TopNovelヴィーナス・扉>ヴィーナスを目指せ!・7
 
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 目が覚めたとき、最初は自分がどこにいるのかが分からなかった。

 分厚いカーテンから漏れてくる外の光、もうとっくに一日が始まってる。ゆっくり顔を回して、何かを探す。それは私のすぐそばにあった。

「……ん……、寧々?」

 まだ半分寝ぼけた腕が、私の身体を毛布ごとゆっくりと抱き寄せる。そのとき、胸に落ちた微かな痛み。熱の冷めた心が連動して震え出す。

「は……なして、ください」

 小さく身じろぎをしたら、今度ははっきりと目を開けてくれた。しっかりと絡み合う視線。こう言うとき、心を分かち合った恋人同士だったらモーニング・キスをしたりするんだろうな。寝起きでいつもよりも少しはれぼったい唇がそれを望んでいるような気がして、ふっと目をそらした。

「どうして?」

 こんなに近くにいるのに、私の表情が見えないのかしら。主任は手を伸ばすとサイドボードの上の眼鏡を取った。

「どうしても、です」

 身体がまだ重く満たされている。そんな自分が許せなくて、大声で泣きたい気分だった。何でこんなことしちゃったんだろう。そりゃ途中からは止まらなくなってもうどうでもいいやと思っていた。
  頭のてっぺんから感情が突き抜けるほどの衝撃を受けるセックスがこの世に存在することは分かったよ。主任の言葉はとても正しかった。そして私……この荒治療を通して自分の気持ちもしっかりと分かってしまったんだ。

 主任のことが許せなかった、私がこんなに大変な思いをしているのにいつも遊び半分でけしかけたりして。しかも私のことを困らせる彼らに味方して、「もっと楽しめ」なんて無責任なこと言うんだもの。

 ずるいよね、自分だけ蚊帳の外でさ。

「……主任」

 ぬくもりから解放されて、さらに寂しさが募る。だけどこれ以上、甘えることは出来ないと思った。だってこの人にとって、私は「適当」な存在でしかなかったんだから。

 あーあ、何で眠りこけちゃったんだろう。用済みの女は相手が寝てるウチに退散するのがスマートなのに、ほんっと情けないったらない。

「もしも、理由なく『ヴィーナス』の権利を放棄すると言ったらどうなるんでしょう? 私、……この先会社にいられなくなるのでしょうか」

 真実に気付いてしまった今、もう自分にも周囲の人たちにも嘘はつけない。だから私には『ヴィーナス』である資格もないんだ。
  いつになく深刻な面持ちで切り出したのに、主任ときたら「一体、何言ってんの?」って感じの反応だ。

「馬鹿だなあ、早まるなって言ったろ? まだまだイベントは始まったばかりだぞ、じっくり腰を据えて頑張ればいいじゃないか」

 ひどい、そんな言い方しなくたっていいじゃない。

「馬鹿野郎!」って怒鳴って部屋から飛び出したいけど、そのためにはまずは服を着ないと駄目だもの。ちょっと今はこの状態でベッドから抜け出す勇気はない。昨日のこと、思い出したらお互い気まずいよね。

「それは無理です。もう駄目ですっ……!」

 やめて、これ以上はヤバイよ。ホント、自分が情けなくて泣き出しそうな気分なの。どうかそっとしておいて、お願いだから。

「寧々?」

 顎のところまで毛布をずり上げている私に対して、主任はあられもない姿。堂々と晒した上半身、着やせするタイプなんだなと思った。結構がっちりして、筋肉なんかも付いてるものね。
  薄っぺらな一枚をふたりで分け合ってたんだもの、そりゃお互いにくっつき合いたくなるはずだわ。きっと今の私、身体中から主任の匂いがするよ。

「その……私」

 昨日の続きをぼんやりと思い出す。丁寧に丁寧に翻弄されていった身体、もう十分に潤ってそのときを待っていた場所への指使いもゆっくりゆっくり悲鳴を上げてしまうくらいじらされた。そして最後とうとう主任自身と愛し合ったとき、この時間が一度きりなんて絶対に嫌だって思った。ベッドの上でこんな気持ちになったのは初めてだと思う。

「実を言うと私、好きな人がいるんです。でも野上さんの場合とは違って、その人は私のことなんて何とも思っていない。だから、……無理なんです」

 やたらとお節介を焼いてくる主任に対して、「もしかして?」と思ったことは何度かあった。だけど、ちょっと考えてみたら分かるでしょ? 万が一に主任が私に気があったとしてよ、そうしたら今回の企画が持ち上がったときにちゃんと意思表示をしてくれたはずだよね。野上さんのだんな様がそうだったみたいに。
  こんなとんでもないことまでしちゃって、もうこれ以上主任と同じ場所にはいられないよ。一緒にいたら、また期待する。それは主任にとってとても迷惑なことだ。

