週報短文
バックナンバー 2016年
2016年 12月 25日
幸せなら手をたたこう
クリスマスおめでとうございます。
「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、『驚くべき指導者、力ある神 永遠の父、平和の君』と唱えられる」(イザヤ9・5)。お生まれになった救い主は平和の王。クリスマスのこの時、キリストの平和が来ますようにと、切なる祈りをささげます。
2016年12月18/25日付のクリスチャン新聞に、今年の夏、NHKのBS1スペシャルで放映された番組「幸せなら手をたたこう~名曲誕生の知られざる物語」についての記事があり、感銘を受けました。ネットでいくつかの関連記事も読みました。ご紹介したいと思います。
『幸せなら手をたたこう』は1964年に坂本九が歌って大ヒットしました。この歌を作詞したのは、木村利人さん(82歳)。1959年、大学院生だった木村さん(当時25歳)は、フィリピンの農村で行われたYMCA主催の農村復興ボランティアに参加しました。当時の日本は高度経済成長の時代。しかしフィリピンは政治も経済も情勢が不安定で、戦争の傷跡から立ち直っていませんでした。その傷は日本軍の残虐行為によって負わされたものでした。そのため共に作業するフィリピン人青年たちにも激しい反日感情がありましたが、共に汗を流すうちに、少しずつ互いを理解し合えるようになりました。そしてフィリピンの友人たちは木村さんに「再び武器をもって戦うことはやめよう。私たちはキリストにあって友だちだ」と言ってくれました。この言葉に感激した木村さんは、耳にしたスペイン民謡と聖書の御言葉「すべての民よ、手を打ち鳴らせ」(詩編47・1)が思い出されて、これらをヒントに「幸せなら手をたたこう」を作りました。2013年、54年ぶりにフィリピンを再訪した木村さんは、「この歌は戦争の苦しみから生まれた。私たちは武器で戦うのではなく、平和をつくるため、未来に向けて一緒に働こうではありませんか」と語りました。(No.649)
2016年 12月 18日
「オー・ハッピー・デイ」について
主を待ち望むアドベント(待降節・12月24日まで)、第4主日を迎えました。本日の夕拝はゴスペル夕拝です。2005年12月から「ゴスペル夕拝」として年1回ゴスペルクワイヤJOIN(ジョイン)に歌っていただいています。JOINは当教会の礼拝堂を練習会場に活動している自主サークルです。わたしもメンバーの1人です。ゴスペル夕拝は、JOINにとっては発表の場となり、教会にとっては普段お会いできない新しい人が来てくれる貴重な機会です。
今回は、ゴスペルではとても有名な曲「オー・ハッピー・デイ(Oh Happy Day)」を歌います。この歌は、「天使にラブソングを2」という映画で歌われ、世界中に知られるようになりました。
歌詞とその意味を紹介しましょう。
Oh, happy day
When Jesus washed
He washed my sins away
Oh, happy day
ああ幸せな日
イエスが、わたしの罪を洗い流された。
ああ、なんて幸せな日
He taught me how to wash
fight and pray, fight and pray!!
And live rejoicing day free day, every day!
イエスは教えてくださった
どのようにして心を清め、戦い、祈るのかを。
それから、どのようにして喜びに満ちた日を、自由な日を、毎日生きるのかを。
この曲を楽しく歌っているわたし自身「主イエスがわたしの罪を洗い流された日は、本当に幸せな日だ!」と思って生きているか、と問われると、そうではなく、物事がうまくいったときや、人からほめられたときに「幸せ」と思ってしまう自分がいます。罪の自覚に鈍いものです。だから逆に、心からこの歌をうたえるように、主イエスによる罪の贖いを感謝して、賛美できますように。(No.648)
2016年 12月 11日
命の価値はどこに?
皆様のお祈りとご協力によって、先週は埼玉県南クリスマスの夕べ(クリスマスコンサート)に大勢の方々が集まり、クリスマスのお祝いをすることができました。近隣教会で協力して行うこの集会が、アドベントからクリスマスへの喜びの先駆けのように感じています。
今回のクリスマスの夕べの特別ゲストはゴスペルシンガーソングライターのMigiwaさんでした。中学時代から引きこもりとなり、死にたいと思い、そんな日々の中、教会の礼拝には行くことができた、そして、イザヤ書第43章4節「わたしの目にあなたは価高く、貴く わたしはあなたを愛し(ている)」の御言葉に、神がそのように自分を見てくれること、自分の存在そのものに価値があることがわかった、と証してくださいました。今、本当に輝いて、ありのままで、神を賛美しておられました。その姿に、神がこうしてこの人を癒し、力づけ、立たせてくださるのだと、感謝しました。
2016年も終わりに近づいています。この年は、まことに衝撃的な事件がありました。相模原市の障害者施設で元職員が19人を殺しました。本当にむごく、ひどい事件で、そんなことができるとは信じられない、という気持ちです。ところが犯人自身は自分が身勝手で偏見を持っているとは思っておらず、正当なことをしたと思っているのです。生きていてもしょうがない人たちだと、決めつけているのです。そのことに寒々しい思いがします。それは犯人だけの問題ではなくて、そのような人を生み出してしまう現代日本社会が病んでいるのではないかと思います。自分のまた隣人の命の価値、意味、存在理由を見失っているのではないでしょうか。主イエスは言われました。「あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか」(マタイ6・26)。神は御子を世に遣わされました。神の御子の命を引き換えにするほどに、わたしたちは愛されています。クリスマスへ向かうこの時、この福音に共に生かされますように。福音を伝えることができますように。(No.647)
2016年 12月 4日
福音に共にあずかるために
2016年11月26日(土)午前10時30分から、日本基督教団関東教区秋季按手礼・准允式が、大宮教会で執り行われました。按手を受けた先生方は關橋賢先生(群馬・原市教会)、森田泰司先生(栃木・宇都宮東伝道所)、佐々木千沙子先生(埼玉・東京聖書学校吉川教会)、疋田義也先生(埼玉・愛泉教会)でした。准允を受けた先生方は金子智先生(新潟・中条教会)、中西恭子先生(新潟信濃町教会)でした。司式は、関東教区総会議長の秋山徹先生でした。
按手とは手を置くことです。按手礼式では、すでに按手礼式を経て教団の正教師となった先生方が、按手を受けようとする教師に手を置いて祈ります。わたしは2002年11月30日に按手を受けましたが、あの時の先生方の手の重みは忘れることができません。按手を受けて正教師となったら、洗礼と聖餐を執行することが許されるのです。教会にとっても教師にとってもとても大切な教会の業です。
按手に先立ち、説教がありました。教師たるものの信仰が問われました。その一部を分かち合います。ガラテヤの信徒への手紙第1章10節「今わたしは人に取り入ろうとしているのでしょうか。それとも、神に取り入ろうとしているのでしょうか。あるいは、何とかして人の気に入ろうとあくせくしているのでしょうか。もし、今なお人の気に入ろうとしているなら、わたしはキリストの僕ではありません」。伝道者はキリストの僕とされている者であり、そこに徹することです。それと同時に伝道者はすべての人の僕とされています。コリントの信徒への手紙一第9章19節・23節「わたしは、だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました・・・福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです」。はっきりとした目当てがあります。福音に共にあずかる。ここに教師も信徒も共に立ちます。(No.646)
2016年 11月 27日
熊本・大分地震被災教会会堂等再建支援募金のお願い
2016年10月10日付、再建支援委員会からの募金趣意書より抜粋してお伝えします。
“8月30日の臨時常議員会において「『熊本・大分地震』被災教会支援に関する件」が決議され、「熊本・大分地震被災協会会堂等再建支援委員会」が設置されました。これにより5名の委員が立てられ、九州教区と共に祈りつつ全国募金(目標額1億8千万円)を募り、被災14教会並びに教団と宣教協約関係にある教会の建物復旧、再建を目指すこととなりました。・・・
4月14日以来、震度7の前震と本震がありました。4月に限っても震度5以上の地震が18回、8月までに計1942回の揺れが続いています。未曽有の地震が続く只中、各被災教会、地区、教区の方々が被災地の緊急事態に奔走され、状況把握に務められました。このような想定外の地震が継続している中、6月1日開催の第4回常任常議員会において、「熊本・大分地震支援に関する件」を審議しました。当日、渡邊宣博九州教区主事、齋藤真行大分地区長から被災地の声を聞き、今度の支援体制や支援募金の取扱いを協議しました。しかし、日に日に被災状況が変化していることから、募金目標額を定めることが出来ませんでした。
その後、石橋議長の決断で、8月30日に臨時常議員会を開催し、全教団的取り組みの体制を整えることが出来ました。・・・本格的な募金活動が開始されることを多くの方々にお伝え下さいますようにお願い申し上げます。
被災教会会堂等の再建は、熊本・大分地区の伝道基盤の再建でもあります。同時に、九州教区そして日本基督教団の伝道基盤の再建でもあります。キリストの体なる教会が健やかに神の国を語り、手を携えつつ前進するために募金が用いられます。ぜひ、自らの教会の再建のためと受け止めていただけますようにお願いいたします。
力強い献金をもって、神さまの御委託に応え、献堂と再建を共に喜びたいと願います。”(No.645)
2016年 11月 20日
アドベントからクリスマスへ
2017年のアドベント(待降節)は来週の11月27日から12月24日までです。アドベントはクリスマスの祝いの備えと共に、再臨の主への待望を深める時でもあります。
主日礼拝では、使徒信条を教会の信仰告白として告白しています。使徒信条に「かしこより来りて、生ける者と死ねる者とを審きたまはん」とあります。ヘブライ人への手紙第9章に、このように語られています。「また、人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっているように、キリストも、多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられた後、二度目には、罪を負うためではなく、御自分を待望している人たちに、救いをもたらすために現れてくださるのです」(27~28節)。
一度目のキリストの現れとは、人としてお生まれになられたクリスマスの出来事であり、ナザレのイエスとしてこの地上を生きて、十字架へひたすら歩まれ、救いを成し遂げてくださった出来事です。そして今、神の右の座におられるキリストは、再び世に来られ、正しい裁きをなさいます。この世界に終わりが来ます。新しい天と地、神の国が来るのです。教会はその出来事をキリストの「再臨」と呼んで、待ち望んでいます。アドベントの日々を主を仰いで歩みましょう。
来週からのアドベント主日(11月27日、12月4日、12月11日、12月18日)には、各グループからの特別賛美をお願いしています。
12月6日(火)の夜7時から、埼玉県南クリスマスの夕べ(クリスマスコンサート)を川口リリア音楽ホールで行います。12月18日の夕拝はゴスペル夕拝として、ゴスペルクワイヤJOINに賛美をお願いしています。12月24日の夜6時からイブ礼拝をささげます。12月25日はクリスマス礼拝をささげ、祝会をいたします。救い主のお生まれを、家族、友人、知人をお誘いして、心から喜び祝いましょう。(No.644)
2016年 11月 13日
川口がん哲学カフェ「いずみ」始めます
2017年1月28日の樋野興夫先生の集会について、皆様にもう少し詳しい進捗状況を報告いたします。ご理解とご協力をお願いいたします。以下のことは、教会役員会で報告し、了承をいただきました。
この集会は、「川口がん哲学カフェ『いずみ』開所記念講演会」です。樋野先生に講演とがん哲学外来(個人面談)をお願いします。樋野先生とメール連絡で打ち合わせて、講演題を「がん哲学外来へようこそ―明日この世を去るとしても、今日の花に水をあげなさい―」といたしました。
