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それぞれのヴィーナス◇4番目の景子
・・・「七夕の恋人」後日談

    
「おかえりなさい!」
  インターフォンが鳴るのとほぼ同時に、玄関先に飛び出していた。ちょっとお行儀悪いけど、スリッパでつっかけサンダルを踏みつけてドアを開ける。
「……ただいま」
  まだドア・チェーンは外さないままの狭い隙間、そこから顔を覗かせていたのは仕事帰りでスーツ姿の彼。一瞬は戸惑いの表情を見せたものの、すぐにいつもの穏やかな笑みを浮かべていた。その手には役目を果たさなかったキーが握られている。
「夕食の準備はできてるけど、先にシャワーを使う? 今日は蒸し暑かったでしょう」
「あ、……うん」
  彼は脱ぎ終えた靴を丁寧に並べ直すと、また私の方をちらっと見た。
「何よ」
  さすがにね、こんなに思わせぶりな態度をされたら、突っ込みたくもなるでしょう。しかも、おっかなびっくり、見ちゃいけないものを好奇心に負けてこそっと盗み見るみたいなんだもの。
「いや、その……こんな風に出迎えてもらうの久しぶりだから。やっぱり、とても嬉しいものなんだね」
  観念したように照れ笑いを浮かべる彼に、今度はこっちがノックアウト。基本シャイなくせに、たまにすごい直球が投げ込まれるから油断できない。
「そっ、そうかな」
  慌てて取り繕ってみたものの、やっぱり微妙に台詞を噛んでいた。
「だったら、今度は野上がやってみせてよ。期待しているわ」
  私の脇を通り抜けていくときに、彼の手がそっと肩先に触れる。ただそれだけのことなのに、切ないくらい胸が高鳴った。

 新築の香りで充満しているこの部屋に移り住んだのは、半月ほど前のこと。
  お互い多忙を極める日々ではあったものの、とりあえず定住地となる場所を見つけようということで話がまとまった。でも、どちらの職場にも通いやすいようにと路線を決め不動産屋さん巡りをするのにもスケジュールが合わない始末。仕方ないから、お互いに希望の不動産をチョイスして別々に下見に行くことになった。
「こんなお客さんは珍しいですよ」と担当の人にも呆れられたけど、結局ふたりがこれと選んだのは同じ部屋だった。
  あの騒動から、まだ一月。自分の生活ががらりと変わったことに、自分自身でも驚いている。だけど、こういうのは勢いだから。何となく過ごしていたら、一年や二年は風のように過ぎていく。これは一緒にいる時間を一分でも一秒でも増やすためにと、ふたりで決めた最良の選択だ。
  とはいえ、住む場所が変わったからといって、仕事内容が以前と変わるはずもない。野上は野上で、私は私で、相変わらず忙しい。ひどいとふたり揃って午前様ということもあり、そうなるとウエイトコントロールのことを考えても、一緒に夕食を取ることなんてほとんど不可能になる。
  互いが譲り合ってシャワーを使ったあとに、そのままベッドに倒れ込んで熟睡という日々。それでも、夜中にふっと目覚めたときに傍らにもうひとつの体温があることが嬉しい。
  同じ住空間で暮らし始めてすぐに、私は彼が自分とはまったく別の人間であることを改めて悟った。
  すべてにおいてきちんと物事をこなす彼。朝は必ず同じ時間に目覚めるし、その後の身支度も乱れなく順序立てて行われていく。シャワーを浴びて身支度を終える頃にはいれたてのコーヒーが待っているなんて、いったいどんな魔法だろう。
  いつまでもぐずぐずとベッドから離れられないたちの私は、そんな彼の行動をぼんやりと眺めながらようやくあることに気づいた。どうも野上という男は、先の先まで予定を立ててそのための準備を怠らない人間なのである。もちろん、何ごとにも予想外な展開はあり得るのだが、そのための打開策までしっかり準備していた。
  何でそこまで疲れることをしているのだろうと不思議に考えたが、どうもこれは彼の性分であってそうするのが当たり前のようなのだ。デキル人間とは、ずば抜けた才能の持ち主ばかりではない。コツコツと地道に目の前の事柄をこなすだけでも、長年積み重ねていけば自分自身の大いなる資産になっていくのだ。
  お陰で今では、朝食のパンを買い忘れることもなければ、週末に手持ちの現金が少なくて慌てることもない。これでは私ばかりが楽になって、彼には何のメリットもないのではないか。そう思って、慣れない家事を必死にこなしてみたりもするが、やはり苦手分野だけあって何もかもが中途半端になってしまう。
  今夜のようにふたり揃って早く戻れるのは本当に珍しい。「早く」といっても、すでに時計は夜の九時を回っているのだが、それでも一緒にディナーのテーブルを囲めるだけでも幸せだと思わなくてはならないだろう。
  どこからかシャワーの水音が響いてくる。ようやく現実に気持ちが戻ってきた私は、鍋のシチューを温め直そうとキッチンに向かった。他にはコールドサーモンに、温野菜のサラダ。「予想外の展開」に備えて、一度冷めても美味しく食べられる料理ばかりを選んだ。
  もしかしたら、私にも彼の性格が少しは伝染して来ているのではないだろうか。そうやって期待する瞬間が、最近多くなった。