「そうか、そりゃ残念だな」

 そんなにあっさりと言わないでよ、もう本当にギリギリなんだから。

「……はい」

 必死にそれだけ答えたら、ぽろっと涙がこぼれた。慌てて毛布でごしごしする。だけどあとからあとから溢れてきて、とうとう頭から毛布を被るしかなかった。

「しゅ、主任が先にシャワーを使って下さい。そしたら、……私も支度します」

 こんなのって最悪だ、きっと主任も気を悪くする。だけど、私だってギリギリなんだよ? お願い、涙が止まるまで時間を下さい。出来ればもうちょっと長い時間をくれたら、その隙にこっそり出て行けるんだけど。

「寧々、何で泣いてるんだよ?」

 けど、主任は私の言葉なんて全然聞いてくれなかった。毛布の上から手探りで触れてくる、その手つきが昨日のことを鮮やかに私の肌へと蘇らせていく。

「俺、お前を泣かせるようなことした覚えないぞ。そんなに嫌だったのか、じゃあ何で途中で止めなかったんだよ。おい、何か言え、返事しろ。返事しなかったら、……どうなるか分かってるか?」

 次の瞬間、私は上に覆い被さってきた主任に潰されそうになる一歩手前で抱きしめられていた。毛布越しに伝わってくる吐息、ぬくもり。

「好きな奴に脈がないなら、そんなの放っておいて俺を選べ。それでいいだろ? どんな奴と比べたって、俺の方がずっとお買い得だ」

 しかし、その言葉には自分の耳を疑った。何? 一体どうしてそんなことを言うの? 全然分からないよ……!

「寧々、耳の穴かっぽじって良く聞け。本物のヴィーナスはここにいる。そいつのハートを射止めるのはお前しかいないんだぞ?」

 ……。

 さらに訳の分からないことを言われて、驚きのあまりに涙も止まってしまった。え? え? ……ちょっと待って。それって、一体―― 。

「あのっ、本物ってどういうことですか? それって……!?」

 がばっと毛布を押しのけた。色んなものが丸見えになってしまったけど、この際そんなことはどうでもいい。

「そ、俺が本星ってわけ」

 慌てふためく私に対して、主任はしばし苦笑い。その後ぬーっと腕が伸びてきて、ぎゅっと抱きすくめられた。

「今まで黙ってて悪かったな。最初はさすがに俺も知らなかったんだけど、あまり誤解が広がっていったもんで困り果てた社長から直々に言われたよ。イベント企画だし、こーいう当ての外れた騒ぎも面白いとしばらくは状況を見守ることになった訳だが、ちょっとばっか遊びが過ぎたかな。今日明日にでも事実を公表する予定だったんだ」

 その……それって。ホントに主任自身が、って……こと? そりゃないだろう、フェイント過ぎるっ!

「ヴィーナスなのに、男性でもいいんですかっ。そんなの誰も気付きませんよーっ!」

 そうだよっ、ヴィーナスって「美の女神」なんだよ、「女神」っ! そのネーミングからしてターゲットは自然と女性に限定される。絶対、そーだよう……。

「まあいきなり名称を変更したら、それはそれで分かり易すぎだしな。せっかくのイベントの意味がなくなるって理由だったんだろう、上の奴らが考えることはいつも常識の域を超えている」

 じゃあ、今まで私が困ったり悩んだりしたのって、ただの勘違いだったってこと? 私のハートを射止めたって、彼らには何のメリットもなかったんだ。うわーっ、これって最悪。うっかり話に乗ったら大変なことになってたわ……!

「男女平等の世の中なら女性にもメリットがあるべきだって。何でも前回のときに女性社員から猛然と反発を食らったみたいでね。だったら、ってことで上層部も考えに考え抜いて決めたみたいだぞ。ま、結果は勘違いが勘違いを生んでとんでもない結末になりそうだったけどな。
  俺的にはかなり楽しませてもらった訳だが、そろそろ収拾付けようと思ってさ。昨夜もそれで寧々たちを追っかけてたってところ。神に誓って言うが、最初からここまでのシナリオを考えてたわけじゃないからな。ま、信じるか信じないかはお前の勝手だ。
  そんなわけでさ、今なら俺に加えて思い通りの昇進も手に入れることが出来るってこと。寧々、契約社員から正社員に格上げって言うの、良くない? 給料上がるぞ〜! ほらっ、さっさと選ばないとあとで死ぬほど後悔するからなっ!」

 ……何それ。ちょっと待ってよ。

「あのーっ、……ひとつ聞いてもいいですか?」

 こうしている間も、裸の背中とかおしりとか撫で撫でされているんだよ。なんか緊張感の欠片もない感じなんですけど。

「主任って、……その、私のことどう思っているんですか?」

 それが、それこそが一番の問題だと思うの。私ですらこの気持ちに気付いたのはついさっきなんだよ? どーみたって今までの私は主任の「おもちゃ」だったし、そういう雰囲気のカケラもなかったじゃない。
  こんな風に適当なノリで人生決めちゃうのって、絶対違うと思うの。やっぱりこういうことは時間を掛けてお互いのことを知り合って、あれやこれやと段階を踏んでいって……うわわっ、もうどうしたらいいのよっ!