講演会と講演会後のがん哲学カフェの主催は「川口がん哲学カフェ世話人会」です。カフェの名称を「いずみ」としました。川口がん哲学カフェ世話人会は、金田が中心になって、有志を(ボランティアスタッフ)を募ります。世話人は西川口教会員に限定いたしません。
先日「一般社団法人 がん哲学外来」に、「川口がん哲学カフェいずみ」の認定団体の申込をし、直ちに受理されました。がん哲学外来のホームページの「各地のがん哲学外来」に掲載されました。続いて、開所記念講演会の告知用チラシを作成し、提出しました。これもがん哲学外来のホームページのイベント情報に掲載されました。このホームページを見て、問い合わせの電話がありまして、手ごたえを感じています。
日本基督教団西川口教会は、「川口がん哲学カフェ世話人会」に教会堂を会場として提供します。また来年1月の講演会の経費の一部を支援します。本当に感謝しています。
これからの予定は、世話人の募集をすること、2017年のカフェの開催予定日をお知らせすること(3月25日(土)、5月27日(土)、7月22日(土)、9月30日(土)、10月28日(土)、11月25日(土)、午後1時半から3時半まで)、講演会とカフェの参加を呼び掛けること、「いずみ」のホームページを作ることです。(No.643)
2016年 11月 6日
教会全体懇談会の発題
先週の教会全体懇談会で、冒頭に牧師からの発題をしました。やむを得ず出席できなかった方もおりますので、ここに書いておきます。
三つのことを申しました。
第一に、教会の目標をこれからも大事にしていくということです。前任の島隆三先生が主任牧師のときから掲げ続けてきた教会の目標です。
1.主日礼拝を重んじる教会へ
2.聖書に親しみ常に祈る教会へ(祈祷会を大切に)
3.各自の賜物がよく活かされる教会へ
4.次世代への信仰の継承
5.受けるより与える教会へ
6.地域に奉仕する教会へ
この目標の文章の「教会」というところに、「わたし」という言葉を入れることです(1なら、「主日礼拝を重んじるわたしへ」)。わたしたち一人ひとりの目標になるように、願っています。
第二に、これからの伝道として、時代に対するチャレンジとして考えている一つの形が、「がん哲学カフェ」です。「がん哲学」の提唱者の樋野興夫先生は、9月の関東教区教会婦人会連合研修会の講師でした。がん医療と患者さんとの隙間を埋めるカフェという取り組みが全国に広がっています。教会はその場の提供ができる可能性があります。
わたしが主任牧師になってから、数人の方々が、がんを病んだことがきっかけて、礼拝に来られ、救われ、洗礼を受けました。病と闘い、死を超えた命の希望を受け取って神の御許に召されていきました。こうして出会った方々は礼拝に来られましたが、がんを病んで、様々な悩みを抱えている人は、もっとたくさんいると思います。そういう人たちが来ることができる場としてがん哲学カフェを提供したいのです。
第三に、現在の会堂の耐震についての課題が残っていることです。10月の役員会では耐震補強について協議したところです。その課題への対応が求められていると考えます。(No.642)
2016年 10月 30日
主が建てる主の教会
主日礼拝では、来年も引き続きマタイ福音書から説教していきたいと思っています。2017年の教会の御言葉は、マタイによる福音書第16章18節を選びたいと、祈りの内に導かれています。
「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府(よみ)の力もこれに対抗できない。」
これは主イエスが、ペトロの信仰告白「あなたはメシア、生ける神の子です」(マタイ16・16)に対して語られた言葉です。主イエスは、この信仰告白の上に、ご自身の教会を建てると言われました。
大切なのは、主イエスご自身が教会をお建てになるということです。この場合の教会とは建物ではなく、信仰の共同体です。キリストにある交わりの共同体です。ですから、教会とはわたしたち自身であり、わたしたちの交わりです。わたしたちの交わりは、主イエスご自身が建ててくださる教会となっているのでしょうか。マタイ福音書では、この直後、ペトロは主イエスにひどく叱られました。「神のことを思わず、人間のことを思っている」(マタイ16・23)。神のなさることを人の考えで測ろうとする弱さは、ペトロだけではなく、わたしたちも絶えずついて回ります。だからこそ、主の日ごとに、信仰の告白を新たにし、主の御手に委ねる祈りをささげていきます。
次に、教会は主イエスご自身の教会です。主のものとされていること自体、キリストの贖いなしにあり得ない恵みです。教会を大切にすることは、主を重んじること、この恵みに答えること、そして、自分を大切にすることにもつながります。
明日は宗教改革記念日です。1517年10月31日、マルティン・ルターは、教会あてに質問状を出しました。これがきっかけとなって、ルターは教会改革の担い手とされていきます。教会の歴史を見れば、人間の罪、過ちに満ちていますが、神は教会と共にいてくださいました。時に適って弱い人間を用いて、ご自分の教会を建て、担い続けていてくださいます。ハレルヤ。(No.641)
2016年 10月 23日
御心がわからない?
先日、雑誌「舟の右側」6月号掲載の関真士先生の記事を読み、大いに教えられました。いくつか、かいつまんでご紹介します。
「御心が行われますように」。これは祈りの言葉。つまり人間の努力や修養で獲得するものではなく、聖霊の助けによる。御心のすべてをいつもわかっているべきだという意味ではない。神の御計画の中で今はわからなくていいこともある。一方で、わたしたちの側の問題のゆえに、御心がわからないこともある。
「御心がわからない」という言葉の裏に、本当の言葉が隠れていることがある。言葉の二重性も罪人の特徴。本当の言葉とは何か。①御心がわかっているのに、その御心に従いたくない。つまり「御心に従いたくない」。②御心を求めながら、実は自分の期待している答えを求めている。つまり「その御心では嫌だ」。③御心に恐怖心を持っている。つまり「御心がわかりたくない」。④御心を自分の知性や理性の範囲で捉えようとする。つまり「それは御心のはずがない」。⑤御心を信じることができない。つまり「御心を信じられない」。⑥御心を求めているようで、実は求めていない。わからないままの自分のままでいたい。つまり「わかるつもりがない」。⑦御心がわかるようになることをあきらめている。つまり「わかるはずがない」。
以上のような場合、「御心がわからない」と表現しながら、わからない原因は本人の側にある。それは間違った価値観の中で人格が形成され、御心をわかろうとしない人格があるから。まさに罪人の姿。その罪があるからこそ神に近づき、神の御心を求めるのか、それとも神から離れていくのか。
わたしたちは罪を自覚するからこそ、御心がなお深くわかる。神の御心の究極は、主イエスの十字架である。わたしたちが「罪がある」と言えるのは、十字架の救いがあるから。わたしたちの成長とは、罪がなくなることではなく、罪を認めることのできる心を持つこと。神の御前に罪を認め、悔い改める者を神は喜んでくださる。(No.640)
2016年 10月16日
教団総会資料より
先日、この秋に開催される第40回日本基督教団総会の資料が届きました(資料は小礼拝堂に置いてあります)。教団総会は隔年で開催され、今月25日から27日に行われます。大切な教会会議のため祈ります。関東教区・埼玉地区・越谷教会の石橋秀雄先生が3期6年、日本基督教団議長の重責を負ってくださいました。石橋先生の議長報告の項目を上げてみます。
①「伝道する教団の建設」―十字架の贖いを土台として― ②信仰の一致に基づく伝道協力 ③一つの教会を目指して―世界教会、世界伝道について― ④「今や、恵みの時、今こそ救いの日」―高齢者伝道と青年伝道― ⑤東日本大震災被災者・被災教会支援、熊本・大分被災教会支援 ⑥教師養成制度検討委員会について ⑦改定宣教基礎理論草案・宗教改革500年記念事業準備委員会について ⑧「戦後70年にあたって平和を求める祈り」について ⑨沖縄教区について ⑩日本キリスト教会館耐震・改修工事完了、以上です。
教団としての課題と取り組みが見えてきます。教団の各教会は合同教会の一員として、互いに支え合っており、世界の教会ともつながっています。各教会の自治は尊重され、制度において守られていることも心に留めたいと思います。
また事務局の報告から、2015年度の統計資料の一部を紹介したいと思います。カッコは前年度比較です。
・教会・伝道所数は1,711(3つ減少)
・現住陪餐会員数は83,884人(1,117人減少)
・受洗者数は1,358人(81人増加)
・主日の朝の礼拝の出席者数は、52,913人(404人減少)。
・教会学校数は1,185(13校減少)
・教会学校生徒出席平均数は、13,292人(210人減少)。
非常に厳しい現実です。主よ憐れんでくださいと祈ります。(No.639)
2016年 10月 9日
アジア学院訪問
前回に引き続き研修の報告です。日光オリーブの里アシュラムの後にオプションプログラムがあり、28日にはアジア学院を訪問しました。
“アジア学院は、1973年の創立以来アジア、アフリカ、太平洋諸国の農村地域から、その土地に根を張り、その土地の人々と共に働く草の根の農村指導者を学生として招き、栃木県西那須野のキャンパスにて、国籍、宗教、民族、習慣、価値観等の違いを認めつつ、公正で平和な社会実現のために、実践的な学びを行っている学校です。”(アジア学院ホームページより)
学生たちは、4月から12月まで共同体で生活をします。アジア学院の研修には、西日本で有機農業を実践している活動の視察などがあります。そのときに近江八幡のアシュラムセンターを学生の宿泊先として提供しているそうです。
1時間半ほどの短い時間でしたが、校長の荒川朋子先生がキャンパスを案内してくださいました。
チャペル(古民家を移築した素敵な建物)、倉庫、野菜畑、堆肥、飼料作り(残飯やおからの再利用)、豚舎、鶏舎、ヤギ小屋(竹で作られた高床式。糞も利用)など見学しました。東日本大震災で建物の被害がありましたが、少しずつ再建できました。学生、職員、ボランティア約70人がいただく一日3食のほとんどを自給。アジア学院はいのちを支える「食べ物」作りにこだわり、有機農業による自給自足を基本としています。共に生きることを学び、人々に仕える指導者の養成を行います。食を支える農村はこの世界になくてならないものですから、農村をどう形成するか指導者の強い意志が求められます。さらに、「食が満たされることが平和につながる」と伺いました。飢えているということは、一部の人が資源を占めるという不公平があり、不満が生まれ、争いが生じる。だから、その土地にあるものを生かして、その土地に生きる人々と共に、持続可能な農村社会を形成することが平和につながる、と語られました。深く共感しました。(No.638)
2016年 10月 2日
「とこしえの愛をもって」
先週は休暇をいただき、研修としてアシュラムセンター(滋賀県近江八幡市)主催の第4回オリーブの里アシュラムに参加しました。講師はアシュラムセンター主幹牧師の榎本恵先生です。講師の招きの言葉を紹介します(プログラムより引用)。
“…今や、日本中で安心安全なところはないといっても過言ではありません。度重なる地震、台風などの自然災害。核ミサイルの実験などという物騒な出来事と世界中で渦巻く国と国、また民族と民族の憎しみと争い。持つ者と持たざる者との間の格差は凄まじく広がり考えられないような事件や犯罪が起こる。私たちの周りにはそんな問題が山積されているように感じるのは私たちだけではないでしょう。
しかし、その中にあって、私たちの主は言われるのです。「わたしは、とこしえの愛をもってあなたを愛し 変わることなく慈しみを注ぐ。」(エレミヤ31・3)と。私たちは、かつて国が滅亡し、捕囚という絶望の中で生きたイスラエルの民に向けて語られた預言者の言葉を今一度、聞かなければなりません。この不安と恐れに満ちた時代の中にあって、なお主にある希望を見出さなければならないのです。…”
アシュラムでは、エレミヤ書第30章と第31章を静聴しました。心を動かされたみ言葉がたくさんありました。その一つを分かち合います。第31章1・2節です。「そのときには、と主は言われる。わたしはイスラエルのすべての部族の神となり、彼らはわたしの民となる。主はこう言われる。民の中で、剣を免れた者は 荒れ野で恵みを受ける イスラエルが安住の地に向かうときに。」
