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週報短文


バックナンバー 2002年2月分



2002年2月24日
父と息子


 第41回を迎えた日本ケズィック・コンベンションは今年も箱根小涌園ホテルで開かれた。今回はオルフォード・ファミリーが講師という珍しいコンベンションで、83歳になられたオルフォード師と奥様、そしてご子息のダビデ師が交互に説教を担当された。オルフォード師は今回9回目の来日で、先年心臓の大手術をして命が危ぶまれたが、幸い健康を回復して、壮者を凌ぐ力あるご用をされた。手術のとき、心臓が体外に取り出されて8分余り机に置かれたが、良く見ると心臓に何かが書かれている。それは「メード イン ジャパン」という文字であった、と皆を笑わせた。日本製品が世界に溢れているのを皮肉ったのではなく、自分の心はいつも日本にあるのですよという、私たちへの熱い思いを披瀝されたのである。
 キリストへの情熱に捕われて熟年を迎えた師も、若い頃はアフリカへの宣教師であった父に反抗して、イギリスで自由気ままな生活をエンジョイしていた時もあったという。その時に、アフリカから届いた父の手紙に、「ただ一度の人生は、飛び去る。しかし、キリストへの業は永遠に残る」という一言を見て、はっと我に返ったという。父の一言が、息子の人生を変えたのである。
 親子の対話が、今日、ますます難しくなっている。母親とは話せても、父親とはほとんど口も利かないティーンエージャーが増えているだろう。しかし、それは今に始まったことではなく、理由は別にして、昔からそうだったように思う。親父は怖い存在であった。だから、おいそれとは口も利けなかった。しかし、ここ一番という人生の岐路に立つとき、父親の一言の重みが物を言うのである。
 コンベンションで、互いに尊敬し合っているオルフォード父子を見ていて、実に美しいと感じた。しかし、優れた父親を超えることは容易ではない。ダビデ博士の力強い説教も、父上には及ばないと感じたがどうであろうか。


2002年2月17日
アシュラム

  きょうは久し振りの「西川口アシュラム」である。五〇周年誌を見ると、第1回のアシュラムは1970年2月に開かれた。以来、ほとんど毎年行われ、他教会から証や助言に信徒や牧師を招いている。最近しばらくお休みをしていたが、一昨年夏の軽井沢でのファミリーキャンプは山下萬里師をお招きしてアシュラム形式で行われたことは記憶に新しい。
 アシュラムは古くからインドで行われたもので、グルー(教師)を中心に彼に学ぼうとする者たちが集まって共同生活をする。その共同体をアシュラムと言った。マハトマ・ガンジーもアシュラムを指導した。インドに宣教師として赴いたスタンレー・ジョーンズはアシュラムを体験して、これこそ西欧のキリスト教会に欠けているものだと見抜き、「クリスチャン・アシュラム」と名づけてインドで始めて、アメリカや日本にも紹介した。クリスチャン・アシュラムのグルーは生ける主イエス・キリストご自身であり、「イエスは主である」がアシュラムの合言葉になった。
 私は1971年、スタンレー最後の来日の時、天城山荘で開かれたアシュラムに初めて参加した。が、スタンレーの話は深遠で届かず、分団もよく馴染めず、アシュラムは今一つという印象で終わった。その後、1976年秋、湯河原で開かれた第1回京浜アシュラムに出席し、榎本保郎牧師(三浦綾子さんの「ちいろば先生物語」の主人公、翌年召天)の指導でアシュラムに目が開かれて、以来自分の信仰生活の大きな力になってきた。あれから何回アシュラムに出席したろうか、香港でも一度やってみたこともある。今も忘れられないのは、数年前の箱根における「関東アシュラム」で、助言者の金元治師が言われた「私たちは毎日、旧約、新約という薬をいただき、毎週教会病院に通院し、時折アシュラム病院に入院して、かろうじて健康を保つことができる」の名言である。これを自らの座右の銘にすべしと心得ている。


2002年2月10日
新年度に向かって

きょうは礼拝後、教会総会において新年度の役員選挙が行われる。新年度には教会組織を若干変更することが役員会から提案された。この提案に従って、役員は十名に増員され、二人ずつ組んで5つの部を担当していただく。ここが新年度の新しい試みである。つまり、役員がまずチームワークの範を示す。そして、必要に応じて各部のなかに委員会を組織する。例えば、「社会・広報」部のなかにバザー委員会や月報編集委員会をおく。各部の奉仕内容は3月の役員会までに明確にしたいと思っている。
 教会の組織はそれぞれの教会の自主性に任されており、教会によってまちまちである。極端な場合は、ほとんど組織らしいものを持たない場合もある。牧師のワンマン体制の教会もある。私たちの教会は、教会員がよく奉仕する部類の教会である。特に役員に選ばれると、責任感を持って熱心に奉仕してくださる。時には孤軍奮闘して、涙ぐましい感さえする場合もある。こういう伝統がいつしかできてしまった。特に孤軍奮闘になると、自分がやっていることが、果たして良いのか悪いのかもわからなくなってしまう。だから、少なくとも二人でチームを組むことは意味があるのだ。私たちはどんな奉仕でも喜んでするが、同時に、それが主に喜ばれ、かつこの教会に相応しいことであるか否かをいつも考えて行かなければならない。今までやってきたのだから、これで良いとは簡単には言えない。礼拝は神への大事な奉仕であるが、そのやり方も今までのままで良いかどうかも検討する必要がある。
 これらは、まず教職が役員と共に祈りをもって当たるべき事柄であるが、礼拝ひとつを取り上げても簡単でないことはお分かりいただけるであろう。教会学校のことも今大きな課題になっている。小泉首相は構造改革を掲げて、それがなかなか進まないようだが、私たちは小さな教会である。時には思いきった改革を試みる価値があるのではなかろうか。


2002年2月3日
S姉召天

 私たちの敬愛するS姉が1月31日午前に主のみもとに召された。89歳と5ヶ月余りの一生であった。
2年余り前のクリスマスに倒れて、しばらく入院され、その後、ずいぶんお元気になられたが、心臓にはいつ何が起こるかわからない状態であったようだ。神様から、あと2年がんばりなさいと言われたのだろう。
「わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。」(ローマ14・8)
「西川口だより」2月号の巻頭言に「2月は何か新しいことが始まる予感がしている」と書いた。その2月の冒頭に、愛するS姉のご葬儀が行われた。本当は、2日は友引で火葬場は休みであるが、姉妹は東京女子医大に献体を申し出ておられたので、葬儀ができたのであった。3日はファミリー礼拝とハレルヤもちつき会が予定されているので、2日に葬儀が終わることは教会としても最善であった。私ごとを言えば、風邪を引いて数日体調が悪かったが、31日からようやく声も普通に出るようになった。「先生を困らせてもいけないから」というS姉のあの懐かしい声が聞こえるようである。そして、「私はイエスさまのもとに一足先に行って、皆さんのために祈っていますよ。西川口教会にもきっと新しい神様の業が始まりますよ」と天国から語っておられるように思えてならない。
去るクリスマスには出席したいと言っておられたがかなわず、替って御子息が、12月までの献金をもって出席され、皆様にご挨拶された。献金が滞ったままで天国に行くのは申し訳ないというのも姉妹らしい。しかも、静江牧師から、火曜日にS姉といろいろ電話で話したという報告があって、みんなでお祈りをしたその昼間祈祷会のさなかに召された。姉妹のお顔は微笑んでいるように平安であった。「神のなさることは皆その時にかなって美しい。」アーメン


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