週報短文
バックナンバー 2002年11月分
2002年11月24日
主に癒された
武生教会への応援伝道は大変祝された。いずれ誰かに証か報告をお願いしたいと思っている。私たちのほうが武生教会から学ぶことが多かったのではあるまいか。
ここには私の個人的な証を書かせていただきたい。それは、風邪が癒されたことである。
16日、土曜日の朝6時にK兄の運転による自動車部隊6名は早天祈祷会の祈りの中を出発した。私も元気ならば乗りたかったが、とてもそんな体調ではなかった。午前中に近所の医院で注射を一本打って薬を頂き、昼の新幹線でK姉、T兄と共に行った。米原でローカル線の特急に乗換えるが、この電車が揺れて酔ってしまった。電車に酔うなどはかつてないことであった。T兄に介抱されながら武生に着くという情けない有様。駅前のホテルを予約して下さっていたので助かった。とにかく少し休みたかった。
自動車部隊も午後3時には無事到着したとのこと、電車で行った他の兄姉も無事に着いて、予定の11名が全員集合。教会では私たちの歓迎夕食会が開かれたが、私だけは参加できなかった。しかし、夜の伝道会まで休ませていただいたお陰で少し元気が出て、役員の兄弟の迎えの車で教会へ行くと、すでにかなりの方々が集まっており、前方では西川口教会の兄姉が共に祈ってくださっていた。伝道会は若い兄姉の賛美も若いT兄の証も恵まれ、私も何とかご用を果たすことができた。
翌日17日の主日も礼拝ぎりぎりまで休ませて頂き、O姉の証の後、私の説教だったが、説教を始める時には不快感も去り、講壇に立つと神様から不思議な力を頂いたようで、声も前夜よりよく通り、主の導きのままに語ることが出来た。どんなに皆さんが祈ってくださったかと、感謝と喜びに満たされた。
今年は、二度主の癒しを経験した。一度はトルコで遺跡に転落した翌朝ホテルで祈っていたとき、二度目は武生教会の礼拝だった。
2002年11月17日
説教ノートU
前号に続いて説教ノートについて思いつく二、三のことをつけ加えたい。
私の母教会のI牧師は、説教ノートを見ながら説教するような人ではなく、講壇を歩きながら聖霊の導きのままに自由に語るタイプの牧師であった。昔のホーリネスの伝道者にはそういうタイプが多かったらしい。
ある夏期聖会で講師の先生が何人か札幌まで来てくださったが、その一人が聖会の前に熱心に説教ノートに目を通しておられた。聖会全体を指導する立場のI牧師がそれを見て、「そんなに勉強しなくても、示されていることを自由に語ってください」と言うと、普段は静かなその先生が「あなたはそれでよいだろうが、私はそういう説教はしないのです」と、きっぱりと言われたという。ひとりひとり賜物が違うのだということを言いたかったのであろう。
私は立場上、時々神学生の説教を読まされたり、静江牧師からも説教ノートを読まされたりすることがある。しかし、私は解釈に明かに問題がある時以外は、特に良いとか悪いとかは言わない。頼りにならない教師だが、説教は説教者が神に示されてみ言葉を語るもので、あまり他人がとやかく言うべきものではないと思っている。説教を聴くのは楽しいが、説教ノートを読むのは大抵つまらない。私は説教前にだれかに自分の説教を読んでもらったという記憶はない。与えられた説教は神さまと自分との秘密だと思っている。
説教ノートで難しいのはウエスレーの説教である。彼はこのまま説教したのではなく、信者を教育するために読む説教として書いたのだろう。日本のメソジスト教会の牧師が、あるときウエスレーの説教をそのままやってみた。すると後で一人の姉妹がやってきて「私はもう礼拝に来ません」と言ったという。借り物は、はっきり借り物と言わねばならない。ウエスレーの説教などは特にそうである。
2002年11月10日
説教ノート
説教ノートを作らない牧師はほとんどいない。ときどき、ノートなしに説教する牧師も見かけるが、説教前にそのあらましはノートに書いているだろう。
私は伝道師になって30年余り、大体説教全文を書いて、それを見ながら説教してきた。その説教ノートも大小50冊以上になった。他人には何の価値もない代物だが、私にとっては汗と涙の結晶である。
5年ほど前から、ワープロで説教ノートを作り始めた。すると面白いことに、説教も多少変ったような気がする。仮にワープロ説教と呼ぼう。ワープロやパソコンは、あとで付け足したり削除したり並べ替えたり自由にできる。肉筆でもできないわけではないが、ノートが汚くなって読みにくくなる。もう一度清書すればよいが、まずその余裕はない。だから、肉筆のノートの方が、始めの説教のインスピレーションがそのまま出ているように思う。ワープロ説教は、より整って緻密になるかもしれないが、勢いが感じられなくなる危険もある。ある先輩牧師は、説教の勢いを大事にして、ノートは自分が読めれば良しとして、乱雑に大急ぎで書くという。もちろんワープロなどは使わない。
ところで、この一ヶ月ほど、深い考えもなくワープロ説教を止めてみた(お気づきの方もおられるだろうか)。肉筆で、ある部分は要点だけを書く。それがうまく展開できなくて説教では省略してしまう時もある。
つまり、できるだけ説教する時の流れを大切にして、論理の整合性よりも会衆の感性や理解に敏感でありたいと思っている。しかし、時には大事なことを言い落として後でしまったと思うこともある。
ワープロ説教だと、普通5時間はワープロの前に座らねばならないが、今は立ったり座ったりしてメモをし、歩きながら説教を考える。どちらが良いかはまだわからない。
2002年11月3日
北海道へ
大学卒業40年の記念同期会が北海道で持たれ、久し振りに昔の仲間に会いたくなって行ってきた。北海道は寒波が押し寄せ、山間部は雪で、見事な紅葉と雪景色を一度に見せていただいた。各地から千歳空港に集まって登別温泉に一泊したが、数えて見ると小学校の修学旅行以来半世紀振りの登別だった。
同期会には全部で20名が集まり、旧交を温めることができた。すでに仕事を辞めて自由な生活を楽しんでいる者もいるが、殆どはまだ現役で、大学で研究を続けている者、専門学校で教えている者、翻訳を仕事にしている者などそれぞれの仕事に精を出し、また高齢の親の世話をしている者も何人かあった。一人だけ消息不明の人がいて、噂によると、ものみの塔に入ったらしいという。専門の布教師になったのか、信徒として伝道しているのか、機会があれば会いたいと思う。
今回は団体旅行であったので、ほとんど自由時間が持てなかったが、母教会の牧師が脳梗塞で倒れ、定山渓の温泉病院でリハビリ中と聞き、バスが折良くそこを通ったので降ろしてもらって彼を訪ね、共に語り合い祈り合うことが出来たのは幸いであった。
また、3日目の最後の日はちょうど母教会の祈祷会が開かれる日で、牧師が療養中でもあり、メッセージを頼まれたので懐かしい祈祷会に出席した。部屋に入ると、すでに20名ほどの兄姉が静かに待っておられて、最高齢は90歳の兄弟が2人、休むことなく出席しておられるという。教会員の1/4ほどが80代というから、かなり高齢化が進んでいるが、この老兄姉の祈りによって教会が支えられてきたことも事実であろう。
私の兄姉やその連れ合い方も皆来てくれたので、教会の一室をお借りして昼食を共にし、短い時間ながらよき時も与えられた。
皆さんの祈りに支えられ、3日間の楽しい充実した時を与えられたことを感謝する。