神の恵みは「荒れ野で受ける」こと、荒れ野を行く民にこそ必要な恵みが与えられること、その恵みとは、神の民が「安住の地に向かう」歩みであること、そして「そのときには」と語られる主が、定められたときに実現すること。希望に満ちた御言葉を感謝して受け取りました。ハレルヤ。(No.637)
2016年 9月 25日
「がんばらないで」
先週9月21日、埼玉地区第一ブロック最寄り婦人研修会が、西川口教会が担当教会として開催されました。「がんばらないで」と題してクスマン典子先生の講演がありました。その中の「5本指の法則」を紹介します。
1 親指 「神様がわたしの親です」(詩編139・13、エレミヤ1・5)。うつで7年間引きこもっていた過去があっても恥じることがなくなります。すべては神さまの御計画の内にあります。自殺志願者の車がぶつかってきて11回も手術をしたので、つま先から足先まで人の痛みが分かるようになりました。殺人未遂された人の気持ちまで分かるようになりました。トラウマがあったわたしを神様はありのままで愛してくれています。
2 人差し指 「人を赦すこと」 人を指差すとき3本の指は自分を向いています。人を赦せないとき自分が3倍苦しかった。主の祈りに「赦しなさい」とあります。赦せない人がいる、そのときあなたはその人にエネルギーを注いでしまい苦しくなっている。自分のためにその人を赦す。自分を愛して初めて人を赦せるようになります。
3 中指 「仲間」 裁かないで愛する。祈ってくれる。自分のアイデンティティを持っていて、自分の思いに惑わされないで、神様の御心・愛の道・平安を歩む仲間がいてくれます。神様の赦しの愛を受け取って、自分がそのような仲間になれるよう祈りましょう。
4 薬指 「主は癒し主」 主は完全に癒してくださり(マタイ12・15)、超自然的なこともなさいます。「心の痛みも、体の痛みも、イエス様の御名によって癒してください。」
5 小指 「わたしたちは神の子です」(ヨハネ1・12) 引きこもりから連れ出してくれた友が笑顔で誕生日を祝ってくれました。「お誕生を祝って良いのだ」と思いました。あなたは世界にたった一人しかいない、神が愛してやまない、神自ら御手をもって造られた存在です。神に従うときに、平安と喜びの人生が待っていました。(No.636)
2016年 9月 18日
関東教区教会婦人会連合研修会に参加して
先週9月13日、関東教区教会婦人会連合第33回研修会が、埼玉新生教会にて開催されました(参加者214人)。強い雨が降る中で、各教区から多くの女性信徒の方々が集まりました。若干の男性、教職がいたようです(わたしも含めて)。
開会礼拝では、久喜復活伝道所の山野裕子牧師より「復活の主を知らせる婦人に」と題して説教をいただきました。お連れ合いの山野忠男牧師は胃がんの宣告を受け、召されるまでの2年数ヶ月間、復活の福音を説教されたとのことでした。埼玉地区の交わりに共に生きた山野忠男先生を懐かしく思い起こしました。
次いで「見上げれば、必ずどこかに青空が ~あなたはそこにいるだけで価値ある存在~」と題して、樋野興夫先生の講演がありました。研修会プログラムのプロフィールを紹介します。
〝『信徒の友』で「シリーズがんと生きる」を連載。医療の隙間を埋める試みとして2008年に始められた「がん哲学外来」の提唱者。がん患者の心のケアを目指し、病気になっても役割はあると患者やその家族に伝える〝言葉の処方箋〟はまさに聖書からのメッセージである。〟
今年6月12日の週報短文で、樋野先生の出版記念講演会の報告を書きましたが、その時には、この「がん哲学外来」は全国に90か所以上とのことでした。今回の講演で100か所に迫っていて驚き、時代の要請なのだなと感じました。
今回の研修会で良かったのは、午後に質疑応答の時間が1時間半もあったことです。講演で聞き漏らしたことを再確認したり、樋野先生の信仰のルーツを伺ったり、教会でがん哲学メディカルカフェを始めたいがどうしたらいいかとの質問が出たりと、多くの疑問をお尋ねし、お答えいただき、有益でした。がん哲学は人間学だから、がん哲学外来にはだれが来ても良いことと、ユーモアの大切さ(樋野先生は大いに会衆を笑わせてくださいました)が心に残りました。(No.635)
2016年 9月 11日
「わたしにできること」
今、火曜会では、「世界で一番大切なあなたへ マザー・テレサからの贈り物」(片柳弘史著)を少しずつ読んでいます。 マザー・テレサの言葉がまず紹介されて、その後、片柳神父がその言葉に込められたマザー・テレサの心を伝えてくださっています。先日は「わたしにできること」というタイトルの文章でした。マザーの言葉、「わたしにできないことが、あなたにはできます。あなたにできないことが、わたしにはできます。力を合わせれば、きっと素晴らしいことができるでしょう。」 本当に素晴らしい言葉だと思いました。
次いで、片柳神父のお言葉から。
「…人と自分を比べるとき、わたしたちはどうしても、自分にできないことを気にしてしまいます。そして、悲観的になって「自分には何もできない」と思い込んでしまうのです。でも、そんなことはありません。わたしたちにも、必ずできることがあります。ただ、できることが他の人とは違うだけなのです。一人ひとりが、自分にできることを精いっぱいすることで、わたしたちはすばらしい世界を作り上げてゆくことができる。マザーは、そう考えていました。
この世界を、一つの舞台と思ったらいいかもしれません。…舞台で大切なのは、…一人ひとりが自分に与えられた役割を精いっぱいに果たし、みんなで力を合わせてすばらしい舞台を作り上げてゆくということなのです。世界という舞台では、母の物語、父の物語、働く人の物語、貧しい人に奉仕する人の物語、たくさんの物語が重なりあって、壮大な命の物語が展開していきます。一つとして、なくてもいい物語はありません。どの物語も限りなく大切です。…」
今日は敬老祝福礼拝です。ご高齢の兄姉の皆様が、できるかぎり元気で過ごせますようにと願います。加齢に伴い、今までできたことができなくなる現実もあります。しかしどんなときでも祈ることはできます。地上の生涯の終わりまで「わたしの物語」を精いっぱい生きられますように。(No.634)
2016年 9月 4日
「寄りそう人生」
「第63回こころの友伝道全国大会 IN 神戸」が、8月29日から31日まで、神戸市須磨区のシーパル須磨にて開催されました。北は仙台から、南は沖縄まで各地の教会から参加者が集いました。今回の主題は「寄りそう人生」、今回の特別講師は、全国各地で信徒伝道者として豊かに用いられている藤井圭子先生でした。
藤井先生の特別講演を伺って、とても印象に残ったのは、「主は生きておられる。主が訪れてくださった」と、神をほめたたえて証をする姿です。特別講演一「ただ一つの救い 尼僧からクリスチャンへ」の恵みを分かち合います。
藤井先生は、中学生の時結核で自宅療養をしたことから、空しいものではなく確かな真理を求めていました。そして広島大学区医学部で学びながら通信制の仏教大学の学びましたが、真理はわかりませんでした。それは修行が足りないためと考え、藤井先生は道場に通い、やがて尼僧になりました。さらに20代の終わりには尼僧学校の舎監にまでなりましたが、心にある不安・憂いは去りませんでした。藤井先生は失意のうちに還俗し、実家に戻られました。その後、病院勤務の小児科医として働き、結婚、二人の子供が与えられました。やがて自宅の隣に教会堂が建ったことが救いの導きとなりました。
すぐに求道したわけではありませんでした。宣教師のバイブルクラスに通い、お祈りを教えてもらったそうです。そのころ藤井先生は、夫婦関係に悩みがあり、葛藤がありました。お隣の教会で献堂3周年の伝道集会に導かれて、そのときイエス・キリストを救い主を信じることができました。伝道集会の翌朝、心に、やわらかく、あたたかな静かな平安が与えられていることに気付きました。夫に対する姿勢も変えられていました。藤井先生は、それは、自分が努力して得たものではなく、一方的に神が与えてくださったものであり、暗闇から光に、滅びから救いに移してくださったと力強く証されていました。(No.633)
2016年 8月 28日
「指南車たる教会」
“「指南車」というのは南北を指し示すもので、中国ではじめて人間の文化につかえたものだ。人間の世界には、風見も大事ですが、指南車も大事だ。風見のみに頼っている人間は右往左往、今日と明日じゃ、することがちがってくる。それが時代の風潮というものだ。この風向きにかかわらず、南北を指す磁石の力で方向を定めないと船の進行を誤る。風見と同時に「指南車」を持たない国は滅びます。民衆は、政治家は、社会運動家は、風見によって行く道を定める。だが同時に「指南車」が働いていて、これが永遠に進む道を指している。そういう指南車の役目をする人がなくてはならない。「セイルからわたしに呼ばわる者がある、『夜回りよ、今は夜のなんどきですか、夜回りよ、今は夜のなんどきですか』」〔イザヤ21・11 口語訳〕。
風見に教えられて、さて風に吹き動いてきたが、われわれの進む道は、ほんとうに進むべき道は、オーイ、どっちだ? 真南はどっちだ? 教会がこの指南軍の役目をするんです。それが聖書によって、信仰によって歴史を読むということ。風見の働きを軽蔑してはいけない。・・・だが同時に・・・永遠不変の南北を指す磁石―指南車―によって、行く手の道をはっきりと見定めなければいけない。国家に、民族に、それがなくては滅びます。それをするのがキリスト教の、いな「指南車」としての教会のつとめです。きかれなくてもいい、信者が増えなくてもいい、一生うずもれてもいいから、牧師、伝道者となり役員となる。この指南者の役目、風見の動きを眺めながら、不動の方向を指す。何年たっても結果がみえない。何の故あって自分は教会に奉仕するんだろう、そう思いながらも指南者の指さす方向に進む。これです、これが分からない人はキリスト教はわかりませんよ。”
「愛と自由のことば 一日一生」(日本キリスト教団出版局)より、8月27日の文章から、旧約学者の渡辺善太師の言葉を紹介しました。(No.632)
2016年 8月 21日
HS姉召される
HS姉が8月14日に82年の地上の生涯を終え、神のみもとに召されました。昨年1月に病に倒れて闘病の日々が続いておりました。実は最初の入院の時、万一もあるというので、2月に葬儀の相談をしたことがありました。しかし主が1年余りの時を与えてくださいました。8月17日の告別式には大勢の参列者があり、HS姉が注いだ愛の業の映しだと感じました。
1979年6月3日発行の西川口だより132号に載った、HS姉の救いの証し「選ばれた私」の一部を紹介します。
“私が、神様と出会ったのは、今から20年ほど前のことです。今まで、神様のことをまったく知らなかった私が、なぜ神様に救われたかと申しますと、主人と結婚したことがきっかけだったのです。・・・結婚式の前日、私は、父・母・そしてきょうだいの前で「お姉ちゃんは、絶対にクリスチャンにはならないからね」と大宣言をしました。「Hさんはいい人だけれど、神様なんているわけないし、それは年寄りの言うことだわ」と言いながら、私は嫁いできたのです。
いよいよ、母・妹・主人と私の新生活が始まりました。しかしそれは、私の育った生活とはまったく違い、物の考え方・受け止め方、とにかく日常生活に無駄がないというのか、規則正しいというのか、とにかく違うのです。そんな中から、まず詩篇・箴言を読み始めました。その中の御言葉一つ一つが私の心の目を開かせてくださったのです。今まで自分の心の中のことに気付くことが少なかったこと、愛のないこと、知恵のないこと、愚かなこと。神はあえて愚かな者を選んだと聖書にありますが、まったくその通りです。
聖書も読まず、祈りもしなかった時は「Sさん、祈っているわよ」と言われても、「本当かしら」と疑っていた私ですが・・・今では、本当に神の前に疑うことなく祈りも献げられるようになりました。私のために祈ってくださっていることを感謝いたしております。"(No.632)
2016年 8月 14日
賞を得るようにして
2016年夏、リオデジャネイロ五輪が開催されました。8月11日から地区キャンプに出掛けるので、早めにこの短文を書こうとしたところ、「男子の体操団体で金メダル獲得」のニュースが入りました。練習で心身を鍛えあげて準備し、本番で一人ひとり、そしてチームでも励まし合って、全身全霊を注ぐことができたからだと思います。
聖書の時代も競技がありました。コリントの町には競技場があり、競技祭が開催されていたそうです。その競技のイメージを使って、使徒パウロは福音宣教、教会生活について勧めています。少し長いですが聖書を引用します。