 対面式のキッチンにリビングダイニング。それからあとふたつの個室はそれぞれ寝室と仕事部屋にあてた。互いの部屋にあったものからめぼしいものを運び入れ、その他は潔く処分。冷蔵庫は彼のものを、オーブンレンジは私のものを使うことにした。テレビとDVDはリビングと寝室にそれぞれ置くことにする。
  それまで知識として耳に入れていた同居に向けてのいざこざは、私たちにとっては無縁の出来事だった。まずは目的をはっきりと決めて、それを達成するための対策をあれこれ練る。それぞれが得意分野を受け持ち、互いの領域に必要以上に干渉しないことで安定を保つことができた。
  広めのリビングに合わせたソファーとテーブル、そして寝室のベッドだけが新たに購入した家具になる。ゆったりと座れる大きめのソファー、ひとり暮らしの生活ではまったく必要性も感じなかったそれが、この部屋にはどうしても欲しかった。
「ごめん、いつの間にかのんびりしてしまったみたいで」
  もうひとつ、最近まで私の知らなかった彼の一面。それは、驚くほど長風呂だったことだ。最近はシャワーだけで済ませてしまう人も多いと聞いているが、そう言えば彼の部屋にはちゃんと洗い場付きのバスルームがあったような気がする。
「ううん、私も実は支度をしながらいろいろつまんじゃって。ちょうど小腹が空いてきたくらいよ」
  お風呂上がりでも、彼はバスタオル一枚で部屋を徘徊したりはしない。きちんとルームウエアを身につけて、髪も見苦しくない程度に乾かしてある。
「そう、なら良かった」
  彼ははにかんだように笑うと、テーブルの上に小さな包みを置いた。
「これ、お土産。……まずはつまみながら軽く飲もうよ」
  キッチンの方へと向かっていく足音を聞きながら、私は手のひらに乗るほどの包みをつまみ上げた。それほど重みも感じない、中を開けるとさらにプチプチで包まれている様子。
「……砂時計?」
  こういうときについつい雑に開封してしまうのが私だ。グラスとワインを手に戻ってきた彼は、テーブルの上に投げ出された抜け殻たちをゴミ箱に捨てる。
「サーモンがとても美味しそうだね」
  生鮭を薄切りにして香味野菜と蒸し煮にしただけなんだけど、こういうあっさりした調理法が好き。上にかけるソースで好みの味に仕上げることも可能だしね。
「ちょっと盛り分けてくるから、待ってて」
  今夜の彼もいつも通りに働き者だ。それに引き替え私の方は、一度座ってしまったら最後、おしりに根っこが生えてしまったように動けなくなってる。
「どうして、こんなもの買ってきたの?」
  料理を並べたお皿をテーブルに置いた彼は、私の質問に淡く微笑んだ。
「どうしてだと思う?」
  彼は器用な手つきでワインの栓を抜くと、ふたつのグラスになみなみと注いだ。綺麗な赤がライトに反射してキラキラと揺れている。
「このあたりで、少し力を抜いた方がいいと思ったんだ」
  その言葉の意味がわからないままでいる私の隣に座ると、目の前のグラスを先に取った。そしてもうひとつのグラスを軽くかすめてから口元に運ぶ。
「……力を抜く?」
「うん、お互いにね」
  野上は私の手から砂時計を取り上げると、それをテーブルに置いた。さらさらと砂が下へと落ち始める。
「景ちゃんはいつも頑張りすぎるんだよ、だからそれに合わせようとすると俺もついつい肩に力が入ってしまって駄目だな」
  細い隙間をぐぐり抜けることができる砂の量はいつでも一定量。どんなに乱暴に振り回したところでその速度が変わらないことは、昔からの経験でわかっている。
「べっ、別に……私は少しも無理なんてしてないし」
  むしろ何をやっても彼に追いつけないから、少しヤケになっているところはあったかも。そのことは素直に認めてもいい。
「じゃあ、疲れかけているのは俺の方だけかな」
  いつの間にか、砂はすべて下へと落ちていた。彼は砂時計をつまみ上げるとくるりとひっくり返す。
「俺たちに与えられた時間は平均に比べればかなり少ないと思うんだ。そのことに気づいてしまうとね、どうしても焦ってしまって」
  そこまで言うと、彼は私をそっと抱き寄せた。
「いつもそうだった、景ちゃんに会いたいから仕事を早く終わらせようと必死になる。でもそれが終わると必ずまた次の山がやって来るからキリがない。そしてわかったんだ、無理に終わらせようとしても無駄だということを。大切なのは、こんな時間を見つけることじゃないかと思ったんだ」
  もしかしたら、私も何かに追い立てられて焦っていたのかも知れない。そう思いつつ、彼の腕の中で落ちていく砂を見つめていた。彼もそれきり何も話さない。やがて、沈黙の三分間が終わった。

