週報短文
バックナンバー 2019年
2019年 12月 29日
今年のクリスマス
2019年のクリスマスの諸集会は、15日のゴスペル夕拝から始まりました。ゴスペルクワイヤJOINを迎えて(わたしもメンバーの一員ですが)、楽しく、また心を込めて歌うことができました。参加者の方々は聖書のお話しをよく聞いてくださいました。JOINのメンバーのご家族、知人、友人の方々の参加が大変多かったです。あえて言えば、ゴスペル夕拝は、教会の集会であり、年に3回計画されている伝道夕拝ですから、教会員の参加者がもう少しありますと、他の一般の方たちに、教会が大切にしている礼拝である、という印象を与えると思います。伝道はそういうところから始まるのではないでしょうか。
18日のリリア音楽ホールでの「埼玉県南クリスマスの夕べ」は、新しい試みとして、マリンバ奏者の野田愛姈(エリョン)さんと、地元・埼玉の青山学院大学系属浦和ルーテル学院中高等部ハンドベルクワイヤーをお迎えしてのコンサートでした。生徒さんに出演していただく関係で、開催日が今までより2週間遅くなりました。その成果もあって、今回のクリスマスの夕べは、今まででいちばん参加者の多かった集会でした。
12月22日のクリスマス礼拝では、一人の姉妹が洗礼を受けて、神様の子供とされ、この教会の仲間となったことを心から喜びました。天では大きな喜びがあったことを信じます。主イエス・キリストが再びおいでになるまで、教会は地上に置かれ、救いのために存在しています。その使命をこれからも果たしていけますように。
12月24日のクリスマスイブ礼拝は、夜の集会なので、体の弱い方やご高齢の方の参加は年々難しくなってきました。今年は平日の夜でした。にもかかわらず、皆様励んで、特に、聖歌隊の賛美は、積み重ねてきた成果を感じさせられました。クリスマスイブだからこそ、久しぶりに、また初めてイブ礼拝においでになった多くの方々がおられました。年に一度の大切な礼拝です。(No.805)
2019年 12月 22日
神の冒険の時
2019年のクリスマス礼拝を迎えました。教会の暦では降誕日〔12月25日〕の前日まで、アドベント(待降節)を過ごしています。アドベントという言葉の意味は、「到来」ですが、その語源から説き明かしている文章に出合いました。ぜひ味わってください。
“・・・今この時期をadvent〔アドベント〕と言います。普通、待降節と訳されております。クリスマス前の4回の日曜日の間を示す言葉であります。・・・もう一つ英語にadventure〔アドベンチャー〕という言葉があります。冒険と訳します。このadventという言葉も、adventureという言葉も、実は同じラテン語に由来しています。advenire〔アドヴェニーレ〕と言います。このadvenireとは何かと言いますと「何かが起こってくる」ということであります。ある事件が起こってくる。思いがけないことが自分の前に立ち現れてくるという意味を持った動詞advenireから、advent〔アドベント〕とかadventure〔アドベンチャー〕という言葉が出てくるのであります。・・・
漢字では冒険というのは、危険を冒すと書きます。危険を冒して何かをする。危険の中に身を挺するということ。それが、adventureであります。adventというのも何かを待つというときだけではない。adventというのは神が冒険する。神が思いがけずに私達の前に立ち現れてくるというのが本来の意味であります。だからadventというのは神の冒険の時だ。冒険をあえて冒して何かが、ある決定的なことが、つまりその独子を賜ふ、口語訳で読みますと「そのひとり子を賜わった」〔ヨハネ福音書3・16〕とはっきり過去に記されております。
過去に一回限りあったという、その独り子を賜わったという出来事が私達の前に立ち現れてくる時、それがadvent〔アドベント〕という言葉の本来の意味であります。・・・”(左近 淑著「だれも奪えぬ自由」より)(No.804)
2019年 12月 15日
中村 哲医師のこと
アフガニスタンで銃撃され亡くなった医師で、ペシャワール会現地代表の中村哲さんが、キリスト者であったと、祈祷会で島隆三師から伺いました。島先生が香港JCFにいらしたとき、香港JCFの議長が主日ごとに中村医師のために祈られていたそうです。中村医師の尊いお働きやお言葉をを知り、感銘を受けました。
2013年の講演の概要から紹介します。
“・・・私たちの活動方針は天・地・人に要約することができます。・・・その地域の自然条件を読み取り、文化を尊重し、そこで暮らしている人が何を考え、何を欲しているのかを十分読んだ上で、暴力的な方法によらず、その地域の幸せを回復するということです。・・・この約30年を振り返って思うことは、人間と自然との関係。人間はどこに行くのかという問題です。・・・アフガニスタンについて、今日は戦争とか難民といった話ばかりをしてきましたが、彼らが暗い顔をして生活しているかというとそんなことありません。助っ人として日本からやって来る若者の方がよほど暗い顔をしています。これはいったいどういうことなんでしょうか。幸せというのは金さえあればなんとかつかめる、武器さえあればこの身を守ることができるという迷信の虜に、日本中あるいは世界中がなっているのではないでしょうか。…私たちは重要なことは何か。何が必要で何が必要でないのか。見極める必要があるのではないでしょうか。…”
もう一つ感銘を受けたのは、葬儀でご挨拶されたご子息の言葉でした(ネットニュースより)。
“・・・いつも頭のどこかで家族のことを思ってくれている父でした。父の、自分のことよりも人を思う性格・どんなときも本質をみるという考えから出ていた言葉だったと思います。その言葉どおり背中でみせてくれていました。・・・”
ご子息がお父様を「どんなときも本質をみる」人であった、と語っておられたことに驚き、感激しました。そのように生きたいと思います。(No.803)
2019年 12月 8日
フランシスコ教皇の説教
先月のフランシスコ教皇の来日は、信徒の少ない日本ですが、注目を集めました。説教塾のメーリングリストで、フランシスコ教皇の長崎と東京での説教は、学ぶに値する良い説教であった、と紹介されました(これらはカトリック中央協議会のウェブサイトから読むことができます)。
長崎でのミサの説教を一部紹介します。
“・・・今日ここで、わたしたちの信仰と約束を新たにしたいと思います。あの悔い改めた盗人〔ルカ23・43〕と同じく、わたしたちは 、失敗、罪、限界ばかりの人生をよく分かっています。けれどもそれが、わたしたちの現在と未来を既定し、決定づけるものであってほしくありません。・・・この国は、人間が手にしうる壊滅的な力を経験した数少ない国の一つです。ですからわたしたちは、悔い改めた盗人と同じように、苦しむ罪なきかた、主イエスを弁護し仕えるために、声を上げ、信仰を表明する瞬間を生きたいのです。主の苦しみに寄り添い、その孤独と放棄を支えたいと思います。そして今一度、救いそのものである、御父がわたしたち皆に届けようとするあのことばを聞きましょう。「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」〔ルカ23・43〕。・・・
わたしたちは毎日こう祈っています。主よ、み国が来ますように。・・・天の国は・・・将来のためだけの目標ではありません。それを請い願い、今日からそれを生きるのです。病気や障害のある人、高齢者や見捨てられた人たち、難民や外国からの労働者、彼らを取り囲んで大抵は黙らせる無関心の脇で、今日それを生きるのです。・・・今ここで、一つの祈りとして、わたしたちも声を上げましょう。今日、この恐ろしい罪を、身をもって苦しんでいるすべての人のために。そして、あの悔い改めた盗人のように、黙りも嘲笑もせず、むしろ、自ら声を上げ、真理と正義、聖性と恵み、愛と平和のみ国を告げ知らせる者が、もっともっと増えるよう願いましょう。”(No.802)
2019年 12月 1日
ひたすら主を待ち望み
本日12月1日から2019年のアドベント(待降節)が始まります。アドベントは降誕日(12月25日)の約4週間前の日曜日から始まり、12月24日までです。西川口教会では、アドベントの主日には特別賛美をささげるようになりました。今年もワーシップソングに始まり、マリア会、交励会、聖歌隊と奉仕をお願いしています。救い主イエス・キリストのご降誕をお祝いする心の備えをいたしましょう。
アドベントには、講壇にアドベントクランツを置きます。もみの木の小枝やヒイラギで丸い形をした輪を作り、この上に4本のろうそくを立てます。アドベントの主日ごとに、1本ずつろうそくに火を灯していきます。ろうそくを灯す数によって、目に見える形でクリスマスが近づくのを知るのです。すべてのろうそくに火が灯されるとクリスマス礼拝です。子どものころには、このアドベンドクランツのろうそくを眺めて、ワクワクしてクリスマスを待ったものでした。ろうそくの色は、この時期の典礼の色である「紫」にしています。「紫」は待望、尊厳、悔い改めを意味しています。アドベントは、クリスマスのお祝いの準備ばかりではなく、主に立ち帰り、再臨の主を待ち望む期間でもあります。
使徒パウロが書いたコリントの信徒への手紙一の第13章は「愛の賛歌」として有名ですが、その11節にはこういう御言葉があります。
「幼子だったとき、わたしは幼子のように話し、幼子のように思い、幼子のように考えていた。成人した今、幼子のことを棄てた」。
キリスト者であるわたしたちは、クリスマスをただきらびやかな楽しい年中行事として迎えて終えることがありませんように。神の御子が世に降ってくださらなければならなかった人間の現実を思います。矛盾、不条理に満ち、人間の尊厳が損なわれている現代の世に「主よ、キリストよ、お出でください」とひたすら主を待ち望みます。(No.801)
2019年 11月 24日
主が許してくださるなら
2020年は、西川口教会創立70周年の記念の年になります。今までの70年を感謝し、これからの宣教のために祈りを積み重ねていきます。
2020年の西川口教会の御言葉は、ヘブライ人への手紙第3章6節「キリストは御子として神の家を忠実に治められるのです。もし確信と希望に満ちた誇りとを持ち続けるならば、わたしたちこそ神の家なのです」とさせていただきます。
神の家とは教会堂などの建物ではありません。信仰の共同体であり、キリストの体である教会です。神の家である教会を治めてくださるのは御子キリストです。わたしたち一人ひとりが、御子キリストの支配に生かされていくことです。その御子の支配を喜びとし、誇りとするとき、生きている教会がそこにあるといえます。その誇りは、誰も取り去ることができないもの、神から来る誇りです。喜んで神の御顔を仰ぐことができるものです。そのような教会とならせていただいていることを感謝して、礼拝から礼拝への歩みを続けます。
来年は創立70周年を記念して、歴代の先生方をお迎えしてお祝いをすることは既にお伝えしていますが、もう少し具体的にお知らせします。
来年6月頃に第45回西川口教会アシュラムを開催、講師に前任者の島隆三師をお願いしています。翌日の特別礼拝に、島隆三師・静江師をお迎えしたく、予定しています。ただしまだ日程は確定ではありません。
来年の敬老祝福礼拝は9月13日になりまして、初代牧師の横山義孝師をお迎えします。
来年の召天者記念合同礼拝は、11月1日になりまして、2代目牧師の三枝道也師・育代師をお迎えします。
先生方にご奉仕をお願いして快諾いただきましたが、その折に先生方は「健康が許せば、主が生かしてくだされば」と仰っていました。本当にそうです。すべてのこと、主のお許しのうちに果たさせていただきたいと祈ります。(No.800)
2019年 11月 17日
聖書が神の言葉となるとき
西川口教会の主日礼拝では、聖餐を行う礼拝において、日本基督教団信仰告白を告白しています。教会はこの信仰に立って説教を語り、聞き、聖餐に与かるということを意味しています。信仰告白の冒頭には、聖書信仰が言い表されています。
「旧新約聖書は、神の霊感によりて成り、キリストを証し、福音の真理を示し、教会の拠るべき唯一の正典なり。されば聖書は聖霊によりて、神につき、救ひにつきて、全き知識を我らに与ふる神の言にして、信仰と生活との誤りなき規範なり」。
聖書が神の言葉であり、信仰と生活の規範であるとは、もはや自己中心に生きることではなく、神を畏れ、神の言葉に権威を置いて生きることでしょう。でも本当に、わたしたちは、そう生きているでしょうか。教団の教会はどうでしょうか。そう生きていたら、この日本の教会の伝道が振るわない現状はどういうことでしょう。
先日は、説教塾読書会に参加して、こんな言葉に出会いました。
「説教者は、退屈な人間になってはならない。牧師と退屈とが同義の概念になっているのは、広く見られるところである。……この退屈を防ぐにも、唯一の手段は、聖書に即するということである。説教が聖書に即しているならば、それが退屈ということはない。聖書というものは、事実として、非常におもしろく、まことに多くの新しいこと、刺激的なことを語るのであって、聴衆が眠ろうなどと考えるいとまは全くない程なのである」(カール・バルト「神の言葉の神学の説教学」)。
聖書を語っていれば退屈することはない!