“福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです。あなたがたは知らないのですか。競技場で走る者は皆走るけれども、賞を受けるのは一人だけです。あなたがたも賞を得るように走りなさい。競技をする人は皆、すべてに節制します。彼らは朽ちる冠を得るためにそうするのですが、わたしたちは、朽ちない冠を得るために節制するのです。だから、わたしとしては、やみくもに走ったりしないし、空を打つような拳闘もしません。むしろ、自分の体を打ちたたいて服従させます。それは、他の人々に宣教しておきながら、自分の方が失格者になってしまわないためです。”(コリント一9・23~27)
使徒パウロが愛し訓練したテモテにはこのように語っています。
“競技に参加する者は、規則に従って競技をしないならば、栄冠を受けることができません。”(テモテ二2・5)
リオ五輪ではロシアの組織的なドーピングが問題になりました。正しく公平な秩序のもとに競技は行われます。わたしたちも神の国の秩序に従います。聖書に約束されているとおり、愛と平和に満ちた神の国が来る時、復活の朝に目覚めさせていただける時を待ち望みながら、今ここで、福音宣教の業に励みます。(No.631)
2016年 8月 7日
ニーバーの祈り
前回の週報短文に「出会いに学び、老いに成長する」(日野原重明著)から紹介しましたが、皆様にもう一つ紹介したいものがあります。それは、「ニーバーの祈り」と呼ばれているお祈りです。教会生活を長く過ごしている方は、ご存知かもしれません。次の通りです。
“神よ、
変えることのできるものについて、
それを変えるだけの勇気(カレイジ)をわれらに与えたまえ。
変えることのできないものについては、
それを受け入れるだけの冷静さ(セレニテイ)を与えたまえ。
そして、
変えることのできるものと、変えることのできないものとを、
識別する知恵(ウイズダム)を与えたまえ。”
ラインホルト・ニーバー(1892~1971)は、アメリカのプロテスタント神学者です。この祈りは、「アメリカ合衆国マサチューセッツ州の小さな教会で1934年の夏に説教した時のもの」と日野原先生の本に紹介されていました。
人はいろいろな願いを持ち、そのために計画を練り、実現するように努力をします。その通りに事が進めばよいのですが、願った通りにならないことも多いのです。また、神を信じていても、病気になることもあるし、災いに遭うこともあります。わたしも年齢を重ねてきたためか、その方が日常なのだと思わされているこの頃です。
そのような日々、神に従って生きるには、祈りと御言葉が必要です。わたしたちの確信は、「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています」(ローマ8・28)であり、神は最善をなされ、今この時は御心へと導かれている過程であること。聖書の中の祈り、教会の歴史の中で聖徒たちに受け継がれてきた祈りも恵みとして与えられています。(No.630)
2016年 7月 31日
出会いに学ぶ
本日で7月が終わります。7月は、わたしにとって原点の一つとなる出来事があった月です。12年前の2004年7月18日の午後、西川口教会の礼拝堂において、主任担任教師就任式が行われたことです。この日も暑い日でした。
時々お伝えしていますが、日本基督教団は、「招聘(しょうへい)制」をとっています。教団の正規の手続きを経て教師として任命された者を、教会が正規の手続きを経て担任教師として迎えます。牧師・伝道師は、教会からの招聘を神の御旨と信じ、神より派遣されたと信じて務めに立ちます。教会は、神から遣わされた教師として、牧師・伝道師を招き、受け入れるのです。担任教師就任式に際しては、教師も、教会も、これが神からの派遣であることを信仰によって認め、互いがその召しに忠実にあることを約束します。
物事は何でも基本が大事ですし、原点が大事です。毎年巡ってくる記念の時は、そのことを思い起こさせてくれる貴重な機会です。
先日ある方から、「出会いに学び、老いに成長する」(日野原重明著)をお借りして、久しぶりに日野原先生の本を読みました。その中の「患者との出会いに学ぶ」に特に感銘を受けました。
“私は、患者さんに何かを与えたというよりも、裸の、気取ったところのない病む人々から学んだことのほうがはるかに大きい。私と患者さんとの出会いは、私にとってはどれも大切な出会いであった。人はよき友との出会い、よき師との出会い、…愛するものとの出会い、それらの出会いによって二人の人間の絆が結成され、人の生き方は強められ、また生きる意義や喜びが体験される。”とあり、深く共感しました。わたしも牧師になって、出会った方々から学んだことがはるかに大きく、特に死に直面している人々と過ごした時間はまことにかけがえのない時でした。今もそうです。そのような出会いの中で、どのように生きるかを考えさせられ、「今この時、ここ」に集中して生きることの大切さを教えられています。(No.629)
2016年 7月 24日
地区教師研修会報告
7月16日、17日と第41回西川口教会アシュラムが終わりました。神との交わりに生きる生活への再出発です。御言葉に聴く喜び、祈られている大きな励ましが、信仰生活の力となります。アシュラムのためのお祈りを感謝します。
翌日の18日、19日と日本基督教団埼玉地区の教師一泊研修会に通いで参加しました。主題は「説教・新しい言葉で語る―み言葉のアーティスト、パーフォーマ―として説教する」、講師は日本基督教団代田教会牧師の平野克己先生でした。平野先生は、現在説教塾の全国委員長をしてくださっています。今回の平野先生の講演を楽しみに出席しました。講演の一端を紹介します。
“説教者自身が「説教者」をどのように理解しているか。現在のアメリカの説教学の教科書から。 ①説教者は「伝令」であり、福音を宣言する。 ②説教者は「牧会者」であり、会衆の問いに答えていく。③(神の)物語の語り手である。
日本の教会では長く、そして今でも、説教者は「教師」であり、聖書の解説者、信仰の教育者であった。その説教スタイルは、3ポインツ説教、節ごと説教、解釈と適用の二段階説教。大半はこの3パターンのどれかである。けれども本当にそれで説教の務めを果たしているのだろうか。
説教者が「アーティスト・パーフォーマ―」であるというのは、「聖書がわたしたちのイメージを転換し、わたしたちに対して何かを起こそうとしている」からである。
説教を成り立たせる5つの要素がある。神・教会・説教者・聖書テキスト・現代の人間。「説教者」とは、教会のなかで、教会のために、特にみ言葉を読み、み言葉を語る務めに召された者たち。説教者のもとに教会が造られるのではない。説教者よりも先に、説教者より後にも、聖霊は働いており、教会共同体が形作られる。説教者は、自由な言葉をもって大胆に語る。神はこのわたしをお召しになったのであり、今生きておられ、自由に働いておられるからである。・・・”(No.628)
2016年 7月 17日
答えられないという答え
朝の祈りの時に読んでいる本の文章に、目が留まりました。それは、モーセの祈り、パウロの祈り、主イエスの祈りが答えられなかったこと、神が答えられないことが答えである、というものでした。教会アシュラムにあたり、祈りを吟味させられています。祈っていながら、実はそこに自分の願い通りに事が運んでほしいという思いが強くあることに気づかされているところです。一方、「モーセ、パウロ、主イエスの祈りが答えられなかった。そう言われてみれば、確かに聖書に書いてある」と思い、その個所を開いて読みました。
申命記第4章で、モーセは「約束の地に入らせてください」と主に祈り求めましたが、主は「お前はこのヨルダン川を渡って行けない」と言われました。それは民数記第20章に記されているメリバの水の出来事に関係があります。モーセは、「この地上のだれにもまさって謙遜であった」(民数記12・3)ほどの人でしたが、「主の聖なることを示さなかった」ため、約束の地に入ることを許されませんでした。
使徒パウロは、コリントの信徒への手紙二第12章で、我が身を痛めつける「とげ」について語っています。〝・・・わたしは三度主に願いました。すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。(8節~9節)〟 主イエス・キリストの力がパウロを通して証されるために、彼の「とげ」は除かれませんでした。
主イエスの祈りは、ゲツセマネでの祈りです。〝「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」(マタイ26・39)〟 祈りを終えて、主イエスは、十字架という苦しみの杯を飲み干してくださいました。
「答えられないという答え」。それは主の聖なることが示されるため、キリストの力が発揮されるため、父の御心が実現するためでした。(No.627)
2016年 7月 10日
罪人の医者、主イエス
イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(マタイ9・12~13)
主イエスはこのように語られ、病人が医者を必要としているように、罪人は罪人の医者である主イエスを必要としていることを示されました。この世の医者は体の病気を治せないこともありますが、罪人の医者である主イエスは、罪からの救いを確かに打ち立ててくださいました。
今週開催される西川口教会のアシュラムは第41回です。けれどもなかなか祈りが身に付かない者であると感じています。立場とか制度が牧師を祈れるようにするわけではありません。信仰によることです。祈りは神を呼び、神に聴くこと。だからこそ、年に一度のアシュラムを続けて、互いに励まし合い、祈り合いたいと願っています。
以前、教会アシュラムで聞いたユーモアです。「毎朝、新約と旧約のお薬をいただく。毎週、礼拝と祈祷会に通院する。時々、アシュラム病院に入院する。こうして、信仰生活の健康が保たれます。」と。わたしたちを病人になぞらえて、朝毎のディボーション(祈りのとき、レビの時)に、新約聖書と旧約聖書を読みます。「約」と「薬」とが「かけ言葉」になっています。思わず笑い、忘れられなくなりました。
もし、魂の医者である主イエスは自分には必要ない、と思っておられるなら、重病かもしれません! 医者ではないわたしは自分が何の病気か診断することはできません。それと同じように、わたしの魂の状態を的確に診断し、ふさわしく整えて、導いてくださるのは、魂の医者である主イエスのみです。たとえ、今、わたしにはそれが分からなくても、主イエスはご存じです。主の導きは、神の言葉である聖書を通して、すべて益としてくださるご支配を通して、示されます。(No.626)
2016年 7月 3日
教会アシュラムへの招き
昨年7月、第40回西川口教会アシュラムに、アシュラムセンターより主幹牧師の榎本恵先生をお迎えしたことは、皆様の記憶に新しいと思います。昨年「アシュラムとは?」というアシュラムの紹介の文章をいただきましたので、一部引用して今月のアシュラムへの招きの言葉とします。
“私たちが、信仰生活を送り、そこで見出すものは何でしょうか。それは喜びと感謝、そして愛に満たされる日々でありましょう。しかし、私たちの現実は残念ながらそうではありません。現実は、むしろ、悲しみと失望、そして淡々と繰り返される昨日と同じ今日に過ぎないのではないでしょうか。もしあなたが日々の信仰生活の、再び新たにされる時を望むなら、来て、見てください。
①オリエンテーション・・・アシュラムにとっては、参加者の心を主に向けるための大切な時です。開会礼拝と共に守られることが多いです。
②静聴・・・アシュラムの醍醐味は、この静聴にあります。聖書の1章、ないしは2章を静かに通読します。神の語りかけを直接聖書から聴く、これがアシュラムの基本です。きっとこの体験は、あなたの信仰生活を新たにしてくれるでしょう。
③ファミリー・・・アシュラムでは、ファミリーという小グループを作ります。そこではお互いの抱えている問題を開示し合い、そのことについて祈りあいます。然し、そこでは決してメンバー間でのアドバイスや、相談はしません。あくまでも、解決は主がなさってくださると信じます。然し、その解決を聖書に聴き、そこから与えられた恵みを話し合い、また祈りあい励ましあいます。そしてそれは、アシュラム集会のあとも、祈りの友として続いていくのです。
④充満の時・・・聖霊の働きを期待しつつ、アシュラムの終わりの時であり、また同時に始まりの時でもあります。参加者は、明日からはじまる新しい祈りの生活をすることを神に誓い、ファミリーのメンバーと共に、励まし祈りあいます。”(No.625)
2016年 6月 26日
