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週報短文

バックナンバー 2017年



2017年 12月 31日

「それでも、リンゴの木を植える」

 今年最後の日となりました。この年のお守りを主に感謝します。2017年はルターの改革500年の記念の年でした。ルターが語ったと伝えられている言葉を紹介しましょう。
 「たとえ明日世界が終わるとしても、それでも今日私はリンゴの木を植える」。
 西川口だより11月号の巻頭言で紹介した、NHKカルチャーラジオ「ルターと宗教改革500年」の講師・江口再起先生が最終回でこの言葉とルターの心を伝えてくださっています。
 “・・・現代のただ中でルターを学ぶとは、どういうことだろうか、と考えてきました。とりわけ現代社会の危機を直視しながらです。危機は大きく言えば世界情勢の危機ということですが、そればかりではないでしょう。いや私たち一人ひとりの心の中に、身の周りにこそ深刻な危機がいつもあるものです。その中でルターを学び直してみると、私たちは意外に昔から言われてきた教えにたどり着いたとも言えるかもしれません。「恵みのみ」というルターの教えこそがキーワードだ、という結論です。「恩寵義認」という教えです。
 そして考えてみればこの「恵みのみ(恩寵義認)」の教えは、そこにゆるぎない神への信頼感、すなわち別の表現をすれば(神の与える)生きることへの安心感、もっと言えば死んでいくことへの安心感があります。そして、このことを鮮明なイメージで表現したのが、ルターが語ったと伝えられるこの言葉です。・・・”(テキストより引用)
 先週の祈祷会はちょうど詩編121篇で、ゆるぎない神への信頼の御言葉を聴き、年の終わりにふさわしく、神のお計らいを感じ、励まされました。「目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。わたしの助けはどこから来るのか。わたしの助けは来る 天地を造られた主のもとから」(1~2節)。
 天地の造り主なる神は、限りなくわたしたちを愛し、救い主を遣わしてくださいました。来る年もこの神に信頼して歩みましょう。
(No.702)

2017年 12月 24日

イエス・キリストとは

 今年も、イエス・キリストのご降誕のお祝いのクリスマス礼拝をささげられ、感謝です。クリスマス礼拝にあたり、改めて「イエス・キリスト」の意味をお伝えしたいと思います。
 マリアは、生まれてくる子に「イエス」と名付けるように、天使のお告げを受けました(ルカによる福音書第1章31節「あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい」)。旧約聖書に「ヨシュア記」がありますが、これは人名が聖書の書名になったものです。ヘブライ語で「ヨシュア」という名のギリシア語名が「イエス」です(旧約聖書はヘブライ語で書かれており、新約聖書はギリシア語で書かれています)。「イエス」(ヨシュア)という名は、「主は救い」という意味です。素晴らしい意味の名ですが、当時、ユダヤ人の間ではありふれた名でもありました。
 「キリスト」はヘブル語では「メシア」で「油を注がれた者」という意味です(余談ですが、「メシア」の英語読みが「メサイア」です。ヘンデルのオラトリオ「メサイア」のハレルヤ・コーラスは有名)。つまり「キリスト」(メシア)は人名ではなく、称号のような語です。旧約の時代、預言者あるいは王、あるいは祭司に任命される者が、任じられるとき、油を注がれました。ですから預言者・王・祭司は、「油注がれた者」という意味では「メシア」です。やがてイスラエルの歴史において、この「メシア」は特別な意味を持つようになりました。神が約束しておられた「救い主」を意味し、人々は救い主である「メシア」(キリスト)を待望するようになりました。
 こういうわけで「イエス・キリスト」とは、「イエスが救い主である」という意味になるのです。
 「イエス」がありふれた名であったとは、救い主はその他大勢の中の一人としておいでになるということ。ベツレヘムの家畜小屋で、布にくるまって飼い葉桶に寝かされた赤ちゃんが「キリスト」であるとは、「まさか」と思うところに救い主はおいでになっている、ということです。(No.701)


2017年 12月 17日

主の恵みをかぞえて

 今はほとんど歌う機会がありませんが、聖歌という歌集がありました(現在は「聖歌 総合版」となって、出版されています)。その中で、「望みも消えゆくまでに」(「聖歌 総合版」642番)という聖歌を時々思い起こすことがあります。
 こういう歌詞です。
1.望みも消えゆくまでに 世の嵐に悩むとき
  数えてみよ主の恵み 汝が心は安きを得ん
(おりかえし)
 数えよ主の恵み 数えよ主の恵み 
 数えよひとつずつ 数えてみよ主の恵み
2.主のたまいし十字架を 担いきれず沈むとき
  数えてみよ主の恵み つぶやきなどいかであらん (おりかえし)
3.世の楽しみ・富・知識 汝がこころを誘うとき
  数えてみよ主の恵み 天つ国の幸に酔わん (おりかえし)
 2017年も残り少なくなりました。年の終わりが近づくと、この聖歌のおりかえしの賛美が思い出されて、年の恵みを数えます。
 たまたまですが、今回の週報短文は第700回めとなりました。2004年5月2日から始めて、休暇のときは書かない日もありましたが、こうして続けることができて、感謝です。
 今年は、教会の支援と協力者を与えられ、川口がん哲学カフェいずみを始めることができました。
 高齢の父と二人暮らしをしていると、年を重ねることの大変さを知らされます。そうすると、日常生活が滞りなくできることが、お恵みだとつくづく思います。食べたいものが食べられること、歩けること、自分でトイレに行けること、自転車に乗れること、いろいろあります。そして、主日礼拝をささげられること、祈れること、御言葉を聴くこと。主の恵みです
。(No.700)

2017年 12月 10日

キリストの中に生きる

 今、祈祷会ではコツコツと詩編を学び、第119篇まで進みました。先週は光のような御言葉に出会いました。130節です。「御言葉が開かれると光が射し出で 無知な者にも理解を与えます」。まず「自分が無知な者である」と気付くことから始まるのではないかと思いました。使徒パウロはこう言っています。「自分は何か知っていると思う人がいたら、その人は、知らねばならぬことをまだ知らないのです。しかし、神を愛する人がいれば、その人は神に知られているのです」(コリント一8・2~3)。神に知られている確かさが支えとなります。そのことを知るのが信仰でしょう。主の再臨を待ち望むアドベントのこのとき、知らねばならぬことを理解することができますように。
 「愛と自由の言葉一日一章」の11月9日の竹森満佐一先生の文章から一部紹介します。
 “ある意味からいえば、キリスト者というのは、もう自分を顧みない人…ただキリストだけを仰いで暮らす人になった、ということであります。いうまでもなくキリスト者は、誰よりもきびしく自分を裁き、きよい生活を励む者であります。…普通からいえば、もちろん、全く罪に汚れた人間であります。しかし、キリストを信じる者は、キリストの中に生きているので、神との関係は全く新しく造られているのです。だから、神に対しては、何の心配もなくなったのです。帰化して日本人になった西洋の人のことを考えれば、よく分かると思います。その人は、皮膚の色を変えることもできないでしょうし、目はやはり青いかもしれません。…パンばかり食べているかもしれません。…しかし、その人が日本人として扱われ、日本人のあらゆる権利を与えられていることは、誰も疑わないと思います。それと同じように、キリスト・イエスを信じている者にとっては、その全生活が、キリストの死と復活によって守られているのであります。その人に、過去からの生活の名残りがあったとしても、それはもう問題にはされないのであります。…”
(No.699)

2017年 12月 4日

KT姉召される

 先月の、11月23日にKT姉が神の御もとに召されました。ご家族の皆様に主の慰めがありますように。
 K姉は2014年11月23日の夕拝で洗礼をお受けになりました。奇しくも召された日が受洗日と同じでした。「洗礼を受けるにあたって」の片山千穂子姉の信仰の証からを一部紹介します。
 〝西川口教会の礼拝に行くようになったきっかけは、数年前の「クリスマスの夕べ」でした。…その冬の西川口教会のクリスマスイブ礼拝に参りました。…実は、わたしの子供たちは、日本基督教団浅草教会の小百合幼稚園に通っていました。…保護者のための会にも参加していて…いつか教会へ行きたいと思っていました。
 その後も時々西川口教会の礼拝に通うようになりました。…この度、洗礼を受けたいと思いましたのは、今年の春、大きな病気になって、深く神様に助けていただこうという気持ちになったからです。自分が弱ったとき、神様の救いが備えられていたことを知りました。…
 「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。愛は決して滅びない」(コリント一13・4~8)。心にとどまっている聖書の御言葉です。これは、幼稚園で林田先生から聴き、本当に素晴らしい言葉だと思って、ずっと大切にしておりました。…神様を信じて、洗礼を受けて、神様に依り頼んで生きていきたいと願っております。…〟
 この証のとおりに、神様に依り頼んで生き貫いたK姉でした。常に、教会のために祈ってくださいました。今年の10月30日のお見舞いがお会いした最後のときとなりました。「死を恐れていない。信仰をいただいたおかげです」とはっきり言われ、神様に感謝の祈りを共にささげました。死を引き受けた信仰の力を見ました。
(No.698)

2017年 11月 26日

説教塾シンポジウムに参加して

 先週11月20日から23日まで、「説教塾シンポジウム2017」に参加しました。シンポジウムのテーマは「日本の伝道を切り拓く説教」。今年は説教塾30周年。ルターの改革から500年の記念と、説教塾主宰・加藤常昭先生の米寿の記念とが重なりました。初めの3日間は国立オリンピック記念青少年センターを会場に行われ、北海道から沖縄、さらに韓国からも牧師と信徒が集まり96人の参加者でした。4日め・11月23日のキリスト品川教会での公開プログラムは、礼拝堂がほぼ満席となる参加者が来られました。
 今回のシンポジウムは、海外の講師は招かず、加藤先生の講演もなく、すべてを塾生で行うという基本姿勢で進められ、加藤先生はオブザーバー的に関わってこられました。開会礼拝に始まり、前半のプログラムは、4人の説教塾生の基調講演と、講演を受けてのグループ協議と全体協議が行われ、4つの講演で語られたことを参加者も共有し、大切に受けとめました。後半のプログラムでは、各地の説教塾と、塾生の研究発表が行われました。時間の関係で発表は同時並行で行われました。牧師の働きはきりがなく忙しいのですが、コツコツと学び続け、問い続けた研究成果の発表を伺い、頭が下がりました。学んだことは無駄にならないのも良く分かりました。言い訳をしないように自戒します。久しぶりの再会を喜び、新しい出会いを感謝し、説教塾の仲間たちが各地で奮闘していると感じられ、大いに励まされました。
 最終日の公開プログラム、午前のパネルディスカッションは、「伝道できる説教とは何か」をテーマに信徒の方たちからの発題と討論は、示唆に富み、密度の濃い、有益なものでした。午後は、礼拝の前に加藤先生からのご挨拶があり、伝道派遣礼拝では「福音を届かせよう! わたしたちの存在を賭けた言葉で!」と題して、加藤先生がローマの信徒への手紙第10章から、情熱を込めて語られました。心燃やされた4日間でした。(No.697)

2017年 11月 19日

「愛を身に着けなさい」

 今年度の主日礼拝では、マタイ福音書からの説教と、月に一度の日本基督教団信仰告白にもとづいての説教を続けてきました。来年もそれを続けていきますが、来月のアドベントから年末までは、ルカ福音書の第1章、第2章の降誕の物語から説教したいと思います。
 そして、来年の西川口教会の御言葉は、コロサイの信徒への手紙第3章14節から選びました。「愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです」。
 その前後の言葉を共に読んでみましょう。
 “あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです。また、キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。いつも感謝していなさい。キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、諭し合い、詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい。そして、何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行い、イエスによって、父である神に感謝しなさい。(コロサイ3・12~17)”
 わたしたちは既に聖なる者、愛されている者であること。それはキリストの救いによって、恵みによってです。だから、キリストに愛されている者としてふさわしいわざに生きるように勧めの言葉が続きます。愛を身に着ける。この「愛」は「キリスト」と言い換えてもいいと思います。愛のきずながすべてのわざを完成します。わたしたちではなく、キリストがすべてを始め、すべてを完成してくださいます。(No.696)