まことに、聖書の言葉が、神が「今・ここ」で自分に語りかける神の言葉として響いたなら、人はそこで新たに生かされているはずです。神への畏れも、御言葉への服従も生じるでしょう。
神への信頼、「希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて、信じ」(ローマ4・18)る祈りが必要です。(No.799)
2019年 11月 10日
説教者としての牧師を育てる教会
定例役員会では学びのひとときを持っており、『教会生活の処方箋』(辻宣道著)を読んでいます。先週は「牧師を育てる教会とは」でした。皆さまにも知っていただきたく、引用して紹介します。
“…牧師であることのむずかしさをよく覚えます。彼はまず忍耐の人でなければなりません。なにがあっても抑えて乗り切れるひとです。加えて進取の人であることが求められます。彼は神学的素養豊かでリーダーシップもあり歌も歌える教養人でなければなりません。そんなひといるでしょうか。…思えば牧師ほど期待をかけられすぎるものもないのです。ひとはその期待を外されると「失望した」といって嘆きます。「つまづいた」とこぼすのです。…いったい牧師に求むべきこと…があればそれはなにか。一つです。みことばに真実に仕え、みことばを忠実に語っているか否かです。…要は彼が真剣にみことばに取り組み、みことばに生きているならそれでよいのです。なんとなれば彼は〈みことばの役者(えきしゃ)〉としてたてられているからです。説教させるために説教職として神は彼を召されました。彼を説教職として生かしきれぬ教会があれば、教会は悔い改めねばなりません。…説教者は祈られることにより召しの重さを実感します。祈りにささえられ、はじめて勇気ある行動に移ります。大胆に、勇敢にその信ずるところを語るのです。…”
ある委員会で長年忠実な信仰生活を送っている方々から、こんな言葉を聞きました。「牧師の説教は、自分に語りかけられてるようで、本当に元気が出る」、「説教を通して、イエス・キリストにお出会いしたい」、「手を抜いている説教はすぐ分かる」。本当にそうだと思いました。
聖書を説く説教、聴き手が神とキリストと出会うという出来事を起こす説教を求めて、現在、説教塾で研鑽を重ねています。説教職として生かされるため、どうぞお祈りください。また、説教塾の活動を祈りと献げ物で応援してください。(No.798)
2019年 11月 3日
わが身を切り刻んででも
花の詩画作家として著名な星野富弘さん。先月、日光の研修に行く前に、群馬県みどり市富弘美術館を訪れました。ちょうど秋の企画展として「かあちゃん」が開催されていました。星野富弘さんは大学を卒業後、中学校の体育教師になって約3か月でクラブ活動の指導中、事故で頸椎を損傷し手足の自由を失いました。入院中に口に筆をくわえて文や絵を書くようになりました。入院中の星野さんの手足となったのはお母様です。この企画展の案内チラシにこうありました。〝星野富弘の母、知野は、星野が大学卒業直後に頸髄を損傷し、入院してからは、かたときも離れず、9年間の看護を行いました。「わが身を切り刻んででも生きる力を富弘の体の中に送り込みたい」という一心での看護生活でした。〟母の愛の心に感動しました。美術館のビデオルームで、星野富弘さんのお話と詩画の制作風景を観ました。お母様が富弘さんの指示に従って絵の具を混ぜ合わせ、色を作り、見せて確認し、口に筆を持たせてあげていました。「我が身を切り刻んでも…」の言葉のとおり、献身の姿でした。
今日は、召天者記念合同礼拝です。神のみもとに召された方々を偲びます。わたしたちは愛をいただきました。また愛を注ぎました。人間にそのような愛を与えてくださるのは、愛の源である神であると信じます。
こういう御言葉があります。
「ああ、エフライムよ お前を見捨てることができようか。イスラエルよ お前を引き渡すことができようか。・・・わたしは激しく心を動かされ 憐れみに胸を焼かれる。」(ホセア11・8)
神に背く民に対して、神は「見捨てることはできない」と叫ばれます。心を動かされ、胸を焼かれるほどに憐れんでくださいます。ついに、神は人となられ、その身を切り刻まれるように裂かれて、わたしたちに命を送り込んで、救ってくださいました。この愛は、死に勝利する愛です。(No.797)
2019年 10月 27日
いのちと環境を大切にできますように
台風19号の甚大な被害がありました。日本基督教団社会委員会による台風19号豪雨被害に対する募金が始まりました。教団のホームページに教会堂などの被災の報告が載っています。
この台風19号が大型で強い勢力となったのは、太平洋の海水温上昇によるとされています。これからも、日本には、巨大台風が到来し、大雨の発生は増えると言われています。本当に悩ましいことです。これには、地球温暖化が影響している可能性があり、このまま地球温暖化が進んでいった場合、さらに大雨の発生する回数が増えると予測されています。そして、大雨の増加する傾向にあるのは、日本ばかりではなく、東アジアの広い範囲でも共通しています。地球規模で気温や海水温が上昇することによって、大雨ばかりではなく、異常な高温、干ばつなどの気候の変化も伴って起こると考えられています。北極や南極の氷や氷河が溶けて失われてしまう、海水面の上昇も見られます。今では、常に聞かれることになった「地球温暖化問題」。地球温暖化に伴う気候の変化がもたらす様々な自然、社会、経済的影響に対して、世界各国との協力体制を構築し、解決を見いだしていかなければなりません。
「神は彼らを祝福して言われた。『産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。』」(創世記1・28)
神は、この世界を人を祝福し、人に地を治めるように委ねられました。けれども人は、その神の意志よりも、便利さ豊かさを追求して生きています。その陰で、環境に大きな負荷をかけてきました。相次いで起こる豪雨や異常気象を見ると、造られた世界が叫び声をあげているように感じます。いろいろな方面から、地球温暖化問題への解決への取り組みがなされていることですが、神が造られ、祝福された世界を、いのちと環境を大切にできますようにと、祈る者です。(No.796)
2019年 10月 20日
主の憐れみを祈りつつ
10月12日・13日に本州を通り過ぎて行った台風19号は、全国各地に甚大な被害をもたらしました。あちらこちらで河川の越水、堤防の決壊があり、死者や行方不明が出て、浸水被害、交通被害、建物被害などあり、悲惨な状況に心が痛みます。主の憐れみを祈るばかりです。
10月11日金曜日、日光オリーブの里アシュラムの後、当初帰宅する予定でしたが、台風が直撃するとのことで予定を変更、教会に直行し、土曜日にするつもりであった週報を作成、印刷できました。依田英雄兄のお助けをいただき、看板など、倒れそうなもの、飛ばされそうなものは片づけました。その後帰宅して、牧師館でも、物干しざおをしまったり、雨戸を固定したりしました。
台風が近づいた12日、川口市はお昼頃、西川口教会の建つ青木地区も含めて、警戒レベル3の避難準備が発令されました。荒川や、芝川・新芝川の氾濫警戒情報が発令されました。午後6時過ぎには、青木地区は警戒レベル4の避難勧告が発令された地域となりました。緊急速報で突然スマホが鳴り、その都度びっくりしていました。私の住む戸田市では、避難準備が発令されましたが、最後まで、避難勧告までには至りませんでした。インターネットやテレビで、気象情報や防災情報、避難所の開設状況の情報をチェックしていました。避難はせず、様子を見ていて、13日に日付が変わる頃、台風の中心が過ぎた後は、雨もやみ、風もそれほどひどくはなく、明日は礼拝できることを確信し、主にお委ねして休みました。
翌日13日、教会に着いたところ、会堂のドアが開けにくくなっていました。横殴りの風雨で、木の古いドアが水を吸って膨張していたからです。また玄関内側に水が入り込んでいたので、新聞やタオルで水を吸い取りました。ほかにも2か所雨漏りがありましたが、大事には至りませんでした。いつものように主日礼拝をささげることができる、この恵みを心から感謝しました。(No.795)
2019年 10月 13日
神学校日によせて
10月第2主日は、日本基督教団行事暦で、神学校日・伝道献身者奨励日と定められています。
日本基督教団の認可神学校は、次の6つです。東京神学大学(東京都三鷹市)、関西学院大学神学部(兵庫県西宮市)、東京聖書学校(埼玉県吉川市)、同志社大学神学部(京都市)、日本聖書神学校(東京都新宿区)、農村伝道神学校(東京都町田市)です。
西川口教会は、この中の東京聖書学校と関わりが深いのです。初代牧師の横山義孝先生は、西川口教会を辞任後、東京聖書学校の舎監をお連れ合いの静子先生と共に務められました。東京聖書学校の講義も長きにわたり担当されました。また当教会3代目牧師の島隆三先生もいくつも講義を担当され、10数年にわたり校長として奉仕されました。西川口教会から数名の献身者が東京聖書学校を卒業し、各地でよい働きをされています。またかつては、毎年、東京聖書学校の神学生が日曜日に奉仕にいらしてくださいました。
残念ながら現在は神学生が少なく、献身者が与えられるよう祈りが積まれています。他の神学校も、神学生が少ないそうです。神学生が少ないとは、牧師が少なくなるということ、無牧の教会が増えるということです。他人事ではありません。
教会の働きは、多くの教会、キリスト者が協力しないとできないことがあります。例えば、聖書や讃美歌を発行することを考えても、どれほどの知恵、労力が必要でしょうか。まして、牧師となるべき人を養成することは至難の業です。神の召しを受けて立ち上げる人が教会の中に起こされなければなりません。ふさわしい教師を養成する神学校がなければなりません。神学校の教師が必要です。その教師は大半が牧師をしておられますから、教会の理解と支援が必要です。そして、神学校を支える人、献金も必要です。神学校も教会が担う大切な働きです。神学校のために、献身者が増し加えられるよう、祈りましょう。(No.794)
2019年 10月 6日
プロテスタント宣教開始から160年
10月第1主日は、日本基督教団行事暦で、世界聖餐日・世界宣教の日と定められています。世界の教会がキリストの体と血を通して主にあって一つであることを自覚したいと思います。世界各地に派遣された宣教師を覚えます。
本年2019年は、日本にプロテスタント教会の宣教が始められて160周年になります。10年前の150周年の時は、大規模な記念の集会が開催されました。あれから10年、日本の教会はどうなったのでしょうか。
今年の8月、日本基督教団埼玉地区教会全体修養会が開催されました。わたしは参加できませんでしたが、埼玉地区ホームページで、修養会の講演を聞くことができました。講師は、北陸学院の楠本史郎先生です。第1講演「私の信仰、教会の信仰」の終わりのところで、このように語っておられました。
“・・・京都では、300年経たないと古いと言わない。「古い」は「十の口」、つまり、十世代を表す。十世代とは300年。初めの教会が生まれ、ローマ帝国の中でいじめられ、キリスト教が公認されたのは、300年過ぎたときであった。そういうことを考えると 日本の教会はたかだかまだ120年、130年。今、教会員が少し減っているとか、財政が厳しいとか、いろいろなことを聞く。しかしまだ300年の半分なのだから、そういうことは当然あると思う。イエス様の十字架と復活の福音があるならば、必ず守られる。我々は目先のことばかり考えないで、あと150年後、日本宣教300年の時に、いかに教会がこの日本の社会の中で、大切な存在として立っているかを考え、そのために、今何をなすべきかを考えてよいと思う。教会は舟。大舟。多少揺れるときもある。十字架と復活の主、イエス様が乗っていてくださり、必ず守ってくださる。大舟に乗った気持ちで、毎週の礼拝を喜んで守る。それが一番大切なことではないかと思います。・・・”(No.793)
