているらしい。彼女には病弱で床についている夫がおり、ふたりの間に生まれた娘もすでに嫁いでいるという。

「娘は螢火様と同い年になるのですよ。一人娘でしたのに少し離れた土地に行ってしまいましたから、それは寂しくて。こうして螢火様のお世話を仰せつかって、本当に嬉しゅうございますわ」

 

 居室に辿り着いたその夜のうちに、彼女はすぐにその言葉を身をもって証明してくれる。

 不衛生な土地で過ごし汚れきっていたこの身体を、彼女は少しも臆することもなく清めていった。真新しい肌着から重ねまで、衣を身につけるのにも手を貸してくれる。決して出過ぎた真似はせず、こちらの動きに自然にあわせてくれたのが有り難かった。

  そして驚いたことに翌朝には、ごわごわに張り付き絡み合っていた髪を洗おうと言い出す。もはや水分も抜け表面は白く粉を吹いたようになっていてどうにもなりようがないと思ったが、洗い粉を使い広げて乾かした後にしっとりと香油をしみこませれば見違えるほどに輝かしくなった。
  さらにおしろいをはたき、紅を引く。甘い香りが鼻を突き、遙かなる記憶が胸奥から引きずり出されるような心地がした。無理に押しとどめようとすれば、また表情が硬くなる。

 それらの一通りを終えて。渡された手鏡に映る自分の姿は、まるで別人のようであった。驚いた瞳で鏡の中から自分を見つめているのは、一体どこの娘なのだろう。こんなにも容易く、忌々しい痕跡が消えてしまうとは信じがたい。
  身丈よりも伸ばした髪を正式に洗うのは一日がかりの仕事になり、座したままの姿勢で堅苦しく過ごしたためかその夜もすぐに睡魔が訪れた。胸の内の不安を思えば、このようにくつろいでいて良い場合ではない。そう自分に言い聞かせるのだが、身体はもはや言うことを聞いてはくれなかった。

 

「長い道中だったそうですから、大変お疲れになったのでしょう。この辺りは気も薄く下界からの方は皆大層驚かれますが、お変わりはございませんか? 今朝は薬師(くすし)様から気付けの粉を頂いて参りました。葛粉に溶かしましたので、こちらだけでもお召し上がりくださいね」

 小さめの器の底に、透明な液が揺れている。そう多い量ではない。だが、それすらも空っぽな胃に流し込むのは骨が折れた。何度も咳き込みながら、どうにか飲み干す。さっぱりとした甘さが口に残った。

「さあ、本日もとても爽やかな日和ですから、今少し端近にお寄りくださいませ。あまり奥ばかりにお出ででは気持ちも塞いでしまいますわ」
  薬湯の器以外は持ち上げたあとのない膳を下げながら、荻野はさりげない様子で言う。

 こちらが返事をしとうともしまいともお構いなし。そのあともひとつひとつの仕事を楽しそうに片づけていく。今日は衣替えの準備をするつもりなのか。奥の部屋からせっせと大振りの行李を運び出し、中を丁寧に改めている。つんと鼻につく染み抜き剤の香りが奥まで漂ってきた。

 

 ――あの男は、やはり昨夜も戻らなかったのだろうか……?

 庭のあちら側に見える居室に灯りがともったのは最初の夜だけ。そのあとは人気もなくひっそりとしている。門先まで訪れる者は日に幾人かはいるようだが、それら全てに荻野がひとりで対応していた。
  一体どちらに行ったのだろう、彼の住み家は他にもあるのか。何の素性も知らぬ男、敵か味方かも確かめる術はない。あの座敷牢から連れ出されたからといって、身の保証が約束されたと判断出来るわけもなかった。 

 彼と自分とを繋ぐ糸は何であるのか。いくつか思い描くことは出来る。だが、それのどれもがこの先の絶望をかたち造るものでしかなかった。もはや自分は誰からも見捨てられた存在、救いの手が差しのべられることなど、あるはずもない。期待してはならない、また裏切られるだけなのだから。
  偽りの笑顔は、真実のそれよりもよほどまともに見える。だからこそ、善良な人間がいとも簡単に陥れられるのだ。螢火の心には、もはや人を信じようとする希望も残っていない。荻野がどんなに手を掛けてくれても、心から打ち解けることなど出来なかった。