2017年 11月 12日

全信徒が祭司(万人祭司性)

 ルターの改革から今年は500年の記念の年で、折に触れて話題にして、その現代的な意義を考えてきました。今回は「万人祭司性(「全信徒祭司性」とも訳される)」について述べます。雑誌「信徒の友」10月号の深井智朗先生(東洋英和女学院大学教授)の「全信徒が祭司であること」は、「万人祭司性」への良い理解を与える文章でした(※注 祭司「性」であって祭司「制」ではない)。深井先生の文章からかいつまんで紹介します。
 ルターは書物の中で「信徒と司祭、諸侯と司教、あるいは教皇主義者たちの言う『霊的なもの』と『この世のもの』という区別は、その職務あるいはその業務以外の違いを意味しているのではなく、両者の間に身分的な違いはない」と書き、また「私たちは皆洗礼によって祭司として聖別されたのである」とも書いています。ルターは聖職者と信徒の違いはないとか、牧師の制度は不要と言っているのではありません。聖職者たちだけが祭司として神の前でその職務をなすことができるのではなく、すべてのキリスト者ができると言っているのです。洗礼を受けたキリスト者は「選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民」(ペトロの手紙一2・9)として、祭司の務めを果たすのだと言えるのです。
 ルターは「キリスト者の自由」の中でこう述べています。「私たちは祭司である。その意味では、王であるより、はるかに優れているということである。祭司の務めを与えられていることで、私たちは神の前で他の誰かのために祈ることができる者とされる。神の前に立って祈ることは、祭司以外には許されていない。・・・私たちは霊的に、他の人に代わって祈ることができるようにされた。・・・キリスト者は祭司としては、神を動かす」。キリスト者は洗礼によってキリストと一つにされた者なので、キリストが祭司であるがゆえにキリスト者も祭司であると、ルターは言おうとしたのです。(No.695)

2017年 11月 5日

「わたしの家族とはだれか」

 今日は「聖徒の日」。年に一度の召天者合同記念礼拝です。今年、主日礼拝ではマタイによる福音書の言葉に耳を傾けていますが、本日は、期せずして、「わたしの家族とはだれなのか」という主イエスの問いと答えの御言葉が与えられました。
 “イエスがなお群衆に話しておられるとき、その母と兄弟たちが、話したいことがあって外に立っていた。しかし、イエスはその人にお答えになった。「わたしの母とはだれか。わたしの兄弟とはだれか。」そして、弟子たちの方を指して言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である。」”(マタイ12・46~50)
 ここで語られているのは、信仰における神の家族のことです。ところで信仰とは、霊的、精神的な面だけではなく、生活も体も含めて、存在に関わることですから、この主イエスの言葉はたとえではなくて、現実のものとして受け入れるべきです。まことの主イエスの家族とは、血縁によってではなく信仰によって築かれること、血縁による家族も、血縁によって自動的に家族になるのではなく、愛情にもとづく配慮や協力があってこそ本当の意味での家族に成長するといえます。
 今日の召天者合同記念礼拝にはご遺族の方たちもおいでになっておられます。その方たちをお迎えして共に礼拝しているというのは、神の御許に召された方たちが、この西川口教会の主イエスにある家族だからです。
 現代日本の家族は、かつての「多世代、大家族、多子」から、「小世代、核家族、少子」へと大変化し、単身世帯も非常に多くなりました。この時代、信仰による新しい家族という共同体・教会の存在は、血縁によらない「家族」として生きられる可能性を大いに秘めているのではないでしょうか。(参考図書 石丸昌彦著「健康への歩みを支える」)
(No.694)

2017年 10月 29日

「信仰のみ・恵みのみ」(信仰義認)

 2017年度の主日礼拝において、月に一度「日本基督教団信仰告白」をもとに、説教をすることにしました。今日の礼拝では、前回に引き続き、教団信仰告白前半部第2段落の次の文章に集中します。「御子 (みこ)は我ら罪人(つみびと)の救ひのために人と成り、十字架にかかり、ひとたび己(おのれ)を全き犠牲(いけにへ)として神にささげ、我らの贖(あがな)ひとなりたまへり。」 前回は、御子が人と成られたところに重点をおきましたが、本日は、十字架の贖いに重点をおいていきます。
 また今週の10月31日はルターの改革から500年めの宗教改革記念日です。聖書を真剣に読み直したルターは、神の義を再発見しました。それは、今日の礼拝の聖書テキストでも語られています。「ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。このように神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、御自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです」(ローマ3・21~26)。
 この聖書の言葉は「福音の要約」と言われます。罪人が、ただイエス・キリストを信じることによって神から「義」と宣告される、つまり無罪判決を受ける。人の罪はキリストによる贖いの業によって償われたから、神はキリストを信じる者を義としてくださる。これは一方的な神の恵みです。ルターはこの信仰義認という神の大きな恵みを喜びました。それが改革の原動力となりました。
(No.693)

2017年 10月 22日

「聖書のみ」(聖書の権威)

 マルティン・ルター(1483~1546)が、当時のローマ・カトリック教会の習慣だった「免罪符(贖宥状)」に対する質問状「95箇条の提題」をヴィッテンベルク城教会の扉に貼り付けたとされたのが1517年10月31日です。このことがきっかけとなり、プロテスタント教会が生まれました。今年(2017年)は500年の記念の年で、いよいよ来週10月31日は改革から500年の記念日となります。
 10月15日の主日礼拝の聖書のマタイによる福音書第12章34節に「人の口からは、心にあふれていることが出て来るのである」という主イエスの言葉を聞きました。襟を正されるような思いにされます。心にあふれていることが言葉になるというのです。
 では、それならば、神の子、主イエスの言葉は、神の思いが言葉になったと言ってもよいでしょうか。神の言葉とは、神の御心から出ているといえる。創世記第1章3節に「神は言われた。『光あれ』。こうして光があった」とあります。神の思いは、神の言葉となり、さらに神の言葉はそこでは光の創造という出来事(行為)となります。
 聖書は、その神の言葉が人の言葉で書き記されたものであり、聖書には、他にものには代えがたい重み、権威があるのです。
 ルターは、その時代の中で真剣に聖書を読み、聖書の権威を強調しました(「聖書のみ」という標語で表現しています)。当時のカトリック教会では、聖書を重んじていましたが、それを正しく解釈しうるのは代々の教会の解釈の積み重ね、つまり伝統であると考えていました。「聖書と伝統」が大事であると主張していました。しかしルターは伝統にも間違いがあることを指摘し、最も大切なことは神の心が、つまり神の言葉が一人ひとりの心に届くことであると考え、「聖書のみ」と強調しました。ルターは聖書に集中しました。このルターの思想を改めて受け取りたいと思います。
(No.692)

2017年 10月 15日

「聴くこと祈ること」より

 先週はお休みをいただいて、10月11日から12日まで、アシュラムセンター主催第5回オリーブの里アシュラムに、父と共に参加しました。講師は榎本恵先生でした(榎本恵先生は2年前の第40回西川口教会アシュラムに講師としていらしてくださいました)。アシュラムの主題聖句は「知る力と見抜く力とを身につけ」(フィリピ1章9節)で、聖書個所はフィリピの信徒への手紙を2回に分けてすべて静聴しました。今年の西川口教会アシュラムの聖書もフィリピの信徒への手紙でしたので、再びこのパウロ書簡をしっかり読むようにということか…と思いました。まことに知るべきことを知り、見るべきものを見、見抜く力が身につくようにと祈ります。
 今年は、榎本恵先生のお父様で「ちいろば牧師」として有名な榎本保郎先生が召天されて40年とのことで、9月に『聴くこと祈ること』(いのちのことば社)が刊行されました。アシュラム誌巻頭言を1冊にしたもので、1971年の今治教会時代から1977年7月号の絶筆までです。保郎先生はこの7月号の巻頭言を書き終えて、ブラジルに向けて旅立つ途中で倒れ、ロサンゼルスで亡くなりました。絶筆となった巻頭言「新しく生まれなければ」はまるでご自分の死を予感していたかのような文章でした。その最後の部分です。
 “…あなたは聖書に通じているか。だとしたら、それはよいことである。奉仕に熱心であるか。だとしたら、人々によき証しとなるであろう。忠実な信仰生活を送っているか、それは大事なことである。しかしもし、あなたが死ななければ、それらはすべて人間の世界から一歩も出ることはない。決定的なことは、あなたは死んでいるかどうかである。もし死ななければ、多くの実を結ぶことができない。
 さて、いったい死ぬとはどういうことなのだろうか。死ぬとは文句を言わなくなることであり、明日のことを思い煩わなくなることである。”
(No.691)

2017年 10月 8日

神学校日と伝道献身者奨励日

 毎年10月第2日曜日は、日本基督教団の行事暦で、「神学校日」、「伝道献身者奨励日」です。プロテスタント教会ではすべての信徒が祭司であり献身者ですが、教会は神の言葉を説き明かす人(説教者)、魂の配慮をする人(牧会者)を必要としており、その役目を多くの場合「牧師」が負います。ですから牧師養成の働きを担う神学校が必要で、神学校を支える働きもまた必要となります。西川口教会では東京聖書学校を特に支援しています。
 わたしも西川口教会の伝道献身者の一人として祈られていることを神の恵みと感謝しています。
 以前ある方からこのような文章をいただき励まされました。少しでも近づきたいと祈ります。
 “朝、種を蒔け、夜にも手を休めるな。実を結ぶのはあれかこれか、それとも両方なのか、分からないのだから。(コヘレトの言葉11章6節)
 ・・・牧師を志す若者に「牧師になるには、徒労と絶望に早く慣れることだ」と言うことがあります。伝道や牧会の働きは、努力すれば報われるとか、計画通りに事が運ぶといったことが通用しないからです。しかしながら、牧師の働きばかりではなく、多くの仕事には、働いても働いても無駄であるかのように感じることがあり、せっかく苦心惨憺したのに結果が失望に終わることもさして珍しいことではありません。人によっては、先の見えない、単調な日々の生活を繰り返しながら、営々と努力を続けなければならないこともありましょう。そのような働きを継続させる力は、かならず成ると約束してくださるお方を信じるところから生じるものです。コヘレトの言葉の著者は、実を結ぶ種は、どの種か人には分からないと言います。人の手を離れたところで事は進んでいることを信じることができる人は、無駄働きや徒労に強い人であります。そのような人は計画的に事を進めることや努力することには、一向に困難を感じません。”(賀来周一著「365日の聖書」より)
(No.690)

2017年 10月 1日

世界聖餐日と世界宣教の日

 毎年10月第1日曜日は、日本基督教団の行事暦で、「世界聖餐日」、「世界宣教の日」です。
 「世界聖餐日」は、1946年に、WCC(世界教会協議会)の前身である世界基督教連合会の呼びかけによって始められました。第二次世界大戦の深い傷跡の後、世界中の教会が聖餐をとおしてキリストにある交わりを確かめ、全教会の一致を求めて制定されました。(日本キリスト教協議会ホームページより)。
 コリントの信徒への手紙一第12章27節にはこうあります。「あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です」。教会が一致を求めるのは、教会のかしらがキリストだからです。教会はキリストの体です。洗礼を受けた一人一人も、地域教会として生きている各個教会もキリストの体の部分です。見えないけれども確かに存在するキリストの体である教会に連なっているのです。そのしるしが、聖餐です。同じコリントの信徒への手紙一第10章16節・17節にこうあります。「わたしたちが神を賛美する賛美の杯は、キリストの血にあずかることではないか。わたしたちが裂くパンは、キリストの体にあずかることではないか。パンは一つだから、わたしたちは大勢でも一つの体です。皆が一つのパンを分けて食べるからです」。
 「世界宣教の日」では、海外で働く教団宣教師を覚えて支えます。西川口教会の第三代牧師の島隆三先生・島静江先生は、西川口教会に赴任する前は、香港JCFで働く教団宣教師でした。島先生方が西川口教会に「世界宣教の日」を覚えて献金で支えるよう導いてくださいました。それ以来毎年、教団の世界宣教委員会発行のパンフレット「共に仕えるために」を取り寄せて、献金しています。日本基督教団の礎は、多くの宣教師と派遣元の教会の祈りと犠牲と愛によって据えられました。わたしたちも海外に宣教師を送り出して、受けた愛と感謝を表しましょう。
(No.689)