わたしたちは小さなキリスト
先週の特別礼拝では加藤常昭先生をお迎えして、たくさんの恵みをいただきました。午後の、加藤先生を囲んでの懇談会では信仰生活に関しての質問でしたが、そのお答えもたいへん丁寧で行き届いたものでした。わたしも最後に質問しました。「どうしたら人を裁かない人間に、そして人の苦しみが分かる人間になれるのでしょうか。」このように答えてくださいました。
“伝道者パウロが言っている。「わたしがキリストに倣う者であるように、あなたがたもこのわたしに倣う者となりなさい。」(コリント一11・1)。倣うとは真似をすること。「キリスト・イエスの心を心とせよ」(文語訳ピリピ書2・5) この言葉遣いに対して反発もある。「できない」と言う。私はそこで言う。「キリストに似る」ことはとても大事。私は「クリスチャン」と言わない。クリスチャンは英語、日本語は「キリスト者」。英語を使わなくていいところでは使わない。「キリスト者」としか言わない。「キリスト者」のもうひとつの良いのは、「キリストに似る者」という響きがある。ルターははっきり言っている、「わたしたちは小さなキリストだ」。我々は変に遠慮して、聖書に書いてあるのに「キリスト・イエスの心を心とすることなんてできない」と言ってさぼっている。イエスを真似る。イエスの心をたどってみる。いろいろなたどり方ができる。福音書を読んでみる。キリストの言葉を真似る。キリストのしぐさを真似る。「主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない」(ヨハネ13・14)。ルターは「わたしたちの主にして師(英語でマスター、ドイツ語でマイスター)であるイエス・キリスト」と言いました。日本でも、茶道や華道などでは、弟子はまず師匠の真似をする。そのように、まず主イエスの真似をする。それを真面目に考えてよい。そのとき滅多なことはできないし、一方で思いがけないこともさせていただけます。”(No.624)
2016年 6月 19日
盛岡セミナーに参加して
先週13日から16日まで4日間、盛岡の黙想の家(シャルトル聖パウロ修道会盛岡第二修道院)にて開催された、盛岡説教者トレーニングセミナーに参加してきました。講師は加藤常昭先生、参加者は12人(青森県から1人、秋田県から3人、宮城県から3人、福島県から1人、埼玉県から3人、東京都から1人)。
昨年と一昨年は名古屋でのセミナーに参加したので、3年ぶりの盛岡セミナーです。名古屋のセミナーのときも地元の先生方と関西方面の先生方にお会いでき、励ましをいただきました。今回も同じように、東北で一所懸命に伝道している先生方と出会い、共に学ぶことができて幸せでした。
地方教会の苦労の一端を聞かせていただきました。ある先生からは信徒が一人の教会の代務者をしておられること、その人がいる限り礼拝の奉仕に行かれるとのこと。教会間の移動も1時間から3,4時間かけて運転して出かけること。降雪の多い地域にある教会、少子高齢化社会、人口減少に歯止めのかからない地域に生きて、教会そのものが存続が危ぶまれる状況。西川口教会も決して他人事ではないのですが、しかし環境の違いには改めて驚き、先生方の労苦に頭が下がりました。かの地で奮闘している先生方のことを忘れないで、励まし合っていきたいと思います。
毎回感じますが、講師の加藤常昭のご指導は、命を削るような静かで確かな迫りがあります。懇ろに、率直に、急所をついたお言葉をいただきました。学びの後の説教演習をさせていただき、有益でした。与えられた恵みを無駄にしないように、これからも励みます。送り出し、とりなし祈ってくださり、感謝します。(No.623)
2016年 6月 12日
樋野興夫先生の講演会に参加して
先週の9日の夜に、お茶の水クリスチャンセンターで開催された『がん哲学外来で処方箋を カフェと出会った24人』出版記念講演会(日本キリスト教団出版局・OCCがん哲学外来メディカル・カフェ主催)に参加してきました。
先月刊行された『がん哲学外来で処方箋を カフェと出会った24人』は、月刊誌「信徒の友」の連載が本になったものです。この連載を毎号興味深く読んでおりました。この本には、がん哲学外来の提唱者である樋野興夫先生(順天堂大学医学部病理・腫瘍学教授)ご自身のことと、がん哲学外来を始めるに至った経緯と、今後のビジョンが書かれています。そして第2部は「がん哲学外来メディカルカフェと出会って」と題して、がんの告知を受け、がん哲学外来メディカル・カフェに参加した24人の方々の生の声の記録です。樋野先生からの言葉の処方箋をいただいて、思いを変えられ、前向きにがんと共存して歩んでいる姿が証言されています。
講演会では、24人のうちの3人の方ががん哲学外来メディカルカフェに参加して、「病気ではあっても病人ではない」「がんになったのにも何か意味がある」「人生いばらの道、にもかかわらず宴会」などの名言(言葉の処方箋)に励まされた体験を語ってくださいました。最後に樋野興夫先生の講演がありました。こちらも名言がちりばめられたお話でした。
樋野先生は、患者ががんを受け入れ自尊心をもって生きられることを目指す「がん哲学外来」に取り組んでおられます。2008年に始まり、今は全国に90か所ほどに広がっています。内容は樋野先生が行う個人面談と、ボランティアによって運営され分かち合いを中心とするメディカル・カフェとして行われています。西川口教会でもメディカル・カフェができますようにと願いが与えられ、祈っています。樋野先生のご協力をいただく約束ができました。なお祈っていきます。 (No.622)
2016年 6月 5日
暴力のない社会を目指して
先週の2日・3日と日本基督教団関東教区教会婦人会連合第42回総会・修養会が、埼玉県深谷市の埼玉グランドホテル深谷にて開催されました。1日目の講演「暴力のない社会を目指して」を聴きに出かけました。講師は大津惠子先生でした。大津先生は、アメリカ、シンガポール、タイで生活したことにより、日本で生活する外国籍の女性と子供の人権を守るため活動しておられます。ご自身が関わっておられる現場の紹介と課題を語ってくださいました。その現状の厳しさはとても重たいものでした。マタイによる福音書第25章40節「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」が引用されました。
講演のスライドから紹介します。ポイントだけですが、それでも現状を伝えていると思います。
「2016年現在の今の子供たちの状況。ユニセフの報告書より―日本の格差は41カ国の中で8番目に大きい。6人に一人が一日一食しか食べられない貧困の状態に置かれている。離婚に見られる一人親所帯。20代シングルマザーの8割が貧困状態。わたしたちにできること―貧困の連鎖を断ち切るために未来への投資をする。」
「若者たちの実情。両親の不仲や母親のDV(「DV」(ドメスティック・バイオレンス)とは、親密な関係にあるパートナーからの暴力のこと)を見て育つ。家におれなくなり街へ出ていく。深夜になっても帰れないので街をふらつき性被害に遭う。」
「最近の若者は、と言っている大人は、どれだけ若者に関わっているのか。若者の現状を表面的にとらえるのではなく、彼らの生活や抱える問題とその背景を理解しているのか。居場所がない若者」
「なぜ外国籍女性の支援なのか。大阪で一人の女性(タイ人)との出会いがきっかけ。人身売買被害者の女性『わたしは人間です!』と叫んだ」(No.621)
2016年 5月 29日
10年ぶりの再会
先週の木曜日、東所沢にある「聖ペトロ・パウロ労働宣教会共同体(モップの兄弟の家・MOPP)」を約10年ぶりにお訪ねしました。以前この宣教会は、埼玉県戸田市喜沢にあり、そのとき県南牧師会に修道士のお一人が出席してくださったことがありました。その後一度だけ、わたしの住まいが近かったこともあり、カトリックの修道の方と出会う機会がなかったので、思い切ってお訪ねしたことがあったのです。けれども移転したのでもう関わりはないはずでした。ところが、SY兄を通じて「麦の会」(被拘禁者更生支援ネットワーク)の尊い活動を知り、その事務局がMOPPに置かれていることを知りました。神は不思議なことをなさいます。そして司祭の方々と再会を果たすことができました。
この宣教会で発行している小さな黙想の本を牧師就任祝いに頂いたことがあり、改めて読み返しました。著者は創立者のジャック・レーヴです。この本の最後に「行動における知恵を求める祈り」がありました。素晴らしい祈りなので、紹介したいと思います。(原文は改行あり)
“主イエスよ、神の目の位置に立って判断する知恵を、遠方を見定める知恵をお与えください。本質的なことを守るために、どうでもいいことは捨てられるよう、あなたの霊を私たちに授けてください。課題や困難を前にして、思い煩うこともいらだつこともなく、信仰をもってみ旨を探ることを教えてください。私たちの課題を総合的にながめつつ、落ちついた行動がとれますように。
反対を心安らかに受けとめ、そこにみ旨を見いだし、み旨を果たすことができますようお助けください。無秩序に振り回され、罪にまどわされることを避けさせてください。あなたと一致しつつすべてを愛することができますように。
存在の源であらせられるイエス、御父、聖霊よ、私たちを三位一体の神に一致させてください。また、永遠と喜びとに導く全てのことにも一致させてください。アーメン。”(No.620)
2016年 5月 22日
第66回関東教区総会
5月16日から17日まで、大宮で、関東教区総会が開催されました。今回は日程の都合上、埼玉地区が設営担当となり。旧地区委員のわたしも手伝いに駆り出されました。
開会の教区総会礼拝では、飯能教会の土橋誠牧師が説教され、聖餐に与りました。礼拝の後に組織会となり、教区総会開会宣言がなされ、議事に入りました。その後来賓の紹介、昼食休憩の後半には関係学校と団体の紹介、午後からはまず准允式と按手礼式が執り行われました。澤田石秀晴先生(浦和別所教会担任)が准允を受けられ、遠藤尚幸先生(伊勢崎教会主任)、小岩輝先生(沼田教会主任)、齋藤眞理子先生(共愛学園小学校)、澁谷実季先生(毛呂教会担任)、田中弘子先生(燕教会主任)、玉木千鶴子先生(水戸教会担任)が按手を受けられました。大きな喜びでした。次いで新任教師紹介、隠退教師紹介(西川口教会初代牧師・横山義孝先生に皆様から労いの拍手)、教団問安使の紹介後、議事に入りました。今年秋に開催される教団総会議員選挙が行われました。全体で協議を尽くすには限界があるので、議案と報告が上程されたあとは、若干の質疑応答を経て分科会に回付されました。初日の議事の後、東北教区放射能問題支援対策室「いずみ」の報告がありました。4か所で分科会が開かれ、わたしは第4分科会に参加しました。さらにその後、総会特別委員会があり、奉仕する方々がおられます。
2日目は冒頭に、東日本大震災で被災した教会の再建報告、昨年秋の水害に見舞われた水海道教会からの報告などがありました。そして議事に入り、教団総会議員選挙の本選挙が行われました。午後には逝去者追悼礼拝が行われました。その後の議事では、議案の可決、報告の承認を順次進めていきました。議員提案の議案第18号(憲法改正に反対する件)は、教区総会からの声明であることを確認して、常置委員会に付託されました。熊江副議長の聖書朗読と祈りをもって、関東教区総会が無事終わりました。(No.619)
2016年 5月 15日
慰め主(ぬし)・聖霊
本日は、聖霊降臨日(ペンテコステ)です。教会の信仰は、三位一体(父なる神、子なるイエス・キリスト・聖霊)の神を信じる信仰です。
本日の礼拝の聖書はマタイによる福音書第5章4節「悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる」です。これも導きだと思いました。聖霊の神は、慰め主とも呼ばれる方だからです。
新約聖書では「慰め」についてどのように語られているのでしょうか。新約聖書はギリシア語で書かれています。動詞「パラカレイン」が「慰める」、名詞「パラクレーシス」(パラカレインの名詞形)が「慰め」と訳されています。パラというのは、傍ら、すぐそば、という意味の言葉です。カレインというのは「呼ぶ」、「招く」という意味の言葉です。ですから「パラカレイン」は、「傍らに招く」、「そばに呼ぶ」という意味になります。
傍らに読んで話をするとなると、考えられる話の内容から、特に「説き勧める」とか「勧告する」という意味になりました。ローマの信徒への手紙第12章1節の「勧める」という言葉は「パラカレイン」です。ヘブライ人への手紙第13章22節の「勧めの言葉」は「パラクレーシス」を訳したものです。人の傍らにわざわざ行って語ってあげる必要がある言葉、明らかにその一つは「慰め」です。コリントの信徒への手紙二第1章のように「パラクレーシス」は「慰め」という意味でも用いられるようになりました。