2019年 9月 29日
ここに教会がある
今年は、遅めの夏期休暇をいただいて、9月22日は、こころの友伝道を通して出会った先生の関わる教会で礼拝をささげました。
午前は、高松市の日本イエス・キリスト教団高松田村町教会の礼拝に出席しました。この教会は、長きにわたりこころの友伝道全国連合会四国支部長の任を負ってくださった唐渡弘先生が牧会された教会です。唐渡先生は今年になって体調を崩され、8月9日に神のみもとに召されました。後任の先生、お連れ合い、先生のお嬢様にお会いでき感謝でした。礼拝堂には、静かに微笑んでおられる唐渡先生のお写真が飾られ、お花が添えられていました。ご家族、教会の皆様を愛し、愛された交わりであったことが伺えました。特に、近隣の障害者支援施設におられる方々が共に礼拝をささげている姿に、感銘を受けました。この朝は台風17号の影響で大雨でしたが、先生方が雨がっぱを着て迎えに行き、車いすを使っている方々にも雨がっぱを着せてお連れしていました。そのことを当然のようにされている様子に、素晴らしいことだと感じました。
午後には雨も小降りになって、高松港からフェリーで移動して、瀬戸内の、現代アートで有名になった直島に向かい、この島にある日本基督教団香川直島伝道所(直島キリスト教会)の午後2時半からの主日礼拝に出席しました。この伝道所の牧師の福田哲先生とは、こころの友伝道全国大会でお会いして、島の教会の伝道のお働きを知り、とても興味を持っていました。このたび念願かなって訪れることができました。当日は、高松市内の日本基督教団の教会の先生が説教と聖餐を担当される日でした。こうして伝道の協力がなされているのを見ました。伝道所の信徒お二人、高松市からのお二人、私と5人の礼拝でした。日本基督教団信仰告白を告白し、聖餐卓を囲んでパンと杯を受け取り、キリストにあって一つ、と信仰の体験ができました。主に感謝します。(No.792)
2019年 9月 15日
味方になってくださる神
祈祷会・昼間祈祷会で創世記の学びを始めて、1年が経ちました。今は、ヤコブの物語を読んでいるところです。本当におもしろいです。
ヤコブは、父イサクと兄エサウをだまして、本来長子である兄が受けるはずの祝福を奪い取りました。そのため兄に殺意を抱かれるほどに憎まれ、家に留まることができなくなり、母リベカの故郷の町ハランに逃げていきます。ハランには母の兄ラバンとその家族がいました。そこにヤコブは留まります。父と兄をだましたヤコブは、ハランでは伯父ラバンにだまされて、辛酸をなめました。
聖書は人間を本当によく知っていると感じます。家族の間で、だまし、欺き、出し抜き、うらみ、ねたみ、奪い合い、が起こっています。特にヤコブの物語はそうです。そのような人々と神は共におられ、見つめて、ご自分がお選びになったヤコブを祝福されるのです。
ヤコブは神の導きによって、故郷のカナンに帰るべき時が来たことを悟り、家族と家畜を伴って、脱出します。途中で、脱出を知ったラバンに追いつかれてしまうのですが、最後には、二人は契約を結んで別離できました。
ヤコブがラバンに語った言葉です。
「この二十年間というもの、わたしはあなたの家で過ごしましたが、そのうち十四年はあなたの二人の娘のため、六年はあなたの家畜の群れのために働きました。しかも、あなたはわたしの報酬を十回も変えました。もし、わたしの父の神、アブラハムの神、イサクの畏れ敬う方がわたしの味方でなかったなら、あなたはきっと何も持たせずにわたしを追い出したことでしょう。神は、わたしの労苦と悩みを目に留められ、昨夜、あなたを諭されたのです」(創世記31・41~42)。
ヤコブの神は、救い主イエス・キリストの父なる神です。天地万物を造られたお方が、ヤコブの味方になられたように、このわたしの味方になってくださるとは、何と大きな恵みでしょう。(No.791)
2019年 9月 8日
背負ってくださる方がいる
今日は、敬老祝福礼拝です。祝福を受けられる方々に、聖書の言葉を送ります。イザヤ書第46章3~4節です。
「わたしに聞け、ヤコブの家よ イスラエルの家の残りの者よ、共に。あなたたちは生まれた時から負われ 胎を出た時から担われてきた。同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで 白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す。」
預言者イザヤが神の言葉を取次いでいます。「わたし」とは主なる神であられます。この言葉を聞いているのは神の民です。
キリストの教会に生きるわたしたちは、このイザヤの約束は、主イエス・キリストにおいて実現したと信じています。主イエス・キリストは、世の終わりまで、信じる者と共にいてくださる方です。キリストに愛されているというのは、キリストに背負っていただいているということ。ですからキリストはわたしたちと常に共にいてくださるのです。死の瞬間においても、です。
月に2回、礼拝前の初心者会において使徒信条を少しずつ学んでいます。本日の学びの準備において、次のような文章に出会い、イエスの死とわたしたちの死とは何であるかを知りました。
「もはや、誰ひとり、ひとりぼっちで死ななければならないことはなくなる。まさに、この死においてイエスの死を共にし得るからである。イエスが私どもの死をご自身の死の中に受け入れてくださったことにより、私どもの死の意味が変わってしまっている。イエスと共に、ということにより、死はもはや望みなきものではなくなった。一切のいのちの根源である神から切り離されるということこそ、死の厳しさであった。しかし、イエスが死んでくださった後には、誰ひとりとしてそういう死に方をする必要のある者はなくなったのである。」(「信仰への道 使徒信条・十戒・主の祈り」237頁)(No.790)
2019年 9月 1日
第66回こころの友伝道全国大会に参加して
2019年8月26日から28日まで、第66回こころの友伝道全国大会が、在日大韓基督教会名古屋教会にて開催されました。主題は「私の隣人は誰か」、特別講師は柏木哲夫先生でした。
柏木先生は精神科医で、日本においてホスピスの草分け的存在でいらっしゃいます。約2,500人の患者さんを看取られた経験、若いときから育まれている信仰、洞察の深さ、成熟しておられるご人格が伝わり、ユーモアを織り交ぜた講演に、引き込まれました。一部紹介します。
柏木先生は、言葉にこだわり、洞察を深めているそうです。同じような概念が二つあった時、違いを知るのには「連想」がよい。「生命」と「いのち」を例にあげる。「生命」という言葉から連想したのは「生命保険」と「生命維持装置」。「いのち」から連想したのは「君こそわがいのち」(青春時代の思い出の歌)と「いのちの泉」(讃美歌)。連想した言葉を比べると、明らかな違いが分かった。「生命」は有限で、「いのち」は無限。生命が終焉を迎えても、「君こそわがいのち」、つまりいのちは自分の中に生き続ける。いのちの泉はとこしえに湧き続ける。生命の有限性といのちの無限性が分かった。このようにして洞察が深まる。
ホスピスは、生命といのちの両方を見る場所。1984年にホスピスを開設した頃「ホスピスとは、その人がその人らしい人生を全うするのを支える働き」と言っていた。1000人ほど看取った頃、自分たちの働きは「寄り添う」がふさわしいと思うようになり、修正した。今は「人々がその人らしい人生を全うされるように寄り添うこと」と言っている。「支える」働きは下からのもので、技術でありマニュアル化できる。「寄り添う」は横からで人間がするほかない。「空しい」「やるせない」に効く薬はない。話を聴いてくれる人が必要。さらに「背負う」方(神)がおられる、神に背負っていただけるのだと伝えることができるのではないか、と語られました。感謝です。(No.789)
2019年 8月 25日
赦すことができますように
先週火曜日の父の病院の診察の日、とても長い待ち時間に、数十年ぶりに三浦綾子さんの本をスマホで読んで過ごしました(現在、三浦綾子さんの全著作が電子書籍で読めます)。「この土の器をも」は、三浦綾子さんと光世さんご夫妻の生活の様々な出来事と、そこから綾子さんが気づいたこと、考えさせられたことがつづられています。いくつも心動かされる文章がありました。その一つを紹介します。
“「綾子、綾子は聖書を読んでいるか」
「ええ、読んでるわよ」
「聖書には何と書いてある。許してやれと書いてあるだろう。いいかい綾子、許すということは、相手が過失を犯したときでなければ、できないことなんだよ。何のあやまちも犯さないのに、許してやることはできないだろう。だから許してやりなさい。弁償せよなどと、決して言ってはいけないよ」
言われてわたしはシャッポを脱いだ。なるほどと思った。相手が過失を犯した時でなければ、わたしたちは許すことができないのだ。自分の大事にしていた、一番お気に入りの背広を盗まれても、一言も相手を責めようとしない三浦に、正直の話わたしはかなわないと思ったのである。
そしてその時わたしは、許すという言葉をあらためて思った。・・・人を許し、人を受け入れることは、人間だれしも容易にできないものである。考えて見ると、結婚というものも、二人の人間が、お互いに全面的に相手を受け入れなければ、成り立たないものなのではないか。三浦が、クリーニング屋の過失を一言も責めなかったように、すべてを許し合うのが結婚生活でなければならない。・・・無論三浦も人間である。欠点もある。だが、この時与えられた感動は、わたしの結婚生活において、忘れられない一つの道標となったのであった。〟(三浦綾子著「この土の器をも」(道ありき第二部 結婚編)より)
(No.788)
2019年 8月 18日
I・Mさん召される
まことに思いがけないことでしたが、I・I兄・Y姉ご夫妻の次男のMさんが、8月11日の夜、急逝されました。55歳の若さでした。
Mさんは、1994年頃と思いますが、しばらく西川口教会の青年会の交わりに出ておられました。その頃わたしは牧師になる前で、西川口教会の信徒として共に過ごしました。ですからMさんから、ずっと「佐久子さん」と呼ばれていました。その後少し間をおいて、2010年頃、グループホームに暮らしておられたとき、主日礼拝によく出席してくださいました。火曜会のお花見会に参加されたこともありました。
電話で話すことも時々ありました。申し訳ないことに、電話に出られないこともしばしばありました。そういうときには、Mさんは留守電メッセージを残してくださいました。本年6月3日のメッセージ「Mです。佐久子さんも大変ですけど、がんばってください。神の御加護がありますよう、お祈りいたします。じゃあ、元気で明るくがんばります。佐久子さんも無理しないでゆっくりしてください。元気で風邪を引かないように、気を付けてください。イエス様のお名前によってお祈りいたします。アーメン」。8月5日のメッセージ「Mです。佐久子さん、元気ですか。今度、機会があったら教会へ行きたいと思います。風邪を引かないように、神の御加護がありますように。いつもお祈りしています。元気で明るくがんばります。それではおやすみなさい」。このように、いつも祝福を祈ってくださっていたので、わたしの方が励まされていました。
16日のお見送りの時には、ヨハネによる福音書第14章の御言葉を読みました。「イエスは言われた。『わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない』」(6節)。Mさんは、受洗こそ叶いませんでしたが、主イエス・キリスト、天の父に至る道であられる救い主を信じて、生き抜きました。ご遺族に主の慰めがありますように。(No.787)
2019年 8月 11日
苦難をも喜ぶとは?
