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週報短文

バックナンバー 2018年



2018年 12月 30日

クリスマスは公現日まで

 クリスマスは紀元4世紀ごろまでは、教会でも祝われていませんでした。人々は歴史的にもキリストの出来事を改めて振り返り、それをたどり直してみることができるようになりました。時代が下るにつれて、キリストが再び来られる日まで、教会がこの世で行われなければならない使命があることを、強く自覚されるようになりました。
 イエス・キリストの誕生は、何年の何月何日であったかという歴史的な検証、調査は不可能になっていました。最終的に12月25日ということに一応定められたのは、4世紀以降のことです。
 12月25日の1週間後、すなわち8日目は、今日の太陽暦でいう「新年の元旦」に当たります。この日は、ルカによる福音書第2章22節以下に記されている8日目の割礼の記事により、「キリストの命名日」「キリストの割礼日」と呼ばれています。このように設定ずることによって、教会は、多くの民族によって行われてきた、いわゆる新年祭の異教的な性格をキリスト教化しました。周辺の諸国では、新年が何月何日になるにせよ、新年祭は政治的な意味合いを持つもので、神聖な王の即位式として国家的・行政的に守られてきた日でした。このようにして、イエス・キリストの誕生の記事は年月をかけて礼拝及び慣習のかたちで展開してきたといえます。
 降誕節の最後に来るのが、1月6日の公現祭と呼ばれる祝日です(公現日)。アドベントはラテン語で「来臨する」という意味であったのに対して、公現祭はギリシア語で「エピファニア」と呼ばれ、「輝き出る」、「顕現」という意味です。この日は、マタイによる福音書第2章の東の国の学者たちが幼子イエスに出会った記事を主題に礼拝を守ることになりました。キリストの出現は、イエスの誕生にとどまらず、真理の光が現れ、神の栄光が現され、それが世界の隅々にまで実現していく、その出発点となった、という意味を表しています。(参考 今橋朗著「よくわかるキリスト教の暦」より)(No.754)

2018年 12月 23日

思いがけないプレゼント

 西川口教会の月報12月号の巻頭言に、高校時代の同級生が夕拝に来て再会できたことを書きましたが、先週のゴスペル夕拝で、また思いがけない再会の出来事がありました。

 ゴスペル夕拝のとき、O姉が誘ってくださったSさんにご挨拶したところ、わたしを姉の名前で呼んでくださいました。驚いて「わたしは妹です」と返答して、なぜそのようにおっしゃったか話を伺うと、かつて姉と私と妹が通っていたN保育園でお勤めされていて、姉の担任であったこと、母のことも覚えていてくださって、わたしが母にとても良く似ていると、笑顔で話してくださいました。約50年前のことです。、本当に驚きました。Sさんにしても、たまたま友人に誘われて行った教会の牧師が、約50年前の保育園児であったとは、思いがけないことだったと思います。姉にメールでそのことを知らせたら、担任の先生の名前を覚えていて、Sさんであったことを確かめられました。わたしたちきょうだいは驚き、母のことを覚えていてくださったことを喜びました。このようなことがあるのですね。ゴスペル夕拝は楽しく、温かいひとときで、恵みをいただきましたが、さらに、神からの思いがけないプレゼントをいただいた思いです。
 コリントの信徒への手紙一第2章9節にこうあります。「このことは、『目が見もせず、耳が聞きもせず、人の心に思い浮かびもしなかったことを、神は御自分を愛する者たちに準備された』と書いてあるとおりです」。「このこと」とは十字架につけられた主イエス・キリストです。このキリストが、神の知恵となり、義と聖と贖いとなられました(コリント一1・30)。わたしたちの罪を贖うために、神の子である方が、地上に降り、人の子イエスとしてお生まれになりました。それがクリスマスです。このキリストの救いこそ、思いがけない、そしてかけがえのない、わたしたちのための、神からのプレゼントです。
(No.753)

2018年 12月 16日

ゴスペル夕拝

 今年も、ゴスペル夕拝をささげることができ、主に感謝します。礼拝堂を練習会場としてお借りしているゴスペルクワイアJOINの一員として、毎月レッスンを受けています。発表の場として、ゴスペル夕拝が与えられていることをJOINのメンバー一同喜んで感謝しています。西川口教会としてもこの夕拝を喜んでいます。今年は新曲2曲に挑戦しました。その1曲の歌詞の一部をご紹介いたします。「My Life, My Love, My All」という曲です。JOINのメンバーで歌詞を訳してみました。わたしは歌詞に込められた福音の出来事、そして主イエス・キリストへの愛にあふれる賛美を喜んで、心を合わせて歌っています。
My hands were made to worship You.
My heart, my King, it beats for You.
Oh Lamb so true, I surrender to You,
My life ( I give You) ,my love (I give You) ,my all.
(訳)わたしの手は、あなたを礼拝するために造られました。
わたしの心は、わたしの王であるあなたのために鼓動しています。
真実な(神の)小羊よ、わたしはあなたに委ねます。
わたしの命、わたしの愛、わたしのすべてをあなたにささげます。
My past has been erased with just one touch from you.
My clouds, my rain, my pain has changed.
Your blood has made me new.
Oh lamb so true I surrender to you.
My life (I give You), my love (I give you) my all
(訳)わたしの過去は、あなたが一度触れてくださっただけで拭い去られました。
雲や雨のようなわたしの苦悩は変えられました。
あなたの血がわたしを新しくしてくださいました。
真実な小羊よ、わたしはあなたにお委ねします。
わたしの命、わたしの愛、わたしのすべてをあなたにささげます。 (No.752)

2018年 12月 9日

「あなたの父母を敬え」

 「あなたの父母を敬え。そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生きることができる。」(出エジプト20・12)
 モーセの十戒の第5の戒めです。この神の愛の戒めをいっそうかみしめている日々です。
 今年の梅雨明け直後の酷暑が引き金となって、同居している父が体調を崩しました。祈りが聞かれ、体調は順調に回復しました。ただ体に麻痺が出ました。10月に介護認定を受けて、先月末から介護サービスを使い始めました。牧師として今まで高齢の兄姉と共に歩み、介護サービスのことも聞いていましたが、やはり当事者にならないと分からない、ということが分かりました。
 超高齢化社会となった現代日本です。皆が年を取り、高齢者としてどのように生きるか、高齢者とどのように関わるのかが、問われています。
キリスト者であるわたしたちは、冒頭に掲げたこの神の戒めを無視して生きることはできません。この戒めをどう生きるか、改めて問われているのだなと、思わされている今日この頃です。
 なぜ、父母を敬うのか。出エジプト記第20章12節の御言葉は、このように告げます。「そうすれば、あなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生きることができる」。父母を長生きさせるためではなくて、あなたが、つまり御言葉に従う人が長く生きることができるためなのだ、というのです。それが神の願っておられることなのです。面白い視点ではないでしょうか。この御言葉はあなたのため、わたしのため。神が求めておられるのは、出来るだけ長く生きること。自分勝手な生き方で命を縮めることではない。長く生きるために、父母を敬うことが肝心であるというのです。あなたが、わたしが、父母を重んじるとき、それは隣人を愛すること、神を愛すること、自分自身をも大切にすることにつながります。
 介護サービスという社会資源のありがたさを痛感し、自らの愛の貧しさを目の当たりにしながら、聖霊の助けを祈り求めています。
(No.751)

2018年 12月 2日

クリスマスを待つ心


 今日からアドベント。教会ではクリスマス(12月25日)直前の日曜日から数えて、四つ前の主の日からアドベント(待降節)に入ります。「アドベント」とはラテン語で、「来臨(くだる)」という意味です。今年もアドベント・クランツを飾りました。4本のろうそくを立て、毎週1本ずつろうそくに火を灯します。4本のろうそくに火がともされるのは、12月23日の主の日。クリスマス礼拝がささげられます。
 アドベントはこうして降誕のお祝いの日を待ちながら過ごす期間ですが、もう一つの大切な意味があります。それは、再びお出でになる主イエスを待ち望むこと。約束されているこの出来事を「再臨」と言います。アドベントは、主イエス・キリストの再臨を信じて待つ教会の信仰に改めて生きる期間でもあります。
 キリストは人の子として馬小屋に生まれ、ナザレのイエスとして、地上の生涯を歩まれました。わたしたちと同じように喜び、わたしたち以上に人の世の悲しみのすべてを味わい、すべての人の罪を引き受けて十字架にかかり、身代わりとして死んでくださいました。三日目に父なる神によって死者の中から復活され、「必ず再び来る」と約束して、天に昇られました。アドベントはこの福音を、もう一度吟味し、受けとめ直し、教会の正しい信仰の筋道に立とう、と志をたてる時です。
 本日の礼拝でも日本基督教団信仰告白を告白します。「教会は・・・主の再び来たりたまふを待ち望む」(教会の項)、「かしこより来たりて、生ける者と死ねる者とを審きたまはん」(使徒信条の項)と信じて告白しています。
 「わたしたちの主イエスが、御自身に属するすべての聖なる者たちと共に来られるとき、あなたがたの心を強め、わたしたちの父である神の御前で、聖なる、非のうちどころのない者としてくださるように、アーメン」(テサロニケ一3・13)。
 賛美しつつ、祈りつつ、主を待ち望み、アドベントを過ごしましょう。(No.750)

2018年 11月 25日

来年の御言葉


 2019年の教会の御言葉を選びました。ガラテヤの信徒への手紙第6章2節「互いに重荷を担いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです」。
 2018年の教会の御言葉は、コロサイの信徒への手紙第3章14節より「愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです」を掲げてきました。これは、神の愛であり、キリストの愛です。神の教会、キリストの教会に生かされる者たちにとってふさわしい装いは愛である、ということです。キリストの愛が全てを完成へと導き、わたしたちを結び合わせるきずなとなって働きます。2018年度の教会の主題は「一人ひとりが祈る人―聖霊による愛と赦しの教会」です。そのような教会になれたら素晴らしい。それは祈る人に実現します。祈っている人は「祈っているだけではだめだ」とは言えないのです。なぜなら、祈れば祈るほど、自分には愛がなく、祈る言葉も知らず、神の恵みがなければ、愛をいただかなければ、祈りがなければ、何もできない自分であることを知らされるからです。けれども、それを悟るまでには時間がかかります。祈らない限り気づかないからです。
 西川口教会の中期の宣教計画を検討しているところで、引き続き教会の信仰の交わりを整えたいと考えています。「愛を身に着けなさい」とありますが、その愛はどのように見えてくるかというと、互いに重荷を担うところにあるのです。自分がしたいことや、自分に都合のいいことや、自分が良かれと思うことをするのではなく、キリストの体を構成する一人ひとりの重荷を互いに負うことが求められています。人に喜んでもらえることばかりではないかもしれません。自分との闘い、信仰の自己吟味が求められます。「キリストの律法」とは愛の律法、キリストの愛に生きるための命令です。キリストがわたしの罪の重荷を負ってくださる、罪人のわたしを丸ごと担っていてくださると信じるとき、それが可能となります。(No.749)

2018年 11月 18日

引き出しには何が入っていますか


 今月10日、川口教会にて、日本基督教団埼玉地区婦人部の第一ブロック最寄り婦人研修会が開催され、わたしも参加させていただきました。講演題は「児童福祉最後の砦」、講師は、寺岡牧(つかさ)氏(国立武蔵野学院第1寮長、厚生労働教官)でした。国立武蔵野学院をわたしは初めて知りました。いただいた資料から紹介します。
 「国立武蔵野学院は厚生労働省組織令第135条による国立児童自立支援施設として、児童福祉法第44条に規定する不良行為をなし、又はなすおそれのある児童及び家庭環境その他の環境上の理由により生活指導等を要する児童であって、特に専門的な指導を要するものを入所させ、その自立支援をつかさどり併せて全国の児童自立支援施設の向上に寄与することを目的とする。」
 「基本理念 1 いのちを尊び、より健康でゆたかな自己の実現にむけて、自己を高めていける人間になるよう共に育むこと  2 創造的な問題解決ができ、自立した社会人として、健全な社会生活を営む人間になるよう共に育むこと  3 自然、社会、人間などあらゆるものと調和のとれた共生ができる人間になるよう共に育むこと」。
 国立武蔵野学院には附属の児童自立支援専門員養成所があります。講師の寺岡先生はこの養成所を卒業され、児童自立支援施設の職員として、子供たちと生活を共にしておられます。多くの子供たちとの関わりを具体的なエピソードを通して語られ、心を打たれました。
 わたしにとって印象的な言葉は「引き出し」でした。施設に来る子供たちが、否定的な表現―つぶやいたり、投げやりだったり、言い争いをしたり―しかできないのは、それしか引き出しに入っていないからである、と。その背景を理解し、存在を受け入れ、新しい引き出し、新しい中身を与えていく支援をしておられる、と受けとめました。そして、わたし自身の引き出しには何が入っているだろう、と自己吟味させられました。(No.748)