2017年 9月 24日

受肉と贖罪

 2017年度の主日礼拝において、月に一度は「日本基督教団信仰告白」をもとに、説教をすることにしました。今日の礼拝では、教団信仰告白前半部第2段落の次の文章に集中します。
 「御子 (みこ)は我ら罪人(つみびと)の救ひのために人と成り、十字架にかかり、ひとたび己(おのれ)を全き犠牲(いけにへ)として神にささげ、我らの贖(あがな)ひとなりたまへり。」
 ここで、どのような教会の信仰が告白されているのでしょうか。それを確認しておきたいと思います。
 第一に、これに先立って、三位一体の神に対する信仰をすでに告白しました。「主イエス・キリストによりて啓示せられ、聖書において証せらるる唯一の神は、父・子・聖霊なる、三位一体(さんみいったい)の神にていましたまふ」。そこで、御子もまたまことの神であると言い表されています。その子なる神が人となられたこと、つまり「受肉」の事実がここで語られます。
 第二に、神の子が人となられたのは、わたしたちの罪の贖いのためにどうしてもなくてはならないことでした。ですから受肉の信仰と深く結びついて、罪の贖いの信仰、「贖罪」が語られます。受肉と贖罪とは切り離すことはできません。
 第三に、主イエス・キリストを信じるとは、主がどのような御方であり、何をなさったか、つまり主の人格と業に根差しています。まことの神でありまことの人となられた主イエスが、罪の贖いの業を十字架において成し遂げてくださいました。それがここで、贖罪のための受肉という一点において言い表されています。
 第四に、この神の子の贖罪の業が、「ひとたび」すなわち、ただ一度で足りる完全な犠牲の業であったことが明言されています。特にそのことに力点が置かれていることは、改めて心に留めていただきたいと思います。
(参考資料・加藤常昭著「ニケア信条・バルメン宣言・わたしたちの信仰告白」) (No.
688)

2017年 9月 17日

希望の源である神

 先週10日に敬老祝福式を礼拝で行い、ローマの信徒への手紙第15章から御言葉をお送りしました。13節のみ記しておきたいと思います。
「希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように」(ローマ15・13)。神は喜びと平和とで満たし、希望に満ちあふれさせてくださいます。神は希望の源であられます。神の国を来たらせてくださる。永遠の命を与えてくださる。わたしたち人間は信仰によって、その神からの善きものを受け取ります。その信仰も神から与えられます。
 朝ごとのディボーションで、「愛と自由のことば 一日一章」も読んでいます。敬老の日を意識してと思いますが、9月15日は矢内原忠雄先生の次のような文章でした。
 タイトルは「老人の救」。
 “人生の辛苦甘酸をなめつくし、今では活動能力もにぶって、夕日の傾くを見るような老人の姿よ。あなたはこのまま墓に入って行こうとなさるのか。
 まだ陽はあるのに、うなだれることはない。さあキリストの救を知り、「わが生涯は恩恵であった。わが罪はゆるされた。わが前途には永遠の生命の国がある。」という喜びと希望を抱きつつ、満足と感謝をもってこの世を去りましょう。それが残る生涯において為すべき最大の仕事であり、またそれによって最大の遺産を後の者に遺すことができるのです。
 イエスは幼児を愛し給うたように、老人をも愛し給う。ニコデモをごらんなさい。老いた彼は夜イエスを訪(おとの)うて、熱心に神の国を求めた。そして彼はイエスの愛を受け、御霊によって新に生れ、神の国の幼児とされたのです。彼の地位も名誉も財産も学歴も経験も、何一つ彼のさみしさを救うものはなかった時に、イエスの愛が彼を救って、新しい永遠の生命によみがえらせたのです。
” (No.687)

2017年 9月 10日

祈りから始める

 本日の週報のお知らせ欄に、「*毎月第3主日の礼拝の報告時に、会堂建築のために役員が祈ることに、役員会で決定しました。来週から始めます」と書きました。そのことについて、もう少し詳しくここに書いておきます。
 10月の教会全体懇談会に向けて、9月3日の定例役員会の教務報告に、このように書きました。「2017年度活動方針より 『3.役員会  ・・・会堂・牧師館・駐車場の課題が変わらないで継続しています。教会員の意見を聞き、対話をしながら、丁寧に進めていきたい。2020年は教会創立70周年を迎えるので、記念事業について今年度から検討したい。また、避難訓練、救急講習等の実施を検討し、防災意識を高めたい。』、『5.教会を建て上げる(キリストに向かって成長する) 2016年度のアンケートの結果を踏まえて、教会の使命や活動、牧師や役員会の役割について理解の共有を進めたい。』
 これを受けて、①会堂建築のために共に祈る。第3主日の報告の時に、役員一人が代表して祈る(1、2分)。持ち回りで行う。新会堂の献堂式が終わるまで祈り続ける。②『西川口教会はどういう教会を目指すのか』話し合いを始める。」
 2014年7月13日から、祈りの栞に「9.将来の宣教のために(会堂建築検討のために)」と書いて、主日礼拝の牧会祈祷でずっと祈ってきました。教会堂は宣教の器です。礼拝堂は礼拝の器です。わたしたち西川口教会が、どういう教会を目指し、宣教を目指し、礼拝をささげていくのか、確認し共有するところから、会堂建築が始まります。過去数年、会堂建築検討会、会堂建築検討委員会、会堂建築委員会の活動をしてきました。改めて、まず祈ることから取り組んでいこうと願っています。神の御心を待ち望み祈り、聖書に聴き従い、主日の礼拝をささげていく。その礼拝において、役員会が新会堂のために祈ると決断しました。それが今回の、月に一度の祈りです。皆で心を合わせて祈りましょう。
(No.686)

2017年 9月 3日

第64回こころの友伝道全国大会に参加して

 2017年8月29日から30日まで、第64回こころの友伝道全国大会が開催されました。主題は「私を変えた愛―三浦綾子の足跡を訪ねて」、メイン会場は日本基督教団旭川六条教会の礼拝堂でした。三浦綾子さん・光世さんご夫妻が所属し、礼拝していた教会です。特別講師は、森下辰衛先生(三浦綾子記念文学館特別研究員、三浦綾子読書会代表)でした。
 特別講演Ⅰは「希望とは“にもかかわらず愛すること”―三浦綾子『道ありき』から」と題して、三浦綾子さんの自伝「道ありき」を紐解いてくださいました。講演要旨から引用します。
 〝・・・一人は作家として働き〔三浦綾子さん〕、もう一人にはそれを支える使命が与えられる〔夫の三浦光世さんのこと〕。しかしもう一人には反抗的だった一人の女〔綾子さんのこと〕を5年間命がけで愛するというだけの仕事が与えられる〔前川正さんのこと。綾子さんの幼なじみ。結核のため若くして亡くなる〕。それぞれの人生の長さも仕事も違う。しかし前川正は言った。「綾ちゃん、人間はね、一人一人に与えられた道があるんですよ…ぼくは神を信じていますからね。自分に与えられた道が最善の道だと思って感謝しているんです」。一人一人に道があるという希望を物語は語っている。そして「にもかかわらず」愛するときに、人生に奇跡が始まっていくことが分かる。神様はいつでも、にもかかわらず愛し、にもかかわらず信じ、にもかかわらず従う〝馬鹿〟と共に奇跡をなそうと待っておられる。”
 翌日はバスツアーで塩狩峠記念館(三浦綾子旧宅)に行き、そこで森下先生の特別講演Ⅱ「苦難の中でこそ人生は豊かなのです―三浦綾子『泥流地帯』から」を伺いました。三浦文学には「人間が人間として人間らしく生きられるようにという祈り」が根源にあり、罪と苦難がそれを阻む。しかし、罪の解決も苦難を超える道もあると物語を通して示すのが三浦文学である、と語られました。
(No.685)

2017年 8月 27日

唯一の神は三位一体の神

 2017年度の主日礼拝において、月に一度は「日本基督教団信仰告白」をもとに、説教をすることにしました。先週8月20日の礼拝では、教団信仰告白前半部の第2段落に入りました。この段落の初めの文章を読み、聖書の言葉に耳を傾けました。「主イエス・キリストによりて啓示せられ、聖書において証せらるる唯一の神は、父・子・聖霊なる、三位一体(さんみいったい)の神にていましたまふ」。
 わたしたちは「唯一の神」を信じます。同時に、その神が父であり、子であり、聖霊であられることを信じます。三つの「位格」(人でいえば、「人格」に当たる)を持っておられる、ただ独りの神であるというのです。この唯一の神は、「主イエス・キリストによって啓示せられ」ました。
 ヨハネ福音書第1章18節「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである」。「啓示」とは、覆いを取って今まで隠されていたものを明らかにする、という意味があります。人間が神を人間の力で発見することはできません。神は神ご自身によって見えない神を示されました。その啓示となられたのが主イエス・キリストです。
 ヨハネの手紙一第4章10節「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました」。さらに13節「神はわたしたちに、御自分の霊を分け与えてくださいました。このことから、わたしたちが神の内にとどまり、神もわたしたちの内にとどまってくださることが分かります」。キリストによって「唯一の神は三位一体の神」が啓示されたとき、わたしたちは自分自身が神に愛されている者であることを知るのです。造り主である父なる神に形造られ、救い主・子なるキリストに罪を贖われ、助け主・慰め主である聖霊が信仰を与え内に住んでくださる、それほどまでに、愛されている者なのです。(No.684)

2017年 8月 20日

Y姉のこと

 先週の週報に、Y姉の逝去の報告を載せました。残念ながら主日礼拝においでいただくことはかないませんでした。2年足らずではありましたが、Y姉が教会の交わりに共に生かされたことを皆様にお伝えしたいと思います。
 Y姉は教会員でしたが、連絡先が分からずにいました。約2年前、T姉のご葬儀で初めてお会いしました。というのは、Y姉は、T姉のお連れ合いで、早く亡くなったM兄の実の妹さんであると、T姉のお嬢様とお話して分かったからです。T姉の葬儀の後訪問したとき、川口本町教会の時代の写真など喜んで見せてくださいました。Y姉は耳が不自由でしたので、筆談での対話でした。それから毎月、西川口だよりを郵送しました。時々Y姉より感謝のお便りと献金が届きました。昨年の12月にお訪ねした時には、携帯メールが使えることが分かり、メールの交流もしていました。
 Y姉の言葉を以下に記します。
「主の御名を賛美いたします。毎月お送りくださる週報・月報等により皆様の活動を知り感謝です。耳が不自由で、歩くことの困難なわたしでも、神さまに支えられていると思うと、小さな祈りの中に勇気が湧いてきて感謝の心でいっぱいです。ありがとうございます」(西川口だより2016年8月号に掲載したお便り)。「主の御名を賛美いたします。・・・T姉妹の葬儀の日より金田牧師にお会いしてから、私の中に眠っていた祈りが目を覚まされましたことを本当に感謝しております。主の祈りを唱和することによって、その意味を考えて、主に私が生かされていることを思うときに感謝しております。・・・教会の方々にも豊かにお恵みがありますよう祈っております」(今年のイースターに寄せて)。「我は道なり真なり命なり、この御言葉の意味を考えています」(4月7日のメール)。「主の祈りの中で毎日を過ごしています。先生のご指導の賜物です。ありがとうございました」(6月8日。最後のメールとなった)。
(No.683)