先週の月曜と火曜日は、説教塾夏セミナーに部分参加しました(セミナーは金曜まで)。講師の加藤常昭先生が6月にお怪我されてしまい、痛みの中でセミナーの準備をされ、ご指導してくださっり、感謝感激でした。代田教会の平野克己先生が、ご都合をつけてくださり全期間、講師として助けてくださいました。聖書テキストは、本日の礼拝説教の箇所でもある、ローマの信徒への手紙第5章1節から11節までです。たくさんの資料を読みましたが、その中から、信仰生活の助けに、竹森満佐一師の説教の一部を紹介します。
“・・・神に対して平和を得て、今は神を喜んでいる者たちにも・・・患難もなくなってしまった、というのであれば、よくわかるのであります。しかし、やはり患難を語らねばならないところに、信仰生活の弱さがあるというのではないでしょうか。・・・人間の苦しみとは何でしょうか。それは、経済的に貧しいとか病気とかいうことだけでしょうか。・・・人間の生活にはそれだけではつくせない、無数といってもいいほどの苦しみがあるのではないでしょうか。たとえば、愛をめぐる人間の悲しみはどうでしょうか。苦労をしたことのない人は、軽蔑されるのです。人生がわかっていないとさえ言われるのであります。・・・神に対して平和を得たら、何もかもうまくいくということではないということであります。それなら、その患難に対して、どうして勝つのか、ということになります。そのことと神に対して平和を得ることとの間には、どういう関係があるのでしょうか。・・・患難が辛いのは、それによって自分を喜ばすことができないからであります。もしその中で、自分を喜ばさないで、神を喜ぶということであればどうでしょう。・・・患難の中にあってさえも、神に対して望みを持つことができる、神を喜びうる、したがって、患難そのものをも喜びとするということでしょう。ですから、神の栄光にあずかる希望について喜びえなければ、他のどんなことについても喜びえないのであります。・・・”(No.786)
2019年 8月 4日
神の恵みによって
先週7月28日は、日本基督教団勝田台教会(千葉県八千代市)の特別礼拝に招かれて、出かけて参りました。お祈りに支えられて、説教の奉仕を全うできました。勝田台教会牧師の水谷勤先生、教会の皆様との出会いを喜びました
今回招かれたのは、わたしが川口がん哲学カフェいずみの代表者であり、昨年5月に発足した「21世紀のエステル会」の代表者だからでした。勝田台教会の年間標語は「地域に開かれた教会を目指して」とありました。その一つの可能性として、がん哲学外来メディカルカフェに興味を持ち、話を聞いてみたいと、お声をかけてくださったのです。「21世紀のエステル会」は昨年9月にシンポジウムを開催し、それが月刊誌「信徒の友」(教団出版局)の記事になりましたので、それを目に留めてくださったそうです。(ちなみに「21世紀のエステル会」とは、「信徒の友」の「がん哲学外来」の連載記事がきっかけで樋野興夫先生をお招きし、メディカルカフェを開設した3名(がん哲学外来メディカルカフェひばりが丘の田鎖さん・がん哲学外来白鷺メディカルカフェの太田さん・金田)が、実際にカフェの運営を担う中で生まれる疑問や気づきを共有し、相互交流をしようと集まりました。それぞれのメディカルカフェの活動の実践から学び合い、直面する課題を分かち合うことによって、これからのメディカルカフェの在り方を共に考えたいと願っています)。
愛餐会では、どうしてがん哲学外来メディカルカフェを始めようと思ったのか、どうして牧師になろうと思ったのか、と質問されました。答えながら、改めて「神の恵みによって今日のわたしがある」(コリント一15・10)ということだと、つくづく思いました。このたび、勝田台教会に招かれたことも全く思いがけないことでした。自分からではなく、神が道を開いてくださって、進んで行ったら、また新しい道が開かれて、また進んで・・・。そうして、今日のわたしがあります。主に感謝します。(No.785)
2019年 7月 28日
「関東教区の宣教の集い」に参加して
7月15日(月・祝)に、大宮教会で開催された「関東教区の宣教を考える集い」に参加しました。講師の高橋真人先生(会津坂下教会牧師、東北教区宣教部委員長)の講演「福島県会津若地区の共同牧会の取り組み」に感銘を受けました。
日本基督教団東北教区会津地区は、2017年度の統計では、9教会・1伝道所の半数近くが礼拝出席者数が1ケタで、一番礼拝出席の多い教会でも平均27人。現住陪餐会員が10人以下の教会が大半で、小規模教会が力を合わせて歩んでいます。2004年度から毎年、会津地区協議会を開催し、会津地区がその地域の宣教に関わり、会津地区内にある教会が孤立しないように取り組み、「危機感の共有」と「相互理解」を積み重ねました。「1つの教会に1人の牧師はもはや困難」という現実を見据えて、なおそれぞれの町々に礼拝共同体としての教会が存立するために検討を続けました。そして2015年度から「3教会・1伝道所(会津坂下教会・会津本郷教会・猪苗代教会・川桁伝道所)を2人の牧師が担う」共同牧会を始めました。ユニークなのは、中心となる教会や牧師があるのではなく、各教会は単独の教会として対等で、2人の牧師は「すべての」教会に責任を持ち、各教会の信徒にとって2人の牧師は「どちらも」自分の教会の牧師である、というもの。この共同牧会プランは、各個教会からでもなく、一牧師からでもなく、会津地区が主体として東北教区に互助を申請するのです。教区から経済的な支援金を受け、自分たちも支援金の一部を担い、この共同牧会を継続しています。
それぞれが小さい教会であるがゆえに、力を合わせていかないと立ち続けることができないし、教会員は傍観者ではいられず、同じ会津地区の他の教会の将来を共に考えていく。そのあり方に、キリストの体として生かされている共同体の姿を見ました。「教会に元気が出てきた」と高橋先生が語っておられたのがとても印象的でした。(No.784)
2019年 7月 21日
神は人となられた
2017年度から原則として、月に一度「日本基督教団信仰告白」をもとに説教を続けてきました。西川口教会は日本基督教団に属する教会として、この信仰告白を告白します。各自が教会員となる時(洗礼式・信仰告白式・転入式)、「日本基督教団信仰告白に言い表された信仰を心から告白します」と誓約しました。ですから、まだ洗礼を受けていない人はこの信仰告白に「アーメン(本当にそうです、という意味)」と言えれば、洗礼を受けることができ、他教団の教会の人が「アーメン」と言えれば、西川口教会の一員になれるということです(もちろん教会の手続きは必要です)。
何事も基本が大切です。私たちがどこに立っているか、何に根ざしているか、信仰告白によって分かります。わたしたち西川口教会は、同じ信仰告白を共有しているお互いということなのです。
説教では、信仰告白の内容を少しずつ取り上げてきて、既に、教団信仰告白の後半部分である使徒信条に入っています。今朝は、「主は聖霊によりてやどり、処女(をとめ)マリヤより生れ」になります。これは、まことの神であられたお方が、わたしたちと同じ生身の人間になってくださったということです。
今朝の礼拝では、久しぶりにヨハネの手紙一の第4章から説教のテキストを選びました。第4章2節にこうあります。「イエス・キリストが肉となって来られたということを公に言い表す霊は、すべて神から出たものです。このことによって、あなたがたは神の霊が分かります。」御言葉を語る者が、偽の説教者なのか、真実の説教者なのか、それを聞き分ける者にも神の霊が働いて、神からの霊からか、そうでないかを聞き分けなければなりません。そのときの急所は、「イエス・キリストが肉となって来られたことを公に言い表す」こと、つまり、主イエスが生身の人間となって来てくださったことを公に言い表す信仰を生きるところで、神の霊を知ることができるということです。わたしたちが神を知ることができるのです。(No.783)
2019年 7月 14日
待つという忍耐
先週の祈祷会でアブラハムの死と葬りの出来事を読みました。再び、森有正著「アブラハムの生涯」(講演集)より「Ⅴ 平和の王」から引用します。聖書はアブラハムの生涯を通して何を語りかけてくれているか、思索の言葉です。
“・・・私どもは絶えず積極的に、能動的に何かを求めています。けれどもその能動的、積極的な私どもの活動、歩みの全体が、待つということとは全く本質が違います。私どもは待つことができないから歩いていくわけです。けれども、待つことができないということが、待つという忍耐の中に含まれていなければならない。またそれ以外には仕方がない。・・・私どもは同じく聖書の中に見出される「時満ちて」と言い方をすぐに思い起こすことができます。言い換えれば、私どもは自分の経験に関して言えば、いつまでもまだ「満ちていない時」の中にいなければならない。これが死に至るまでの・・・私どもの本質的な姿であります。・・・
ヘブル人への手紙は次のように言っています。「このようにしてアブラハムは忍耐強く待ったので、約束のものを得たのである」〔6章15節〕と。これを聞くと彼の生涯が充実して完成したように見えますけれども、彼はそれをいつ得たのですか。・・・キリストが彼の約束を実現したとするならば、アブラハムは自分の死後2000年近く待たなければならなかったではありませんか。
このように、私どもの歩む促しとその成熟と忍耐と死と、さらにその死を超えて何かが延びてゆく。更に、私どもがもう死んでしまって何も知らない時にそれが実を結ぶ。私どもはこういう事態の中に生きている。・・・それ以外は全部空想です。私どもはそういう私どもの現実を「時間」という名前で呼んでいます。私どもがこの空間から離れることができないように、この時間から離れることができない。・・・私どもはいろいろ自分に都合の良い想像を致します。けれども現実はこういうものであります。・・・” (No.782)
2019年 7月 7日
教会は礼拝し、伝道する
先週の全体懇談会では、率直な意見交換ができ、よかったと思います。「これからの伝道のために」、今までもこれからも、共に喜び、共に苦しみ、進むばかりのわたしたちです。教会の頭である主イエス・キリストが先立っていてくださいます。全体懇談会を終えて改めて「伝道は誰がするのか」を思い巡らしていました。
わたしたちの救いは、主イエスの十字架と復活の出来事にかかっています。「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われる」(ローマ10・9)とある通りです。人間には救う力はありません。救いは神の御業です。同じローマの信徒への手紙第10章17節で「信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです」とあります。使徒パウロはこの章で「宣べ伝える人がいなければ、どうして福音を聞けるだろうか」と問いかけ、宣教者は主が遣わされる、と語っています。ですから、信仰者・教会に求められているのは、福音の宣教者として神に遣わされ、福音を宣べ伝えることです。こうしてわたしたちの語る言葉、行い、存在を用いて、神が救いの御業をなさいます。
説教塾の学びで「『わたしのようになれるからいいね』と言えないなら、牧師を辞めたほうがいい」と語られ、ハッとしたことがあります。それは、そういうことを所構わず、言って歩いて回るということではありません。そうではなくて、「『キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた』という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。わたしは、その罪人の中で最たる者です」(テモテ一1・15)とあるように、「『罪人のかしらであるこのわたしを神は救ってくださった。この救いにあなたも入ってほしい』と言えることだ」と語られ、納得しました。かけがえのない救いをいただいています。そこに立ち続け、教会は礼拝し、伝道します。(No.781)
2019年 6月 30日
責任ということ
祈祷会では創世記を少しずつ学んでいます。先週の祈祷会は第23章でした。アブラハムが寄留者でありながら、妻サラを葬るため丁寧な手続きを取って、墓地を所有できた出来事を読みました。この出来事は多くのことを教えてくれます。先週の祈祷会では、森有正著「アブラハムの生涯」、「Ⅳ死と墓」を紹介しました。引用します。