2018年 11月 11日

キリスト者の成長、教会の成長


 本日の礼拝で成長祝福式をできますことをうれしく思います。子供の成長には目を見張ってしまいます。「大きくなったねえ」と声をかけてばかりいるので、「大人はいつも同じことを言ってる」と子供たちは思っているかもしれません。
 わたしたちキリスト者は、大人になっても成長します。信仰は成長させていただけるのです。
 「ついには、わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです」(エフェソ4・13)。
 キリストの体である教会も成長します。
「キリストにより、体全体は、あらゆる節々が補い合うことによってしっかり組み合わされ、結び合わされて、おのおのの部分は分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆくのです」(エフェソ4・15)。
 キリスト者の成長について、今年のこころの友伝道全国大会の特別講師の清野勝男子先生が講演してくださいました。こころの友伝道紙9月・10月合併号に講演要旨が掲載されていますので、ぜひお読みください。一部を紹介いたします。
 「エフェソ、フィリピ、コロサイの手紙から、パウロ先生は、3つの領域における成長を祈っていたように思われる。①賜物の開発と聖別(与えられている賜物を磨き、神の栄光のために用いていく)、②人格の聖化(人格の成長であり、品性の聖化。聖霊の実を実らせるような成長)、③献身の成長(神第一の価値観への変革を続け、神の配慮を知り、御心を行う)。
私は深刻な問題に直面した。聖書の知識や奉仕の熱心が高慢を生み出してしまう、という事例を見た。クリスチャン成長の本質はへりくだりの道である。クリスチャンの成長の反対語は高慢である。主の悪い弟子とは、出来の悪い弟子ではなく、高慢な弟子である。クリスチャン成長の恵みの階段は、上るのではなく下るのである。…」
(No.747)

2018年 11月 4日

塵に返る我が身


 今年も聖徒の日が巡ってきました。日本基督教団行事暦では11月の最初の日曜日を「聖徒の日」としています。西川口教会では毎年、聖徒の日に召天者合同記念礼拝をささげています。
 この週報短文の裏面に、召された教会員と関係者のお名前を掲載しています。123人(教会員91人)を数えます。西川口教会は創立から68年になりますが、こんなにも多くの方々を神の御もとにお送りしています。この大半の方々がこの礼拝堂で礼拝をささげ、説教を聞き、聖餐に与かり、神に奉仕されました。それぞれの方々が息を引き取られた後、ご遺体を運んで、葬儀の礼拝もこの礼拝堂でささげられました。
 今月号の西川口だより605号に「キリスト教葬儀の理論と実際」と題して、東京聖書学校の公開講座の報告が掲載されています。そこには、
「キリスト教の葬儀は礼拝として行われる。
故人の一生を守り、導かれた創造主である神様を礼拝するため。
深い悲しみの中にあるご遺族の慰めとなるため。
参列された方が、葬儀を通して、自分の人生と死について考えるきっかけとなるため」
とありました。
 年に一度のこの召天者合同記念礼拝も同様です。ご遺族の方々をお迎えし、召された方々のお写真を見つめながら、改めて、神の前に生きるとはどういうことか、死ぬとはどういうことなのか、問われる礼拝です。
 旧約聖書のヨブ記第34章14節・15節にこのような言葉があります。
「もし神が御自分にのみ、御心を留め その霊と息吹を御自分に集められるなら 生きとし生けるものは直ちに息絶え 人間も塵に返るだろう。」
 讃美歌21の530番の4節にこうあります。
「塵よりなる このわが身、塵にかえる そのときも 主よ、御顔を あおぎ見つつ ゆかせたまえ みもとへと。アーメン」
 最後まで主を仰いで生きられますように。
(No.746)

2018年 10月 28日

神のエクレーシアとしての教会

 9月30日の教会全体懇談会において、「これからの伝道のために、わたしたちはどういう礼拝をしたいのか」、「神の御心に沿う礼拝とはどのような礼拝であるか」について意見を求めました。参加者の方々からの意見が集まり感謝しています。懇談会に出席できなかった方もおりますので意見記入用紙の提出をお願いしています。「今のままでよいです」とか「特にありません」という意見の方も、それをそのまま書いて提出してくださいますよう、お願いいたします。これは「西川口教会はどういう教会(礼拝・伝道)を目指すのか」、皆で作り上げるために、進めています。
 普段「教会」という言葉を使うとき、建物を思っていることがあるかもしれません。けれども新約聖書の時代には教会堂という建物はどこにもありませんでした。新約聖書で「教会」と訳されているギリシア語は「エクレーシア」です。この言葉は「呼び出す」「呼び集める」という意味の動詞「カレオー」がもとになって作られ、「呼び集められた者たちの集会」という名詞です。誰が呼び集めてくださったのか。主なる神です。
 新約聖書には、「神のエクレーシア(教会)」という言葉が出てきます。「聖霊は、神が御子の血によって御自分のものとなさった神の教会の世話をさせるために、あなたがたをこの群れの監督者に任命なさったのです」(使徒20・28)。教会は、御子キリストの血によって神が御自分のものとなさったのです。さらにまた、「コリントにある神の教会へ、すなわち、至るところでわたしたちの主イエス・キリストの名を呼び求めているすべての人と共に、キリスト・イエスによって聖なる者とされた人々、召されて聖なる者とされた人々」(コリント一1・2)とあります。神の教会は、キリストによって聖なる者とされた人々、召されて聖なる者とされた人々の共同体です。「教会」というとき、建物としての教会堂と、神のエクレーシアである教会をわきまえるようにいたしましょう。
(No.745)

2018年 10月 21日

絶望のなかでの信頼

 教文館から「聞き書き加藤常昭 説教・伝道・戦後をめぐって」が出版されました。加藤常昭先生へのロングインタビューの記録です。とても味わい深い書物です。これからの日本の教会の伝道を語る章がありました。そこでの罪と救いを問う対話を紹介させていただきます。絶望という罪、そして絶望のなかでの信頼についてです。
加藤 やはり根っこにあるのは、罪の問題です。・・・わたくしのいちばん深いところにあるのは絶望です。・・・この絶望というのは、主イエスがおられなかったならば、死ぬより他にないようなものです。・・・だけど、自殺しないで生きられるのは、やはり主イエスがいてくださるからです。・・・そういうものによってしか日本人は救われないんだっていう思いがあるから、伝道せざるを得ないわけでしょう。・・・
 平野 もう少しそこを聞きたいんですけど、絶望がなくなって救われるのではなく、絶望のなかで救われるということですよね? 
 加藤 そう。ルターが言った「絶望のなかでの信頼」というのが大事・・・
 平野 なぜ絶望のなかで救われるんですか。
 加藤 それは主イエスの十字架があるからです。主イエスが絶望しながら死んでくださったからです。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という十字架の叫びは・・・ルターに言わせれば、主イエスだけが本当の罪人として死んでおられるということです。・・・その時にやはり「わが神、わが神」となぜ呼んでいるか。しかもその「わが神」という主イエスの呼び声に、父なる神がお答えになったときに甦りが起こる。・・・甦りの光のなかでなければ、十字架の絶望は語り得ない。しかし、十字架の絶望というのは甦りの光のなかで消えはしません。むしろその絶望のなかで、甦りの力が力を発揮する。だから、ルターはメランヒトンに「大胆に絶望をしなさい」・・・と言っています。・・・ルターにとって大事なのは、罪人にして同時に義人だということです。・・・”(No.744)

2018年 10月 14日

長持ち牧師

 わたしは、聖学院大学の藤掛明先生より年に数回ご指導をいただく機会を与えられています。藤掛先生は、臨床心理士として、大学の教員として、キリスト者として、御自身の取り組みをキリスト教界に発信し続けておられます。本日は日本基督教団の行事暦で「神学校日・伝道献身者奨励日」です。藤掛先生は各地の神学校に招かれ講義をしてこられ、牧師のメンタルヘルスにも大きな関心をお持ちです。今回の短文では、藤掛先生が発信しておられる牧師のためのメッセージを紹介いたします。皆様にも参考になると思います(藤掛先生のブログ「おふぃす・ふじかけ」より引用)。
 “(はじめに) 牧師は霊的な薫陶や指導を受けているが、案外心理的な助言は受けていない。 気晴らしに一日1回、見ていただく助言を集めてみた。牧師が長持ちし、サバイバルするためのヒントになるかもしれない。(1)自分の中にある「ダメな自分」「無力な自分」を受け入れる。(2)状況は変わらない。小さな希望に生きること。(3)失敗することは問題でなく、失敗した後それにどう対応できるかが問題。(4)牧師といえども自分の性格問題、家族問題で悩むことは当然のこと。・・・(8)目的と方法をセットにしない。譲れない目的であっても、方法はいくらでもある。・・・(11) 牧師の疲労には、過大な信徒へのサービス心が影響している。・・・(19)人に助けられる経験があってこそ、人を助けることができる。(20)牧師ほど、グリーフ(別れによる悲しみ)を味わう仕事はない。・・・(25) 教会のトラブルには、世代の違いによるコミュニケーションのギャップが大きく影響している。・・・(29)牧師は、実像以上に、ある信徒からは過度に好かれてしまうことがある。またある信徒からは過度に嫌われてしまうことがある。・・・(32) 敬い、愛するとは、その人のこれまでの生涯を思い描いてみること。そして彼(彼女)なりに頑張ってきたんだと思うこと。(36)自分の成功を語るよりも、自分の失敗を語る人になりましょう。・・・”
(No.743)

2018年 10月 7日

福音は全世界に

 今年もオリーブの里アシュラムに参加しました(9月26日~28日)。近江八幡市のアシュラムセンター主催で、ご指導はアシュラムセンター主幹牧師の榎本恵先生、主題聖句は「神のなされることは皆その時にかなって美しい」(口語訳聖書 伝道の書 第3章11節)でした。アシュラムのしおりの榎本先生の巻頭言を一部ご紹介します。
 “・・・地震や豪雨、猛暑に苛まれた今年の夏でした。このようなことが続くと、私たちは「もう世も終わりに近いのか」と思うのではないでしょうか。しかし、落ち着いて、「そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない」(マタイ24・6)という主の言葉に私たちはしっかりと立っていきましょう。
 伝道の書(コヘレトの言葉)は、私たちに一つの示唆を与えてくれます。「神のなされることは皆その時にかなって美しい」(伝道3・11)のです。私たちの眼に映る現実は、悲しみや苦しみ、痛みや恐怖にあふれたものであるかもしれません。しかし、一度その目を神に向ける時、全てのものは美しいのです。・・・”
 榎本先生が、マタイによる福音書第24章の主イエスのお言葉を引用しておられます。その言葉はこのように続きます。「民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に飢饉や地震が起こる。しかし、これらはすべて産みの苦しみの始まりである。そのとき、あなたがたは苦しみを受け、殺される。また、わたしの名のために、あなたがたはあらゆる民に憎まれる。そのとき、多くの人がつまずき、互いに裏切り、憎み合うようになる。偽預言者も大勢現れ、多くの人を惑わす。不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。そして、御国のこの福音はあらゆる民への証しとして、全世界に宣べ伝えられる。それから、終わりが来る」(7~14節)。神は、迫害や苦難に耐える主の弟子たちを通して、神の国の福音宣教を進められます。その御業は美しい。今日は、世界宣教の日です。(No.742)

