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週報短文


バックナンバー 2002年1月分



2002年1月27日
『小牧者コンベンション』


「どこへ行って来られたのですか」
「小牧者コンベンションです。」
「なんですか、それは」
「ここ数年、注目されている集会なんです。今年は第9回ですが、全国から超教派で大勢の牧師や信徒が集まりました。」
「何かを勉強するのですか」
「勉強もありますが、今回は特に教会をどのように建て上げているか、その実際を見聞しました。」
「何か特別な方法があるのですか」
「十人くらいの小さなグループに分かれて、聖書を学んだり、交わりを持っているのです。」
「ああ、使徒言行録の家の教会というやつですね。」
「ええ、それがモデルですが、韓国のある牧師がアメリカの教会で学んだことを自分なりに肉付けして、ソウルで実際にやってみたのです。サラン教会というのですが、二〇年余で四万人のすばらしい愛に満ちた教会に成長しています。」
「すごいですね。韓国だからできたのでしょうね。」
「いえ、日本からも大勢の牧師たちが学びに行って、モデル教会が生まれつつあります。」
「その秘訣は何だと思いますか。」
「私もまだ初心者ですが、十年ほど取り組んで来られた先生が、『徹底的に福音に立ち、み言葉を土台とするグループの交わりの中で人間が変わり、人間関係が変わるのだ』という証しをしておられました。サラン教会はその一つのよいモデルですが、ソウルにある世界一大規模な教会も、それを取り入れて新しい教会形成に取り組んでいるそうです。」
「日本基督教団の教会ではどうですか」
「今度のコンベンションの実行委員十人の中、三人は関東教区の中心的な先生方です。まず、関東教区が変わるのではと期待しています。私たちの教会もそうありたいと願っています。」


2002年1月20日
『大人の食物』

 先週は5人の若い兄弟姉妹の成人祝福式を行なうことが出来たのは、大きな恵みであった。「大人になる」とはどうことか、お互いによく考えてみる必要がある。
 ところで、アウグスチヌスの「告白」の中に次のような一節がある。"そこで私は、それらの書物から自己自身にたちかえるようにと勧められ、あなたに導かれながら、心の内奥に入って行きました。それができたのは、あなたが助け主になってくださったからです。私はそこに入ってゆき、何かしら魂の目のようなものによって、まさにその魂の目をこえたところ、すなわち精神をこえたところに、不変の光を見ました。それはだれの肉眼によっても見られるあの普通の光ではなく、それと同類だがもっと大きく、はるかに明るく輝き、・・・・そしてはげしい光線をあてて弱い私の視力をつきはなされたので、私は愛と恐れにわななきました。そしてあなたからはるかにへだたり、似ても似つかぬ境地にいる自分に気づきました。そのときはるかに高いところから、『わたしはおとなの食物だ。成長してわたしを食べられるようになれ、・・・』という御声を聞いたように思いました。・・・"(山田晶訳、金子晴勇「心で感じる神」より引用)
 ここにはアウグスチヌスの神秘的な体験が語られているが、それは何か魂の目のようなもので不思議な光を見たことと、魂の耳で上よりの声を聞いたということである。これはダマスコ途上のパウロの経験に通じるものがある。ただ、あの時パウロが聞いたのは復活のキリストの声であったが、アウグスチヌスが聞いた『おとなの食物』とは何であったか。それはヘブライ5・14の「固い食物」に通じるものではないか。この上よりの声が、後のアウグスチヌスの生涯を決定したと言ってよい。この神の召命に応えて、アウグスチヌスは生涯をかけて神の真理を明らかにすべく努力したのである。神の声を内に聞くところから真に新しい事が始まる。


2002年1月13日
大人になる

 先日車を走らせながらラジオを聞いていたら、「大人になったと感じたのはいつか」という話題で、ある男性は「初めて髭を剃ったとき」と答え、ある母親は「娘が学校の入試で、『自分と意見の違う人とどう関わるか』、との質問に、『その人の意見をよく聴く』と答えたと聞いて、娘もいつの間にか大人に」と答えていた。
 ところで、おとなのクリスチャンというのはどういう人のことだろうか。それはまず、自分の言葉で自分の信仰を他人に伝えることが出来る人だと思う。そういう人は、簡単に人の言葉に左右されない。人の言葉ではなく神の言葉に立脚しているからだ。そのためには、最低、自分で聖書を読み、祈っている。
 次に、教会の欠けを自ら少しでも負って行こうという人である。「私たちの教会は、ここがだめだ、あそこがだめだ」という人は多いが、その欠けを自分が負おうとしないのは、信仰が幼いからである。批判する側でなく、批判される側に立っている人が、おとなのクリスチャンである。
 ここで聖句を一つだけ引用すれば、「乳を飲んでいる者はだれでも、幼子ですから、義の言葉を理解できません。」(ヘブライ5・13)この聖句の前後をお読み願いたいと思う。
 さてもうひとつ、成長した教会とはどんな教会だろうか。私たちの教会は、数年前から6つの目標を掲げている。その中の一つは、「受けるより与える教会へ」であり、今一つは「地域に奉仕する教会へ」である。大人の教会とは、まさにこのような教会である。しかし、現実にはこの目標に程遠いことは残念だ。
 今、日本も世界も様々な問題を抱えて悩んでいる。家庭も学校も悩んでいる。教会は、その答えを持っているはずなのに、力にならないのはなぜだろうか。私は元旦礼拝で、日本の教会は、まだ幼稚園の程度だと言った。日本の教会とは、他ならぬ私たちの教会のことである。今年は少しでも成長する年でありたい。(あしたは成人の日。きょう成人祝福礼拝。)


2002年1月6日

年賀状


 新年を迎えて今年も多くの方々から年賀状を頂いた。最近の変化はパソコンを利用して、可愛い家族の写真を入れたものが増えたことである。年賀はがきを用いず、直接メールですばらしい写真入りの挨拶をくださる方々もある。また、住所や電話だけでなくメールアドレスが書き添えられた年賀はがきも格段に増えた。
 せっかく頂いた年賀状が、謹賀新年というような決まりきった印刷文だとちょっとがっかりする。それでも「あなたを忘れてないよ、まだ生きていますよ」というメッセージと受けとめる。せめて一行でも肉筆を添えてくださると、とてもうれしいのだが。また、年に一度のことだから、ご自分やご家族の近況などが書かれてあると、いろいろ先方の想像を巡らして楽しい気分になる。
 クリスチャンの方や、特に牧師たちの賀状は大抵聖書のみ言葉が入っている。私も大体新年の教会の聖句を書き入れるようにしてきたが、今年は止めてみた。説明抜きに入れることが必ずしも適当でないと判断したのと、説明を入れる余白がなかったからである。
 香港滞在のときは、年賀状交換の習慣がなかったので、クリスマスカードを書いた。帰国してしばらく続けたが、だんだんカードを書かずに年賀状だけになってしまった。海外からカードを送ってくださる方々に返事も書かないで失礼している。申し訳ないことだ。
 しかし、考えてみると、年賀状を書き送るのに費やす時間は相当なものだ。まず、ワープロの住所録の整理から始まり、宛名を印刷するのに一、二日はかかる。実際は他用もあるから、もっとかかる。さらに、ほんの一、二行でも書き添えるのに、少なくとも一、二日かかる。クリスマスの多忙の中、なんとか祈りと共に書き終えて投函し、さて元日が来ると、書かなかった方々からもかなりの賀状が届く。うれしい悲鳴をあげながら、またまた返事を書く。これもまた正月の風物詩と言うべきか。


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