“約束に従う生活と、また自分がこの地上において、さすらい人として生きることを確保すること、この二つのことは全く別のことです。別々でありながらしかも全く別のものではない。こういう人間の真の姿は私どもをして、人間が霊肉を備えた存在であるというふうに言わせます。・・・自分が神に選ばれた者である、神に導かれた者である、そしてここまで来た者であるといくら言っても、それはカナンに墓を持つ権利を少しも彼に与えるものではない。・・・そんなことを言っても誰も相手にしない。かえって彼が主張する神様を馬鹿にさせるだけです。彼はそんなことは一言も言わない。徹底的にこの世界の中に入ってこの仕事を完成したのであります。彼はそれがうまくいくように祈りさえしなかった。しかも大事なことは、彼のこういう行為なくしては神の約束は空しくなったということです。
この水と油のような二つの世界、霊の世界と肉の世界、この二つをアブラハムの生ける人格だけが結び付けて支えている。わたしはこの二つを結び付けて支えることを「責任」と呼びます。・・・霊としての私どもと肉としての私どもと、この二つを私どもの中において一つに結びつけてしっかりと握って離さない、それが私は責任ということの一番深い意味だと思います。神に対して責任を持つ、人に対して責任を持つ、・・・それは私どもの中にある霊と肉の二つをしっかり握って、霊を裏切らずに肉の生活を全うすることでしょう。それ以外に責任という言葉はどこにも使いようがないでしょう。それはたとえどんな小さな責任でも本質は同じことです。・・・”(No.780)
2019年 6月 23日
教会は生きているか
先週の日曜日16日の午後、第18回地区IT祭りが開催されました。わたしは、この集会を主催している埼玉地区ホームページ委員会のメンバーの一員として奉仕しています。ここ数年、外部講師をお招きしていましたが、今年は地区ホームページ委員で、越谷教会員の豊川昭夫さんに発題していただきました。テーマは、「生きている教会―生きているホームページを作ろう!」でした。豊川さんは今まで約20の教会のホームページを作成されました。その経験から、どうしたら教会ホームページをお金をかけずに、簡単に作成できるか、楽しく語ってくださいました。その一端を紹介します。
「今の時代に、ホームページのない教会は、存在しないのと同じ」。高齢者はともかく、教会に行ってみようと思う人の大半はインターネットで検索してから教会に来る。だからそのときに見つけてもらわなければ、教会に来てもらえない。しかしたとえ教会ホームページがあっても、更新していなければ、例えば掲載されている情報が5年前のままでは、「この教会を信用してよいのか? 現在の牧師は掲載されている牧師なのか? 本当にこの教会は存在しているのか?」と、見る人に疑問を抱かせます。なぜホームページが死んでしまうのか(更新されないのか)。「最初は情熱をもって作ったが、忙しくなったため。最初は業者が作ったが、その後お金がかかるため。時間とお金がかかるのに比べ効果がないため。担当者がいたが教会から離れたため」という理由が考えられます。
ですから、生きている(更新されている)教会ホームページにするために、手間がかかるところは一切ご自分(豊川さん)が引き受けて教会ホームページを作成してこられました。教会ホームページを引き渡すときに「毎週の礼拝予告を更新だけをすればよい。5分あればできる」と伝えるとのことでした。宣教のために、また実際的なところも心配りをされる尊いご奉仕に、心から感謝して発題を伺いました。(No.779)
2019年 6月 16日
アシュラムについて
昨日から本日にかけて第44回西川口教会アシュラムが開催されています。今年も、西海満希子先生にご指導いただき、感謝しています。
アシュラムは、元はキリスト教とは関係なく、インドに古くからあるもので、ヒンズー語です。ある人が森や川辺で神との深い交わりをしていると、そこへ「あなたと一緒に、信仰の交わりにあずからせてください」と弟子入りしました。こうしてできる生活共同体を「アシュラム」といいました。宗教だけでなく、政治や農業など、さまざまな分野でアシュラムが開かれました。
わたしたちがしているのは「クリスチャン・アシュラム」です。御父と交わっておられるイエス様が私たちを待っておられます。「その交わりの中に私もあずからせてください」と弟子入りを願うときに、イエス様と共に「我が父よ」と御父をお呼びできるのです。そういうところから、「あなたは私の愛する子」と、イエス様と共に私も言われるのです。イエス様が聴いた声を、私たちも聞くことができるのです。そして私たちはイエス様からの声を直接聴くことができるのです。その声は「あなたの罪は赦されました」、「あなたは永遠の命を与えられています」、「あなたは、神の子どもとされています」と明言してくれています。それと同時に、「あなたは私の子どもですよ」とおっしゃってくださるのです。この声を聴くことができるのは、私たちが御父とイエス様の交わりに入らせていただいたからです。
ヨハネの手紙一第1章3節に「わたしたちが見、また聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたもわたしたちとの交わりを持つようになるためです。わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです」とあります。キリスト者の交わりは、御父とイエス様の交わりに入らせていただいていることであると書かれています。そのことの意味の深さ、恵みの豊かさをじっくりと味わっていただきたいと思います。(参考「村瀬俊夫アシュラムで語る」より)(No.778)
2019年 6月 9日
一つになって集まって祈っているところに
本日は、聖霊降臨日。ペンテコステ礼拝をささげます。「ペンテコステ」とは聞き慣れない言葉ですね。使徒言行録第2章1節の「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると」の「五旬祭」が、原文ギリシア語では「ペンテコステ」です。五旬祭はユダヤ教の三大祭りの一つで、収穫を祝う祭りであり、神から律法を授けられた記念の祭りでもありました。過越祭の安息日の翌日から数えて50日目に当たります。ギリシア語で「50」が「ペンテコステ」なので、五旬祭もペンテコステと呼ばれました。
主イエスは、過越祭のとき十字架につけられ、葬られ、三日目の週の初めの日の朝、死から復活されました。復活されて40日の後、天に昇られました。昇天から10日後の五旬祭の日に、一つになって集まって祈っていた弟子たちに聖霊が降り、弟子たちは「イエスは主である」と、キリストの証人として福音宣教に押し出されました。
聖霊降臨の出来事から約2千年、地上にキリストの教会が聖霊によって立てられています。この「教会」とは、キリストの弟子たちの群れであり、神の家族、キリストの体としての教会であり、教会の頭(かしら)であるキリストに従う信仰の共同体です。聖霊の神は、教会に生きる一人ひとりをキリストの弟子としてふさわしく整えてくださいます。それは祈りと御言葉によってです。
先週は、祈りと御言葉によって歩み、教会に仕えるまことに多くのキリスト者女性たちに出会いました。日本基督教団全国教会婦人会連合の50周年全国集会にマリア会の姉妹たちと初めて出席しました。わたしは改めて全国教会婦人会連合の目的と50年の歴史を伺い、また全国に広がるつながりを目の当たりにして、励ましを受けました。婦人会連合は御言葉を〈私〉への言葉として聴くことを重んじています。こうして一つになって、祈りと御言葉によって集まっているところに、聖霊がお働きにならないはずがありません。(No.777)
2019年 6月 2日
第69回関東教区総会
5月30日(木)・31日(金)、大宮ソニックシティ小ホールにて、第69回関東教区総会が開催されました。
第1日目の午前の議事の後、来賓の紹介、新任教師紹介、隠退教師紹介、関東教区で牧会25年以上の教職への感謝、関係学校の紹介があり、昼食休憩となりました。午後は、准允式が執行され、大宮教会出身の西谷祐司師が准允を受けられました。午後の議事の冒頭の教区総会議長報告後、教区執行部の選挙が順次進められました。選挙の結果、福島純雄牧師(茨城地区・筑波学園教会)が教区総会議長(新任)に、熊江秀一牧師(埼玉地区・大宮教会)が教区総会副議長(新任)に選ばれました。議長と副議長より、小池正造牧師(新潟地区・東新潟教会)が教区書記に再選されました。宣教部委員長には飯塚拓也牧師(竜ヶ崎教会)が再選されました。
今回、特筆すべき議案の一つは「関東教区諸委員会の整理・統廃合及び常設委員会と特設委員会との種別の変更並びに委員会名を改称する件」でした。変更後の組織、委員会、人数はすっきりと、分かりやすくなったと思います。
第1日目の午後5時過ぎに、教会互助についての協議会が開催されました。ナルドの壺献金の経緯、互助制度の現状、様々な課題についての説明があり、フロアからの声に耳を傾けました。小規模教会の苦闘を感じさせられるひとときでした。
第2日目はまず逝去者追悼礼拝をささげました。日本基督教団副議長の久世そらち師が教団問安使として「教区総会への議長挨拶」と「教団伝道推進・機構改定に関する検討資料」から教団の取り組みの説明をしてくださいました。午後の審議では、三つの伝道所廃止に関する件が提案されました。埼玉地区関係では、北川辺伝道所、国際愛伝道所があります。教会・伝道所が宣教を続けていくためには何が必要で、何ができるのか、今後の課題が突きつけられたように思います。
関東教区の歩みに主の祝福がありますように。(No.776)
2019年 5月 26日
誰が「主」なのか
来月の西川口教会アシュラムへぜひ参加してください。祈りの生活を築き直し、祈る者とならせていただきましょう。教会アシュラムの準備として、「ちいろば牧師榎本保郎を語る」(教団出版局)を読み返してみました。西川口教会アシュラムに以前いらしてくださった榎本恵先生の言葉に心を動かされました。引用します。
“私たちも、たとえば、「教会に愛がない」とよく言います。・・・しかも「愛がない」という話はたくさん聞きますが、「愛がある」という話はほとんど聞かないのではないでしょうか。それはなぜかというと、父〔榎本保郎師〕はよくエマオ途上のキリストの話と、復活の場面でマリアがイエスを「ラボニ」と呼ぶところを引用して、二つの物語とも「主客が転倒してる」と説明しているのです。確かに、イエスが、エマオ途上の弟子たちにパンを裂く時、主客が入れ替わり、復活の主に気づかなかったマリアが、「ラボニ(先生)」と呼んだあと、イエスが主として命じます。
「主客の転換」つまり、誰が「主」なのかということです。私たちは、自分が主である間は、自分が愛されているとか、自分が何をしてもらったとか、そのことを指して「あの人は愛がある人だ」と判断して言うわけです。それはあくまでも自分が主人であって、自分の判断で愛を捉えて発想しているのです。
けれども、これが逆転して、「主がお命じになったから愛する」ということ、本当にシンプルなのですが、その事実に立つ時に初めて、実は、ないと思っていたその愛がちゃんと教会の中にあるということが見えてくる・・・自分の求めている、自分の欲している、自分に都合のいい愛はなかった。けれども、教会の中に主が臨在なさっているということが見えてくると、その教会の中に愛があるということが見えてくるわけです。ものの見方が変わってくるのです。・・・”
教会アシュラムは主の愛が見えてくる、喜びの訓練です。主の愛に生きる者となりましょう。(No.775)
2019年 5月 19日
説教者は預言者
先週13日から16日まで、説教塾の説教者トレーニングセミナーに参加することができました。講師を含めて13人の参加者と共に、説教についての講義に始まり、説教のための第一の黙想、釈義、第二の黙想、説教原稿作成、説教演習、説教批評までいたしました。改めてわたしたちが目指す説教を確認しました。その一つ「預言者として語る」ことです。
わたしたちが目指す説教は、知識を伝える説教ではなく、人が悔い改めて信仰に入るという出来事を起こす説教です。知識や経験を伝えるだけなら、それほど多くの情熱は必要はありません。しかし人を悔い改めに導こうと思ったら、情熱なしにはできません。その情熱は、ひとりの人を、その罪を赦して救いに入れたいと願われる神ご自身の情熱から来るものです。その情熱に動かされて、説教者も情熱をもって聴き手に語りかけるのです。
その講義を聞いて、御言葉を思い起こしました。アモス書第3章7、8節です。