2018年 9月 30日

再臨の主を信じる

 原則として月に一度「日本基督教団信仰告白」をもとに説教をしています。教団信仰告白の前半部の第4段落は次の通りです。「教会は主キリストの体(からだ)にして、恵みにより召されたる者の集(つど)ひなり。教会は公(おほやけ)の礼拝(れいはい)を守り、福音を正しく宣 (の)べ伝へ、バプテスマと主の晩餐(ばんさん)との聖礼典を執(と)り行ひ、愛のわざに励みつつ、主の再び来りたまふを待ち望む」。本日は、「主の再臨を待ち望む」という教会の使命を改めて確認します。その理解のため、聖書の言葉とお祈りを紹介いたします。
 “約束してくださったのは真実な方なのですから、公に言い表した希望を揺るがぬようしっかり保ちましょう。互いに愛と善行に励むように心がけ、ある人たちの習慣に倣って集会を怠ったりせず、むしろ励まし合いましょう。かの日が近づいているのをあなたがたは知っているのですから、ますます励まし合おうではありませんか。(ヘブライ10・23~25)
 世界が揺らいでいます。あなたが造ってくださった世界が光を見失っているのです。あなたが造ってくださった人間が、人間として生きるべき道を見失っているのです。そのなかで、あなたのみ子イエスが造ってくださった教会が、その歩みを問われています。教会もまた足を掬(すく)われかねません。希望が揺らぎかねません。集会を休んでもどうということもないではないかという無気力が慣習になりかねません。そういう教会が既に生まれています。互いに愛と善行に生きるために励まし合おうというヘブライ人への手紙の促しを、私どももまた誠実に聴き取ることができますように。主が来られる日が近づいていることを、私どももまた的確に悟ることができ、確信することができますように。み霊(たま)とみ言葉とを常に与え、あなたの励ましによって、私どもが互いに励まし合うことができますように。主によって。アーメン。”(加藤常昭著「祈り」。9月25日の祈り)(No.741)

2018年 9月 23日

もしかするとこの時のためかもしれない

 先週の月曜日は、日本基督教団白鷺教会(東京都中野区)にて、「21世紀のエステル会」発足記念企画「もしかすると、この時のためかもしれない」が開催され、出かけてきました。「21世紀のエステル会」は、一般社団法人がん哲学外来理事長・順天堂大学医学部病理・腫瘍学教授の樋野興夫先生を顧問に、3つのメディカルカフェで代表を務める金田佐久子(川口がん哲学カフェいずみ)と、太田和歌子さん(がん哲学外来白鷺メディカルカフェ)、田鎖夕衣子さん(がん哲学外来メディカルカフェひばりが丘)の3人をメンバーとして発足しました。
 本年5月、メディカルカフェひばりが丘の開設2周年記念講演会後のスタッフ交流会の席で、講師の樋野先生を前に、太田さんと田鎖さんは「お互いのカフェを行き来はしても、じっくり課題や悩みを語り合うことってないよね」、「じっくり話す場がないとね」と語り合っていました。そんな会話に、樋野先生が「メディカルカフェをしている白鷺教会とひばりが丘教会と西川口教会で、合同シンポジウムを企画したらいいのではないか」と提案してくださいました。そういうわけでわたしにもお声がかかり、21世紀のエステル会が発足し、記念企画が決定しました。21世紀のエステル会のホームページが開設され、毎週、樋野先生のエッセイがアップされています。
 当日は、樋野興夫先生による基調講演「もしかすると、この時のためであるかもしれない」(エステル記4章14節)で始まりました。続いて、パネルディスカッション「『がん哲学外来』の『覚悟』の原点」がもたれました。太田さん、田鎖さん、金田がそれぞれに、がん哲学外来メディカルカフェを始めるにあたっての経緯や苦労や工夫などを、分かち合いました。参加者は約70人で、各地でメディカルカフェを始めている方や、関心のある方が集まりました。まことに喜ばしい集会でした。お祈りを感謝いたします。(No.740)

2018年 9月 16日

説教の喜びと難しさ

 先週の月曜日は、キリスト品川教会で開催された東京説教塾の例会に出席しました。1月から7月まで継続して学んだ「説教作成の報告」を振り返りました。説教作成の第一のステップである「第一の黙想」が、共通の、そして最大の課題であるということで一致しました。それは、今月の説教塾セミナーにおいても、わたし自身鋭く指摘されたことでした。12月の例会から、第一の黙想の学びをすることになりました。初心に帰って、励みます。
 さらに、フィリピの信徒への手紙第4章8~9節からの説教について、ディスカッションを聞いていて、自分の立ち位置を再確認させられました。分かち合いたいと思います。
 “わたしたちがしてしまうことは、周りの文化を批判して、わたしたちがキリストの救いを語ることである。そうして信仰を確保しようとする。例えばクリスマスを語るとき、世の中のクリスマスは皆間違いで商業主義、しかしここに本当のクリスマスがあります、と言う。わたしたちが生きている文化を否定することによって、救いを確保しようとしている。あるいは、教会とこの世の間に壁を建てることによって、教会の安全を守ろうとしている。それが説教者に忍び込む大きな誘惑。教会の文化が一番素晴らしいと思っている。その典型的な例は、宣教師。そこにある文化を否定しながら、西洋文化こそキリスト教を担っていると言って、そこにある文化を破壊していった。けれども、フィリピに教会を建てた使徒パウロは違っていた、そこにある良きものを心に留めよ、と言った(フィリピ4・8)。悔い改めへと招いている。それと共に、パウロから学んだことに生きていけ、教会が植えられている文化のよきものを学び、福音に生きよ、と語っている。なぜならば、教会は人知を超える神の平和で守られるのだから(フィリピ4・7)。教会がそのように生きるときに、平和の神はあなたがたと共におられる(フィリピ4・9)。”この立ち位置です。(No.739)

2018年 9月 9日

命の神の祝福を

 先週は、強い勢力で日本に上陸した台風21号により、また9月6日午前3時過ぎに起きた北海道胆振東部地震により、大きな被害がありました。被害状況もまだ全て明らかになってはいません。痛みを負った人たちに、希望と平安と癒しがありますように、支援と復旧が迅速に進められますようにと、祈ります。主がこの苦しみを共に苦しんでくださっていることを信じます。
 日本基督教団関東教区のホームページの災害対応掲示板に、北海道胆振東部地震に関する北海教区からの情報が掲載されています。北海教区の連絡が取れた教会は、会堂の被害はないそうです。教区のホームページには、台風21号による被害の報告は、今のところありませんでした。
 災害は来るものだということ。いつ起きてもおかしくないということ。川口市でも「防災本」というしっかりしたハンドブックが配付されています。西川口教会のある地域の町会でも防災マップが配布されています。災害対策は今までの経験と技術の改良を積み重ねて、被害を少しでも減らすようになっていると思います。それと共に日頃から、家族や地域で顔の見える関わりに生きていることが大切です。それは教会も同様です。
 災害が立て続けに起こり、心を痛めている中で、本日、敬老祝福礼拝を迎えました。70歳以上の方々に主の祝福が豊かにありますようにと、祈ります。「よく生きて来られました。神がよく生かしてくださいました」との思いです。
 日本は73年前戦争に敗れましたが、復興を果たし、様々な技術が進んで便利で快適な暮らしができ、医療技術も進んで長く生きられるようになりました。そうして我が国は超高齢社会に突入し、高齢社会ゆえの課題も多々現れてきました。老いをどう生きるか、信仰者にとっても課題です。主に生かされている命は、主の目的のために生かされているはずです。最期まで主を仰いで、教会生活を全うできますように、命の神の祝福を祈ります。(No.738)


2018年 9月 2日

第65回こころの友伝道全国大会に参加して

 2018年8月27日から29日まで、第65回こころの友伝道全国大会が伊豆長岡にて開催されました。主題は「働き人を生み出す教会」、特別講師は、日本同盟基督教団土浦めぐみ教会主任牧師の清野勝男子(せいの・かつひこ)先生でした。
 清野先生は、インドネシアで宣教師をされた後、アメリカで宣教学を学ばれ、1990年より土浦めぐみ教会の牧師に就任されました。土浦めぐみ教会のビジョンは「ゆりかごから墓場まで」です。教会には、幼児施設、キリスト教信仰を基とするフリースクール森の学校(初等部、中等部)、高齢者介護、障害者施設、ケーブルテレビ「わくわくパラダイス」など、多岐にわたって、地域にいきわたる愛の牧会的配慮をしておられます。
 清野先生の特別講演Ⅰは、「その歳にふさわしく」との講演題でした。聖書は、テモテへの手紙一第5章1節から8節までです。清野先生は、「この地上で神の栄光を現す教会とは、どのような教会か?」と自問してきたとのことです。現実をよく知って、その人にふさわしく生きられるように努めてきたと語られました。その歳にふさわしく御言葉を語り、奉仕することです。その結果、幼児から高齢者まで、全年齢層にふさわしい取り組みがなされています。
 特別講演Ⅱは、「働き人の育成」でした。コロサイの信徒への手紙第1章9節から12節、エフェソの信徒への手紙第1章17節から19節、フィリピの信徒への手紙第1章9節から11節までの、この使徒パウロの教会のための祈りの中に、神のわたしたちに対する期待が込められています。このパウロの祈りから、キリスト者の成長の三つの領域(①賜物の開発と聖別、②人格の聖化、③神への従順と献身)が示されており、その領域において成長することです。それはへりくだる道です。「キリストを求め、キリストを目指し、キリストに向かい、キリストのみ国を待ち望み、キリストを待ち望む」者になることです。(No.737)

2018年 8月 26日

愛の業に励みつつ

 原則として月に一度「日本基督教団信仰告白」をもとに説教をしています。日本基督教団信仰告白の前半部の第4段落に入っています。教会についての信仰を告白している箇所です。
 「教会は主キリストの体(からだ)にして、恵みにより召されたる者の集(つど)ひなり。教会は公(おほやけ)の礼拝(れいはい)を守り、福音を正しく宣 (の)べ伝へ、バプテスマと主の晩餐(ばんさん)との聖礼典を執(と)り行ひ、愛のわざに励みつつ、主の再び来りたまふを待ち望む。」
 本日は、「愛の業に励む」、「主の再臨を待ち望む」という教会の使命を改めて確認します。
 日本基督教団宣教研究所編の「信仰の手引き 日本基督教団信仰告白・十戒・主の祈りを学ぶ」には、この項目について、次のような問答があります。
“問95 「愛のわざに励み」は何を意味しますか。
 答え 教会が主から教えられた愛のわざに生きることです。それは先ず、教会の中で互いに愛し合い、励まし合い、戒め合うという兄弟愛が行われ、教会が慰めの共同体となることです。第二に、教会同士の間でも、このようなことが行われることです。第三に、教会は世に対しても、愛と奉仕の務めを与えられています。
 問96 教会が「慰めの共同体となる」とは、どのようなことですか。
 答え 教会の交わりは、常に主イエス・キリストにある交わり、すなわち、主を仲立ちとする交わりです。その基礎は、共に礼拝を守り、共に聖餐に与ることの中にあります。従って、そこでは仕え合い、赦し合い、祈り合い、慰め合い、励まし合いや助け合いがなされると同時に、戒め合いもなされなければなりません。そのようにして、主が教えてくださったような兄弟愛が行われるときに、教会はすべての者の慰めの共同体となります。”
 共に、愛の業に励むことができますように。(No.736)

2018年 8月 19日

見張りの務め

 日本人310万人が犠牲になり、アジア諸国でも2000万人に上る死者を出した第二次世界大戦。日本の敗戦から、2018年8月で73年となりました。新聞やテレビで戦争の特集を見ますと、今でも、重い口をようやく開き、自分の悲惨な体験を証言として語り始める人が数多くおられます。わたしは戦争を直接体験していない世代ですから、証言をしっかりと見て聞いて、戦争の悲惨さ、愚かさ、過ちを繰り返さないように、祈り、考え、行動したいと思います。
 日本基督教団信仰告白で、教会は「主の再び来りたまふを待ち望む」と信仰を言い表しています。主キリストが再び来られこの世界と歴史に決着をつけられる、と教会は信じています。そのときまで教会は世にあって、世に属さず、世における使命を果たします。その一つは預言者としての使命である、「見張りの務め」です。エゼキエル書第33章7節以下です。
 「人の子よ、わたしはあなたをイスラエルの家の見張りとした。あなたが、わたしの口から言葉を聞いたなら、わたしの警告を彼らに伝えねばならない。 わたしが悪人に向かって、『悪人よ、お前は必ず死なねばならない』と言うとき、あなたが悪人に警告し、彼がその道から離れるように語らないなら、悪人は自分の罪のゆえに死んでも、血の責任をわたしはお前の手に求める。しかし、もしあなたが悪人に対してその道から立ち帰るよう警告したのに、彼がその道から立ち帰らなかったのなら、彼は自分の罪のゆえに死に、あなたは自分の命を救う。・・・わたしは生きている、と主なる神は言われる。わたしは悪人が死ぬのを喜ばない。むしろ、悪人がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ。立ち帰れ、立ち帰れ、お前たちの悪しき道から。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。」(エゼキエル33・7~11)
 この国の人々が悪から離れるように、この国に置かれている教会は責任を負っています。
(No.735)