パラカレインという動詞から生まれた大切な名詞があります。「パラクレートス」という言葉です。「助けが必要な人に呼ばれて助ける人」です。ヨハネによる福音書第14章26節「しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が…」とあります。この弁護者は「パラクレートス」を訳したものです。この言葉は「助け主」とも「慰め主」とも訳せるので、そう訳している翻訳もあります。(参考 加藤常昭著「慰めのコイノーニア」)(No.618)
2016年 5月 8日
「伝道の足になろう」
先週の5月5日木曜日、東京聖書学校吉川教会にて、第44回関東こころの友伝道講習会(テーマ「こころの友伝道―愛と祈りを持って―」)が開催され、当教会から14人参加しました。全体では約85人でした。特別講師の竿代照夫牧師(イムマヌエル綜合伝道団・中目黒教会)の講演1から分かち合います。
“講演Ⅰの題は「伝道の足になろう」。イザヤ書第52章7節「いかに美しいことか 山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は。彼は平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え 救いを告げ あなたの神は王となられた、と シオンに向かって呼ばわる。」人は足に注目しない。しかしこの使者の足は「平和と救いの」メッセージのゆえに輝いていた。使徒パウロはこの聖句をローマの信徒への手紙で引用している(第10章15節)。パウロ自身、約6千キロを歩いて伝道した。主イエスが福音を宣べ伝えるために旅した足は、十字架で釘を打たれた。釘打たれて当然のわたしたちの足には釘が打たれていない。それは、わたしたちが主の足になって、福音を宣べ伝えるためなのだ。
ケニアで宣教師として働いたときの伝道活動の一つ「EE」(エバンジェリズム・エクスプロージョン)を紹介する。ベテラン伝道者1人、弟子2人の3人組で家々を訪問する。3人で行くことが大切。アウトラインに沿ってベテランが会話を進め、弟子は証しし、会話を助ける。その繰り返しの中で弟子も一人前になっていく。訪問したその日に信じる人もあった。このEEの伝道は、準備のできていない人に無理に信仰を強要することは決してしない。そして気まずい関係になって別れることを決してしない。「Sweet Exit」(甘い出口)と言っている。つまり、苦い関係をもって別れるのではなくて、次に続けていくようにする。「分からない」という人に「どうして分からないのか?」と言わず、「そうですか。どこが分からないのでしょうね・・・」と繰り返してたどっていく。そうして導いていくのである。・・・”(No.617)
2016年 5月 1日
神の起こしてくれたことならば
「どうして牧師になったのですか?」という質問に、「母の死から導かれて」と応えて、証しをさせていただいています。母は1996年5月3日に神のみもとに召されました。今年で20年となります。早いものだなと思います。
イザヤ書第51章1節にこうあります。「わたしに聞け、正しさを求める人 主を尋ね求める人よ。あなたたちが切り出されてきた元の岩 掘り出された岩穴に目を注げ。」
あなたがたはどこから救われたか、どこから導き出されたかを見なさい、と主なる神は言われます。旧約の民は、主のアブラハムへの祝福の約束や、出エジプトの出来事を絶えず思い起こしてきました。キリストの教会に生きるわたしたちは、主イエス・キリストの救いによって、アブラハムへの祝福を受け継いでいる神の民と自覚しています。それぞれの人生でキリストと出会い、神に向きを変えさせられた体験を持っています。
わたしの献身の原点である、渡辺善太先生のお言葉を改めて紹介いたします。いつも勇気と謙遜を与えられる導きの言葉です。
「君は聖書の中にこんなみ言葉があるが知っているか。『神はこれらの石ころからでも、アブラハムの子を起すことができる』(ルカ3・6口語訳)。その思いが、神が起してくれたものなら必ず実現するが、人間の思いであれば、どんなに条件が揃ってもだめになる。伝道者になりたいという思いが、神からか、自分からか、わかる道は一つだけある。状況がどうであろうがそのための準備をし、何年かかっても学び続けること。目的を達成したら、神の起してくれたことだから思い切り働きなさい。もし中途で挫折し、み旨ではないと知っても失望するな。神は、信じる者の努力を無駄にはなさらない。(中略)大切なのは神から出された宿題に、まともにぶつかってみるかどうかということだ」(酒井春雄著『恩寵あふるる―これらの石ころからでも―』より)。(No.616)
2016年 4月 24日
HK姉召される
HK姉が、4月15日に89年の地上の生涯を終え、神のみもとに召されました。14日に夜に起こった熊本地震で心が動揺していた15日の朝に妹さんからHK姉の逝去の知らせを受け、たいへん驚きました。生前、献体の登録をしておられましたので、お体は献体先に運ばれ、わたしは残念ながらお顔を見ることができませんでした。今という時の大切さを思いました。来月にお別れの会を予定しています。
1978年10月15日発行の西川口だより128号に載った、H姉の救いの証し「愛の神におすがりして」の一部を紹介します。
〝私が聖書を手にしたのは大分前のことです。集団検診で肺結核という、当時特効薬もなく死の宣告に等しいような診断を受け、悲しみのうちに療養生活を送っていたとき、療養所に来られた牧師先生からキリストの福音を聞くようになってからです。外出が許される時は富士見高原教会の日曜礼拝に行ったこともありました。…体の回復と共に仕事の忙しさから、いつの間にか聖書は本箱の奥にしまい込まれてしまいました。
ところがまた大きな試練を受けなければなりませんでした。甲状腺の癌の手術でした。…長い病苦との戦いで自分のことばかりしか考えられない…そんな時、クリスチャンの友人より松原湖のバイブルキャンプに誘われて再び神の言葉を聞くことができました。…多くの信者の方の証しを聞き、実に明るく神の恵みに満たされている姿を見て、神の愛の偉大さを痛いまでも身に受け、私はこの御方にこそすがって生きようと思いました。…今度こそクリスチャンとして生涯を送りたいと願い…ご紹介でこの教会に参りました。横山先生ご夫妻のご指導と兄姉の温かいお祈りによって今までの一切の罪を悔い改め十年前に受洗の恵みに与ることができました。…今日あることを心から感謝しております。…「あなたがたは、心を騒がせないがよい。神を信じ、またわたしを信じなさい。」(ヨハネ14・1 口語訳)″(No.615)
2016年 4月 17日
教会総会を前に
週報ボックスに来週の定期教会総会の議案書を入れました。2015年度の報告と2016年度の計画となります。何人かの方から「会堂建築について4月の総会で取り上げるのか」との質問がありましたが、今回の定期教会総会の議題は、既に公告したとおりです。会堂建築に関することでは、「会堂建築検討委員会の報告」、「会堂建築委員会の計画」です。いつもの定期総会です。
ちなみに会堂建築の今後については、2016年3月13日の週報短文に書きましたので、これを改めて心に留めてくださるようお願いします。準備が整ったなら臨時教会総会を招集することになります。もちろんその前に、皆で共に取り組んでいかなければ成し得ないし、決して容易なことではないので、目を覚まし、祈り、主に依り頼んでいかなければなりません。
今回、新しいこととして、定期教会総会議案書末尾に、規則・規程・規約を入れました。どうぞご覧ください。今まで「規則は、2010年度に発行した 『10年の記録誌』を見てください」と言っていましたが、今後は議案書を見てくださればよいわけです。さらに今まで必要に応じて規程や規約の変更をしましたが、議案書には最新のものを入れました。今後も同様にします。
教会は信仰の共同体であると同時に、この時代の中で存在している組織でもあります。教会の規則そのものに命があるわけではありません。教会の働きの原動力は、神の力、福音の力、キリストの恵み、聖霊のお働きであり、わたしたちはその神の力、恵みをしっかりと受け取って、神の道具となりきるばかりのものです。生ける神の働きのために、各々が勝手なことをするのではなく、主の御言葉に聴きつつ、秩序をもって活動しています。そのための組織であり、教会の会議です。「わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」(使徒4・12)。キリストの御名にしか救いはない! ここに立ち、教会総会に向けて祈り備えましょう。(No.614)
2016年 4月 10日
献身を新たに
先週は、ホーリネスの群(以下ホ群)の年会の「聖会Ⅱ・派遣式」に出席しました。西川口教会もわたしもホ群に加入していませんが、歴代の先生方はホ群に属しておられ、西川口教会から献身し東京聖書学校(ホ群が支えている)で学ばれた先生方や、神学生のとき奉仕された先生方がおられ、年会で先生方にお会いできる喜びがあります。
派遣式では、新任地に送り出される先生方の紹介、ご挨拶、執り成しの祈りがあります。今回そこに当教会2代目の牧師である三枝道也先生・育代先生が立たれました。先生方は三重県の尾鷲教会に行かれます。三枝道也先生は隠退から現役に復帰して当地に行かれ、ご挨拶では「『主の用なり』。80歳。主に従ってまいります」と、そして協力牧師として共に行かれる育代先生は「隠退して初めて、講壇で説教できる恵みを知りました。町はお年寄りが増えたけれども、人はいます」とユーモアを交えてご挨拶されました。ご高齢で、体の弱さがありながら主の招きに応え、遣わされる三枝両先生の献身に、胸が熱くなりました。
聖会の説教者は、当教会3代目牧師で前任者の島隆三先生(東調布教会)でした。「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき・・・」(ローマ12・2)より、「心を新たにして自分を変えていただく」とは、表面的ではなく本質的な変化であり、異なった人になることであり新しい人になること。それはどこまでもキリストによって新しくなること。キリストの福音にはその力がある。新しくなった人の生活が全く変わり、それを見て人々が驚いた。生活が証しになる。人々にはキリストは見えない。キリスト者の生活を通してキリストを知るのである、と力強く献身への招きがありました。
招きに応えた人たちのために、今年90歳になる横山義孝先生(当教会初代牧師)が、祝福の祈りをされました。歴代の先生方の、高齢になられてもなお主にひたすら従う献身の姿を通して、神の迫りを受け、献身を新たにされました。(No.613)
2016年 4月 3日
2016年度始まる
2016年度が始まりました。第1回教会総会は4月24日です。現住陪餐会員は出席の義務があります。役員会は教会活動の責任主体ですが、教会活動それ自体は、信徒一人ひとりが奉仕者となり、力と心を合わせ協力しなければ前進しません。キリストは教会の頭であり、キリストに従うことと、キリストの体である教会を大切にすることは一つです。総会が主の前にふさわしい会議となるように祈り備えましょう。教会総会議案書は4月17日に配布しますが、現在審議中の活動方針の一部をここに書いておきます。
“主題「一人ひとりが礼拝者」 神の国とは生ける神のご支配です。神の義とは信仰によって与えられる義であり、神との和解です。そのことをよく分からせていただくのは神の言葉が語られ、聴かれる主日礼拝です。礼拝で祝福を受け、存在を通して主を礼拝し、キリストの証人として生きていきます。
・主日礼拝 主日礼拝は教会生活の中心であり、土台であり、命です。教会は礼拝の共同体であり、一人ひとりは礼拝者です。主日礼拝において神とお出会いし、生きる喜び、勇気をいただきます。子供も大人も、キリスト者も未信者も、みんなで一緒の礼拝をささげます。ですからいつでも伝道の礼拝です。
・祈祷会 分かち合い、教会の祈りをささげます。霊的訓練と交わりの集いです。
・役員会 日常の教会運営の主体は役員会が責任を負います。役員会のもとに、会堂建築委員会(土地・駐車場・牧師館も含め)が活動します。会堂建築の教会総会決議に向かって、ふさわしい宣教の在り方も含めて、必要な協議を行います。