「まことに、主なる神はその定められたことを
僕なる預言者に示さずには
何事もなされない。
獅子がほえる
誰が恐れずにいられよう。
主なる神が語られる
誰が預言せずにいられようか。」
説教壇に立ったならば、神学生であろうと、信徒であろうと、その人は預言者です。預言者として語ることが求められるのです。信徒たちは、説教壇に立つ人がだれであれ、そこで神の言葉を聴くために礼拝に集まるからです。預言者は「主はこう言われる」と言って、自分の託された神の言葉を語ります。聖書の横に立って、その言葉の説明をするのではありません。聖書から神の言葉を聞き取ったら、自分の存在をかけ、自分の言葉で、神からのメッセージを語るのです。
そのためには修練が必要です。時間もかかります。目標を目指して地道に取り組みます。(No.774)
2019年 5月 12日
「伝道のステップ 1,2,3」
先週5月6日、西川口教会の兄姉と共に、こころの友伝道関東講習会(主催・こころの友伝道全国連合会関東支部)に参加しました。会場は、日本基督教団赤羽教会でした。開会礼拝の説教者は、西川口教会の初代牧師の横山義孝先生で、92歳のお年を感じさせない、福音の喜びと力にあふれる説教でした。横山先生の存在そのものが主を証しておられます。
今回の講習会の講師は、茨城県ひたちなか市にある日本基督教団勝田教会牧師の鈴木光(すずき・ひかり)先生でした。「伝道のステップ」と題しての講演を伺いました。鈴木先生は、お話だけではなく、プロジェクターを用いて、しばしば参加者に、「考えてみましょう」と問いかけるワークの時間を取りながら語られました。
伝道とは、主イエスが弟子たちに与えられた使命「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」(マタイ28・19~20)に応えることです。これを、主イエスに出会う人の視点で考えてみれば、伝道とは、「ある人が、今生きておられる主イエスと出会い、信じるようになり、従っていく決心をして、キリストの弟子として歩んでいく、そのすべての歩みに寄り添い、支えること」です。このプロセスを「伝道のステップ」として提示してくださいました。
ステップ1 イエス様と出会う
ステップ2 イエス様と向き合う
ステップ3 イエス様を主と信じる
ステップ4 イエス様と共に生きる
伝道する者は、あくまでもその人に寄り添うことであって、主役は主イエスとその人である、その人は今どのステップにいるのか、その人と次のステップに進むために自分は何ができるか、と問いかけられました。その問いかけに応えて自分が行動することが大切なのだと示されました。(No.773)
2019年 5月 5日
映画「がんと生きる 言葉の処方箋」
先週5月3日、ドキュメンタリー映画「がんと生きる 言葉の処方箋」が新宿武蔵野館で公開され、観に行って参りました。
「がん哲学外来」は、今年3月定年退職され、順天堂大学名誉教授となられた樋野興夫先生が提唱したものです。樋野先生はがん哲学外来に来られた患者さんやご家族に「言葉の処方箋」を出してこられました。そこから発展した「がん哲学外来メディカルカフェ」は全国に広がり、現在約150か所で開催されています(「川口がん哲学カフェいずみ」もその一つ)。この映画では、樋野先生のほか、各地でがん哲学外来メディカルカフェを運営する4人に注目しています。樋野先生の言葉の処方箋に共感し、救われ、励まされる人々の感動が、映像を通して伝わってきました。映画監督の野澤和之氏は、撮影を開始してから、大腸がんが見つかり、自分のがん体験が映画に生かされたそうです。映画で語られた言葉の処方箋は、映画を観る人への言葉の処方箋となっていました。
「病気は誰でもなる。病気になっても病人にならない。病気であっても病人にならない社会を作らないと。病気も単なる個性である社会を作っていくのですね」。「みな死に対する恐怖はありますね。無くなることはないけれども、優先順位を変えないと。死の恐怖は残っていても、他のことを上にあげないと。解決はできなくても解消はできるから」。「過去のことを振り返っても、明日のことを思い煩っても、我々人間にはコントロールできないから、毎日毎日全力を尽くすしかない。天寿をまっとうしてがんで亡くなるというか、人間には、死という大切な仕事が残っている」。(がん哲学外来映画製作委員会 プロダクションノートより引用)。
この日、映画を観終えたところで、K姉が神のみもとに召されていたとの知らせを受け、驚きました。死という大切な仕事が残っていること、今日全力を尽くすこと、心に深く刻みました。(No.772)
2019年 4月 28日
本日の午後は西川口教会の定期総会です。教会の頭であるキリストの前に謹んで活動を報告し、主の許しの中で、活動計画を提案します。その教会活動を支える献金について決算報告と予算案を主の前に提案します。キリストが教会総会のただ中におられると信じて、発言し、また互いにその発言を聞きましょう。冒頭の聖書の言葉のように、神にあって同じ思いをもって、そしてただ主にのみ栄光があるようにと賛美しつつ、新年度の歩みを進められますように祈ります。神の恵みに満ちた忍耐
忍耐と慰めの源である神が、あなたがたに、キリスト・イエスに倣って互いに同じ思いを抱かせ、心を合わせ声をそろえて、わたしたちの主イエス・キリストの神であり、父である方をたたえさせてくださいますように(ローマ15・5~6)。
先日の祈祷会の聖書箇所は創世記第18章前半で、神がアブラハムに「妻のサラに男の子が生まれる」と告げられたところでした。サラはその言葉を天幕の中で聞いて心ひそかに笑いました。創世記第17章でも息子誕生の予告があり、アブラハムは「そんなことはとんでもないこと」と心ひそかに笑いました。信仰の父・アブラハムは、神の計画をいつでもすべて信じて、承知したのではありませんでした。一方、彼らの不信仰によって神の計画が変わることはありません。神はアブラハムとサラを祝福し、彼らに息子イサクを授けてくださるのです。ここに神の忍耐がありました。
“そのような人間の思い込みを、神はじっとこらえていてくださって、時至ってご自身の約束を実現してくださるのです。・・・この二人が忍耐して神の約束を待ち望むということよりも、むしろ・・・アブラハムやサラの不信仰を耐え忍びながら、この二人にとって最善のときにその約束をかなえてあげようとしておられる神の忍耐、また配慮を、私たちは思わないわけにいきません。私たちは自らの救いについて、この神の恵みに満ちた忍耐ということをめいめい心の内に刻みつけたいと思います。”(松野俊一「創世記講解説教」より)(No.771)
2019年 4月 21日
神はイエスを復活させられた
本日は、復活日。キリストの復活を祝うイースター礼拝をささげます。イースターは移動祝日で、毎年日付が変わります。「春分の日の後の最初の満月の次の日曜日」と定められています。
新約聖書には、主イエスの復活の出来事の証言がちりばめられています。主イエスの復活は、文字に書かれた「教え」ではなくて、神が死者の中からイエスを復活させられた「出来事」でした。主の弟子たちは主の復活の目撃者とされたので、それを語らずにはおれませんでした。この復活の証言が教会の信仰の言葉となりました。聖書の言葉に改めて耳を傾けましょう。
使徒言行録第2章22~24節
「ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方です。神は、イエスを通してあなたがたの間で行われた奇跡と、不思議な業と、しるしとによって、そのことをあなたがたに証明なさいました。・・・このイエスを・・・あなたがたは律法を知らない者たちの手を借りて、十字架につけて殺してしまったのです。しかし、神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました。イエスが死に支配されたままでおられるなどということは、ありえなかったからです」。
使徒言行録第3章15節
「あなたがたは、命への導き手である方を殺してしまいましたが、神はこの方を死者の中から復活させてくださいました。わたしたちは、このことの証人です」。
使徒言行録第4章10節
「この人が良くなって、皆さんの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけて殺し、神が死者の中から復活させられたあのナザレの人、イエス・キリストの名によるものです」。
ローマの信徒への手紙第10章9節
「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われる・・・」。(No.770)
2019年 4月 14日
「父よ、彼らをお赦しください」
今年は、本日から受難週が始まります。今日は棕梠の主日で、主イエスがろばに乗って平和の王としてエルサレムに入城された出来事を記念する日です。18日は、主イエスが弟子の足を洗ってくださったことを記念する「洗足木曜日」、19日は、主イエスが十字架で死なれたことを記念する「受難日」です。そして来週の主日の21日が、キリストが死に勝利されたことを記念する「復活日」で、イースター礼拝をささげます。
主イエス・キリストが十字架の上でお語りになった言葉を、4つの福音書全部から書き出して、違った言葉だけを並べると7つあります。
① 父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。(ルカ23・34)
② はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる。(ルカ23・43)
③ 婦人よ、御覧なさい。あなたの子です。見なさい。あなたの母です。(ヨハネ19・26、27)
④ わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか。(マタイ27・46)
⑤ 渇く。(ヨハネ19・28)
⑥ 成し遂げられた。(ヨハネ19・30)
⑦ 父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。(ルカ23・46)
これらの言葉は教会の歴史において、「十字架上の七つの言葉」と呼ばれ、レント(受難節)や受難週には繰り返し思い起こし、黙想するのがひとつの伝統となりました。
今週の祈祷会ではこの最初の二つの言葉を心に刻みたいと願っています。この言葉に込められた主イエスの心を受け取りたい。主イエスが人々から痛めつけられ、辱めを受け、十字架につけられる中で祈り求めておられたのは、自分が救われることではなく、罪を正しく裁く神の怒りから、わたしたちが赦されることでした。主イエスの心には、わたしたちへの愛があふれていました。(No.769)
2019年 4月 7日
役員任職式にあたって
2019年度が始まりました。
毎年、年度初めの主日礼拝では、役員任職式を執行します。本日は、使徒言行録第20章から共に主の言葉に聴きましょう。昔も今もこれからも、教会はここに立ち続けます。
〈28節〉 「どうか、あなたがた自身と群れ全体とに気を配ってください。聖霊は、神が御子の血によって御自分のものとなさった神の教会の世話をさせるために、あなたがたをこの群れの監督者に任命なさったのです」。群れの監督者は「自分自身に気を配ってください」とあります。キリストの愛と恵みを受け、神に信頼しきって生きられますように、と祈ります。次いで「群れ全体とに気を配ってください」とあります。教会とは、「神が御子の血によってご自分のものとなさった神の教会」です。教会は人のものではありません。神がキリストの血によって神のものとされた神の教会です。神の御心に沿って仕えることができますようにと祈ります。
〈29~30節〉 教会は赦された罪人の集まりです。わたしたちが地上の生涯を全うするまで、罪の誘惑があり、罪との戦いがあります。「わたしが去った後に、残忍な狼どもがあなたがたのところへ入り込んで来て群れを荒らすことが、わたしには分かっています。また、あなたがた自身の中からも、邪説を唱えて弟子たちを従わせようとする者が現れます」ということも起こりえます。
〈31~32節〉 教会は順調な時も逆境においても、神とその恵みの言葉に従います。そこにしか教会の生きる道はありません。「だから、わたしが三年間、あなたがた一人一人に夜も昼も涙を流して教えてきたことを思い起こして、目を覚ましていなさい。そして今、神とその恵みの言葉とにあなたがたをゆだねます。この言葉は、あなたがたを造り上げ、聖なる者とされたすべての人々と共に恵みを受け継がせることができるのです」。神の言葉を思い起こし、目を覚ましていましょう。共に恵みを受け継がせていただきましょう。(No.768)