2018年 8月 12日

聖餐における共同体

 2018年度の定例役員会では、学びの時間を持っています。テキストは辻宣道著「教会生活処方箋」です。1章ずつ、わたしが朗読して、感想など聞かせてもらっています。今月の定例役員会は、第4章「聖餐における共同体」でした。冒頭部分を引用します。
 “ブルーダーの『嵐の中の教会』を婦人会で読んだ時のことです。「聖餐」の持つ意味に圧倒されそうになりました。
 ドイツにリンデンコップという小さな村がありました。ヒトラーが暴威をほしいままにする日まで、この小さな村の教会では、毎日曜日、豊かな礼拝が献げられていたのです。
 ヒトラーの圧迫が目に見えて激しくなったある年の秋、グルント牧師は村の教会のひとびとにむかってこう語りました。
 「・・・今日、国民共同体は、キリストのしるしとは異なるしるしのもとにおかれております。しかし聖餐式によってうまれる共同体は、国民共同体よりもはるかに深いものがあります。私たちは、ひとりのお方の死を通して、このパンとぶどう酒において、お互い同士結び合わされて一つになるのです」。
 あの状況のもとで、このことを口にするのは大変勇気のいることでした。すべての流れがヒトラーへ、ヒトラーへむかっているとき、ひとりのお方(イエス・キリスト)によってのみ私たちは一つになると宣言したのですから。・・・
 日本の教会はどうだったでしょう。天皇のもとにある共同体より、パンとぶどう酒のもとにおける共同体のほうがはるかに深い、といい得たでしょうか。残念ながらそうではありませんでした。いざというとき、パンとぶどう酒はふっとんでしまいました。それほど聖餐によって成り立つ共同体という意識は低かったのです。・・・”
 今日の日本の教会も、西川口教会も、いざというとき、嵐の中でも、聖餐によって成り立つ共同体であり続けられるでしょうか。問われます。(No.734)

2018年 8月 5日

祈りとは

 ようやく、西川口教会アシュラムのファミリー祈祷表が完成しましたので、本日、アシュラムの参加者と、祈り課題を提出された方には、祈祷表を週報ボックスに入れておきました。お互いのために、執り成しの祈りに励みましょう。何よりも、アシュラムの講師の西海満希子先生が、毎朝、西川口教会のために、アシュラムのすべてのファミリーのために、執り成し祈ってくださいます。本当に大きなお恵みであり、励ましです。
 最近読んだ文章で、祈りの姿勢が正される思いがいたしました。ご紹介いたします。「愛と自由の言葉 一日一章」の「7月28日」の文章「現代生活の忙しさ」(ジョン・ベイリー)より。
 “わたしたち現代人は、このんで、じぶんはひどく忙しいのだ、と考えたがるのです。・・・
 そもそも、忙しすぎて祈れないひとは、忙しすぎて考えないひとです。ところで、意味と目的をたえず考えることなしにする仕事に、いったいなんの益があるでしょうか。祈りとは、おもいを神にむけることです。イエスなら、こういわれるでしょう。わたしたちの仕事についての、すべてのふかく正しいおもいは、神にむけられるべきであり、したがって、祈りの性格をもつべきであると。わたしたちのするすべてのよいことは、神がわたしたちのなかにいまし、わたしたちをとおして働きたもうたのだ、といわれるでしょう。イエス自身いわれました。「わたしは、自分からは何事もすることができない」(ヨハネ5・30)。”
 この文章で特に心を動かされたのは、次の言葉です。「意味と目的をたえず考えることなしにする仕事に、いったいなんの益があるでしょうか。祈りとは、おもいを神にむけることです」。先週の懇談会の発題でもお伝えしましたが、会堂建築に際して、気をつけないと、会堂を建てることが目的になってしまう。そうではなくて、福音の宣教のために会堂を建てるということ。これは一つの例です。祈りとは、神に思いを向けて、「何のために」「だれのために」をたえず考えることです。(No.733)

2018年 7月 29日

いかなる時にも間に合う書物

 2014年2月5日・6日の祈祷会から、詩編をコツコツ学び始めて、先週は147篇を学びました。詩編の参考資料はたくさんありますが、この学びでは、雨宮慧先生、月本昭男先生、関根正雄先生の解説を参考にしました。そして、何よりも北森嘉蔵先生の「詩篇講話」もしばしば参考にして紹介しました。北森先生のカルチャーセンターでの講義を文章起こしたものなので、分かりやすく、かつ深い説き明かしだったからです。
 先週の祈祷会の学びから北森先生の文章を紹介します。
 “・・・先ほどは147篇3節の後半を取り上げたのですが、3節の前半に、「主は心の打ち砕かれた者をいやし」〔口語訳〕とあります。心が砕かれるといってもピンからキリまでありますが、ここで聖書が書いているのは、心が粉みじんに打ち砕かれたケースではないでしょうか。その人間をいやすということが、傷を包むということです。だから、この傷というのも、かすり傷程度の傷ではない、いやされがたい傷ではないでしょうか。・・・
 人間の世界に、ある程度の傷については相談に行ける相手はいると思います。けれども底なしの深淵に類するような問題を持って行って、受け止めてくれるような人間は皆無です。これは絶対にいない。錯覚してはなりません。神とは何者かという時に、神とは、わたしの表現で言えば、「底なしの深淵を倉におさめてくれるものだ」〔詩編第33篇7節より〕というふうに定義したいのです。・・・私は詩篇の特色を、いかなる時にも間に合う書物だというふうに最初に申しましたが、今、最後になって、そのいかなる時とはどういう時かと申しますと、それは底のない深淵が口を開く時だと言っていいと思うのです。その時に間に合うものは、もはやあの人間、この人間、あの書物、この書物ではないのです。そういう言葉に、もう一度最後にめぐり合うことをゆるされたことを感謝して、終わらせていただきます。”
(No.732)

2018年 7月 22日

教会は「広場」になろう

 7月16日、大宮教会にて、2018年度関東教区の宣教を考える集いが開催されました。関東教区宣教部では、毎年7月の海の日に、「関東教区の宣教を考える集い」(宣教綜合協議会)を開催し、教会が今担うべき宣教の課題について学んでいます。今回は、昨年度に引き続いて、テーマは「教会は『広場』になろうpart2」―地域の居場所としての教会―でした。
 開会礼拝は、宣教部委員長の飯塚拓也牧師の牧会する竜ケ崎教会の子供たちが、司会と賛美のリード、聖書の朗読をしてくれて、驚き、ほほえましく感じました。開会礼拝の説教は、前十日町教会牧師で、今は、京都教区世光教会牧師の新井純先生でした。続いて、新井先生による主題講演「ベテスダの家が生まれた日」を伺いました。主題講演の後で、わたしが、「川口がん哲学カフェいずみの取り組み」の紹介をさせていただきました。その後は、小グループに分かれて昼食と交流のひととき、終わりの全体会では、グループの報告と、講師への質疑応答がありました。
 宣教を考える集いの案内文にはこのようにありました。
 “AI化がますます進む社会は、一見便利さを増したと思われがちです。その便利さは十分に享受しながらも、いくら社会が進化しても解決することができないことがあることを指摘しなくてはならないでしょう。
 それは、「人のいのち」「人がそこに存在している」ことがどのくらい重んじられているのかということです。言い換えると、進化のはざまにおかれ、声にならない声をあげている人たちが増えていて、その人たちが自分の居場所を求めているのです。この声を現代の教会は聞く必要があるのではないでしょうか。”
 猛暑の中、各地区から参加された方々が、小グループのとき、また、全体会において、「自分たちには何ができるだろうか」と真摯に問い合っていた姿に希望を感じました。
(No.731)

2018年 7月 15日

アシュラムと研修の恵み

 7月7日・8日と、第43回西川口教会アシュラムが開催されました。コロサイの信徒への手紙がテキストでした。講師の西海満希子先生の、力強いみ言葉の説き明かしをいただき、励まされました。御言葉に静かに耳を傾け、豊かに養われました。また1年、新しく互いのために祈り合います。西海先生は、もう1年、アシュラムの参加者のため、西川口教会のため、毎朝お祈りしてくださいます。まことに感謝です。
 アシュラムの静聴の時、伝道者、牧会者である使徒パウロの教会に対する熱い思いが感じられるところに、特にわたしの心が動かされるように思いました。御言葉を分かち合います。
 「この頭の働きにより、体全体は、節と節、筋と筋とによって支えられ、結び合わされ、神に育てられて成長してゆくのです」(コロサイ2・19)。西海先生の説教で、「コロサイの信徒への手紙の主題は『教会の頭はキリスト』です」と語られました。この頭にしっかりと結ばれているとき、キリストの体である教会が育まれ、成長させていただけます。「頭にしっかりと結ばれる」とは、使徒パウロがフィリピの信徒への手紙で書いているように「自分がキリスト・イエスに捕らえられている」(フィリピ3・12)との信仰にとどまることだと思います。自分の頑張りではありません。
 「神が御言葉のために門を開いてくださり、わたしたちがキリストの秘められた計画を語ることができるように。・・・時をよく用い、外部の人に対して賢くふるまいなさい。いつも、塩で味付けされた快い言葉で語りなさい」(コロサイ4・3、5~6)。「塩で味付けされた言葉とはどういうことか」と、問いながら、追い求めます。
先週の7月10日、大宮教会で埼玉地区教師一日研修会が開催され、参加しました。主題は「牧会」でした。3人の牧師の発題とグループディスカッションは、体験からの率直な発言が多く、とても有益でした。教会を形成する伝道、牧会のあり方を学びました。感謝です。(No.730)

2018年 7月 8日

礼拝の本質

 2016年6月から始まった佐々木家家庭集会は、先週の7月3日で第13回目となりました。「人生を導く5つの目的―自分らしく生きるための40章」(リック・ウォレン著)をテキストとして、信仰に生きるとはどういうことか、語り合っています。知識を増やすことよりも、テキストが語っていることと、今の自分の信仰とがどういう関係にあるのかを考えます。実際の信仰生活の利益となるように願って、急がず、確実に、時に立ち止まって、という感じで進めています。何よりも、「こうして今日、顔と顔を合わせて、神様のお話を聞けた。それこそが恵み」と感謝して、毎回を過ごしています。
 この本では、各章の最初の文章がその章のテーマとして提示され、テーマを説き明かしていく流れになっています。
 先週の家庭集会では、第10日目「礼拝の本質」を途中まで読みました。「礼拝の本質は降伏にあります」と語られ、このように続きます。
 「…神に降伏することは礼拝の本質です。それは神の驚くべき愛と憐れみに対する自然な応答です。私たちは、恐れや義務感からではなく、『神がまず最初に私たちを愛してくださった』ので、自分自身を神にささげるのです。・・・
 私たちが神に降伏するのを妨げるものが三つあります。それは、恐れ、プライド、そして混乱です。私たちは神がどれほど私たちを愛してくださっているのかが分からず、自分で自分の人生をコントロールしたいという欲求に駆られます。・・・
 しかし、神に降伏するということは自由になることであって、決して虜(とりこ)になることではありません。私たちが自ら進んで主イエスに明け渡す時、私たちは神が圧制者ではなく救い主であること、上司ではなく兄弟であること、そして独裁者ではなく友であることを見出すのです」。
 昨日から教会アシュラムを過ごしています。礼拝と祈りの中で、主の愛を受けとって、主に自らをささげることができますように。
(No.729)