・会堂建築への取り組みから、宣教の器としての会堂の役目を共有できるようにしたい。もっと多くの参加者があり、意見を出してもらえるようにしたい。公正かつ説明責任が果たせる決議へ向かって、一人一人を大切にしながら、丁寧に取り組む教会へと成長したい。・・・”(No.612)
2016年 3月 27日
聖餐―復活の主の臨在
イースターおめでとうございます。主イエスは復活されました。甦られた主はわたしたちと共に、わたしたちの内にいてくださいます。復活は、主が罪と死に勝利されたこと。それはわたしたちの希望であり、世界の希望であります。その希望は、神の言葉の説教により、そして、聖餐によって鮮やかに示されるのです。
先週の受難週の祈祷会では、パン裂きの形式で聖餐を祝いました。改めて聖餐の意味と恵みを学び、体で味わいました。本日のイースター礼拝において、そして来週の一般礼拝は4月第一の主日なので聖餐を行います。皆様も聖餐の意味と恵みを改めて受け取り、感謝をもって、信仰によって聖餐にあずかっていただきたいと思います。
聖餐は、主イエス・キリストが造ってくださった「喜びの食卓」です。祝宴です。主は、神の国すなわち神のご支配によって生かされることを、祝宴に譬えて語ってくださいました。主がその神の恵みの支配を確立されるために十字架に赴かれたとき、弟子たちと最後の食卓につかれ、主御自身が再び来られるまで同じように食卓の交わりを造り続けることを命じられました。教会は、この主の言葉に従い、礼拝において聖餐を祝い、聖餐に共にあずかることによって造られる「聖徒の交わり」と呼ばれる共同体として生きてきたのです。
聖餐のたびごとに読まれる制定の御言葉の中で主ご自身の約束の言葉を聴きます。聖餐を祝うたびごとに、主の言葉が現実となります。「これは、あなたがたのためのわたしの体である。…この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい」(コリント一11・24~25)
主の復活はその証人である使徒たちの言葉によって告げ知らされる神の出来事です。それとともに、復活された主ご自身の訪問を受け、共に食卓につくことによって主の復活を知り得ます(ルカ24・30以下)。聖餐において知る主のご臨在は、復活の主のご臨在なのです。(No.611)
2016年 3月 20日
IS兄召される
IS兄が、3月10日に92年の地上の生涯を終え、神のみもとに召されました。お連れ合いのT姉が2月21日に召されたばかりでした。
葬儀の礼拝でも紹介しましたが、I兄の救いの証しの一部を分かち合いたいと思います。1978年10月15日発行の西川口だより128号に掲載された証しです。題は、「勝利者キリストの証人として」。55歳のときの文章です。
“…その後、再びカリエスで再入院している間、ある神父に三年にわたって聖書の講義を受けました。その間次第に、私が今こうして在るのは偶然ではない。私が生きようとして生きているのではない。神に生かされているのである。こうした実感を得たのです。
また、私自身、苦しい、孤独であると言っても、イエスという人物は、得も言われぬ苦しみを味わいすべての人に捨てられたうえ、この身勝手な、不道徳で、卑怯なこの私のために、十字架上に血を流した事実を学ばされました。その結果受洗して過去と訣別し、新しい衣を着て生きよう、こうした決意からバプテスマを受けたのです。
この教会〔西川口教会〕に加えられて、3年近く経過しましたが、つくづく最近は、神の恵みのいや深く、人智の到底及ばぬスケールの偉大さを思い知らされるのです。
神の御旨がどこにあるかを探りつつ、神の御旨を行わんとする者に、どうして不安に身をさいなむ必要があるのか。あさはかな私の計らいを捨て、素直に神に従って行こう、そのような心境になって参りました。
30年ほど前の「確実なのは死が来ることと、神はいないことだ」と独白したこの私が、今はこうして「死に打ち勝ったキリスト」を証しさせていただいている、まことに夢のようです。
私は、こうした生意気な話をしている時も、明日も、明後日も、いや天地の創造されて以来一瞬も、途切れる時もなく、神は人間を招いていると信じている昨今です。”(No.610)
2016年 3月 13日
会堂建築について
本日、会堂建築の「候補地選択に関するアンケート」結果のプリントを入れました。この結果を受けて、会堂建築検討委員会としては、仲町を選択して今後進めることとなりました。「現教会境内地を売却し、新規に土地を購入し、仲町物件を改修し移転する」ため、計画を具体的に立てていくこととなります。今後の流れを簡潔に書くと、
・土地売却先の選定、支払時期を決め、綿密で余裕のある資金計画を立てる。
・改修計画を立てる(設計士・施工会社の内定、移転時期を決める)。
・教会に通うのが困難になる人への対応
・以上の事柄に見通しがついたら、すなわち、資金計画と改修計画が整った議案の審議を、宗教法人「日本基督教団西川口教会」規則に則って行わなければなりません(第25条)。その際、議案可決の条件は、責任役員会において責任役員の定数の3分の2以上の賛成と、教会総会(法人の総会)において出席者(現住陪餐教会員の3分の1以上)の3分の2以上の賛成を得ることです。教会総会で可決したら、日本基督教団関東教区の承認、日本基督教団の同意が必要となります。
宗教法人「日本基督教団西川口教会」は、法的には、宗教法人法とこの法律に基づいて埼玉県から認証を受けた「宗教法人教会規則」によって運営されます。宗教法人格を取得した教会は、法律上権利義務の主体となれます。一方において法律行為については、法が規定する諸手続きを経ておくことが必要になります。これには事務的な煩雑さが伴います。しかしこの手続きを怠ると、その行為が法的に問われたり、無効になったり、第三者に対抗できなくなったりして、教会が損害を被ることがあります。ですから会堂建築への取り組みは、慎重に、そして、数字等については根拠を提示し説明できる計画が立てられなければなりません。皆様のお祈りとご協力をお願いします。(参考 日本基督教団事務局発行「宗教法人の諸手続き」より)(No.609)
2016年 3月 6日
東日本大震災から5年、教団、教区の取り組み
今週の金曜日が来ると2011年3月11日の東日本大震災から5年となります。
日本基督教団は東日本大震災後、救援対策本部を立ち上げ、2011年3月15日から「東日本大震災救援募金」を開始しました。2015年3月31日に国内募金目標額の10億円を達成できました。昨年の8月20日付で国内募金の献金報告書が届き、それを丁寧に見ますと、諸教会と、関係学校や団体や集会、また多くの人々が祈りを込めたこと、被災した教会が力いっぱい献げていることも分かります。
日本基督教団東日本大震災救援対策本部は2016年度まで支援活動を続けます。活動の一つは被災教会(牧師館・関係施設を含む)の再建支援です。日本基督教団関東教区においては11教会(1教会は再建中)が教団からの支援(借入金含む)を受けて会堂の再建を果たすことができました。しかし会堂は再建できましたが、借入金の返済が終わっていない教会があります。会堂を建て終えただけでは「復興した」と言えないのです。
そういうわけで、なお支援が必要なため、昨年10月から関東教区「東日本大震災支援献金」が始まりました。目的は、①教区内の被災教会・伝道所への支援、②教区内の被災教会・伝道所の内、独自再建を果たした教会へのお見舞い、③教区内の希望する教会・伝道所の会堂耐震診断補助です。西川口教会では箱献金を続けています。
福島第一原発事故が起こり、今なお事故収束の見通しが立たない状況です。事故の責任の所在もあいまいなままです。放射能汚染のため多くの人々が避難生活を続けています。教団では、子どもの健康を守るため、夏休み、冬休み、春休みに、保養プログラムがもたれています。原発事故は人災です。神がお造りになった「極めて良かった」(創世記1・31)世界を、人が貪欲のために破壊しています。レントのとき、悔い改めの祈りをもって、主の憐れみと癒しをひたすら祈ります。(No.608)
2016年 2月 28日
IT姉召される
IT姉が、2月21日に87年の地上の生涯を終え、神のみもとに召されました。
わたしが西川口教会の担任教師として招聘され、働き始めたのが2004年4月でした。その1か月前から現住所に父と暮らし、IS兄・T姉ご夫妻はお隣りとなりました。親しく行き来するようになりました。T姉の「佐久子先生、お茶を飲んでいかない?」とのお誘いに甘えて、裏表のない、飾らない人柄に安心して、長い人生のご苦労を聞かせていただきました。10歳頃に大やけどのため1年程休学したこと。女学校では学徒動員のため軍需工場で働いたこと。さらに、撚糸業を営んでいたご実家は農業に転じ、お父様の開墾を助ける日々の中で肺結核となったこと。戦後、薬が手に入るようになり肺結核は治癒しましたが、副作用のため難聴となりました。補聴器をいつも使っていました。しかし、結核療養所でSさんと出会ったのでした。
IS兄がカトリックの洗礼を受けていた影響もあったと思いますが、1975年の西川口教会の特別伝道礼拝に導かれて、求道を始めて、T姉は1976年のクリスマスに洗礼を受けました。主日礼拝には、S兄と共に前から二列目に座り、忠実に出席されました。マリア会、アンデレ会等で奉仕し、さらには細やかなご奉仕をたくさん献げてくださいました。S兄が教会役員のとき(特に会計役員)は一緒に事務をされました。老いの日々を重ね、8年ほど前から介護サービスを利用しながら「できるかぎり自宅で過ごしたい」とSさんを支えて暮らしていました。
IT姉の愛誦聖句は詩編116篇12節「主はわたしに報いてくださった。わたしはどのように答えようか」。葬儀説教でも話しましたが、T姉の神への信頼しきった祈りに、いつも励まされていました。この詩編116篇15節にはこのような御言葉があります。「主の慈しみに生きる人の死は主の目に価高い」。アーメンです。神の恵みを感謝して生きぬいたIT姉でした。(No.607)
2016年 2月 21日
目の前の、一人ひとりを大切に
2月13日に「きぼうのダイヤル埼玉」と「きぼうのダイヤル埼玉を支援する会」の共催で、カトリック川越教会で開催された、片柳弘史(かたやなぎ・ひろし)神父の講演会「マザー・テレサに学ぶ奉仕の心 『目の前の、一人ひとりを大切に』」に参加しました。西川口教会から14人の参加者があり、素晴らしいことでした。
片柳神父は埼玉県上尾市のご出身。子供の時にテレビでマザー・テレサの特別番組を見て憧れを抱いたそうです。大学卒業後、1994年から95年までコルカタのマザー・テレサのもと(神の愛の宣教者会)でボランティア活動をされました。コルカタ滞在中に、マザー・テレサから神父になるように勧められたとのことです。現在は、山口県宇部市の教会で働いておられます。講演や執筆活動などで、マザー・テレサからいただいた恵みの言葉を紹介してくださっています。
片柳神父の著書「The Love 世界で一番たいせつなあなたへ マザー・テレサからの贈り物」に、講演で語られたことが記されていました。少し紹介いたします。
〝マザーと出会った人はみな口をそろえて、「わたしこそ、世界で一番マザーから愛されている」と言います。…たった5分だけしか会っていない人でもそういうのです。わたしも、確かにそう感じました。…「たくさんの人が訪ねてきますが、わたしにとっては、その時目の前にいる人がわたしのすべてです」とマザーは言います。相手が誰でも、マザーはそのとき目の前にいる人を世界で一番愛していたのです。出会う人がみな「わたしこそ、世界で一番愛されている」と思ったのは、当然だったと言えるでしょう。自分のすべてを差し出すほどの愛で、相手をあたたかく包み込んでゆく人。それがマザーでした。〟
講演では「マザーにとって『目の前にいる人がわたしにとってキリストであり、すべてです』」と語られました。マザーのキリストへの愛を見ました。(No.606)
2016年 2月 14日
神の前に評価と展望を
レントに入りました。主イエス・キリストの苦難と十字架の死、葬り、復活の出来事を想い起こしながら日々過ごします。
教会の頭であられる主に歩みの報告をする時が近づき、2015年度を振り返っています。先日の役員会で、作成途中ではありますが、活動報告を提出しました(継続審議)。今年度最後の日曜日(3月27日)がイースターになり、受洗者が起こされますようにと祈っています。
クリスマスに幼児洗礼を受けて未陪餐会員であった方々が信仰告白に導かれたことは、教会にとって大きな喜びでありました。2013年7月から一般礼拝は子供(小学生以下)も一緒の礼拝となり、今年度は3年目でありました。次世代への信仰の継承のため、教会全体の祈りと取組みとなりますように、これからも祈りつづけます。
