教会員向けなので、わかりにくい表現もあるかと思いますが、どうぞお読みください(金田佐久子)。
2025年 1月19日
「集まって一人の人のようになる」
1月13日(月・祝)、聖学院教会(聖学院大学チャペル)を会場として、埼玉地区新年合同礼拝が行われました。今年は、2年に一度開催されます三区(1区・2区・3区)が合同で行う礼拝でした。出席者は199人(48教会・伝道所)でした。
子ども説教は、「イエス様に出会う人」と題して、大宮教会の甲賀正彦牧師がしてくださいました。甲賀牧師は、今年度『信徒の友』の表紙を素晴らしいイラストで飾っておられます。子ども説教では、ルカによる福音書第2章22~33節より、登場人物のイラストを聖書の言葉と合わせて、プロジェクターで投影しながら、シメオンと救い主の幼子イエスとの出会いを語ってくださいました。
埼玉地区委員長で武蔵豊岡教会の栗原清牧師が、「集まって一人の人のようになる」と題して(聖書箇所は、エズラ記第3章1~4節、ローマの信徒への手紙第12章1~5節)説教をされました。約50年のバビロン捕囚から解放されて、イスラエルの民は礼拝を献げることができました。コロナの試練を経て、こうして再び共に集まって礼拝できる恵みを新たにしました。礼拝とは、自分自身を献げることである、と説き明かしてくださいました。
聖餐式は、志木教会の横山基生牧師(主)と本庄教会の疋田義也牧師(副)が奉仕されました。説教されたように、地区の牧師・信徒と一緒に聖餐にあずかり、主にあって一つとされている恵みを感謝しました。
礼拝後に、今年度、受洗・信仰告白をされた方のため祝福の祈りが埼玉地区副委員長の武田真治牧師(上尾合同教会)によってなされました。新成人の方は新年合同礼拝に来られませんでしたが、若者たちのためにも武田牧師が執り成し祈ってくださいました。
主の年2025年、埼玉地区の1年を、このような地区の一致と連帯のしるしである新年合同礼拝をもって始めることができ、主に心から感謝いたします。(No.1020)
2025年 1月12日
イザヤ書を読もう
先週は、新年の最初の祈祷会・昼間祈祷会がもたれて、イザヤ書の学びが始まりました。昨年出版された大島力(おおしま・ちから)先生の『イザヤ書を読もう 上 ここに私がおります』(教団出版局)を手掛かりに学びを進めます。読んでみたいと取り組んでもなかなか難しいイザヤ書。仲間と共に少しずつ、説き明かしを聞きながらであれば、通読できるかもしれません。ご一緒にイザヤ書の御言葉に耳を傾けましょう。
先週の祈祷会ではイザヤ書の概要を知りました。また新約聖書との関係も少し分かりました。
イザヤ書は大きく三部構成になっています。
・第一イザヤ書(1~39章)
・第二イザヤ書(40~55章)
・第三イザヤ書(56~66章)
それぞれ書き記された時代背景が異なり、また内容も多岐に亘っています。しかし、いずれの部分においても、その時代における「メシア」とその「共同体」の在り方について叙述されています。イザヤ書は「メシア的王の到来」を告げ、バビロン捕囚の経験を通して「苦難の僕」による贖罪信仰に至り、捕囚後のユダヤ教団の中では民族性を超えた普遍主義に開かれていく「メシアとその共同体」の姿を指し示しています。
イザヤ書が古代キリスト教会において、新約聖書の四つの福音書と並んで「第五の福音書」として親しまれ読まれてきました。このことはイザヤ書の理解において、さらには新約聖書の福音理解にとって、有益な認識であると思います。
他方、福音書のみならずパウロ書簡等においても、イザヤ書からの引用が多くなされています。それは、直接的引用、暗示、言い換えを含めると400箇所以上になります。このことは、新約聖書諸文書の成り立ちにイザヤ書が多様な仕方で貢献していることを示しています。
イエスの地上の生涯の時代、現在の新約聖書はありませんでした。主イエスが読まれたように少しでもイザヤ書を読みたい。それが願いです。(No.1019)
2025年 1月 5日
「キリストに愛されて」(元旦礼拝説教要旨)
主の年2025年を迎えました。
教会は、キリストのご降誕の喜びの中で古い年を送り、新しい年を迎えます。教会の暦では12月25日を降誕日としていますから、ルカ福音書第2章21節により、1月1日は命名の日となります。新年の最初の日に、救い主である幼子は「イエス」と名付けられました。「イエス」とは「主は救い」という意味です。その通り、主イエスは私たちの救いとなられたことを覚えましょう。
西川口教会の今年の聖句として、ヨハネ福音書第13章34節後半の御言葉を与えられました。特に、「わたし(主イエス)があなたがたを(弟子たちを、私たちを)愛したように」とは、どういうことなのか、どれほどその愛を分かっているのか(もちろん、キリストの愛は、十字架と復活の出来事に示されていますが、それを大前提として)、福音書のイエスと弟子たちとの関わりを丁寧に見つめたいと願っています。イエスがどのように弟子たちを愛されたか。それと同じように私たちも愛されていることを知りたいのです。
そこで第13章の「弟子の足を洗う」出来事を見ましょう。「イエスは…世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」(1節)。洗足はそのイエスの愛の行いでした。洗足は本来奴隷がする仕事でした。それなのに師であり主であるイエスがひざまづき、弟子たちの足を洗ってくださいました。弟子たちの足はきれいになり、イエスが用意された水と手ぬぐいは、どんどん汚れていきます。そのことは、私たちの罪、過ち、汚れを主イエスがすべて引き受けてくださったことを現しています。ペトロが「足を洗わないでください」と言ったとき、イエスは言われました。「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」(8節)。イエスと私の関係はイエスから始まり、イエスに足を差し出さなければ始まらないのです。イエスに罪を赦していただかなければならない私たちなのです。(No.1018)