2018年 7月 1日

恵みを受け継いで

 先週は、第35回女性教職神学研究会に出席しました。わたしがこの研究会に出席したのは、大宮教会で開催されるようになってからで、今年で3回目です。
 懇談の時間に、この研究会の経緯を伺いました。「女性教職神学研究」第30号(2014年6月)に経緯について記録があります。この研究会の発端は、日本基督教団教会婦人会連合の婦人教職問題研究委員会の委員であった女性教職数名が、自分たちで学び合おうとの志を与えられたことにあります。教会婦人会連合が日本の女性教職の歴史を記録「豊かな恵みへ」(山本菊子編)としてまとめたとき、日本での最初の女性牧師の按手礼が1933年12月5日の日本基督教会大会(富士見町教会)において行われたこと、高橋久野牧師が按手を受けたことが明らかになりました。「1983年12月5日、東京の銀座教会に全国から女性の牧師が集まった。その日が女性教職の先輩の高橋久野が按手を受けてからちょうど50年であることを記念する集会をという10名ほどの呼び掛け人によってなされたのに応えて、70余名がこれに参加したのであった」(「豊かな恵みへ」137ページ)。その次の年に、「女性教職神学研究会」第1回が開催され、毎年集まることとなりました。35年前の発足当時は女性教職はまだまだ数少なく、教会に男女の偏見がないとは言えない状況でした。女性だけの神学研究会が必要でなくなるまでは、研究会が続けていけるようにとの願いがありました。しかし近年は、中心になって研究会を担って来られた女性教職の先生方が隠退され、神の御許に召されたとのことです。
 埼玉地区は、女性教職(この言い方も不自然ではありますが)が主任牧師の教会がいくつもあり心強く思っています。そのような状況になるまでは、先輩の女性教職の牧師たちの苦闘、忍耐、励まし合いがあったことを思います。牧師へと召しだしてくださった神の恵みを受け継いで今があることを感謝しました。
(No.728)

2018年 6月 24日

生が誘惑となること

 先日、説教の黙想のために、竹森満佐一師の説教を読んでいたところ、非常に考えさせられる文章に出会いました。それは、人が生きることそのものが、神から離れさせる力となりうる、という指摘です。ご紹介します。
“死も生も、・・・その他どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのである。(ローマ8・38~39、口語訳)
 パウロが最後に挙げた、キリストの愛に抵抗する力があります。・・・
 生はなぜ、われわれを脅かすのでしょうか。生の場合は、死がすべてのものを脅かし、灰色に塗りつぶしてしまうのに対して、生は、あらゆるものに希望があるかのように思わせるのではないでしょうか。命がありさえすれば、何とかなる、死んではすべておしまいだというのですが、それは死が恐ろしいからだけではなくて、生がたくみに多くの喜びを生み出すことを、示しているのであります。それらのものはみな、死の前には消え去るかもしれませんが、それがある限りは、人間の生活は喜びがあるように思われるのであります。しかも、その喜びは、信仰の喜びにまさるようにさえ、思われることがしばしばあるのであります。そこで、生はキリストの愛から、われわれを引き離しうる力を持つと考えられるのであります。
 しかし、生が造り出すものは、どんな魅力のあるものでも、力強く見えるものでも、死の前には、皆無力であることは、前に申したとおりであります。・・・”
 死も、キリストの愛には勝つことはできません。「最後の敵として、死が滅ぼされます」(コリント一15・26)。地上を生きる限り、誘惑との戦いは避けられません。生も誘惑となるのです。だからキリストの愛を信じて生きるのです。キリストの愛を受けとるのは祈りによってです。その祈りに生きるための訓練が教会アシュラムです。キリストの愛によって、戦いに勝利するのです。(No.727)

2018年 6月 17日

絶えず変化する時代の中で

 今わたしは、隔月で、草加キングスガーデン(以下、KG)と川口KGの礼拝の奉仕をしています。草加KGも川口KGも、毎日、礼拝をささげています。近隣の諸教会から牧師たちが交代で礼拝の奉仕をしています。
 それぞれの施設で、以前、西川口教会員や教会員のご家族が入所していたことがありました。そのつながりを大切にしたいと思い、2012年7月から礼拝の奉仕を始めました。早いもので丸6年となりました。少しずつ、知っている人も増えてきました。礼拝奉仕を終えると、月報「西川口だより」をお渡ししています。月報を楽しみにしてくださる方もおられ、うれしく思っています。
 いつもは草加KGでの礼拝を終えると、すぐに川口KGに移動しますので、草加KGの礼拝参加者と話す機会はありません。草加KGのボランティア担当の方から依頼があり、一昨年から年に一度、草加KGの礼拝の後、草加KGケアハウスに入所されている方々のうち10数人と、約1時間「交わりカフェ」という時を過ごすようになりました。「地域交流スペース」というカフェのような居心地のよい場所があり、そこで行われています。6月11日、わたしにとって3回目の交わりカフェがありました。救いの証、献身の証、関心のあることなどお話しして、参加者の方々から質問などを受けます。
 先日の交わりカフェではこのような問いを投げかけられました。「自分たち高齢者にとって、この時代の変化はあまりに速く大きくて、ついて行けない。若い人たちの使う言葉はカタカナが多くて理解できない。先生は、どう思い、どう考えますか」。「子供たちや若者の伝道はどうしていますか」。どちらも元牧師の先生からの問いで、まことに真剣な、安易には答えられない問いかけでした。今はどのような時代なのか、絶えず変化していく時代の中で、揺るがない福音を、誰に、どのように伝えていくか、常に問われています。(No.726)

2018年 6月 10日

「麦の会」を知ってください

 本日は、祈り待ち望んでいた特別礼拝と講演会です。「麦の会」のメンバーの方々がいらしてくださいました。特別礼拝の説教者ジュリアーノ・デルペーロ師は、聖ペトロ・パウロ労働宣教会の修道士でいらっしゃいます。配付された資料に基づいて「麦の会」を紹介させていただきます。
 「被拘禁者更生支援ネットワーク麦の会」は、現在この聖ペトロ・パウロ労働宣教会に事務局を置いています。「麦の会」は1980年、死刑廃止を目的に拘置所の中の5人の未決死刑囚の人たちによって結成されました。名前はヨハネ福音書第12章24節「はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」からとられました。会員一人ひとりが自己犠牲の精神で自ら不利となってでも死刑廃止のための一粒の麦となるという目的をもって命名されました。
 「麦の会」の活動は、死刑問題に加え、更生を目指す方の支援、人間の尊厳や更生を阻害するような行き過ぎた処遇の改善を求めることなどを目的とし、麦の会通信『和解』(年三回)を発行しています。獄外者に広くご協力を求め、死刑囚の心を支え、獄中者の真の更生の支えとなるような文通を継続的に行い、一人一人との人格的なつながりを育む根を張った活動をしています。
 麦の会では文通者を募集しております。あたりまえの感情をあたりまえに表現できる、受け止めてくれる誰かがいる。それこそが更生への第一歩です。受刑者たちの心の声にどうか耳を傾けてみてください。理解してくれる人がいたら、もしかしたらその犯罪は防げたかもしれません。手紙は閉ざされた彼らの心の扉を少しだけ開いてくれるかもしれません。(以上、資料より)
 「さあ・・・天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちはわたしが、・・・牢にいたときに訪ねてくれたからだ」(マタイ25・34~36)。 (No.725)

2018年 6月 3日

教会は何をするか

 2018年度も、原則として月に一度「日本基督教団信仰告白」をもとに説教を続けています。
 4月から、日本基督教団信仰告白の前半部の第4段落に入りました。教会についての信仰を告白している箇所です。
 教会は主イエス・キリストの体であり、神の恵みによって選ばれた者たちの集まりです。ここでの「教会」とは教会堂ではなくて、信徒の群れである信仰共同体です。言い換えれば、洗礼を受けてキリストのものになったわたしたちです。
 その主キリストの体である教会(わたしたち)は何をするのか。そのあとに続く日本基督教団信仰告白の言葉がそれを述べています。すなわち、「公の礼拝を守る」、「福音を正しく宣べ伝える」、「洗礼と聖餐を執行する」、「愛の業に生きる」、「主の再臨を待ち望む」ことです。これらのためにこそ教会は地上に置かれています。わたしたちは、キリストの体である教会のなすべき業を担い、果たしていくために、神に招かれ、選ばれたのです。
 「公の礼拝を守る」とは、教会の存在自体が、世にあって公の存在であるということ。英語で言うと、プライベート(私的)ではなく、パブリック(公)であるということです。礼拝は公的な行為です。説教を始め、語られる言葉も公的な言葉であることが求められます。そのようにして、教会は社会的責任を負う存在とされています。

 この公の礼拝において、福音が正しく説教され、洗礼と聖餐の聖礼典が執行されます。主日礼拝は教会活動の中心です。それをきちんとふまえたところで、福音の宣教と聖礼典の執行は、わたしたちが遣わされたところにおいてもなされます。
 先月の5月25日にMさんの病床洗礼式を執行しました。二日後の27日に病床聖餐を執行しました。その病床において、福音の言葉が語られ、聞かれました。病床において、洗礼と聖餐が執り行われました。まことに思いがけないこと、それだけに、人の思いを越えた神の恵みの選びであることをひしひしと感じました。(No.724)

2018年 5月 27日

第68回関東教区総会

 5月23日から24日まで関東教区総会が開催されました。
 開会礼拝では、佐野教会(栃木地区)の石川榮一牧師が説教をされました。礼拝の後、組織会があり、教区総会開会宣言がなされました。仮執行順序が承認され、議事が進められました。来賓の紹介、新任教師の紹介、隠退教師の紹介、関東教区で25年仕えた教師の感謝の時が持たれました。
 午後の冒頭は、按手礼式と准允式が執り行われました。坂口慶行師(水戸自由ヶ丘教会)が按手を受けられ、大久保一秋師(飯能教会)、佐藤繁師(菖蒲教会)、高橋真之師(大宮教会)、平向倫道師(東中通教会)、山野心師(下館教会)、渡邊典子師(所沢武蔵野教会)の6人が准允を受けられました。

 今年の秋に開催される教団総会議員選挙が重要議案ですが、それに先立ち議案第20号「教団総会選挙に関する件」が上程されました。教師・信徒共に14名を選出するところを、全数連記ではなく、教師・信徒共半数の7名連記するというものです。こちらの審議が先になされ、無記名投票により、反対が過半数を超えたので、この議案は否決されました。全数連記で第1回選挙(予備)が行われました。午後5時からは、西川重則氏による学習会が行われました。今年から分科会がなくなり、夕食後も議事を進めました。
 2日目は、最初に福島純雄副議長の司式で逝去者追悼礼拝が行われました。その後、昨日行われた選挙の結果では、信徒・教師とも28人が選ばれ、第2回目の選挙(本選)が行われました。その後、九州教区から来られた副議長の日下部遣志牧師が挨拶をされ、続いて教団問安使の雲然俊美教団書記の挨拶と質疑がなされました。
 議事に入り、昨日から続いていた議長報告は、報告文の一部を削除し、承認されました。教団総会議員選挙結果が報告されました。時間が押していたので一部の議案は常置委員会付託となりました。最後に福島純雄副議長の祈りをもって関東教区総会が無事終了しました。(No.723)

2018年 5月 20日

聖霊に生かされる人間

 報告が遅くなりましたが、皆様のお祈りに支えられて、5月7日から10日まで、片道1時間のドライブの通い参加で、説教塾の東京セミナーに出席できました。東京、埼玉、神奈川のほか、タイのバンコクから、また沖縄から、関西、金沢、群馬から、18人の参加者が、加藤常昭先生のご指導のもと、説教黙想から作成、説教演習と説教批評まで、共同の学びをいたしました。
 加藤先生は、先月入院して心臓のカテーテル手術を受けた後にもかかわらず、御自分の黙想と、釈義資料、さらにドイツ語の説教黙想の翻訳と、26ページもの資料を作成してくださいました。また、説教演習と説教批評を一人でも多くできるように、3日目の夜の終わりの時間を10時まで延長しようと加藤先生がおっしゃって、その情熱に頭が下がりました。命を削るようにご指導され、これが最後になるかもしれないとの思いの中、真剣な学びの時を過ごしました。
 今までの説教塾の学びで加藤先生が話され、書物にもお書きになり、今回のセミナーでも触れておられましたが、「der Geistliche」というドイツ語があります。牧師、説教者のことを指しますが、意味は「霊に生きるひと」「聖霊に生かされる人間」です。けれども、今日ではあまり用いられなくなってきているそうです。それは、説教者が聖霊によって生かされるということについて確信が無くなっているからではないか、という問いがあります。日本の牧師たちも他人事ではありません。牧師の説教がただのお務めにすぎなくなってしまったら、教会は倒れてしまいます。説教によって、教会は立ちもし、倒れもすると言われます。そのことは分かっているのですが、自己吟味にも限界があります。ですから、こうしたセミナーに参加して、信頼関係の中で説教批評をいただけるのは、本当に貴重な機会です。参加者全員はできないので、くじで説教演習者を決めましたが、見事にくじに当たりました。尊い学びを感謝しています。
 加藤先生の体調のためにもお祈りください。(No.722)