2019年 3月 31日
関係を見つめて
聖書を学び続けていくと、聖書が問うのは、人間同士あるいは神と人間との間の関係だと知らされます。その関係において真実であるかどうか問われます。
今、祈祷会で、先日は創世記第15章に入りました。神はアブラハム(アブラム)に、子孫を満天の星のように数えきれないほどにしてくださると約束を語り、彼は、神の言葉が確かであると信じる信仰によって、神との正しい関係に立つことができたのでした。
人間同士の関係では、その人の中にいるキリストに仕えるようにと教えられています。
カトリック司祭の片柳弘史神父の「心の深呼吸 気づきと癒しの言葉」を紹介していただきました。人間同士の関係を見つめ直す言葉でした。
「相手との距離
どんなに小さな欠点も、
近くから見れば大きく見えます。
相手の欠点ばかりが目につき始めたら、
相手と少し距離をとってみましょう。
遠くから相手の全体を見れば、
相手の欠点の
本当の大きさがわかるでしょう。」
「否定しなくても
正しいことを語っているなら、
他の意見をむきになって
否定する必要はありません。
ただ、自分の意見をはっきり、
力強く語ればいいのです。
どちらが正しいかは、
聞いた人たちが判断するでしょう。」
「誰を信じるか
『こちらが正しい』
『いやこちらが真理だ』
と言い争っている人たちの姿を見て、
信じようと思う人はいません。
誰とも争うことなく、自分の選んだ道を
喜んで歩み続ける人の姿を見るとき、
わたしたちはその人を信じるのです。」
(No.767)
2019年 3月 24日
「軽蔑に耐える訓練」
先週の祈祷会は、K姉の準備された、Ⅴ・レイモンド・エドマン著「人生の訓練」の第23章「軽蔑に耐える訓練」を読みました。レントにふさわしい学びでした。心に残った言葉、聖書箇所を分かち合いたいと思います。
“・・・私たちは軽蔑されることをきらう。傲慢無礼な態度をとられると卑屈になり、侮辱されればけんか腰になる。・・・私たちもみな、痛烈な侮蔑に直面する。それは心臓の鼓動を激しくし、心を燃え上がらせるが、また、キリストのような平静さを示す機会をも作りだす。・・・”
“私たちが他人から侮辱されたり、体面を傷つけられたりする試練の中にあるとき、愚かな者にその愚かさにしたがって答えをすることは愚かしいことであるということを、思い起こすことができますように。そうすることによって、私たちは「自分も彼と同じように」なってしまう(箴言26・4〔愚か者にはその無知にふさわしい答えをするな あなたが彼に似た者とならぬために〕)。愚かな者は去り、その愚かさも消え失せ、その嘲笑もやむ。私たちは愚かな者の軽蔑を無視し、ひたすら自分の義務を尽くすことによって、自分自身を御することができ、あすのために心を用いることができるようになる。・・・軽蔑に負けるなら、それによって破滅に至る。しかし、軽蔑に負けること自体を軽蔑するなら、喜びを得るに至る。”
“主は、「預言者は、自分の郷里、親族、家以外では、どこででも敬われないことはない」と穏やかに答えることがおできになった〔マルコ6・4より〕。主は人々の軽蔑に対する返報として、少しの非難も皮肉も言われず、ただ礼儀正しく、美しい態度をもって応じられた。・・・これが軽蔑に耐える訓練である。それは、ひどいことばを返さず、自己弁護をせず、悪をもって悪に報いないことである。腹だたしいときにも、優しく善意にあふれた親切な態度をとること、すなわち、私たちが「大工」なる方の真の弟子であることを立証することである。”(No.766)
2019年 3月 17日
主の受難を想いつつ
今年のレント(受難節)が3月6日から始まりました。受難節は、「四旬節 」とも呼ばれます。キリストの復活日(イースター)の前日まで(今年は4月20日)続きます。四旬節の「旬」は10日間を意味し、四旬節は40日間の季節ということです。この40日間に日曜日は含まれません。主の日はいつでも主イエスのご復活を祝う喜びの日であり、悔い改めの断食などは行いません。
レントには、主イエスの受難を覚えながら悔い改めの時を過ごします。主イエスがわたしたちのために苦しみを受け、十字架につけられ、死んで葬られたことを思い起こします。主イエスは、人にねたまれ、憎まれ、排除され、殺されました。人の罪が主イエスを裁きました。その罪を主の前に認め、悔い改め、主イエスが罪と死に勝利してくださったことを新しく受け取ります。主イエスの十字架の前にひれ伏し、復活をほめ歌います。
聖書の中で「40」は深い意味のある数字です。四旬節の40日は、主イエスが40日間荒れ野で断食したこと(マタイ4・2)に由来しています。主イエスは聖霊に導かれて荒れ野に行かれました。悪魔から誘惑を受けられ、御言葉をもってその誘惑を退けられました。そののち、ガリラヤで神の国の福音を宣べ伝えられました。またこの40日は、モーセがシナイ山にとどまった日数(出エジプト34・28)、預言者エリヤが神の山ホレブ(シナイ山)に旅した日数でもあります。
40日の荒れ野での生活は、神の言葉に聞き、祈ることに集中する生活です。何もないところに出て行って、神との特別に深い交わりを持つことです。神の御声を新しく聞き取ります。神の言葉を与えられて、それを他の人に伝えます。
レントの時に、いつもとは違う特別なことをするのではなく、主日礼拝を中心とした生活に変わりはありません。しかし、いつにも増して御言葉を深く受け取り、祈りを深くしたいのです。(参考 信徒の友3月号「主のご受難を想う40日の祈りの旅へ」)(No.765)
2019年 3月 10日
3月11日を迎えるにあたって
関東教区より、東日本大震災から8年となる「2019年3月11日を迎えるにあたって」というメッセージが届きました。一部ご紹介します(全文は掲示板に)。
“主のみ名を賛美いたします。
私たちは、来る3月11日(月)に「東日本大震災」発生から8年を迎えようとしています。しかし、8年を経ても、被災地では津波の被害によって失われた尊いいのちへの悲しみと喪失の思いは消えることはありません。
また、東京電力福島第一原子力発電所の事故は、原子力に頼る私たちの社会のあり方に、大きな問題があることを教えました。原発周辺の方々は避難を余儀なくされ、今もなお不安の中におかれています。
私たちは、今もなお痛みと悲しみ、大きな不安の中にある方々を覚えつつ、3月11日を迎えたいと思います。私たちの内で、3月11日の出来事を風化させることのないよう、むしろ思いを新たに迎える日としましょう。
3月11日を迎えるにあたって関東教区として礼拝等は行いませんが、来る3月10日や17日の主日礼拝において、被災された方々と被災地を覚え祈ってくださるようお願いいたします。
そのために、奥羽教区と東北教区で作成された祈り文を同封いたします。ご覧くださって、祈りを共にしていただければと思います。・・・
3月6日(水)に「灰の水曜日」を迎え、レントへと導かれようとしています。主の受難を思いつつ、主が人の苦難をその身におわれたことに、深く心を動かされたいと思います。そして、私たちも、苦難の中を歩む方々と共にありたいと願います。
神さまの導きとお守りが皆さまの上にありますようお祈りいたします。
日本基督教団関東教区 総会議長 東野尚志
災害対応支援委員会 統括 飯塚拓也”(No.764)
2019年 3月 3日
M姉召される
M姉が、2月22日、老衰のため、息を引き取りました。諸事情によりK市斎場での直葬となり、火葬前の祈りをささげました。葬儀の準備のため、月報西川口だよりのバックナンバーから、M姉の書かれた文章をいくつか見つけ、葬りに集まったご遺族の皆様にお渡しできました。いつも感謝して、やさしい笑顔で、忠実に奉仕してくださったMさん。神に信頼して生きてきた信仰が証されました。
その一篇をご紹介します。
“〔1996年12月号より〕
羽仁もと子さんは「誰にでも人にはみな幸福感と悲哀感がある。幸福のみ感ずる人は高慢になり勝気になり、不足のみ感ずる人は、皮肉になり、厭世になる。得意さと惨めさと、悲哀と幸福と、相関連し、相交錯して、私達の生も人生も動いている。悲哀も幸福も、深く感ずることのできる人は、悲しみにも歓びにもやぶれることがないのである。」(「明日の友」より)と書いています。
夫を天国に送って早や五年。独り暮らしも馴れ、心に余裕が出来た今日この頃、想い出すのは、夫が手術した時に集中治療室の窓から見た夕日に映える富士山のシルエットです。悠久無限の世界に引き込まれて行き、神のわざのすばらしさに感動した、あの時の事が今でも眼に焼きついて離れません。
阪神大震災で独り暮らしの孤独死が時折り新聞の話題になっていますが、外の世界と無干渉の人が多いようです。私も何かあった時はと考えないことも無いですが、私は一人ぼっちではないのです。私の背後には教会の多くの兄弟姉妹が、絶えず祈り支えていて下さるので、思い煩うことなく、すべてを主におゆだねして、希望をいただいて明日に向かって、前進して行けるのです。感謝。アーメン。…”
この通りに生きてこられたM姉でした。昨年12月12日の訪問が最後となりました。待っていてくださったのかな、と思っています。(No.763)
2019年 2月 24日
神が証しさせてくださる
皆様のお祈りに励まされて、父の在宅介護をしながらの暮らしが2か月余り過ぎ、お互いに慣れてきました。
日曜日は(月1回か2回ですが)、主日礼拝に父が来られるようになり喜んでいます。礼拝堂に上がれないのは残念です。皆様にお声をかけていただけるのは大きな励ましです。日曜の午後はショートステイ先へ送り、わたしは教会に戻ります。月曜の夜ショートステイ先に迎えに行きます。火曜日の朝9時頃、父をデイサービスに送り出します。夕方5時頃デイサービスから迎えます。デイサービスで送迎してくれますので、助かります。水曜日は在宅の日です。1月は訪問歯科をお願いして口腔ケアをしました。感謝なことに父も夜の祈祷会に一緒に出席できるようになりました。木曜日と金曜日はデイサービスで朝9時に送り出します。木曜日と金曜日は、デイサービスから戻る夕方は、ヘルパーさんに自宅に来てもらい、父を迎えて家の中に入れてもらいます。時々、地区委員会などのためわたしの帰宅が夜9時過ぎになるがありますが、臨時で、夜8時ごろ別の介護事業所のヘルパーさんに来てもらい、着替えなどしてもらいます。都合により土曜日からショートステイに行ってもらうときもあります。 その他に、福祉用具(ベッド、車いすなど)を借りています。こうして介護保険のサービスを上手く利用しながら、どうにか暮らしています。
これらの介護サービスを利用するためには、すべて契約をしてからになります。父は手続きができないので、わたしが代理人になって進めました。介護事業所の担当の方と契約をするたびに、自分の名刺を渡して、日本基督教団西川口教会の牧師ですと自己紹介できました。「牧師に会ったのは初めてです」とおっしゃった方もおられました。介護の生活が始まったことを通しても、ここに教会があることを神が証しさせてくださった、と感謝しています。(No.762)
2019年 2月 17日
アブラハムの召命と旅立ち
祈祷会では、昨年の8月22日から創世記を学び始め、先週は第12章に入りました。創世記は物語が続くので読んだことのある方も多いと思います。祈祷会では短い箇所を少しずつ読んでいくので、自分だけで読んでいるときは、読み過ごしてしまうかもしれないところにも恵みを発見することができます。お時間の許す方は、ぜひ祈祷会に出席して、ご一緒に聖書の恵みを味わっていただきたいと思います。心からお待ちしています。
第12章は、アブラム(後のアブラハム)が神に呼ばれ、その神の言葉に従って出発した出来事から始まります。神の言葉「あなたは生まれ故郷 父の家を離れて わたしが示す地に行きなさい」(創世記12・1)が意味していることを、改めて知りました。「生まれ故郷、父の家」とは、地縁や血縁にもとづく自然的な共同体です。それは、創世記第11章までの物語(「原初史」と呼ばれます)が示すように、人間の健全さのために必要な神への畏れをなくさせてしまうのです。創世記第11章のバベルの塔の出来事に示されるように、神無しで、人間だけで生きていけると過信している間は、神への畏れはありません。アブラムへの呼びかけの言葉から、神はアブラムをその自然的な共同体から切り離し、神が示す地に向かう共同体、すなわち、「神を結びめとする共同体」を作り出すことによって、祝福への道を全人類に現そうとされたというのです(「地上の氏族はすべて あなたによって祝福に入る」(創世記12・3))神を結びめとする共同体は、キリストの体である教会へ引き継がれています。