ここで毎主日欠かすことなく、主日礼拝をささげることができたのは、決して当たり前のことではなく神の大きな恵みと感謝しています。「子供ケア」への奉仕に教会員の多くの方々が当たってくださってありがたく思います。今年度は、毎週の子供説教を始めました。子供の出席は微増です。そして、クリスマスには聖歌隊の賛美を主にささげることができました。これはぜひとも継続したいです。イースターに向かって賛美練習を始めますので、高らかに主をほめたたえましょう。主日礼拝の聖書テキストはエフェソの信徒への手紙の御言葉に耳を傾け、今年から、マタイによる福音書を始めました。
夕拝は少人数ですが、朝の礼拝に来られない人のためにも用いられました。いつもの人たちだけか…と思っていたら、夕拝にお出でになる方があるのです。そのたびに神に不信仰を悔い改め、感謝をささげました。今年度もグループ例会担当の伝道夕拝が実施でき、感謝です。12月のゴスペル夕拝を続けてきましたが、普段、礼拝に来られない方が今までで一番集まりました。すべての日々に主は共にいてくださいました。ハレルヤ。(No.605)
2016年 2月 6日
SN兄召される
SN兄が、1月30日に75年の地上の生涯を終え、神のみもとに召されました。S兄が息を引き取られたと、この日の朝に電話で連絡を受けて、たいへん驚きました。都合により、火葬前の祈りの時を持つことになりました。主の最善を祈りつつ、一つ一つ備えました。
幸いにも「教会創立30年史並記念文集 ビジョンに向かって」(1982年9月発行)に、S兄の愛唱聖句・讃美歌・聖歌が記載されていました。愛唱聖句はマタイによる福音書第11章28節(口語訳)「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう」でした。讃美歌は312番「いつくしみふかき」でした。
「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(ヨハネ13・34)。
主イエスは、共に教会に生きる兄弟姉妹が互いに愛し合うように命じておられます。兄弟姉妹が病んでいる時、苦しんでいる時、主イエスに「愛したか」と問われるならば、顔を上げることができない者です。「主よ、お赦しください。愛をください」と祈るばかりです。
昨年春、S兄が老人施設に入られたと伺い、6月に1度お訪ねすることができました。そのとき特別集会のチラシをお見せしたところ、裏面の教会堂の写真をじっと眺めていた姿が印象的でした。昨年秋体調を崩して入院されたときにお見舞いに参りましたが、お話はできず手を置いて祈って帰りました。それが最後となりました。
西川口だより第125号(1978年1月29日発行)にクリスマスに受洗したS兄の証しがありました。苦しみもがいていた若き日々の告白と、主に救われた者としての決意が証しされていました。この証しを読み、S兄が救われてほんとうに良かった!、と思いました。キリストのものとされたS兄でした。(No.604)
2016年 1月 31日
「新約聖書における和解のメッセージ」
先週1月25日・26日は、湯河原で開催された「第42回婦人教職の集い」に参加しました。今回の講師は、焼山満里子先生(日本基督教団正教師、東京神学大学准教授)、講演題は「新約聖書における和解のメッセージ」でした。
集会のお知らせに「主イエスの教えとパウロ書簡における和解のメッセージを読み解き、どのように語り、そのために働くか」と問いかけがありました。講演の冒頭で焼山先生は、「新約聖書のメッセージの中心は、イエス・キリストが成し遂げてくださった神と人間との和解である。つまり人間は神に反逆するものではなく、許されたものとして生きるように招かれている。キリスト者は人間どうしの和解の務めに奉仕するように招かれている」と語られました。
ローマの信徒への手紙第3章23~24節「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです」。神の栄光を受けられなくなっている人間、すなわち神と敵対関係にある人間は、この関係を解消するためには無力であって、神が一方的に人間を赦すしかありません。それゆえ新約聖書では罪の赦しが繰り返し語られます。そのキリストの十字架(キリストによる贖いの業)を根拠として、神と人間の関係が変化するということが、「神との和解」、「平和」という表現で語られます。この和解は心のことではなく全被造物が与ることです。神と和解した人間は、和解の働きを自ら果たすように求められています。高く広く長く深い和解のメッセージをいただきました。
婦人教職のつどいは、東日本大震災を忘れないようにと仙台で4年続けて開催されましたが、今回は湯河原に会場を移しました。関西方面や地元の先生方、初めてお会いする先生や再会を喜んだ先生もあり、各地で励んでいる先生方と交流できて幸せでした。神に感謝です。。(No.603)
2016年 1月 24日
「礼拝の心得」より
都合により1月第4主日となりましたが。本日は4年ぶりに一般礼拝で成人祝福式を行うことができ、本当にうれしいことです。
昨年9月から祈祷会で学び始めた榎本保郎先生の「教会づくり入門」は、「礼拝の心得」の章となりもうすぐ終わります。本来は榎本先生の著書をお読みいただきたいのですが、信仰生活の長い人も短い人も、若い世代の方々にも、礼拝の心得をぜひ知っていただきたいと思います。
・礼拝の心得の第一は礼拝厳守。礼拝で養いを受け、自分のどこにもない力を注がれるのだから。
・礼拝の心得の第二は、神の愛のゆえに犠牲をおそれないこと。キリストの犠牲の贖いにより神の愛を受けたのであるから。
・礼拝の心得の第三は、気分本位、自己本位ではなく、神本位に生きようと、みずからにきびしくあること。
・礼拝の心得の第四は、神のためには喜んで損をすることを選びとる決断をすること。
・礼拝の心得の第5は、礼拝に備えること。生活設計をして礼拝の時間を生み出し、礼拝に出られるように自分のために友のために祈り、礼拝奉仕者のために祈る。
・礼拝の心得の第6は、礼拝に遅れないこと。 礼拝に遅れるのが礼拝へのこころがけのゆるみにあるのかどうか、自己吟味。
・礼拝の心得の第7は、できるかぎり前に詰めて席に着くこと。それは御言葉にまともに立つことであるから。
・礼拝の心得の第8は、新しい来会者に心を配ること。楽しく共に礼拝が守れるように配慮する。
・礼拝の心得の第9は、「今わたしたちは、主があなたにお告げになったことを残らず伺おうとして、みな神のみ前にまかり出ているのです」(使徒10・33、口語訳)。
・礼拝の心得の根本は「心をつくし、精神をつくし、思いをつくし、力をつくして、主なるあなたの神を愛せよ」(マルコ12・30、口語訳)。(No.602)
2016年 1月 16日
礼拝から始める
先週11日に埼玉地区新年合同礼拝が開催されました。地区ホームページ報告より引用します。
“2016年1月11日(月・祝)、上尾合同教会を会場として、2016年埼玉地区新年合同礼拝が行われました。今年は、2年に一度開催されます三区(1区・2区・3区)が合同で行う礼拝でした。・・・司式は北本教会の石川榮一牧師、説教前の子どもへのメッセージを狭山教会の森淑子牧師がされました。説教者は、金城学院大学教授であり現在埼大通り教会の代務者の深井智朗牧師が「あとになってわかること」と題して(聖書箇所は「ヨハネによる福音書13章1~7節)説教をされました。大変感動深いエピソードをいくつも織り交ぜながら説教をされました。・・・
聖餐式は、上尾合同教会の秋山徹牧師(主)と東所沢教会の指方周平牧師(副)が務めました。毎回そうですが、やはり250人を越える地区内の牧師・信徒と一緒に聖餐の恵みにあずかれることは感慨深いものがあります。
礼拝後に、今年成人式を迎えられた方に対しての祝福の祈りが埼玉地区委員長の川染三郎牧師(鴻巣教会)によってなされました。今年は、2人の兄弟が多くの人の前で祝福の祈りを受けました。礼拝後は、礼拝堂の隣のホールに移して楽しい交わりのひと時がもたれました。今回は上尾合同教会の皆様によって美味しいカレーやお菓子や飲み物等を頂きました。上尾合同教会の方々には、大変お世話になりました。
今年もまた地区の1年の始りを、このような地区の一致と連帯の象徴とも言うべく豊かな礼拝と交わりを持ってスタート出来ましたことを深く感謝致します。(今回も、説教を全て録音しましたので、是非お聞きください。)
報告・豊川昭夫(ホームページ委員、越谷教会信徒)”
1月は「地区デー」を設けて地区の一致と連帯を特に進めており、本日の講壇交換礼拝もそのために行われます。地区内諸教会に祝福あれ!(No.601)
2016年 1月 10日
信仰の先輩の言葉から(2)
西川口教会の前任牧師・島隆三先生の著書「ジョン・ウェスレー」が昨秋出版され、やっと読み始めました。先週に続き、信仰の先達者のメッセージとして紹介します。ウェスレーに学ぶ島先生に学びます。(「ジョン・ウェスレー」(2)より)
“ウェスレーに教えられることのひとつは、偏見にとらわれない自由な考え方と、それを実行する勇気である。彼の生涯は、さまざまな論敵との論争の一生であったといっても過言ではないが、誰に対しても開かれた心で、相手の主張によく耳を傾け、その上で自らの考えを主張していく。初めから自分の主義主張に固執して、相手の主張に耳を貸さないというのでは、対話にならない。…できる限り偏見から自由にされて、相手に心を開き、また、論争の中でも神の声を聴こうと努めるのがクリスチャンの態度であろう。その意味において、ウェスレーはその論争を実りあるものとするために、常に相手に対して真実であろうと努めたし、また、相手にもそのように求めたのであった。彼は、「あなたの心は、わたしがあなたに対するように真実ですか」(列王下10・15)と問うのが常であった。
しかし、考えてみると、そのような真実な開かれた心で人に相対していくということは容易ではない。殊に信仰的論争において(そこにお互いに生命をかけているのだから)。これは論争以前の、人間の資質の問題であろうが、その意味でも、ウェスレーは、真に恵まれた、神の選びの器であったと言わざるをえない。… (ウェスレーの父)サムエルの父は英国の非国教会の牧師であったから、サムエルはピューリタン系の学校に学んだが、国教徒と非国教徒の論争を自ら分析してみて国教徒の方が正確であるとの結論に達し、自らの確信により国教徒に転向して国教会の牧師になったのである。…そのような両親の血を受け継いだウェスレーは、生涯国教会の牧師であったが、伝統の枠に縛られている人ではなかった。…”(No.600)
2016年 1月 3日
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主の年2016年を迎えました。孫引きで恐縮ですが、信仰の先達者のメッセージを紹介します。信仰の歩みのガイドの一つとして。(牧ノ原やまばと学園機関誌「やまばと」第482号より)。
“成功しているということと、実りが大きいということとの間には、大きな違いがあります。成功は、強さ、管理、世間体などによってもたらされます。成功している人は、何かを創りだし、その発展を管理し、大量に利用できるようにする力をもっています。成功は、多くの報酬をもたらし、しばしば名声ももたらします。しかし実りは、弱さと傷つきやすさによってもたらされます。また実りは全くユニークなものです。子どもは傷つきやすさの中でもたらされた果実であり、人と人との交わりは傷を分かち合って出来る果実であり、親しさは互いの傷に触れることを通して出来る果実です。私たちに真の喜びをもたらすものは、成功ではなく、実りの豊かさにあることを思い起こしましょう。”(ヘンリ・ナウエン)
“…真にその人を愛するためには、欠点を探さず、長所を認めることを学ばねばなりません。どれだけその人が不埒な人であっても、彼もまた同じ生命の源から生まれ出たものであることを思えば、彼を自分の兄弟として愛するべきでしょう。彼がその弱点や欠点から離れて真に人格成熟の域に達するよう、一生懸命手助けしてあげねばなりません。もし真に敵を愛することができるようになりたいならば、まず身近な隣人を愛することを学ぶ必要があります。”
“…昨日という日は既に過去になりました。明日という日は、まだ到来していません。私たちの生涯で迎える毎日は、ことごとく今日なのです。どうか、お互いに、一つ一つの今日という日を、「愛の神」の御霊の導きに従って生きるようにいたしましょう。そうすれば、神は私たちを用いて、隣人を助ける器、救う器として豊かにお用いになることができ、私たちも幸いにして有用な生涯を送ることができます。”(W・M・ヴォ―リス)(No.599)