2017年 8月13日

平和を実現する力

 今月6日は広島の、9日は長崎の原爆投下の記念日でした。今週15日は、72年前日本が戦争に降伏した敗戦の記念日を迎えます。
 雑誌「信徒の友」2017年8月号の「みことばにきく」より、内藤留幸先生が書かれた「平和を実現する力」と題しての文章を紹介します。
 “「平和を実現する人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる」(マタイ5・9)。
 今年も8月がやってきました。戦争の悲惨さやその悪魔的破壊力を身をもって知る私たち戦中派は、「真の平和」を実現するために努めねばならないとの思いを強くさせられます。特にキリスト者はイエス・キリストが語られた…み言葉をしっかり受け止めて、平和の実現のために地道な努力を続けていかなければならないと自らに言い聞かせています。
 しかしながら、人類の歴史や現実の社会を見つめると、真の平和の実現はなかなか容易ではないことがわかります。罪深く、自己中心的ですぐに力に頼ろうとする人間は、事が起こると武力に訴えようと戦力を増強する。そのため戦争が起こり、多くの人々が戦争の犠牲になり、生命を失っていくのです。…日本においても、平和憲法を変えようとする勢力が次第に強くなって平和が脅かされようとしています。…平和を実現する力を私たちは持っているのでしょうか。残念ながら「NO!」です。では、どうするのでしょうか。それは簡潔に言うと、平和を実現することのできる唯一の方、生ける神さまから平和を実現する力をいただくということです。神さまは真剣に祈り求める者にはそれを与えてくださるのです。
 特に、主の日の公同礼拝において信仰に生きる者たちが思いを一つにして、平和を実現する力を祈り求めるのです。…主の祈りで「み国をきたらせたまえ」と祈るとき、上よりの霊的力と共に平和のために働く力が与えられるのです。…”(※内藤留幸先生は、隠退教師。今年6月30に逝去されました。87歳。)
(No.682)

2017年 8月 6日

「慰めの言葉が作る共同体・教会」

 8月2日から2泊3日、第43回埼玉地区教会全体修養会に参加しました。主題は「主にある交わりを深めよう」、副題は「慰めの言葉が作る共同体・教会」でした。講師は、神学者の加藤常昭先生。会場は軽井沢南ヶ丘倶楽部。部分参加も含めて参加者は、22教会、109人(そのうち子供は5人、西川口教会からは8人)でした。
 開会礼拝の司式と説教を講師の加藤先生がなさいました。開会礼拝は、地区委員あるいは修養会委員の牧師がすることが多いので、「これは珍しい」と思っていたら、加藤先生が開会礼拝説教の要旨を印刷して配布され、ますます珍しいことでした。聖書個所はルカによる福音書第10章25節から37節まで。教会は、主の憐れみによって癒され、慰められ、生かされる共同体であり、だからこそ、憐れみに生きるサマリア人としての共同体であり続ける、と語られました。
 講演1では、わたしたちは神にささげられたもの、礼拝者は自分を神にささげる。それが献身であり、神のものとして、キリストのものとして生きること。献身こそ慰めに生かされている者の生きる姿勢である。わたしたちは神の聖なる神殿なのである、と語られました。聖書個所は、ローマ15・14以下、同12・1、コリント一3・16~18、同6・18~20でした。
 講演2では、コリントの信徒への手紙一第14章を中心に、同第13章「愛の讃歌」にも言及して、慰めの言葉は、人を建て上げ、励ますこと。さらにエフェソの信徒への手紙第5章より、共同体において、真実の言葉を語るように求められ、聖霊を悲しませる言葉を捨てること、賛美の歌と結びつく語り合いである、と示されました。
 講演を受けた分団も豊かな時間でした。朝の祈りの時、朝・昼・夕の食事の交わり、夕食後の「交わりの時」、自由時間の外出、出会いを喜び、軽井沢の空気をたくさん吸って、リフレッシュして無事帰りました。お祈りを感謝いたします。
(No.681)

2017年 7月 30日

日本基督教団信仰告白―聖書信仰

 2017年度の主日礼拝において、月に一度は「日本基督教団信仰告白」をもとに、説教をすることにしました。本日が第3回目となります。
「日本基督教団信仰告白」の構成について述べます。初めに、「我らは信じかつ告白す」と宣言し、その次に「旧新約聖書は」から始まる四つの段落があり、この信仰告白の実質的部分の前半部となります。次いで「我らはかく信じ、代々の聖徒と共に、使徒信条を告白す」と述べ、「使徒信条」が導入されます。これが後半部となります。
 前半部の第1段落は、聖書は神の言葉であるということを告白しています。第2段落は、三位一体の神、キリストの受肉と贖いを信じる信仰の告白です。第3段落は、恵みの選び、信仰義認、聖化についての信仰を告白しています。第4段落は、教会についての信仰を告白しています。
 第1段落、「旧新約聖書は、神の霊感によりて成り、キリストを証(あかし)し、福音(ふくいん)の真理を示し、教会の拠(よ)るべき唯一(ゆゐいつ)の正典なり。されば聖書は聖霊によりて、神につき、救ひにつきて、全き知識を我らに与ふる神の言(ことば)にして、信仰と生活との誤りなき規範なり」。
 聖書は神の言葉であることを「聖書信仰」と言うこともあります。聖書は人間が書きましたが、聖書の本来の著者は聖霊であり(「神の霊感によりて成り」)、聖霊によって聖書がキリストを証していること、福音の真理を示していること、神と救いについての完全な知識を与えることを、教会は信じていますし、経験しています。
 聖書は旧約聖書39巻、新約聖書27巻、合わせて66巻で、教会はこれらを「正典」と呼び、教会にとって権威ある書物とし、他の文書とは区別しています。
 本日の説教は、まだ第1段落のところです。じっくり取り組んでいきたいと思っています。(参考 日本基督教団宣教研究所編「信仰の手引き」より)(No.680)

2017年 7月 23日

いのちは一人ひとりに与えられた時間

 聖路加国際病院名誉院長の日野原重明先生が、先週7月18日に息を引き取られました(105歳)。毎週新聞にエッセイを連載していて楽しみに読んでいました。、時々、アメリカに留学した経験があり広島女学院の学院長などをされていた牧師のお父様のこと、子供のころのことなど、プロテスタントの信仰に生きておられることをさりげなくお書きになっていました。このエッセイを読んでいつも敬服するのは、年を重ねても前向きで、語ったことを自ら実践しておられることでした。
 日野原先生の数多くの意義ある活動の中で、特に素晴らしいと思っていたのは、「いのちの授業」です。だいぶ前にテレビの特集番組を観たことがあります。日野原先生は全国の小学校を回り、直接小学生に授業をしました。教室に入ったら、まず聴診器を手渡して、お友だちの心臓の音を聞かせます。子供たち同士でします。そのあとで、子供たちに「いのちは何だと思う?」と尋ねると、子供たちは心臓に手を当てて「ここかな」と答えます。そこで日野原先生は、「いいえ。心臓は血液を全身に送る機械(ポンプ)であって、いのちではありません」と教えます。ではいのちとは何か。日野原先生は、「それはあなたたち一人ひとりに与えられた時間のことです」と答えます。さらに子供たちに語ります。「今は自分の時間を自分のために使っていい。でも大人になったら、いつか他の人のために時間を使ってください」。
 「いのちとは、一人ひとりに与えられた時間」とは、なるほどと思います。その時間をどのように、何のために、だれのために使うのか、問われます。その時間はいつまでも続くものではなく、必ず終わりが来る、限られたものです。子供でも分かると思います。
 「使命」とは「命を使う」と書きます。いのちとはそれぞれに与えられた時間。日野原重明先生は、他の人を生かす使命に全力で生き貫いた生涯であったと心から思います。(No.679)

2017年 7月 16日

「地の果てまで福音を!」

 7月8日、9日と、西海満希子先生をお迎えし、ご指導いただいて、第42回西川口教会アシュラムが終わりました。み言葉に聴く神との交わりに生き、執り成し祈ってまいりましょう。
 翌日の10日、11日は、日本基督教団埼玉地区の教師一泊研修会に通いで参加しました。主題は「地の果てまで福音を!」、講師は日本基督教団千葉北総教会牧師の大串眞先生でした。
 第一日目の講演Ⅰ「説教、互助、伝道協力 ―四国の開拓伝道を通して―」では、四国教区・高知県の宿毛栄光教会での体験、城辺教会(現・愛南教会)の代務者の体験を通して語ってくださいました。「説教のみによって教会は建設される」ことが確立するとき、「伝道のために何でもする」ことが豊かに導かれる、地方では新来会者はいつもあるわけではないし、教勢が急激に伸びるということもないが、伝道は、牧師によるのではなく、信徒を通してなされ、その人の生活を通しての証によって伝道が進み、家族ごと救われることが多くあった。教会は、人数でもなければ、建物でもなく、聖霊によって、教会の底力があらわされることを知らされたと語られました。
 第2日目の講演Ⅱ「日本伝道へのチャレンジ ―千葉の開拓伝道を通して―」では、東京教区千葉支区による千葉北総伝道での体験を通して、これからの伝道への提案もしてくださいました。仏教から学べることは多くあり、僧侶を迎えて研修をしたこともあると語られました。続いて、愛をもって奉仕することは、行動という形の言葉となり、伝道となる。福祉、教育、医療との連携が必要であると、語られました。さらに、日本基督教団の教会は、福音派やペンテコステ派からも学び、協力することが大切だと語られました。すでに実践しておられるところから語られていたので、説得力がありました。伝道は、人の知恵や計算ではありません。「信じるなら、神の栄光が見られる」(ヨハネ11・40)のです。アーメン。
(No.678)

2017年 7月 9日

聖書に聞く読み方

 昨日から、第42回西川口教会アシュラムが行われています。アシュラム集会は今日で終わりますが、み言葉に聴く祈りの生活、とりなしの祈りをささげていく生活へと再出発するときです。
 2年前、わたしたちはアシュラムセンター主幹牧師の榎本恵先生を迎えて、教会アシュラムを行いました。榎本恵先生のお父様で、「ちいろば牧師」としても知られる榎本保郎先生は、アシュラムセンターを開設した初代主幹牧師です。この榎本保郎先生がかつて雑誌「信徒の友」にお書きになった記事を読みました。一部ご紹介します(『聖書の学びは楽しい』日本キリスト教団出版局)。
 “…聖書の言葉を、昔、誰かに語られた言葉としてではなく、今この私に語りかけられている言葉として読むことである。例えば主イエスはあるとき、彼の周りに集まってきた人々に向かって「だれでも、父、母、妻、子、兄弟、姉妹、さらに自分の命までも捨てて、わたしのもとに来るのでなければ、わたしの弟子となることはできない」〔ルカ14・26、口語訳〕と言われたと記されている。この主イエスの言葉を、…今この私に語られている言葉として真剣に受け止めるのである。…
 主イエスの言葉だからそうしたい、そうありたいと願う一方、どうしてもそれに従えない自分にもだえ苦しむ。…罪のもだえは御言葉をまともに聞くところにしか起きてこないものである。そして、そのもだえと絶望の中で、「私は罪人を救うために来た」と言われる言葉がどんなに力づよく、また私を新しい約束に生かす命となるか。福音が罪の赦しの宣言である以上、神の要求を知らずに、本当の福音を聞くことはできないのではなかろうか。
 ヘブル書の4章2節に「しかし、その聞いた御言は、彼らには無益であった。それが、聞いた者たちに、信仰によって結びつけられなかったからである」〔口語訳〕と記されている。御言葉を自分に結びつけること、それが聖書に聞く読み方の秘訣である。…”(No.677)