さらに、「わたしはあなたを大いなる国民に(する)」(創世記12・2)という約束は与えられながら、アブラムの現実はそれと全く矛盾する、子供がない状況でした。わたしたちは救いの途上にある者として、現実がどのように矛盾に満ちたものであっても、神の約束を真実のこととして受け取り、信仰の旅路を続けていきたいものです。(No.761)
2019年 2月 10日
『今日の』祈り
以前にも書きましが、カトリック教会の心のともしび運動から、毎日、ラジオ番組「心の糧」の文章をメールで受け取っています。今日の午後の教会総会のため祈り、今の時期、新年度へ向けていろいろと考えています。中長期的な課題があり、心配するまいと思いながらも、気がつけば心配している自分がいます。そんな中、1月24日に配信された「心の糧」の片柳弘史神父の文章に、大いに共感し、励ましをいただきました。
“朝のミサを終えた後、わたしは聖堂に戻って5分ほど静かに祈ることにしている。今日一日に果たすべき使命を思い巡らし、そのために必要な力を神に願うためだ。・・・最後はいつも「今日果たすべき使命を、精いっぱい果たすことができますように」と締めくくる。
先のことまで心配して祈り始めればきりがない。教会が抱えている様々な問題のこと、自分自身のこれからのことなど、気がかりなことはいくらでもある。だが、あまり先のことまでは考えないようにしている。「今日一日、自分にできる限りのことを精一杯にしていれば、必ず道は開ける。神様が一番よい道を準備して下さる」と確信しているからだ。実際、どんなに先のことを考えたとしても、わたしたちが実際に変えられるのは今日だけだ。今日という日が積み重なって、未来を作ってゆく。先のことを心配するために今日を使ってしまい、今日すべきことをしなければ、未来はいつまでたってもやって来ない。・・・
「明日のことまで思い悩むな。その日の苦労は、その日だけで十分である」と、イエス・キリストは言っている(マタイ6・34)。一日一日を精一杯に生きていれば、先のことは必ず神様がなんとかしてくださる。何も心配する必要などない、ということだ。先のことは神様の手に委ね、今日一日にすべてをかけて、与えられた使命を精一杯に果たしてゆく。それが、わたしたちにできる最善のことであり、一番幸せな生き方なのではないだろうか。”(No.760)
2019年 2月 3日
教会総会を前に
来週2月10日の礼拝後、役員改選の教会総会が開催されます。毎年、年度初めに役員任職式が行われますが、その任職の言葉をここに載せますので、西川口教会の福音宣教の業のためにふさわしい人が選ばれるように祈り、備え、教会総会に臨みましょう。
「任職の辞より…あなたがたは今役員の務めに任じられました。あなたがたはキリストの召しを受けてこの務めに聖別されたのでありますから、これから後もキリストが必要な恵みと知恵とを与えてくださいます。あなたがたは牧師および同職の役員と共にこの群れを守らなければいけません。もしも、真理から迷い出る者があるならば、愛と徳とをもってその誤りを正し、彼らを良く導くのは、あなたがたの任務であります。あなたがたは人に接するときいつも柔和であって、みだりに争ってはなりません。絶えず言動を慎み、信仰と行いとにおいて、会員の模範になってください。常に聖書を研究し、朝夕恵みの座に近づいて祈ってください。牧師のため、同職の役員のため、教会のために祈ってください。すべてのことキリストを模範とすべきであります」。
昨年、年が終わろうとする頃の聖書日課で、心を動かされた御言葉がありました。フィリピの信徒への手紙第2章25節です。「ところでわたしは、エパフロディトをそちらに帰さねばならないと考えています。彼はわたしの兄弟、協力者、戦友であり、また、あなたがたの使者として、わたしの窮乏のとき奉仕者となってくれました…」。使徒パウロにとって、エパフロディトは、兄妹、協力者、戦友、教会の使者、窮乏のときの奉仕者でした。牧師にとって教会の仲間、特に教会役員は、やはり同じではないでしょうか。「戦友」という表現に心惹かれます。牧師と一緒になって戦ってくれる人です。福音の前進のために、信徒と牧師が一緒になって戦わなければなりません。キリストを模範として、キリストの真似をして生きる教会役員が必要です。教会総会のために祈ります。(No.759)
2019年 1月 27日
岩槻教会と小林眞先生との出会いを喜んで
日本基督教団関東教区埼玉地区では、成人の日を「地区デー」と定めて、新年合同礼拝をささげています。地区の伝道の推進のために、埼玉地区の諸教会は地区デー献金をささげています。さらに地区デーに近い日に、講壇交換礼拝を実施しています。今年は、岩槻教会が相手先の教会に決まりました。牧師がそれぞれの教会に赴き、礼拝を共にささげることで、互いに祈り合うことができ、主にある交わりに生きていることをいっそう深く感じられます。
埼玉地区ホームページによれば、岩槻教会は創立年月日が1889年3月30日、間もなく130周年を迎えます。西川口教会は来年が70周年ですから大先輩の教会です。教会附属岩槻幼稚園は2016年に100周年を迎えられたと、岩槻幼稚園のホームページにありました。長きに亘り地域に根差した幼児教育をされている教会です。
今回、岩槻教会牧師の小林眞先生が西川口教会にいらしてくださいます。心から歓迎いたします。小林眞先生は、2002年度、わたしが日本基督教団の正教師試験を受験した時の教師検定委員長でいらっしゃいました。受験する方もたいへんですが、その試験を担う教師検定委員は、日本基督教団の教師を立てるという、重い責任を負っています。正教師試験の面接の折、小林先生から「これからは、聖礼典を執行することによって、教会をしっかり建ててください」とお励ましをいただいたことを覚えています。同じころ、小林先生は、2002年10月より1期2年の任期で3期連続で6年間、日本基督教団総会副議長を務められ、教団を代表する大きな責任を負ってくださいました。数年前、豊かな賜物と経験をお持ちの小林先生が、埼玉地区の岩槻教会に着任されました。埼玉地区一区の教師会でご指導をいただいています。地区の交わりの中で、小林眞先生は良き牧会者だと常日頃感じ、尊敬しています。今日の良き出会いを主に感謝いたします。(No.758)
2019年 1月 20日
礼拝が礼拝となるために
先週の週報短文で、礼拝前の5分間について書きました。多くの人が心に留めてくださり、本当に静まって礼拝に臨めました。感謝です。
今回は、わたしたちは礼拝で何をしているのかお伝えします。改めて受け取りたいと思います。
①招詞…神を指し示し、神の御名を呼びつつ、神を礼拝するために会衆の心を引き立てようとする御言葉が選ばれます。 ②賛美…神を賛美し、礼拝する心をまっすぐに歌います。神の言葉を聴く心を整える歌、与えられた福音への応答の歌をうたいます。聖餐のときは恵みへの感謝、応答する歌をうたいます。主の日が特別な日の場合、その内容に沿った讃美歌が選ばれます。 ③主の祈り…キリストが教えてくださった祈りです。 ④交読詩編…詩編を礼拝の中で読む、あるいは歌うことはキリストの教会が重んじてきたことです。 ⑤聖書朗読…司会者は耳で聞いてわかる速さで朗読します。会衆は聖書朗読を聴くことに集中するようにします。 ⑥祈祷…司会者の祈祷は、感謝・賛美・悔い改め・説教者のための祈りが祈られます。牧師がとりなしの祈りを祈ります。献金の後、感謝の祈りが祈られます。⑦使徒信条・日本基督教団信仰告白…説教に先立って信仰を告白することは、自分たちの信仰を言い表し、それに基づいて神の言葉が語られ、神の言葉を聴くという考え方を示しています。 ⑧説教…神の臨在を信じて、神の言葉としての説教を通して臨在が証しされ、福音の言葉が届くとき、救いが起こり、神の言葉に応えざるをえない信仰が呼び覚まされます。 ⑨献金…献金は、神にささげる感謝と献身のしるしです。心をこめてささげましょう。⑩祝祷…子供たちを招いて祝福します。神の名において祝福を告げます。会衆は祝福されて遣わされていきます。⑪報告…新来会者等、教会の交わりの中で紹介されます。行事の案内等があります。⑫平和の挨拶…「キリストの恵みと平和がありますように」と互いに挨拶を交わして、礼拝から出発します。(No.757)
2019年 1月 13日
何もしないで主を待ち望むとき
今月の27日は地区講壇交換礼拝を予定しています。外部の説教者をお迎えする良い機会ですので、主日礼拝への姿勢を改めて確認したいと思います。教会活動の中心は主日礼拝です。教会員が心を込めて真剣に礼拝をささげているかは、伝わるものです。見えない神を見るようにして仰いでいるところ、「ここには何かがある」と他者が感じられるものです。そこをおろそかにしていて、他のどんな活動を活発にしても本末転倒です。
昨年9月の教会全体懇談会にあたり、主日礼拝についての基本的理解を示しました。改めてお伝えいたします。①礼拝で、生ける主にお会いすることができる。②礼拝する群れの中に、神がいてくださる。③礼拝を成り立たせるものは、説教と聖礼典であり、日常的には説教と聖餐である。④説教をする者は、説教をするために訓練を受けて、全力を尽くして説教をする。⑤説教を聞く者も、存在を傾けて、神の言葉として説教を聞く。⑥罪を示され、悔い改め、赦しを与えられ、祝福を受けて立ち上がって帰ることができる。⑦説教を聞いて、教会の信仰を言い表した者が聖餐に与かる。⑧礼拝を重んじるとは、礼拝が教会の営みの中心であることを意味する。⑨遅くとも礼拝5分前に着席する。その前に礼拝堂に入る。奏楽が始まったら、沈黙して、聖霊の働きを待ち望み、委ね、礼拝に備える。挨拶や連絡は5分前までに終える。⑩名札をつけて、新来会者が名前を呼べるようにする。⑪礼拝の奉仕の担当は、月間予定表、週報で確認する。
礼拝前の5分間は「何もしない」。主を待ち望むとき、聖霊の神にすべてを委ねるときです。挨拶や連絡はその前に終わらせましょう。司会者は5分前のアナウンスを時間通りにいたしましょう。これだけでも、毎週できたらすばらしいです。
「ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である」(ルカ16・10)。(No.756)
2019年 1月 6日
主が新しい歌を授けてくださる
主の年2019年を迎えました。
詩編第40篇2節から4節に、「主にのみ、わたしは望みをおいていた。主は耳を傾けて、叫びを聞いてくださった。滅びの穴、泥沼からわたしを引き上げ わたしの足を岩の上に立たせ しっかりと歩ませ わたしの口に新しい歌を わたしたちの神への賛美を授けてくださった」とあります。主なる神がわたしたち一人ひとりを引き上げて救い出してくださり、確かな岩に立たせ、しっかりと歩ませてくださいます。新しい歌を授けてくださるのも、主なる神です。主が賛美を歌わせてくださるのです。この年も、賛美から賛美への歩みができますように。
アドベント主日ごとに、各グループや有志や聖歌隊による特別賛美を10数年続けていますが、クリスマス礼拝当日の特別賛美のため聖歌隊奉仕者を募り、埼玉新生教会の今村静子姉にご指導いただくようになったのは、2015年のアドベントからです。讃美歌第2編219番「さやかにほしはきらめき」一曲に集中して、秋から練習を重ねて、当日に臨んでいます。先月のクリスマス礼拝でこの取り組みから4年となりました。礼拝の聖歌隊の賛美は、心と声を一つに合わせて神と神の御業を賛美でき、とても力づけられ、聖なるものを感じました。歌うことばかりではなく、聖歌隊奉仕者として、ガウンを着用して礼拝堂に入ることや、奉仕者がまとまって着席して礼拝の初めから終わりまでそこにいることが、礼拝者として礼拝を形成することを体験しました。それは、続けてきたからこそ得られた恵みだと思いますし、賛美が成長するというか、熟成してくることがある、と改めて知らされた思いです。これからの成長が楽しみです。今村姉と埼玉新生教会には感謝でいっぱいです。奏楽者の奉仕に感謝です。
賛美は恵みです。力です。「ひとつ賛美でも」という安易さを退けて、新しい歌を主にささげることができますように。(No.755)
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