2018年 5月 13日

神に呼ばれたいのちを生きる

 今日は母の日。また午後には、春日部墓苑で墓前礼拝をささげます。人は関係の中で生きていることを改めて思います。先週の週報短文に引き続き、5月3日の「関東こころの友伝道講習会」の深井智明先生の講演のお言葉を分かち合いたいと思います。改革者ルターが「全信徒祭司性」に関わる大切なこととして「召命」(ドイツ語で「ベルーフ」)を大切にしたことを語られました。
 講演②より  召命(ベルーフ)というのは神さまに呼ばれていること。ルーフは「呼ぶ」という意味。ドイツ語では「職業」という意味でもある。ベルーフというのはとても広い概念で、わたしたちに命や人生をくださった神様がわたしたちを呼び出す時、それをベルーフという。
ルターが生きていた時代のベルーフは、王、貴族 聖職者であった。「あの人たちは神に特別に召されているから」と特別視している言葉であった。しかし、ルターは、パン屋さんも農家も教師も、あらゆる人にベルーフがあると言った。これが「全信徒祭司性」で言いたかった重要な点。皆がそれぞれの仕事に召されている。この仕事は、偶然ではなくて、神が「あなたにしかできないから」と言って与えられたもの。すべてをご存知の神が一人ひとりに、ベルーフを与えてくださっている。これがルターの考え。
 ルターはこんなことも言っている。それは仕事だけではない。あなたがこの人と結婚すること、きょうだいになる、親になる。これもベルーフ。あなたにしかありえないから、あなたはこの人と結婚した。子供が与えられる。この子の親はあなたしかありえないから、あなたはこの子の親なのだ。神は、仕事だけではなく、関係も使命もくださっている。近頃、自分の子供をどう育てていいのかわからない、家庭をどう考えていいかわからないということがある。ルターの答えは、この家族は、この家庭は、あなたでなければならない使命が与えられている、というものである。(No.721)

2018年 5月 6日

「伝道の喜び」

 2018年5月3日に、第46回「関東こころの友伝道講習会」が開催され、西川口教会からは8人が参加しました。会場は日本基督教団新宿西教会(新宿区歌舞伎町)でした。講師は、深井智朗(ふかい・ともあき)先生(東洋英和女学院院長)。「伝道の喜び―私たちが救われたこと、私たちが伝えたいこと」(コリント一15・1~11)」の主題のもと、2回の講演を伺いました。ごく一部ですが、心に残ったことをご紹介します。
 講演①より。 聖書を読み直してみた。弟子たちの姿を見て気がつくことは、失敗談ばかり。ペトロは主イエスに「サタンよ、引き下がれ」と言われた。また主イエスを三度も知らないと言ってしまう。パウロはキリスト教徒を迫害したという過去を持っている。弟子たちは、伝道していく間に、ケンカしたり、裏切ったりということがたくさん出てくる。伝道の破れ、人間の破れの話である。気づいたことがある。「これが伝道説教だったのではないか」。わたしは昔このような人間で、こんな失敗をした。しかし今は、イエス・キリストに出会い、救われ、生きる喜び、力をいただいている。だから弟子たちは過去を語れた。過去を乗り越えたということ。これが最初の伝道説教だったのではないか。救われた喜びの確かさを語る。われわれの伝道はそこが出発点ではないか。

 講演②より。 マタイ福音書第25章14節以下のたとえばなしの「1タラントン」は、あえて言えば「1兆円」で、要するに「使えきれないほど」という意味。それほどの才能を既に与えられている。そんなに持っていると自分は気づいていない。大事なのは、タラントンに気づき、用いること。神の前に出ることによって、日々新たに自分を発見していく。伝道者の訓練はそれだと思う。神が既に与えてくださっているのに気づいていないタラントンを見つけること。それが礼拝の時であり、聖書を読み祈る時である。神という鏡の前に出る。そこで真実のわたしを見つける。神はわたし以上にわたしをご存知の方である。(No.720)

2018年 4月 29日

教会はキリストの体

 2018年度も、原則として月に一度「日本基督教団信仰告白」をもとに説教を続けます。共に、教会の信仰の筋道を理解し、それによって、キリストの教会を建て上げていきましょう。
 日本基督教団信仰告白の構成について、もう一度書いておきます。「我らは信じかつ告白す」と宣言し、その次に四つの段落があります。ここまでがこの信仰告白の前半部です。次いで「我らはかく信じ、代々の聖徒と共に、使徒信条を告白す」と述べ、「使徒信条」が導入されます。これが後半部となります。
 前半部の第1段落は「聖書は神の言葉」、第2段落は「三位一体の神、キリストの受肉と贖いを信じる信仰」、第3段落は「恵みの選び、信仰義認、聖化についての信仰」、第4段落は「教会についての信仰」を告白しています。
 本日の礼拝から第4段落に入ります。
 「教会は主キリストの体(からだ)にして、恵みにより召されたる者の集(つど)ひなり。教会は公(おほやけ)の礼拝(れいはい)を守り、福音を正しく宣 (の)べ伝へ、バプテスマと主の晩餐(ばんさん)との聖礼典を執(と)り行ひ、愛のわざに励みつつ、主の再び来りたまふを待ち望む」
 日本基督教団宣教研究所編の「信仰の手引き 日本基督教団信仰告白・十戒・主の祈りを学ぶ」には、教会についてこういう問答があります。
“問70 「キリストの体」とは何ですか。
 答え 「キリストは教会の頭であり、一人一人はその部分である」と言われています。ですから、教会は単なる人間の集まりではなく、まず何よりも、聖霊によって生まれ、形づくられたものです。それは、すでに天に昇られたイエス・キリストが、霊においてこの地上に現臨し、形づくっておられる体です。このキリストの体は信仰によって捉えられるものなので「見えない教会」とも呼ばれます。” 教会は「キリストの体」とは平易な表現でありながら、奥深い内容を含んでいます。教会を理解できますよう、聖霊の助けを祈ります。(No.719)

2018年 4月 22日

神とその恵みの言葉にゆだねて

 先週4月15日の主日礼拝に、西川口教会の初代牧師の横山義孝先生がおいでになり、共に礼拝をささげました。91歳の高齢にもかかわらず、お一人で電車を乗り継いで、西川口教会に来られました。礼拝では、横山先生の力強い賛美の声に一同驚きました。横山先生は、どの集会でも常に一番前の席にお座りになりますが、この礼拝でも同じで、ただひたすら主を慕い求めて礼拝をささげるお姿に感銘を受けました。礼拝の報告の時に横山先生からご挨拶がありました。このたび横山先生は自分史「恩寵溢れる歩み ―70年の伝道の恵み―」を出版されました。西川口教会員に贈呈してくださるとのことで、感謝して頂戴いたしました。礼拝後の愛餐会も、主にある交わりの喜ばしいときとなりました。横山先生の存在が神の祝福のしるしであると思いました。
 横山先生の御本を読みながら、使徒パウロの言葉が思い出されました。
「だから、わたしが三年間、あなたがた一人一人に夜も昼も涙を流して教えてきたことを思い起こして、目を覚ましていなさい。そして今、神とその恵みの言葉とにあなたがたをゆだねます。この言葉は、あなたがたを造り上げ、聖なる者とされたすべての人々と共に恵みを受け継がせることができるのです」(使徒20・31~32)。
 これはパウロがエフェソ教会の長老に告げた勧告の言葉です。このパウロと横山先生が重なるようでした。御本をいただいて「目を覚まして生きるように」と、励ましをいただいた思いがします。御本を通して、溢れる恩寵に生かしてくださった神を証しておられます。
 横山先生が開拓伝道を始められたのが1950年4月です。今年68周年を迎えました。本日は教会総会があります。思いを新たにして、わたしたちを造り上げ、聖徒として共に恵みを受け継がせてくださる神の言葉にゆだねて、また神の言葉に立つ教会として、歩んでまいりましょう。(No.718)

2018年 4月 15日

熊本大分地震から2年

 2018年4月16日には、熊本・大分地震発生から2年となります。関東教区総会議長の東野尚志先生(聖学院教会牧師)と、関東教区災害対応支援委員会の飯塚拓也先生(竜ヶ崎教会牧師)の連名で、関東教区諸教会・伝道所に向けて、「熊本・大分地震から2年 4月16日を迎えるにあたって」と題してのメッセージが届きました。またこのメッセージに添えて、九州教区総会議長梅崎浩二先生から「九州教区より、関東教区の皆様へ」と題して、再建復興の現状報告と支援のお願いのメッセージが届きました。

 これらは掲示板に掲示してありますが、かいつまんでメッセージをお伝えします。
 被災地においては、仮設住宅へと被災者の生活の場は移りましたが、まだ復興にもたどり着けない多くの人々がおられます。
 日本基督教団九州教区は、在日大韓基督教会と連携して、ボランティアセンター・エルピス熊本を設立して、仮設住宅での生活支援に取り組んでくださっています。
 日本基督教団九州教区では、15の教会に建物被害がありました。そのなかで、再建・補修が完了したのは8教会、再建・補修の途上にあるのが2教会、再建・補修の目途が立たない教会が5教会あります。
 4月16日を迎えるにあたり、被災地・被災教会に思いを寄せ、祈りを共にしていただきたく、被災の出来事を風化させることのないように祈りましょう。4月15日の各教会の礼拝において、熊本・大分地震からの復興を覚え祈ってくださるようお願いいたします。
 関東教区は、第67回関東教区総会において、日本基督教団が取り組んでいる「熊本・大分地震被災教会会堂等再建支援募金」(目標額1億8千万円)に対して、関東教区として総額2千万円を目標に取り組むことを可決しました。現在は、その目標額の半分まで達成しています。引き続きお祈りとお支えをよろしくお願いいたします。(No.717)

2018年 4月 8日

聖霊による愛と赦しの教会

 2018年度が始まりました。4月22日の教会総会の議案書は、来週15日に皆様の週報ボックスに入れますが、ここで教会の活動方針案から、主題についてお伝えしておきたいと思います。
 西川口教会は6つの目標を掲げています。これは変わりません。
「1.主日礼拝を重んじる教会へ」、「2.聖書に親しみ常に祈る教会へ(祈祷会を大切に)」、「3.各自の賜物がよく活かされる教会へ」、「4.次世代への信仰の継承」、「5.受けるより与える教会へ」、「6.地域に奉仕する教会へ」。
 そして、2018年の西川口教会の御言葉は、「愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです」(コロサイの信徒への手紙第3章14節)。教会は主の愛の共同体です。もしも、どんなに立派な先生をお招きして特別集会をしても、いろいろな行事が無事に終わったとしても、教会の中に、祈り合い、赦し合い、支え合い、助け合う愛がなければ、どうなのでしょう。「愛がなければ、無に等しい」(コリント一13・2)。互いに陰口を言ったり、差別や排除や自己主張や争いがあったりしたら、それは主を悲しませ、主の名を汚し、互いを傷つけ、人々を教会から遠ざけることになります。主の愛で愛し合う愛の共同体であることが、宣教につながるのです。主の愛こそが、すべてを完成させて、わたしたちを結び合わせてくださるきずなだからです。
 そのことを心に留め、2018年度の教会の主題を「一人ひとりが祈る人―聖霊による愛と赦しの教会―」と提案しました。「一人ひとりが祈る人」これは昨年度と同じです。副題を変えました。祈りの中で、聖霊から注がれる愛に満たされて、互いに愛し合い、赦し合う教会に、共に生かされますように。一人ひとりが、神にどこまでも愛され、どこまでも赦されている喜びに生きられるように。その愛に押し出されて赦し合い、愛の業に生かされるように。主を待ち望みます。(No.716)

2018年 4月 1日

復活を信じるとは

 主の復活ハレルヤ! 主イエスは復活されました。教会は復活信仰に生きています。
 使徒言行録第26章に、使徒パウロがアグリッパ王に対して弁明している記事があります。パウロはこう語っています。
「神が死者を復活させてくださるということを、あなたがたはなぜ信じ難いとお考えになるのでしょうか。・・・つまり私は、メシアが苦しみを受け、また、死者の中から最初に復活して、民にも異邦人にも光を語り告げることになると述べたのです。」(8節、23節)
 神が死者を復活させてくださるとはとても信じられない、と人は言うでしょう。けれどもパウロは、そうではなくて、「神が死者を復活させてくださるということを、あなたがたは、どうして、信じようとしないのだ」と言っているのです。
 考えてみますと、これほど信じたいことはないのではないでしょうか。もし自分が死んでも、なお復活できるならば。それならば、信じればいいではないですかと、パウロは言うのです。なぜ信じようとしないのだ、と言っているのです。
 使徒パウロは、死者の復活を信じなければ、人生はすべて空しくなると語っています。復活の信仰は、現実的なことであり、日々の生活に非常に関わりのあることなのです。「もし、死者が復活しないとしたら、『食べたり飲んだりしようではないか。どうせ明日は死ぬ身ではないか』ということになります」(コリント一15・32)。つまり、「どうせ何十年かの命なので、それから先は、もう真っ暗闇なんだから、まぁ、なるべく楽しんで生きよう」と言うのでしょうか。それとも「どんなことがあっても、わたしにはこの復活の希望がある。この希望によって生きていくのだ」と言うのでしょうか。主の復活の出来事は、あなたはどちらを選ぶのですか、と問うているのです。
 主イエスの復活は、すべての人の希望です。この希望に共に生かしていただきましょう。
(参考 竹森満佐一説教集「わが主よ、わが神よ」)(No.715) 