 恥ずかしいから絶対に顔を合わせたくないと思ったのに、強引に顎を持ち上げられる。もちろん目の前にはかなり接近した主任の顔(髭なし、眼鏡あり)。

「あれ〜、言わなかったっけ? そもそも好きじゃなかったら、こんなことしないよ。それくらい、分からない? 昨日だって命がけで助けてやったのに、どーしてこのみなぎる誠意が伝わらないのかなあ〜?」

 わっかるわけ、ないでしょーっ……って言い返す前に、唇を奪われる。未だに何でこんなことしちゃうのか戸惑いまくりなんだけど、でもでもかなり感じちゃったりするんだな。

「それに、寧々と俺は読書の趣味もばっちりなんだろ? 『お友達』の件もオッケーだから。いやはや、ジョシコーセーはさすがにキツイと思ってたんだけど、案外誤魔化せるモンだなー」

 ―― え? えええ? それって、この前のフォーラムの「さくら」さんとか言う人のこと? マジ? なんかもう、びっくりが多すぎてどっから手を付けていいのか分からないよーっ!

 そのままベッドにふたりで倒れ込んで、なんかとてもヤバイ雰囲気。時計、そろそろ十時なんですけどっ。仕事行かなくていいんですか……!

「あー、そうだ。一応、言っとく」

 さあ始めましょう、って体勢で主任がふと動きを止める。それから大きな手のひらが、私の顎をそっと辿った。

「社長と相談してね、近々ウチの部署は別会社で独立することになったんだ。もう物件も目星が付いていてな、何と同じビルの最上階に俺の住居スペースもあるんだ。いいだろ〜、職場と目と鼻の先だぞ?」

 そこで、一度鼻の頭にキス。主任って、スキンシップがすごく好きだったんだな。なんか意外。

「寧々、一緒に来いよ。公私まとめて面倒見てやる、一緒に人生楽しもうぜ?」

 自信たっぷりに微笑んだあと、主任は眼鏡を外す。そのあとは再び、夢の時間が待っていた。

 


「あ、私行かないから。悪いわね、ここに残るわ」

 それから数日後。ヴィーナス騒動も主任の独立に関するごたごたも一通り片付き、いつもの静かな静かな三階奥。

「え……そうなんですか?」

 のどかな午後のお茶時間。カップを持ったまま、私は呆然と聞き返す。

 野上さんの突然の言葉には、少なからず驚かされた。だって、入社当時から榊主任とふたり戦友のような間柄だったんでしょ? それなのに、今回は付いてきてくれないの?

「榊君が借りた、新しい事務所。あそこってウチのマンションから乗り継ぎ最悪なのよ。それにここにいれば、仕事の帰りに主人と落ち合うのも楽だしね。ま、そういうこと。寂しくなるけど仕方ないわ」

 他のメンバーはみんな新会社に移るというのに、何という潔さ。だけどそれこそが野上さんなんだなあと思う。

「まあ、そうは言っても私の代わりになる人がいないとちょっと厳しいわよね。でも大丈夫、そこはもう手を打ってあるの。とびきり有能な人材をご紹介するわ―― もういいわよ、入ってらっしゃい」

 その言葉にひょっこりと部屋に入ってきた人物にまたまたびっくり。

「や、その節はどうも。工藤です。山名さん、これからますますよろしくね」

 ―― こっ、この人でしたかーっ!!!

 これはまた、とてつもなく厄介な相手が現れたものだ。呆然と見守る私に彼は天まで突き抜けるような爽やかな笑顔で続ける。もちろん、記憶に新しい絶妙な角度で。

「ようやく憧れの榊先輩の側で働けることになったよっ! もう今は最高に嬉しくてさ、たまらない気分だよ」

 小さくガッツ・ポーズ。そう言いつつ、主任を目で追うその眼差しが……どことなくハートマーク??? え? えええ? この人って、この人って……もしかして?

 いやまさか、でもどうして。そう考えたら今までの一連の言動がとてもクリアに理解できる。うっわー、やばっ!

 

 ―― なんか嵐の予感。

 でもって桜の季節、さらに濃くなったメンバーでの新会社がスタートするらしい。先のことは全く分からないけど、何にも心配いらないって主任は言うの。元通りに髭の伸びかけた顎をさすりつつ、お得意のにやり笑いを浮かべてね。

「大丈夫、ヴィーナスで結ばれたカップルは一生離れないことになってるんだよ」って。

おしまい♪ (080226)
ちょこっと、あとがき(別窓) >>

 

 

2008年3月7日更新

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