「……景ちゃん。もう、シャワー浴びてたんだ」
  急に何を言い出すのかと顔を上げると、そこに唇が落ちてくる。
「こういう頑張り方なら、してくれてもいいかも知れない」
  シャツの裾から忍び込んでくる手のひら、そのまま私の身体はソファーに深く沈んでいく。
「えっ、別にこれは……そう言うことじゃなくて! そのっ、着替えるついでにちょっと浴びただけだから―― 」
  重なり合う、同じボディシャンプーの香り。彼は私に覆い被さるように、深いキスを繰り返していく。
「ごめん、三分じゃとても終われそうにないけど……いいよね?」
  感じやすい場所をすぐに探り当てられてしまう、強い女として認識されているはずの私が彼の前ではなすすべもなくなってしまうのはいつものこと。
「あ、でも……せっかくシチューを温め直したのに」
  そんなことを言ったって、もう身体は後戻りできないのに。ちゃんと気づいている彼は私の言葉にも少しも慌てるところがない。
「何度でも温め直せばいいんだよ。その方がじっくり味が染みて美味しくなるからね」
  膨らみ始めた頂きに吸い付かれて、甘美な痛みに悲鳴を上げる。その言葉に導かれるように、さらに彼の指先は奥へ奥へと進んでいった。
「だっ、駄目っ! そこっ、……野上っ……!」
  本当は違う、もっともっと欲しい。でもその気持ちを素直に伝えるなんて、絶対に無理。
「いいんだよ、思い切り感じて」
  きっと私はこれからも、こんな風に何度も夢を見ることになる。本当は現実なんだけど、それがまるで信じられなくなるほどの仮想空間。時間を忘れて何度も互いを重ね合う特権を、ようやく私たちは手に入れた。
  ソファーの肘置きに頭を乗せると、彼を受け入れるのにちょうど良い姿勢になれる。まさかこんなことまで予想して購入した訳じゃないと思うけど……ちょっと自信がない。
「本当は……玄関でそのまま抱きしめてしまいたかったんだ」
  信じられない囁きを耳元で踊らせながら、彼は私の中をゆっくりと満たしていった。


了(101015)
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2010年10月15日更新

   
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