2017年 7月 2日

「フィリピの信徒への手紙」に聴こう

 いよいよ今週の土曜日、7月8日より、第42回西川口教会アシュラムが行われます。講師として西海満希子先生を主が遣わしてくださることを、心から感謝しています。
 今回のアシュラムでは、使徒パウロが獄中でフィリピにある教会に宛てた「フィリピの信徒への手紙」に聴こうと決めました。日本聖書協会による聖書各書の概説より一部紹介して、アシュラムの準備の一助としたいと思います。
 この手紙の著者は使徒パウロです。パウロは、牢獄から(地名は不明)、フィリピの教会の信徒に宛てて手紙を書きました。パウロは困難に直面していましたが、彼が最初にフィリピの信徒に宣べ伝えていたキリストの福音に、彼らが忠実であるように願っています。パウロが苦しんでいるように、フィリピの信徒も苦難に直面しなければならないけれども、苦難を恐れるべきではない、とパウロは励ましています。例えば、パウロは、「わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です」(第4章13節)と言い切っています。この短い手紙の中にあるパウロの力強い信仰を表す言葉は、現代に至るまで多くのキリスト者に勇気を与えてきました。
 フィリピの信徒が贈り物や祈りでパウロを助けているので、パウロは彼らに感謝し、ローマ人に捕えられて以来、彼に起こっていることを知らせています。パウロはまた、教会での信徒間の問題に気づいていました。信徒たちの中には、新しいキリスト者が律法に従う必要があるかどうか議論している人々もいました。そのためにも、慰めと励ましに満ちたこの手紙が送られたのでした。
 福音宣教、教会形成に苦闘しているわたしたちもその中を生きるため御言葉を待ち望みます。
「わたしは、こう祈ります。知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、本当に重要なことを見分けられるように」(第1章9~10節)。アーメン。
(No.676)

2017年 6月 25日

「心配するな!」

 先週6月18日の主日礼拝で「心配するな!」と題して説教しました。
 この題は、与えられた聖書個所の中の、マタイによる福音書第10章19節「引き渡されたときは、何をどう言おうかと心配してはならない。そのときには、言うべきことは教えられる」という主イエスのお言葉から取りました。
 そして、マザー・テレサの言葉を紹介しました。「この言葉に感激した」と感想を言ってくださった方がありましだので、書いておきたいと思います。こういう言葉です。
「将来のことが心配になったり、
 過去のことが悔やまれたりするのは、
 あなたがいまを
 全力で生きていないからです」
 このマザー・テレサの言葉は、片柳弘史神父の著書「祈りへの旅立ち マザー・テレサに導かれて」に紹介されていました。このマザーの言葉を紹介して、片柳神父は続けてこう書いておられます。
“・・・何よりも大切なのは、イエスと共に生きているいまです。目の前にいるイエスを無視して将来を心配したり、過去を悔やんだりしていては、まったく本末転倒と言わざるをえません。イエスは、どんなときでも「いま」わたしたちと共におられます。イエスと出会う時はいま、この瞬間をおいてほかにどこにもないのです。いまを全力で生きましょう。イエスの愛に気づき、イエスの愛にこたえるために、全力で祈りましょう。イエスの愛と出会うなら、過去の傷はすべて癒され、将来への確かな道が示されます。何も心配することはありません。”
 十数年前キリスト教カウンセリングの学びの冒頭に「過去と他人は変えられない。変えられるのは『今、ここ』にある自分だけ」との言葉をいただき、目から鱗が落ちる思いでした。「今を大切にして、自分ができることをする」というシンプルな、今に集中する生き方を実践しつつあります
。(No.675)

2017年 6月 18日

地区IT祭り

 本日午後は、埼玉地区ホームページ委員会主催による第16回地区IT祭りが開催され、わたしは委員の一人として参加します。
 ITとは、Information Technology(インフォメーション・テクノロジー)の略で、直訳すると「情報技術」です。その内容は広く、コンピューターに関するハードウェアやソフトウェア、またそれらによる各種システムの構築、情報通信関連の設備から技術等までを、ITと呼んでいます。
 地区IT祭り、今回のテーマは 『メディア伝道の可能性を探る (パート6) ―「中の人」が語る、メディア伝道の難しさ、そしてその喜び―』と題して、キリスト教放送局日本FEBCの長倉崇宣さんの講演を伺います。日本FEBCはラジオ放送と共にインターネット放送もしており、わたしはこちらのリスナーです。さらに今回は講演に先立って、神の愛キリスト伝道所の小池与之祐牧師のお証を伺います。小池先生は、FEBCの番組「御足の跡を」に出演しておられます。ここまでが第1部です。第2部は、埼玉地区内教会のホームページの現状のレポートです。みんなで楽しく顔と顔を合わせて過ごす集会です。
 2003年度から埼玉地区ホームページ委員会の委員になりました。当時、埼玉地区で教会のホームページを開設していた教会はまだ両手で数えられるほどでした。西川口教会のホームページは2001年12月に開設していたので、地区ホームページ委員会へのお招きがありました。ITに全く詳しくはないし、手探りしながらホームページを作っていたわたしですが、そんな素人目線の人がいてもいいだろうと思い、加わりました。
 当時から十数年を経て、インターネット利用者はスマートフォンの普及で非常に増えました。ネットを使っている人は「とりあえず検索する」という時代です。「ホームページのない教会は、存在していないのと同じ」と言われたIT祭りの講師の発言が忘れられません。メディア伝道の可能性を探って参りたいと思います。
(No.674)

2017年 6月 11日

「ちいさなかごに」

 日本基督教団行事暦で6月第2日曜日は「子どもの日(花の日)」とされています。西川口教会でも6月第2日曜日は「花の日」として長い間過ごしています。
 花の日は、アメリカの教会から日本の教会に取り入れられた行事です。1856年、アメリカのマサチューセッツ州チエルセアのレオナルド牧師が、少年少女を信仰に導くための宗教教育を強調する日として、6月の第2日曜日に特別礼拝を行ったのが起源と言われています。アメリカでは一年中でいちばん花の豊富な季節です。この時期に、神の恵みの現れとして、美しい花を通して、子供たちに神を賛美し、神に感謝することを教えるために教会に花を飾ったことから、この日が「花の日」といわれるようになりました。1881年、メソジスト教会では、6月の第2日曜日を毎年「子どもの日」として定めました。その後、当時の教会内で一般化していき、次第に全世界に普及していったということです。日本には明治中期に紹介されたとのことです。
 教会では皆が持ち寄った花で飾ったり、子どもたちが花を持って病院や社会施設等を訪ねたりする行事も定着していきました。
 花の日というと、讃美歌第2編の26番「ちいさなかごに」を思い起こします。こんな歌詞です。
“1 ちいさなかごに花をいれ、さびしい人にあげたなら へやにかおり満ちあふれ、くらい胸もはれるでしょう。
(おりかえし)あいのわざはちいさくても、かみのみ手がはたらいて、なやみのおおおい世のひとを あかるくきよくするでしょう。
 2 「おはよう」とのあいさつも、こころこめて交わすなら、その一日おたがいに、よろこばしく過ごすでしょう。”
 この讃美歌の2節にあるように、心をこめて挨拶を交わすことはだれでもできます。礼拝の最後では「キリストの恵みと平和がありますように!」と、心から平和の挨拶を交わしましょう。
(No.673)

2017年 6月 4日

第67回関東教区総会

 5月30日・31日、大宮ソニックシティ小ホールにて、第67回関東教区総会が開催されました。開会礼拝後に、組織会、そして議事となりました。今総会では、教区執行部の選挙がありました。選挙の結果、東野尚志牧師(埼玉地区・聖学院教会)が教区総会議長に、福島純雄牧師(茨城地区・筑波学園教会)が教区総会副議長に、小池正造牧師(新潟地区・東新潟教会)が教区書記に選ばれました(すべて新任)。宣教部委員長には飯塚拓也牧師(竜ヶ崎教会)が再選されました。常置委員の選挙について、議案第20号常置委員選挙に関する件が提出されており、その審議がなされてからでないと選挙ができないので、先に審議されました。この議案は、今までの全数(5名)連記ではなく、3名連記を求めるものでした。審議後の採決ではこの議案に対して反対が過半数となり、議案は否決され、今まで通りの選挙が行われました。常置委員選挙結果報告は時間切れで議場でなされず、後日の常置委員会で結果の確定後、各教会に連絡されることになりました。
 初日の議事の後、九州教区からの熊本大分地震の被災支援活動の報告を伺いました。教会ならではの支援をしていきたいと述べられました。
災害対応の関連で、議案第18号「災害対応支援委員会」設置の件、議案第19号「熊本大分大地震」被災支援に関する件が提案され、可決されました。既に、日本基督教団の熊本・大分地震被災教会会堂等再建支援募金(目標額 1億8千万円)は始まっています。この募金の目標額のうち、2千万円は関東教区で献げようという議案です。関東教区から通信が発行されるとのことです。
その他、議案第20号日本基督教団伝道所廃止に関する件が可決されました。丁寧な現地の調査、確認の上、痛みを感じつつ、三つの伝道所の廃止を承認しました。議案第28号「共謀罪」創設に反対する件(議員からの緊急提案)が審議されました。採決の結果この議案は可決されました。関東教区から声明を出すことになります。(No.672)

2017年 5月 28日

信仰を告白すること

 2017年度活動方針の主日礼拝の項で「一般礼拝の聖書テキストはマタイによる福音書から御言葉を取り次ぐと共に、月に一度、日本基督教団信仰告白をもとに、説教をしたい」と書きました。それはわたしたちは「ここに」立つという教会の信仰の基本を改めて受け取りたいからです。何事も基本が大事です。わたしたちはどこに立っているのか、しっかりと自覚したいのです。それと共に、主日礼拝をささげるだけで精一杯の人たちも少なくない現状で、礼拝以外の時間をとって学ぶことの困難さを感じていました。それで主日礼拝で取り組もうと決めました。
 さらに、まだ洗礼を受けていない人はこの信仰告白に「アーメン(本当にそうです、という意味)」と言えれば、洗礼を受けることができ、他教会員の人たちが「アーメン」と言えれば、西川口教会の一員になれます(もちろん教会の手続きが必要です)。説教のためにお祈りをお願いします。
 ローマの信徒への手紙第10章に、「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです」(9節、10節)とあります。「信仰を告白する」という言葉の意味は、この「口で公に言い表し」であり、もともとは「同じこと言う」という意味でした。例えばAさん、Bさん、Cさんがそれぞれが口で公に言い表すのですが、内容は同じ信仰を言い表すのです。「イエスは主である」と口で公に言い表すとき、「あなたは救われる」のです。
 教会の信仰告白の核心は、この「イエスは主である」でしょう。まことに短い文章ですが、そこに込められている福音の出来事、神が起こされた救いの出来事があります。「神がイエスを死者の中から復活させられた」。イエスの死は十字架の贖いの死でした。死んで葬られたイエスが、復活させられ、今も生きておられるのです。その出来事を信じる信仰告白に、教会は立っています。
(No.671)

2017年 5月 21日

分かち合いメールをどうぞ!

 西川口教会の広報部の活動の一つに、「分かち合いメール」があります。日本基督教団の「日毎の糧」の聖書日課に従って、その日の聖書個所から示されたことや気づいたことなどを約300字の文章を書いて、パソコンからメールを送っています。月曜日から金曜日まで、朝の9時頃に送信します。土曜日の朝は翌週の日課の聖書個所をお知らせしています。一斉に複数の人に送信できるのはITの強みです。メールを使っていない人には申し訳ないのですが、若い世代のほとんどの人がメールを使っていますし、聖書をなかなか開けない人でも通勤や移動の途中やちょっとした空き時間に、メールならすぐ読めると考えて、配信を始めました。返信する必要はなく、読めないときがあっても気にしないでよいですし、気軽に始めてもらえたらよいと思っています。やめたいときはいつでも言ってくださって構いません。分かち合いメールを紹介して試しに受け取っていただいて、そのまま続けてくださる方がほとんどです。
 教会に生きる一人ひとりは、主イエス・キリストを羊飼いとする羊の群れです。主イエスはこう語られました。「わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている」(ヨハネ10・14)。「門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す」(同10・3)。羊飼いである主イエスは、わたしたちの名を呼んで連れ出し、牧草や水を与えて養ってくださいます。その羊飼いの声をどうしたら聞き分けることができるでしょうか。羊飼いの養いをどうしたら受けることができるでしょうか。それは、神の言葉に耳を傾けることによって、聖書の言葉を神の語りかけとして受け取ることです。「信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです」(ローマ10・17)。その一助になればとの思いで続けます。どうぞ皆様、「分かち合いメール」を大いに用いてください。
(No.670)