 

「ご主人様も、昼過ぎにはこちらにお戻りになるそうですわ。きっと見違えたお姿をご覧になって、大層お喜びになることでしょう」

 その言葉にハッとして振り向いてはみたが、荻野はやはり自分の手仕事をこなしているだけだ。一枚一枚の衣を丁寧に改め、繕ったりシミを抜いたりシワを伸ばしたりしている。庭にはすでに物干しが置かれていて、今からそこに手入れの済んだものを掛けて風通しをしようという段取りらしい。
  庭の表にはためく、あまたの絹の流れ……。閉じた瞼の裏に今も残る、美しい光景であった。あれは父の屋敷であろうか、それとも移り住んだ大臣家の中庭だろうか。たすきがけをした侍女たちが庭に出て、次々に衣を竿に渡していく。すっきりと風を通した衣は何とも言えないぬくもりを感じさせられた。

 しなやかに絹の上を滑っていく手のひら。その無駄のない動きをぼんやりと見つめながら、螢火はようやく胸に浮かんだ言葉を呟いていた。

「――わたくし、もう先がないのでしょう……?」

 表から涼しげな気が流れ込んでくる。柔らかく通り過ぎていくその刹那、手入れされた髪が昔のように舞い上がった。ああ、人として生きている。そう思うことが出来たとき、何とも言えない安堵の色が胸を染めていく。もう少しも恐ろしくはなかった。

「分かっているの、次にあの御方がお戻りになったときが最後になるって。全部知っているんだから、もう優しくなんてしなくていいのよ……!」

 あとからあとから取り出される美しい衣。その全てが自分のために用意されたものなのだと荻野は言ったが、そのような言葉を信用するほど愚かではなかった。

「ま……まあっ! 何てことを仰るのです……!」

 顔を上げた荻野は、先ほどまでとはうって変わった表情。すっかり青ざめた頬で、わなわなと顎を震わせている。その驚きようと言ったら、しばらくは次の言葉を発することが出来ぬほどであった。

「そ……そのようにお考えとは、心外ですわ。ご主人様からは何もお話はございませんでしたか? ……何ということでありましょう……!」

 

 この小さな山間の土地で過ごしてきたという荻野にとっては、「死」という言葉は命をまっとうする以外のなにものでもなかったのであろう。

 もしかしたら、やはりこの者は何も告げられてはいないのかも知れない。想像以上にうろたえる姿をぼんやりと眺めながら、螢火はそう思った。しかし、自分の言葉を撤回するつもりはさらさらない。かなり確信してると言い切ってしまっても良かった。

 あれだけの立ち振る舞いをする男、身なりも相応に立派であった。しかもこのように立派な館まで所有しているとなれば、かなりの力を持つ豪族であるに違いない。そして……、この「西南の集落」で地位がある者ならば、その全てがあの大臣家に通じている。あの一族に逆らって生きていける者などあるはずもないのだから。
  この館まで連れてこられてからの数日。二度と日の目を浴びることなど出来ぬと諦めていた自分が、こんなにまともな生活を送っている。夢ですら思い描くことのなかった成り行きの末にあるもの。それが次第にはっきりと姿を見せ始めた。

 

 ――きっと、あの御方のご配慮なのだわ。事切れるまでの刹那を人として過ごし、この世に心を残すことがなきようにとの……。

 幼き頃から、幾たびも夢を見てきた。だが、そのひとつとしてこの手の中には残ってはいない。分かっている、……初めから、何もかも。母上にすら見捨てられた己が人として生きる道など存在するはずもなかったのだ。せめて最後の散り際だけは美しくありたい。誰の心に残らずとも、その一瞬まで。

 

「何としたことか、小娘ごときに見くびられたものだな」

 ゆっくりと、気の流れが止まる。荻野がかすれた声を上げて、そちらを振り向いた。面を上げたその先に、冷ややかな眼差しでこちらを見つめる男が立っていた。


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