2018年 3月 25日

「ネガティブ・ケイパビリティ」

 最近「ネガティブ・ケイパビリティ 答えの出ない事態に耐える力」(朝日選書)を読みました。精神障害者支援事業を行うNPO法人を運営している信仰の友が紹介してくれた本です。著者の帚木蓬生(ははきぎ・ほうせい)氏は、小説家であり、臨床40年の精神科医。初めて聞く「ネガティブ・ケイパビリティ」という言葉と、副題の「答えの出ない事態に耐える力」に興味を持ちました。
この本の「はじめに」の章にこうあります。
“・・・私たちは「能力」と言えば、才能や才覚、物事の処理能力を想像します。学校教育や職業教育が不断に追求し、目的としているのもこの能力です。問題が生じれば、的確かつ迅速に対処する能力が養成されます。
 ネガティブ・ケイパビリティは、その裏返しの能力です。論理を離れた、どのようにも決められない、宙ぶらりんの状態を回避せず、耐え抜く能力です。・・・
 私たちの人生や社会は、どうにも変えられない、とりつくすべもない事柄に満ち満ちています。むしろそのほうが、分かりやすかったり処理しやすい事象よりも多いのではないでしょうか。
 だからこそ、ネガティブ・ケイパビリティが重要になってくるのです。私自身、この能力を知って以来・・・随分楽になりました。いわば、ふんばる力がついたのです。それほどこの能力は底力を持っています。・・・”
 この本を読みながら、わたしはどうだろうかと問われる思いがしました。
 本日から受難週に入ります。ひたすら十字架へ向かわれた主イエスを思い起こすときです。主イエスは弟子たちに裏切られました。イエスをねたんでいた人たちの企みによって、主は不当な裁判で死刑の判決を受けました。十字架の上で「わが神、わが神」と祈り叫びましたが、父なる神は沈黙しておられました。不条理の極みの十字架刑を、主イエスは耐え抜いてくださいました。(No.714)

2018年 3月 18日

嘆き、泣く声を聞いてくださる方

 日本基督教団出版局発行の雑誌「信徒の友」に「日毎の糧」が掲載され、この聖書日課に従って、朝ごとに聖書を読み、お祈りしています。最近の聖書個所は旧約聖書のエレミヤ書が続いています。神の憐れみの御言葉に聴き、驚き、心揺さぶられるような思いがしています。時々お伝えしているように、日課の聖書を読んでから、分かち合いメールを配信しています。3月15日の聖書個所は、エレミヤ書第31章15節から22節まででした。分かち合いメールには、このように書きました。

“主はこう言われる。
 ラマで声が聞こえる
 苦悩に満ちて嘆き、泣く声が。
 ラケルが息子たちのゆえに泣いている。
 彼女は慰めを拒む
 息子たちはもういないのだから。
 主はこう言われる。
 泣きやむがよい。
 目から涙をぬぐいなさい。
 あなたの苦しみは報いられる、と主は言われる。エレミヤ31・15~16)
 
 あまりの苦悩に、慰めを拒否する人の心を、神はご存知です。その苦悩を癒し、苦悩から解き放ち、回復させてくださる神。教会に生きる者にとっては、主イエス・キリストがおられるから、主の言葉の確かさを信じます。十字架の死に至るまで苦悩しつくされた方。死に勝ち、死を死なせ、よみがえられた方が希望そのものです。”

 最近、思いがけず、苦悩のために呻くほかないような方々との出会いが続いていました。ですから、主なる神が「苦悩に満ちて嘆き、泣く声が聞こえる」とのエレミヤ書の御言葉に「主が聞いておられるのだ」と、勇気を与えられました。まことに主なる神は「苦しみは報いられる」と言ってくださるのだと、改めて確信しました。苦しみは苦しみで終わらず、涙がぬぐわれるときが来る。主から希望を受け取りました。(No.713)

2018年 3月 11日

3月11日を迎えるにあたって

 本日は、東日本大震災からちょうど7年となります。東野尚志関東教区総会議長(聖学院教会牧師)のメッセージを掲載します。

「2018年3月7日(水)

関東教区 諸教会・伝道所・関係学校・団体の皆様へ

 2018年3月11日を迎えるにあたって

 その日には、ユダは救われ、エルサレムは安らかに人の住まう都となる。その名は、『主は我らの救い』と呼ばれるであろう。(エレミヤ書33章16節)

 主のみ名を賛美いたします。

 レントの日々を歩み、主のご受難の道をたどる私たちです。
 さて、来る3月11日(日)に、「東日本大震災」発生から7年を迎えようとしています。この7年の間に再建の取り組みが進められていますが、しかしなお大津波の被害によって失われた尊いいのちへの悲しみと喪失の思いは消えることはありません。そして、東京電力福島第一原子力発電所の事故による放射能汚染の被害は、福島の地に深刻な影響を及ぼしたままです。
 また、「東日本大震災」発生以降も大規模な自然災害が連続し、2015 年9月9日から11日にかけて発生した「関東・東北豪雨」や、2016年4月14日に発生した「熊本地震」、2017 年7月5日から6日にかけて発生した「九州北部豪雨」による被災は各地に大きな被害をもたらしています。
 関東教区では、「東日本大震災」による被災の支援として、被災教会の会堂再建を中心に取り組んできました。また、東北教区被災者支援センターエマオへのボランティア派遣に取り組み、大津波によって大きな被災を受けた方々や被災地への支援に携わることを許されてきました。そして、関東教区内の被災教会や関連施設、アジア学院の再建にほぼ区切りをつけることができましたので、2018年3月11日を迎えるにあたっては教区として記念礼拝の開催や共同の祈り作成は行わないこととなりました。
 しかし、来る3月11日の主日礼拝においては、諸教会・伝道所におかれましてはぜひ覚え祈っていただきたくお願い申し上げます。
 このために、奥羽教区から「東日本大震災7年を覚えての礼拝」式文と、東北教区から「3・11わたしたちの祈り」をいただきましたので、「関東教区ホームページ」にて紹介しています。ぜひご覧くださって、被災の地に思いをはせながら、お祈りください。
 現在、日本基督教団では、「熊本・大分地震被災教会会堂等再建支援募金 」を1億8千万円を目標に取り組んでおり、関東教区ではその内2千万円をささげることを先の第67回教区総会で可決しました。この献金の推進が、私たちの大きな課題です。諸教会・伝道所におかれては今までも覚え祈り、ささげてくださっていますことを感謝いたしますと共に、引き続き募金が目標に達するようご協力いただけますようお願い申し上げます。
 レントを経て、4月1日は主の復活の喜びを迎えます。そのような中で、関東教区諸教会・伝道所の皆様が、主の復活の希望のうちに歩むことができますようお祈りいたします。

日本基督教団関東教区 総会議長 東野尚志
      災害対応支援委員会 飯塚拓也 」
(No.712)

2018年 3月 4日

神は十字架の上に

 今年のレント(受難節)は2月14日から始まりました。復活日(イースター)の前の、日曜日を除く40日間がレントとなります。主の苦難と十字架の出来事に思いをはせて過ごしています。
 昨年の2017年はルターの改革から500年の記念の年でした。ルターの生涯や改革の出来事などを改めて知ることができました。ルターは「受難の中に隠された神」を語りました。十字架の中に神が隠されているというのです。
 この世には不条理なこと、答えのないこと、助けのないことがあります。戦争や内戦が絶えず、難民を生み出しているこの世界。米国の銃乱射事件は寒々とした思いになり、心が痛みました。この国では若い世代の人たちが「死にたい」「消えたい」とつぶやく投稿がSNS(ソーシャルネットワークサービス)上にあふれています。不慮の事故や突然の災害に見舞われることがあります。そのとき、神はどこにおられたのでしょうか。
 神の十字架の中に隠されている、これがルターの答えでした。ルターは、キリストを本当に理解するためには、栄光に輝いている姿ではなくて、逆に十字架の上で苦しんでいる姿を通して、理解しなければいけないというのです。キリストが十字架の上で苦しんでいるということは、神が人間の罪を背負い、そのことによって人間の罪が赦されたということです。それは、むしろ十字架上で苦しむという姿で、神があらわれているのである。隠されてはおらず、恵みの神があらわれて、神の救いが啓示されている。隠された神こそ啓示の神である、とルターは言いました。人生の苦悩の中で、わたしたちが出会うのは「隠された神」。その神こそ、赦しと恵みの「啓示の神」。とは言え、ルターは、神の究極の姿はこの世では隠され続けるというのです。「世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。それは神の知恵にかなっています」(コリント一1・21)。(参考 NHKカルチャーラジオ「ルターと宗教改革500年」江口再起著)(No.711)

2018年 2月 25日

浦和別所教会献堂式

 2月18日(日)午後3時から、浦和別所教会献堂式が行われました。新会堂は、旧会堂から約500メートル離れたところに新築されました。国道17号(中山道)に面し、JR武蔵浦和駅から徒歩約10分、好立地です。
 献堂式の司式は担任教師の澤田石秀晴先生、説教は代務の大友英樹先生(赤羽教会)が担当されました。エゼキエル書第47章1~12節より、「命の川の流れるところ」と題して、大友先生は「第一に、新会堂が伝道のために大いに用いられ、ここから命の川、すなわち聖霊があふれ流れて、この浦和別所の地域に命を満たしていく、そのような教会になること。第二に、毎月実をつける果樹のように、救いの実りを収穫する教会とされることを願う」と、説教されました。献堂式の終わりには、関東教区総会議長・東野尚志先生(聖学院教会)と、ホーリネスの群委員長・村上義治先生(岩手・舘坂橋教会)が祝辞を述べられました。
 埼玉地区の近隣の教会から、そしてホーリネスの群の首都圏の教会から、大勢の教師と信徒の方たちが駆け付け、喜びを共にした、祝福に満ちた献堂式でした。出席者が礼拝堂に入りきらず、扉を解放して、椅子を並べて対応しておられました。それもまた溢れる喜びを表しているようでした。
 献堂式直後に礼拝堂で記念撮影があり、1階で感謝会がありました。1階は集会室と小礼拝堂があり、扉を開ければ大きく使えます。さらにご挨拶が続き、楽しいお祝いのときとなりました。
 西川口教会は68年前浦和別所教会の開拓伝道によって始まりました。昨年度、西川口教会は、親教会である浦和別所教会の新会堂建築のために大きな献金をささげることができました。献堂式で報告を伺い、浦和別所教会の苦難と忍耐があったからこそ、この日の喜びの献堂式を迎えたのだと思いました。「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む」(ローマ5・3~4)。新会堂を献堂した浦和別所教会の宣教の業を、主が豊かに祝福してくださいますようお祈りいたします。(No.710)