2017年 5月 14日

ルターの祈りより

 キリスト教放送局日本FEBCのインターネット放送を時々聞いています。今年はルターの改革から500年の記念の年なので、それにちなんだ番組「我ここに立つ~マルチン・ルターの日々の祈りに学ぶ」(1993年の再放送)が春から始まりました。今日の午後は墓前礼拝があります。先週5月9日の放送「愛する者の死に際して」のルターの祈りが紹介され、感銘を受けたので、文章を起こしました。どうぞ味わってください。
 1542年、ルターが、亡くなった人の妻に書いた慰めの手紙の中にある祈りです。
 “わたしたちの愛する父なる神よ、あなたは鞭をもってわたしたちを懲らしめなさいました。わたしたちは愛する友をわたしたちの中から失いました。わたしたちは彼が今、平安な、祝福された休みに入ったことを知っていますが、それでも、このことはわたしたちすべての者の嘆きの種であります。けれども、わたしたちの嘆きは人の子らによって味わわれたものの中で、最大の嘆きというわけではありません。何百倍もの悲しみを受け、それに耐えなければならなかった多くの人があったことをわたしたちは知っています。しかも、わたしたちの地上の苦しみのすべてを積み重ねても、あなたの御子が・・・わたしたちの救いのために苦しみを受けられたことに比べれば、物の数でもありません。わたしたちの主であり、救い主であるイエス・キリストの死に比較される死は他にありません。しかもその死によって、わたしたちは皆、永遠の死から救われました。どうかわたしたちすべての者のために死んでくださった主、わたしたち自身よりも、わたしたちの夫よりも、妻よりも、子供たちよりも、わたしたちの持ち物すべてにまさって価値のある主にあって、慰めを与えてください。わたしたちが生きるにも死ぬるにも、貧しくとも、富んでいようとも、たとえどんな状態にいようとも、わたしたちは主のものです。もしわたしたちが主のものであるなら、主はまたわたしたちのものです。・・・アーメン。”
(No.669)

2017年 5月 7日

第45回関東こころの友伝道講習会

 2017年5月5日、第45回「関東こころの友伝道講習会」が開催され、西川口教会からは7人が参加しました。会場は日本基督教団清水ヶ丘教会(横浜市南区南太田)でした。講師は、須藤繁(すどう・しげる)先生(こころの友伝道全国連合会副会長、日本基督教団伊豆高原教会員)を迎えて、「天に大いなる喜びが」(ルカ15・7)」の主題のもと、2回の講演を伺いました。
 講師の経歴がユニークです。須藤先生は、裁判官となられて10か所の裁判所に勤務しながら、その任地にある教会に転会して教会生活を過ごされました。いずれの教会でも、良きご奉仕をされ、役員になられたこともあり、こころの友伝道を紹介してこられました。裁判官をお辞めになり、弁護士過疎地に移り、弁護士として過ごされました。2年前に弁護士をお辞めになり、現在の教会に転会されました。通った教会は13。それぞれの教会で体験した経験を踏まえて、こころの友伝道の必要性、魅力、喜びを、信徒の立場から分かりやすく語ってくださいました。
 講演Ⅰ「こころの友伝道の魅力」、講演Ⅱ「こころの友伝道と教会形成」より受けたことを分かち合います。須藤先生が、こころの友伝道(当時の名称は、「訪問伝道」)を知ったのは、大学生の頃、日本基督教団新宿西教会に転会してからでした。当時は岡田實牧師が伝道牧会されていました。訪問のときドアをたたくことができなかった自分、その自分の弱さをチームで分かち合い、岡田牧師のとりなしの祈り、奉仕者のチームのとりなしの祈りに支えられて、訪問伝道に送り出されたこと、弱い自分でも伝道の業に加えられる喜びを体験し、それは牧師と信徒が協働して、チームで進めていくから続けることができたこと、祈り合うことが働きの基本であり、祈り合うときに、お互いに対する尊敬の思いが与えられること、など語ってくださいました。こころの友伝道の奉仕によって信徒は成長し、責任を負い、教会が建て上げられていきます。希望と励ましをいただきました。(No.668)

2017年 4月 30日

祈りと御言葉を大切に

 先週の4月23日は今年度第1回の教会総会が守られ、予定された議案が承認可決されましたことを、主に感謝します。本格的に今年度の活動が始まります。
 西川口教会は、今年度も6つの目標を変わらずに掲げ続けています。1.主日礼拝を重んじる教会へ。2.聖書に親しみ常に祈る教会へ(祈祷会を大切に)。3.各自の賜物がよく活かされる教会へ。4.次世代への信仰の継承。5.受けるより与える教会へ。6.地域に奉仕する教会へ。
今年の教会の御言葉は、「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない」(マタイ16・18)。主イエス・キリストのお言葉です。今年度の教会主題は、「ひとり一人が祈る人―愛をもって、責任をもって」。
 改めて確認したいことは、6つの目標の「教会」のところに「わたし」と入れていただきたいということです。教会とはだれか他の人ではなく、キリストに結ばれた「わたし」です。キリストに結ばれた者である「わたし」たちが教会です。「わたし」は、礼拝をささげ、聖書に親しみ常に祈り、賜物をささげ、信仰を受け継ぎ、地域に仕えます。
 ですからこうして確認するならば、「もうすでに」、わたしたちはそのように教会生活を生きている、と言えます。しかし、だからといって、「これでいい」と言えるものでもありません。教会は使命を果たす限りにおいて、教会とされ続けていくのです。各自が地上の生涯を終えるまで、あるいは、キリストが再びお出でになるまで、教会は使命を果たし続けます。
 わたしたちは、自分の力で使命を果たすことはできません。聖霊の助けによらなければ一歩も進めないのです。そのためには祈りと神の御言葉が必要です。キリストの教会ですから、キリストの言葉に豊かにされることです。祈りの中で御言葉に耳を傾け、御言葉によって確信をもって祈りをささげます。礼拝・諸集会、個人の祈りにおいて、祈りと御言葉を大切にしていきましょう。(No.667)

2017年 4月 23日

主の御計らいを忘れるな

 わたしの魂よ、主をたたえよ。主の御計らいを何ひとつ忘れてはならない。(詩編103・2)
 水曜日と木曜日の祈祷会では、旧約聖書の詩編を少しずつ学び、第103篇までたどり着きました。詩編の祈りによって、神を知る喜びを味わい、賛美と感謝に導かれ、人が塵に過ぎないことを知らされ、謙虚にさせられます。先週の祈祷会では、冒頭の御言葉を受け、互いに語り合いました。「主の御計らい」とは何でしょう。主なる神は、時に適って必要なことをなさり、必要なものを与え、すべてが益となるように働かれると信じています。一方、その主の働きを認められなかったり、認めたくなかったりしている不信仰があるかもしれません。「何ひとつ」、「忘れるな」と語りかけられているのは、人間が神の恵みの業を本当に忘れやすいからではないか…と、悔い改めの思いにさせられました。こうして神は詩編の言葉を通してわたしたちを正しい道に導いてくださる。その幸せを感謝しました。
 キリストの教会においては、何よりも「主の御計らい」とは、今年は先週お祝いしたイースター、キリストの十字架と復活の出来事、キリストご自身が、わたしたちに対する主の御計らいではないか、と語り合いました。
 使徒パウロはこう語っています。
キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。… キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります。… しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。…キリストによってすべての人が生かされることになるのです。”(コリント一15・14~21)
 今日の午後は教会総会です。キリストが復活されたから、わたしたちの宣教は無駄ではないと信じ、主の前に教会の会議を行います。
(No.666)

2017年 4月 19日

復活とは?

 本日は、復活日(イースター)です。主イエスは死に勝ち、復活されました。イエスは生きておられます。イエスが葬られた墓は、週の初めの日の朝、空っぽになっていました。天使が女性の弟子たちに告げた言葉を聞きましょう。
 「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました。」(マタイ28・5~7)
 初代教会の時代は、復活の主イエスと実際にお出会いした多くの弟子たちがいました。使徒パウロが証しています。
 「(キリストは) ケファに現れ、その後十二人に現れ・・・次いで、五百人以上もの兄弟たちに同時に現れ・・・次いで、ヤコブに現れ、その後すべての使徒に現れ、そして最後に、月足らずで生まれたようなわたしにも現れました」(コリント一 15・5~8)。
 今、この体の目で復活の主イエスを見ることはありません。率直に言って、復活とはどういうことなのか分かりません。見たこともないですし、自然に反することですから。けれども分からないからといって、心配もしていません。
 「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」(マタイ11・28)。この主イエスの御言葉にどれほど多くの人が、慰められ、励まされたでしょうか。わたしたちを呼び、招いてくださるのは、死人ではありません。生きておられる主イエスです。
 「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています」(ペトロ一1・8)。ハレルヤ!
(No.665)

2017年 4月 9日

宣教という愚かな手段によって

 本日は、棕櫚の主日です。今週は受難週です。祈祷会では、パン裂きの形式で、聖餐式を行います。来週の日曜日は復活日。主イエスのおよみがえりを祝うイースター礼拝をささげます。
 キリストの教会の信仰の根幹は、主イエス・キリストの十字架と復活の出来事です。「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われる」(ローマ10・9)のです。行いによって救われるのではなく、キリストを信じるだけで、救われます。
 日本のキリスト者の数は、全体の人口の約1パーセントといわれています。これは、プロテスタント、カトリックのキリスト者を合わせたものです。まだまだ福音が届いていません。どのようにして、この唯一の救いを同胞に届けることができるのか、いつも考えています。
 一方、教会の歴史の初めから、キリストの救いは、それを聞いた人が皆すぐに信じたのではありませんでした。新約聖書にこうあります。「死者の復活ということを聞くと、ある者はあざ笑い、ある者は、『それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう』と言った」(使徒17・32)。聞いた人にとっては、キリストの救いは愚かなこととしか思えなかったのです。
 使徒パウロはこう書いています。「世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。それは神の知恵にかなっています。そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが・・・召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです」(コリント一1・21~24)。十字架につけられ、復活し、今も生きておられるキリストを宣べ伝える、ここに立つ教会です。
(No.664)

2017年 4月 2日

2017年度活動方針より

 2017年度が始まりました。この年度も霊と真理の礼拝をささげてまいりましょう。引き続き、2017年度活動方針(まだ検討中ですが)からかいつまんで、お伝えします。新しい挑戦も少しあります。
 ・主日礼拝は教会生活の中心であり、土台であり、命です。教会は礼拝の共同体であり、一人ひとりは礼拝者です。主日礼拝において神とお出会いし、生きる喜び、勇気をいただきます。子供も大人も、キリスト者も未信者も、みんなで一緒の礼拝をささげます。ですからいつでも伝道の礼拝です。聖歌隊の賛美の奉仕を続けましょう。一般礼拝の聖書テキストはマタイによる福音書から御言葉を取り次ぐと共に、月に一度、日本基督教団信仰告白をもとに、説教をしたい。夕拝は今までどおり続けます。今年度も伝道夕拝が伝道に用いられるよう願います。
 ・祈祷会・昼間祈祷会は同じ聖書箇所から学びます。分かち合い、教会の祈りをささげます。霊的訓練と交わりの集いです。
 ・日常の教会運営の主体は役員会が責任を負います。会堂・牧師館・駐車場の課題が変わらないで継続しています。2020年は教会創立70周年を迎えるので、記念事業について今年度から検討したい。また、避難訓練、救急講習等を実施し、防災意識を高めたい。
 ・2016年度のアンケートの結果を踏まえて、教会の使命や活動、牧師や役員会の役割について理解の共有を進めたい。
 ・伝道牧会の目当ては「その人が神の言葉を聞くことができるようにすること」です。そこをフォローする伝道牧会への取り組みが求められます。
 ・子供や保護者の方々、弱くされた人が礼拝に来て居場所が得られるように考えていきたい。
 ・高齢者や病人への訪問を続けます。
 ・教会ホームページをリニューアルして、複数担当者(チーム)で運営できるようにしたい。(No.663)