2018年 2月 18日

最良のものを与え続ける

 カトリック教会のインターネットのサイト「心のともしび」からの、「今日の『心の糧』」というメール配信のサービスを利用しています。いろいろな方(執筆者はカトリック信徒・聖職者の方々)のエッセイが届きます。2月15日の「心の糧」の中で、マザー・テレサの詩が紹介されました。わたしはこの詩を初めて知りました。
 『人は不合理、非論理的、利己的です。気にすることなく、人を愛しなさい。あなたが善を行なうと、利己的な目的でそれをしたと思われるでしょう。気にすることなく、善を行いなさい。目的を達成しようとするとき、邪魔立てする人に出会うでしょう。気にすることなく、やり遂げなさい。良い行いをしても、おそらく次の日には忘れられるでしょう。気にすることなく、し続けなさい。あなたの正直さと誠実さが、あなたを傷つけるでしょう。気にすることなく、正直で誠実であり続けなさい。あなたが作り上げたものが、壊されるでしょう。気にすることなく、作り続けなさい。助けた相手から、恩知らずの仕打ちを受けるでしょう。気にすることなく、助け続けなさい。あなたの最良のものを、世に与えなさい。蹴り返されるかもしれません。でも気にすることなく、最良のものを与え続けなさい』。
 このマザー・テレサの詩を紹介した方は、「この詩は彼女の人生体験からにじみ出た愛の勝利の賛歌であり、弱い私たちへの力強い励ましのメッセージだと思います」と述べておられました。本当にそうだと思いました。
 2月14日から今年の受難節が始まりました。「世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった」(ヨハネ1・10~11)。世は主イエスを認めず、拒否しましたが、主は最良のもの、すなわち御自身をお与えになりました。わたしたちは主によって救われました。主の十字架への歩みを、主の十字架の死とその意味を、このとき、いっそう深く思いめぐらします。(No.709)

2018年 2月 11日

共に喜び、共に泣くこと

 1月29日の埼玉地区「三区合同教師会」と、先週の「婦人教職の集い」に出席して、各地で奮闘している牧師たちと、主にある交わりのひとときを与えられました。「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」(ローマ12・15)との御言葉を改めて深く思い起こさせられました。
 三区合同教師会では、地区委員長の川染三郎先生からの発題がありました。埼玉地区ホームページ掲載の報告(報告者は熊谷教会・大坪直史先生)から引用します。
 “川染先生は、主イエス・キリストを中心として、教職が羊飼いとして務めを果たすべき…また、教職の伝道と牧会の務めのもとで信徒が務めを果たすことを通して、教職の教会ではなく信徒の教会でもないキリストの教会が建てられていく…、特に、埼玉地区においては、多くの小規模教会・伝道所があることから、最寄地区活動の充実の必要性、つまり、諸教会・伝道所間の支え合いと協力関係の必要性について、力強く述べられました。特に印象的だった言葉は、「一教会・伝道所の終わりは、その地域の全教会・伝道所の終わりに繋がる」という一言でした。一つの教会も終わらせてなるものか、一つの伝道所も終わらせるわけにはいかない、そういう地区委員長の主にある教会・伝道所に対する熱い思いと、また、固い決意がひしひしと伝わってまいりました。その熱い思いと固い決意は、私たちすべての教職が共有するものでもあります。…”
 「婦人教職の集い」では、初参加の、四国の過疎の地域にある教会の牧師とお話しをしました。「大学がないので、若い人は高校を卒業すると町を離れていく。仕事が無いので離れた人たちは戻ってこない。こうして町の人口はどんどん減っていく。教会も若い人を都会の教会へ送るばかり」とのことです。顔と顔を合わせて、その言葉を伺えたのは大きなことでした。
 「共に喜び、共に泣く」教会、苦労と喜びを分かち合う教会として生かされますように。(No.708)

2018年 2月 4日

教会総会を前に―役員の資質ということ

 来週11日の教会総会は、役員選挙が議題です。
 かつて1988年の西川口教会の教会修養会に講師としてお招きした辻宣道先生(当時の教団総会議長。故人)の印象は強烈でした。その著書「教会生活の処方箋」は今でも教会生活の指針としています。役員に関する項目の文章を引用します。
 “・・・集会を休まぬひと、ユーモアを解するひと、金銭に淡白なひと、これはいずれも常識的なことでさほど説明を必要とはしません。むしろ次の項目でのべることは、教会形成の中心にふれる問題になるかもしれません。・・・
 一つは「教理に強い役員」ということ・・・信仰が自分のものになり、これだけは自分のいのちをかけ得るという確固たる自信・・・われここに立つと断言できればよいのです。・・・
 その二は「祈りのひととしての役員」です。・・・豊かな祈りをするひとによって教会のいのちは維持されます。・・・まず密室の祈りに力を入れることです。・・・役員が祈りのひとで、密室の祈りをそのまま祈祷会に反映させるだけで、教会は大きく変わってきます。・・・改まったところできちんと祈りのできるひと、それが役員です。・・・
 第三にあげたいこと、それは「調和のとれた役員」です。ここでいう調和とは・・・自分の意見をきちんともちながら、教会形成的視点を備えているひとのことです。役員は牧師と会員の間に立つ行司であってはなりません。いつも教会員の方を向いてものをいう人であるべきです。役員は牧師と共に会員の訓練にあたるつとめをもっていますから、すべてのこと、教会をいかにたてるかというところから出発しなければなりません。・・・
 役員は濾過器の役目も果たします。いったんここをとおると、どんな泥水も清水になってでてくるのです。・・・半年自分のうちにためておき、いうべきことといわずともいいことを識別する判断の持ち主。私の役員に対する信頼はそこから生まれました。・・・”(No.707)

2018年 1月 28日

樋野興夫先生と「言葉の処方箋」

 本日は特別礼拝として、講師に樋野興夫先生をお迎えでき、心から感謝です。樋野先生は、順天堂医学部病理・腫瘍学教授、一般社団法人がん哲学外来理事長で、がん哲学外来を開設し、現在も精力的にこの活動を展開されておられます。
 西川口教会の会堂を会場に、昨年から「川口がん哲学カフェいずみ」が始まりました。いずみの活動は、有志の世話人会が運営しています。わたしは世話人会の代表として奉仕しています。本日の午後は、川口がん哲学カフェいずみ開所1周年記念講演会として、樋野先生に講演をしていただきます。これも本当にうれしいことです。
 樋野興夫先生が現在のがん治療・がん研究に足りないものは何かと考え、思い至り、提唱された「がん哲学」、そしてその実践の場である「がん哲学外来」、がん哲学外来で樋野先生が患者さんに与えた「言葉の処方箋」。この「言葉の処方箋」がまとめられて、次々と刊行されています。
 がん哲学と共にわたしの関心は、樋野先生の「言葉の処方箋」にあります。その言葉で、多くの人の心に気づきを与え、光を与え、救われていくのです。その言葉に力があるのです。どうしてその言葉が人々の心に届くのか、問いがあります。
 今、川口がん哲学カフェいずみでは、カフェの初めに樋野先生の著書「人生から期待される生き方」を少しずつ読んでいます。この本のタイトルも、そうですが、言葉の処方箋は「えっ?」と思わせる言葉、「何だろう?」と考えさせる言葉なのです。この本で紹介されている言葉の処方箋をいくつかここに書かせていただきます。
 *「今日が人生最後の日」と思えばいい
 *死ぬのは確実、いつ死ぬかは確率
 *あなたはそこにいるだけで価値ある存在
 *人生いばらの道、にもかかわらず宴会
 *八方塞がりでも天は開いている
 *人生の目的は「品性の完成」
 いかがですか。心が動きませんか?
(No.706)

2018年 1月 21日

埼玉地区の交わり喜ぶ

 日本基督教団関東教区埼玉地区には、現在61教会・伝道所があります。埼玉地区は、成人の日の祝日を「地区デー」として、地区の交わりを特に大切に思って過ごしてきています。埼玉地区新年合同礼拝を行い、「地区デー」献金をささげ、埼玉地区内の教会で講壇交換礼拝の実施を呼びかけています。講壇交換礼拝は、西川口教会も毎年参加してきました。今年度は川越教会と行うことになりました。木ノ内一雄牧師をお迎えでき、感謝です。埼玉地区の今年度の主題は「主にある交わりを深めよう」で、2008年度からこの主題を掲げていますが、地区の活動に参加したり、奉仕を担える人が限られていますので、新年合同礼拝や、講壇交換礼拝は、埼玉地区を身近に、そして親しく感じられる活動だと思います。
 木ノ内先生から、川越教会の紹介をいただきました。感謝して転載します。
 「1890年、メソジストの流れをくむ教会として創立。初代牧師は山内庫之助。後に社会的弱者救済のため弁護士となり、また県会議員となり、県議会副議長を務めた。4代目牧師別所梅之助は讃美歌21・155番「山辺に向かいて目をあぐ」の作者として知られている。
 当初、教会は川越駅東口の小江戸と呼ばれる市街地にあったが、1969年に現在の旭町に移転した。それと共に1年後、教会学校幼稚科いずみ学園を始めたが、1982年に廃園となった。
 現在(2017年4月総会時)現住陪餐会員28人、平均礼拝出席者数21名、CSは0です。教会標語は「いかに楽しいことでしょう、主に感謝をささげることは」です。現在、委員会を作り会堂改修を計画中です。
川越は古く歴史的な町で、神社仏閣も多く保守的なところですが、信徒の方はとっても良い方ばかりで、礼拝に熱心で将来の発展を期待できると思います。」
この出会いが祝福に満ちたものとなりますように。
(No.705)

2018年 1月 14日

聖化についての信仰

 2017年度の主日礼拝において、月に一度「日本基督教団信仰告白」をもとに、説教をすることにしましたが、年度内には終わりませんので、終わるまで続けたいと思います。どうして日本基督教団信仰告白を学ぶかというと、これに心から「アーメン」(「本当にそうです」「然り」という意味)と応答することが、教会の信仰の筋道であり、信仰によって立ち続けるところであるからです。さらに、この信仰告白に「アーメン」と言える人は洗礼を受けることができるからです。
 改めて、日本基督教団信仰告白の構成について書いておきます。「我らは信じかつ告白す」と宣言し、その次に四つの段落があります。ここまでがこの信仰告白の前半部です。次いで「我らはかく信じ、代々の聖徒と共に、使徒信条を告白す」と述べ、「使徒信条」が導入されます。これが後半部となります。
 前半部の第1段落は「聖書は神の言葉である」ということ、第2段落は「三位一体の神、キリストの受肉と贖いを信じる信仰」、第3段落は「恵みの選び、信仰義認、聖化についての信仰」、第4段落は「教会についての信仰」を告白しています。
 今日の礼拝では、第3段落の「聖化についての信仰」を確認したいと思います。第3段落はこうです。「神は恵みをもて我らを選び、ただキリストを信ずる信仰により、我らの罪を赦(ゆる)して義としたまふ。この変らざる恵みのうちに、聖霊は我らを潔(きよ)めて義の果を結ばしめ、その御業を成就したまふ」。ここで「ただキリストを信ずる信仰」とはわたしたちの信仰ですが、この文章では、信仰が主語ではなく、神が主語です。神が恵みをもってわたしたちを選び、赦し、義としてくださいました。後半の文章で「潔め」(聖化)が語られます。ここでも聖霊の神が主語です。神の恵みの中で、聖霊のお働きによって、わたしたちは潔められ、義の果実を結ばせていただき、そのことによって神の業は成就する。一貫しているのは、神の業、恵みと義です。これが肝心です。
(No.704)

2018年 1月 7日

争いから交わりへ 対立から対話へ

 救い主イエス・キリストのご降誕の喜びのなかで、主の年2018年を迎えました。
 2017年はルターの改革から500年の記念の年でした。ルターとその改革について学び、紹介することができました。
 日本のキリスト教界では、2017年11月23日、カトリック浦上教会(長崎)にて、「日本福音ルーテル教会と日本カトリック司教協議会共同開催の宗教改革500周年記念シンポジウムとすべての人を一つにしてください」と題して共同記念礼拝が行われました。インターネットの動画でこの集会を見ることができます。1967年から、ルーテル世界連盟とローマ・カトリック教会の間で対話が重ねられてきたそうです。日本においても、日本福音ルーテル教会とローマ・カトリック教会の間で1984年から対話が続けられ、2017年の宗教改革500年記念の準備が積み重ねられてきました。
 カトリック中央協議会が発行したパンフレット「ローマ・カトリックと宗教改革500年」をインターネットで読むことができます。「現代のルター像」の章にはこうありました。
 “ルターが異端者であり、西方教会の分裂の責めを負う者と見る時代は過ぎ去りました。現代カトリックのルター研究においては、ルターが抱いていた真の宗教的な意図を理解することにより、彼がプロテスタント、ローマ・カトリックの共通の教会博士であると認識されています。・・・”
 50年もの時間をかけて対話を積み重ね、分裂の痛みを克服すべく、共同の礼拝が開催されたことの意義は大きいと思います。現代の日本でも世界でも、人と人との間でも、分断が進んでしまうような危機があります。教会はたゆまず一致を求め、正義と平和を実現することができるようにと祈ります。わたしたちの家庭でも、教会の営みにおいても、主に共に生かされている者として、対話を重ねて歩むことができますように。
(No.703)


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