2017年 3月 26日

「主よ、どこが舟の右側でしょうか?」

 先週の3月20日、上尾合同教会を会場として、2017年度の埼玉地区総会が開催されました。開会礼拝の説教者は、3月末で大宮教会を辞任される疋田國磨呂牧師でした。説教題は「舟の右側に網を打ちなさい」(ヨハネ21・1~14)。疋田先生は、29年間大宮教会で伝道・牧会されました。その経験をふまえながら、「復活の主イエスは岸に立っておられる。何もとれなかった弟子たちに、『舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれる』と言ってくださる。主に、『どこが舟の右側なのでしょうか』と問いながら、主の声に聴き従っていくことである」と説き明かしてくださいました。それは、それぞれの教会が、牧師が、信徒が、祈りの中で主に尋ね求めていくことだと語られました。アーメンです。
 先週の週報短文に年度活動報告の一部を書きましたが、その以外の一部分と、年度活動方針の主題についてお伝えしておきます。
 “教会全体懇談会・・・5月と7月は「会堂建築」について、10月と2017年1月はアンケートを実施しました。1月の懇談会は、準備不足のためグループ協議ができませんでした。懇談会として招集するのですから、今後はこのようなことがないように来年度に引き継ぎます。
 地域への奉仕として「川口がん哲学カフェいずみ 樋野興夫先生講演会」に協力しました。”
 “2017年度活動方針
 主題 「一人ひとりが祈る人 ―愛をもって、責任をもって」
 教会は主イエスご自身の教会です。主イエスご自身が教会をお建てになります。それを改めてよくわきまえることです。ここでいう教会は「イエスは主である。イエスはキリストである」と信仰告白する共同体であり、礼拝の共同体です。礼拝が礼拝となるために、もっと伝道する教会となるために、主の恵みに各自が責任を持って応えるために、祈りが必要です。”
(No.662)

2017年 3月 19日

2016年度の報告

 2016年度も終わろうとしています。3月の定例役員会に、年度活動報告を提出しました。まだ検討中であり、一部分ですが、お伝えしたいと思います。主が共にいてくださったので、活動を続けることができました。主に感謝します。
 “2016年の御言葉「何よりもまず神の国と、神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」(マタイ6・33)
 主題「一人ひとりが礼拝者」
 主日礼拝に、少ないながらも常に数名の子供たちや若い人たちや求道の方たちが与えられていることは感謝です。受洗者が与えられず主に申し訳なく思います。しかし、信仰は聖霊によらなければ始まりません。「もっと伝道できますように。受洗者が与えられますように」と祈り求めましょう。
 1.主日礼拝  大人と子供も一緒の礼拝は2013年7月から始まりました。2015年度から毎週の子供説教を始めました。継続することが大切だと思います。聖歌隊の賛美が力強くささげられました。説教の聖書テキストはマタイによる福音書を取り上げ、特に、山上の説教に耳を傾けました。
夕拝は、新来者が数名ありました。伝道夕拝を実施できました。特にゴスペル夕拝は、普段礼拝に来られない方がたくさん来られました。
 2.祈祷会 祈祷会では、詩編を学んでいます。良き学びと交わりの時となっています。御言葉を通して神を知る喜びが与えられ、互いのため祈ることで励ましが与えられます。この恵みに与る参加者が増えることを願っています。
 3.役員会  日常の教会運営の主体は役員会が責任を負ってきました。役員会のもとに、4月から会堂建築委員会が立ち上げられ、会堂候補地を「仲町」として進めていましたが、物件が売却され、会堂建築委員会は9月11日に解散しました。その後の会堂建築について具体的な取り組みはできませんでした。教会員の意見を尋ねるアンケートを2回実施し、結果を報告しました。”
(No.661)

2017年 3月 12日

東日本大震災から6年

 レント(受難節)の日々が続いています。わたしたちのために十字架へ向かわれた主イエスを仰いでいます。
 “「三時にイエスは大声で叫ばれた。『エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。』これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。」(マルコ15・34)
 主イエスは神の子であり、その本性において神と等しい方です。このお方が「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれたのです。神が神を見捨てるということにほかなりません。主がこのようなところに身を置かれたということは、わたしたちにとって大きな意味があります。わたしたちは、「なぜ、こんなことが・・・」と問いたくなる出来事に遭遇することは少なからずあることです。人はこうした出来事に出会うとさまざな答えを用意します。しかしいざ自分がその当事者になって不条理の最中に身を置くときには答えはどこにもなく、ただ「なぜ」という問いが残るだけです。十字架の出来事はこの問いに答えるものです。それは「なぜ」と問う問いを主御自身が共有してくださる出来事だからです。問う者と一緒に同じ問いを共有してくださるお方がおいでになるので、答えがないところを生きることができるのです。同時にそれはまた、不条理の極みにキリストと出会うことができるということであって、これこそ究極の慰めというべきです。”(賀来周一著「365日の聖書」『2月21日』より)
 東日本大震災から6年となりました。被災という不条理に身を置かざるを得なかった多くの人たちがあり、今も多くの人たちが困難の中に置かれています。この祈りの栞で災害の被災地・被災者・被災教会を思い、祈っていますが、おおざっぱな祈りになっている自分がいます。関東教区から届いた共同の祈りには、被災教区からの報告が祈りとなっています。共に苦しみ、共に喜ぶ、連帯の歩みを続けましょう。(No.660)

2017年 3月 5日

新しい歌を、主に

 最近あることがきっかけで、カトリック教会の「心のともしび運動」が提供するラジオ番組から、「今日の心の糧」をメールで配信してもらうようになりました。先週の2月27日の通信は、昨年12月30日に地上の生涯を終えたシスター渡辺和子さんによる文章でした。タイトルは「初めの一歩」です。この文章の後半を紹介します。
 “・・・ずい分前のことになりますが、一人の神父が、初ミサをたてるに当たって言った言葉も、私に反省を促します。「自分はこれから、何万回とミサをたてることになるだろうが、その一回一回を、最初で、唯一で、最後のミサのつもりでたてたいと思う」・・・
 私は・・・初ミサをたてた時の神父の「最初で唯一で最後」の意気込みを、この一年、大切にして生きたいと思います。それは、ていねいに生きるということであり、その一歩一歩の積み重ねが、この一年を私の財産となる一年にしていってくれるのではないかと願っています。”
 感謝なことに、信仰者は、自分で頑張るのではなく、一歩一歩を新しく歩むことができる神の恵みを与えられています。
 祈祷会の学びで、「新しい歌を主に向かって歌え」(詩編96・1、98・1)とは、新しく作曲された歌ではなく、今、見て知った神の救いが、歌い慣れた歌を全く新しい歌にしてしまうこと、今まで何気なく歌ってきた言葉が全く違って迫ってくること、主の救いの出来事がいつも新しいことであると、改めて知りました。朝ごとの祈りでも、何度も読んだ聖書の言葉が、新しい響きを立て、気づきを与えてくれることを体験しています。
 「主の慈しみは決して絶えない。主の憐れみは決して尽きない。それは朝ごとに新たになる。」(哀歌3・22~23)
 レント(受難節)に入りました。わたしたちは十字架と復活の主に救われ、担われて、今日も生かされています。その主から与えられた今日のいのちを、丁寧に大切に生きていけますように。
(No.659)

2017年 2月 26日

大宮教会献堂式に出席して

 2月18日の午後に、日本基督教団大宮教会の献堂式にT兄と出席しました。新会堂の2階の大礼拝堂は、自然光を取り入れた明るい祈りの空間でした。ステンドグラスから緑の光とオレンジ色の光が差し込み、それは、憩いの芝生と聖霊の働きを表しているとのこと。天井の真上にも窓があり光が差し込みます。それは天が開けているというイメージ。そのほか細部に至るまで、福音宣教の器として考え抜かれた見事な会堂でした。
 会堂建設の経緯が報告されました。大きな関心を持って聞きました。新会堂建設の発端は、2008年末に、さいたま市の「氷川緑道西通線」街路整備事業が認可されたことです。大宮教会の敷地の一部もその事業用地の対象となっており、その土地の上には会堂がありましたから、それを解体、撤去してさいたま市に明け渡さなければならないということです。そこから新教会堂建設への取り組みが始まりました。わたしが最も心に残ったのは、2009年8月から第2主日礼拝後、教会員全員で新会堂建設のために主の導きを求める祈りを始めたこと。この祈りは、2016年11月の竣工に至るまで続けられたそうです。
 初めの数年間は「どこに新会堂を建てるか」という課題がありました。大宮教会は、さいたま市に代替地を要望していましたが、4年かかっても、教会周辺に適当な代替地は見つかりませんでした。これまで同様この地で宣教の業に励むことを主のみ旨と信じ、残された敷地に新会堂を建設することを決定したのが2013年2月でした。その後、具体的な会堂の建設事業が始まりました。
 改めて思い起こしたのは、栄光は苦難の先にあることです。 「神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます」(コリント一10・13)。祈りつつ試練に耐えて迎えた、大宮教会の献堂式でした。ハレルヤ。
(No.658)

2017年 2月 19日

婦人教職の集いに参加して

 2月13日・14日は、日本基督教団全国教会婦人会連合婦人教職問題研究委員会主催の第43回婦人教職の集いに参加してきました。
 主題講演は「聖書の中の女性たち―フェミニスト聖書学の可能性」、講師は、青山学院大学宗教主任、理工学部准教授の福嶋裕子先生でした。講師のお言葉「古代イスラエルの女性の暮らし、宗教生活を歴史的に理解すると同時に、フェミニスト聖書学がどのように日本の宣教に活かせるかを探っていきます」。フェミニストにも聖書学にも疎い者ですが、問題意識に触れられるだけでも有意義な体験でした。「『女性』についての伝統的見解を理解し、それを疑うこと」、との言葉が心に留まりました。自然科学、医学が発達して、教育が普及している現代の日本ですが、人類の文明の長い長い歴史から見れば、つい最近までそれが全くなかった時代が続いていたのでした。ギリシア・ローマの時代から、中世、近代における「女性についての見解」を伺いました。それは現代人からみれば、思い込みや迷信のようにも見えます。「女性は『他者』と見なされてきた歴史がある」とも語られました。次いで、聖書の中に見る女性の生活、共同体の中での役割などを教えていただきました。イスラエル共同体は父権社会で、聖書の登場人物も大半は男性ですが、そのような中でも女性たちが登場し、紹介されています。
 主題講演以外のプログラムでは、様々な国際会議の出席者から、プロジェクターで写真や動画を見ながらの報告を、とても興味深く聞きました。台湾長老教会への訪問報告、女性リーダーワークショップ(台湾にて)の報告、世界メソジスト大会報告がありました。世界各地から集められたキリスト者、女性の教職や信徒の状況も伺いました。置かれたところで、それぞれができることを探りながら、宣教しておられました。多様性を抱えて一つにされる喜びが示されました。自分の狭い世界が広げられたようでした。感謝します。
(No.657)

2017年 2月 12日

樋野興夫先生の講演会より

 1月28日の午後に開催された、川口がん哲学カフェいずみの開所記念講演会「がん哲学外来へようこそ ―明日この世を去るとしても、今日の花に水をあげなさい―」が無事終わりました。講師は順天堂医学部病理・腫瘍学教授であり、一般社団法人がん哲学外来理事長の樋野興夫先生でした。簡単ではありますが、報告いたします。
 全体の人数報告(71人)は、週報に掲載されましたが、もう少し詳しくお伝えしますと、西川口教会員が22人、西川口教会関係者・教会員ご家族が7人(そのうち新来者3人)、他教会員・牧師が24人、それ以外の方々18人がおられますが、知人に誘われたり、インターネットから情報を得たり、新聞折り込みチラシをご覧になった方もおられたかもしれません。
 樋野興夫先生の講演(約1時間)は、ユーモアに満ち、専門知識をわたしたちに分かり易く説明されると同時に、先人の知恵の言葉を、樋野先生の言葉に置き換えて紹介され、たいへん教えられました。わたしにとってその一つは「人生は最後の5年で決まる」です。講演の副題のとおり、今日という日、そういう生き方をすることです。
 休憩をはさみ、約50分間の質疑応答では、参加者から活発な質問があがりました。樋野先生は一つひとつに丁寧に答えてくださいました。その応答を聞くことができて良かったですし、「『わたしにもわからない』。わからないことはわからないでよい」というお答えにも感銘を受けました。
 ここまでで全体のプログラムはひとまず終了し、休憩後、希望者(約30人弱)が2つの小グループになって、がん哲学カフェ体験の時間を過ごしました。その間がん哲学外来として樋野先生との個人面談が行われ(2組)、お話しされた方々が勇気づけられた様子を拝見し、うれしく思いました。
 皆様のお祈りとご協力を心から感謝申し上げます。3月25日から川口がん哲学カフェ「いずみ」が始まります。主に期待して取り組みます。
(No.656)

2017年 2月 5日

教会総会のために祈りを!

 来週の礼拝後、今年度度第2回の教会総会を開催します。役員改選の選挙を行う教会総会です。
 教会には、神の言葉・福音を語るために神から呼び出された伝道者・説教者がおり、その人たちは神の言葉に仕えることで、教会に仕えます。そして、教会員は、伝道者・説教者が御言葉の御用に専念できるように、信徒の奉仕者を任命します。それは、初代教会に遡るといえるでしょう。
 信徒奉仕者の任命のきっかけは、教会内のトラブルでした。ギリシア語を話すユダヤ人から、ヘブライ語を話すユダヤ人に対して、自分たちの仲間のやもめが軽んじられているという苦情が出たのです。教会はどうしたかというと、役割分担をしました。伝道者・説教者である使徒たちが御言葉の奉仕をそっちのけに、問題解決にあたることはふさわしくないと判断し、お世話をする奉仕者を任命しました。
 「十二人は弟子をすべて呼び集めて言った。『わたしたちが、神の言葉をないがしろにして、食事の世話をするのは好ましくない。それで、兄弟たち、あなたがたの中から、“霊”と知恵に満ちた評判の良い人を七人選びなさい。彼らにその仕事を任せよう。わたしたちは、祈りと御言葉の奉仕に専念することにします。』一同はこの提案に賛成し、信仰と聖霊に満ちている人ステファノと、ほかにフィリポ、プロコロ、ニカノル、ティモン、パルメナ、アンティオキア出身の改宗者ニコラオを選んで、使徒たちの前に立たせた。使徒たちは、祈って彼らの上に手を置いた。
 こうして、神の言葉はますます広まり、弟子の数はエルサレムで非常に増えていき、祭司も大勢この信仰に入った。」(使徒6・2~7)
 牧師だけですべてのことをしている教会はありません。信徒奉仕者をたてて、協力して神の言葉が広がっていくことを祈り、働きます。来週の教会総会はこの信徒奉仕者としての役員を選ぶ教会会議です。
(No.655)

2017年 1月 29日

神の道具として

 皆様のお祈りに支えれ、先週の1月22日は埼玉新生教会での説教の奉仕を無事に果たすことができました。
 午前9時からの礼拝では、久しぶりに士師記第6、7章のギデオンの物語から説教しました。イスラエルの民はミディアン人に苦しめられていました。種を蒔くと彼らは大群でやってきて、地を荒らし、食べ物や家畜を略奪しました。ミディアン人に奪われるのを免れるため、酒ぶねの中で小麦を打っていたギデオンに、主の御使いが現れ、語りかけます。ギデオンは、御使いに苦境を訴えます。「神が共におられるなら、なぜこのようなことがふりかかったのか。主はわたしたちを見放された」。主は言われます。「わたしがあなたを遣わす」。ギデオンは答えます。「わたしの一族はマナセの中でも最も貧弱で、わたしは家族の中でいちばん年下です」。主は言われます。「わたしがあなたと共にいるから、あなたはミディアン人を倒すことができる」。苦境を訴えたギデオンを主は遣わされます。貧弱なギデオンを主が用い、神の民の苦境を乗り越えていかせるのです。
 モーセもそうです。モーセが主に呼び出されたとき、「弁が立ちません。口が重いのです」と弱さを訴えましたが、主は言われました。「誰が口を利けないようにするのか。わたしではないか。行け。わたしがあなたの口と共にあって、あなたが語るべきことを教える」と。
 主の弟子たちもそうです。復活の主が現れ、弟子たちと共に過ごされたとき、弟子たちは尋ねました。「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」。主は、「それは知るべきことではない」と語り、さらに、「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして・・・地の果てに至るまで、わたしの証人となる」。弟子たちが遣わされるのです。
 神に「何とかしていただきたい」と思っているわたしたちを、神は御自身の道具として遣わそうと、呼び出しておられるのかもしれません。
(No.654)

2017年 1月 22日

地区の交わりの恵み 2

 本日は、埼玉地区講壇交換礼拝を実施しています。今年の相手先は、埼玉新生教会です。埼玉新生教会は、敗戦の翌年1946年に設立されました。今年で71年目を迎えます。初代牧師は中村忠明先生です(1916~2012)。2代目は現在の主任牧師であり、忠明先生の息子さんである中村眞先生です。1950年には教会付属幼稚園が設立されました。現在の会堂は1997年に移転のため新築されました。数えきれないほど多く、関東教区や埼玉地区の集会に会場を提供しています。仕える教会です。
わたしは2000年4月に西川口教会の担任教師となり、埼玉地区の教師の交わりに加わりました。中村忠明先生はまだまだお元気でした。2011年に忠明先生の説教集「主イエスは命のパン」を頂きました。その説教集の中の特に心を動かされました言葉を紹介したいと思います。
「主イエス・キリスト様を信じたなら、この御方と約束しなさい。私はどんなことがあってもあなたをお慕いして、ついてまいりますと。私も青年時代にそうしたからです。
 ペテロさんは、そのような約束を主にした人でした。でも途中でくじけてしまいました。主が彼におっしゃったように、ニワトリが二度鳴く前に三度、主を知らないと言ってしまい、主との約束を思い出して、外に出てさめざめと泣きました。もしペテロが、主と何の約束もしなかったら、ペテロがあれほど激しく泣くことはなかったと思います。
 でもね、主は、ペテロがかつて御自身に約束してくれたことを決してお忘れにはならなかったのです。だから、悔い改めたペテロを再び立ち直らせて、ペテロを愛し、信頼し、引き立てて、お用い下さったのですよ。
 若いみなさん。信じたら、主と約束しておきなさい。どんなことがあっても、私は主を愛してついてまいりますと。主はあなた方の人生を必ず保証してくださいます」。アーメンです。
(No.653)

2017年 1月 15日

地区の交わりの恵み

 「2017年1月9日(月・祝)、埼玉新生教会を会場として、埼玉地区一区の新年合同礼拝が行われました。今年は、最寄り区毎での新年合同礼拝でした。子どもへの説教は、田中かおる牧師(安行教会)がお話をされ、説教は「贖い、愛、臨在」と題して深谷春男牧師(東京聖書学校吉川教会)が務めました。聖餐式は、疋田勝子牧師(大宮教会)と小林則義牧師(七里教会)が務めました。また新成人の祝福祈祷を白石多美出牧師(春日部教会)がされました。
 今年も地区の主にある兄弟・姉妹と共に、新年のはじめに共にみことばを聞き、聖餐にあずかる合同礼拝をもって始めることの幸いを深く感じた礼拝でした。地区の主題は「主にある交わりを深めよう 」ですが、この合同礼拝は、まさに主にある交わりを深め、地区の一致と連帯を強く思わされます。
 新年合同礼拝は、地区の集会では毎年一番参加者が多い集会です。今年は雨にもかかわらず、1区だけで110名・22教会の参加がありました。
礼拝の後は、会場をホールに移してお茶やお菓子を食べながら、ひと時地区内の教職・信徒の皆さんと良き交わりの時がもてました。会場を提供して下さいました埼玉新生教会の皆様に深く感謝します。」
 以上、埼玉地区のホームページからの報告でした。礼拝説教の音声も聞けますので、ぜひ地区ホームページにアクセスしてみてください。
 日本基督教団関東教区埼玉地区では、成人の日を「地区デー」と定めて、新年合同礼拝をささげます。地区の伝道の推進のために地区デー献金をささげます。そして地区デーに近い日に、講壇交換礼拝を実施しています。今年は、埼玉新生教会が相手先の教会に決まりました。牧師がそれぞれの教会に赴くことで、互いに祈ることができ、知り合うことができます。わたしたちは孤立してはいません。埼玉の伝道に重荷を負う教会として共に苦闘しています。(No.652)


2017年 1月 8日

聖書に親しみ常に祈る教会へ

 西川口教会では現在、水曜日の夜7時半から9時までの「祈祷会」と、木曜日の午前10時半から12時までの「昼間祈祷会」をしています。
 「信徒の友」2017年1月号の特集は「祈祷会―皆で祈るということ」でした。富山鹿島町教会牧師の小堀康彦先生の記事「祈りを合わせる 祈りを集める 祈祷会の力に迫る」には大いに共感しました。一部紹介いたします。
 「・・・礼拝には集っている。でも、どこか霊的にマンネリに陥っていると感じている人がいるなら、ぜひ祈祷会に出席するようにしてください。必ず、今の状態よりも一歩成長することができます。なぜなら、祈祷会はそのために開かれるようになったものだからです。・・・ 祈祷会ではおおよろ以下の3つの祈りがささげられているということを心得ておくとよいと思います。①御言葉に応える祈り 多くの祈祷会では聖書の学びがあり、そのあとに祈りがささげられる形を取っています。・・・まず聖書に聞くのです。そして聖書をとおして神さまが私に語りかけられたことに対して祈って応える。そうすれば、私たちの祈りは確実に「神さまとの会話」としての祈りとなります。・・・ ②課題への祈り 祈祷会だというのは教会として祈りを集めていかなければならない具体的な課題です。・・・同じ課題を祈ることによって、神様はその課題に対して具体的な出来事をもって応えてくださり、主は生きておられること、祈りを聞いてくださっていることを味わい知ることになるでしょう。 ③とりなしの祈り 私たちは自分のためにだけ祈るのではありません。世界はわたしたちの祈りを必要としているのです。・・・私たちの祈りはイエスさまの十字架というとりなしの御業によって与えられたものであり、イエス様の十字架と結ばれているからです。・・・」
 「聖書に親しみ常に祈る教会へ(祈祷会を大切に)」を教会の目標としています。教会としては、祈祷会出席のための工夫が必要でしょう。
(No.651)

2017年 1月 1日

受けるより与える教会へ

 主の年2017年を迎えました。主日礼拝から新しい年を始められることは感謝です。今年も、主の恵みによって、聖霊に導かれて歩みましょう。
 本日発行の月報の「2016年12月の役員会より」に次のように報告されています。「浦和別所教会会堂建築献金は献金の趣意書を提示して、封筒を会員に配布して献金をお願いする。目標額100万円。期間は1月~2月まで行い、3月に浦和別所教会へ献金する」。
 西川口教会のルーツは、初代の横山義孝牧師のお父様の横山英男牧師にあります。英男師は20歳で入信、45歳の時に日本宣教会に於て献身し、浦和の自宅を開放して伝道を始められ、1934年、単立伝道教会・浦和別所教会として出発しました。1941年の日本基督教団合同当時は第7部に属しました。1949年に、浦和別所教会の開拓伝道として川口栄町集会が始められました。翌1950年、栄町伝道所が開設され、准允を受けた義孝師が主任牧師として就任されました。そこに、浦和別所教会の献身修養生や青年達が次々と奉仕に加わってくださいました。栄町伝道所はやがて川口本町教会へ、さらに、現在地へと移転して西川口教会へと至ったのです。
 現在、教会間の特別な交流はしておりませんが、わたしたちの親教会は浦和別所教会であることを、しっかりと覚えたいと思います。
 浦和別所教会が、ここ数年、土地購入と会堂建築に取り組んでいることは知らされ、祈っていました。このたび新会堂建築の献金の趣意書が届きました。できる限りの支援をしたいと思います。
 かつて、横山義孝師が東久留米市に第2の開拓伝道(現・東京新生教会)を始められたとき、西川口教会は100万円の献金をしました。ささげられること自体恵みであり祝福です。「主イエス御自身が『受けるよりは与える方が幸いである』と言われた」(使徒 20・35)。西川口教会は、この言葉を教会の目標にしています。
(No.650)

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