週報短文
バックナンバー 2003年1月分
2003年1月26日
今、信州で起こっていること
喬木教会の新年聖会も皆さんの祈りに支えられて祝福のうちに終った。喬木教会の新年聖会に招かれたのは二度目であったが、今回は少し違った印象を受けた。もちろん、牧師が替わったこともある。が、それだけではないと思う。例えば、賛美が変った。若い伊奈牧師がピアノを弾いて、受洗したばかりの若い姉妹が賛美した。また、受洗や転会して間もないという姉妹達が証した。全体的に若々しい息吹を感じた。もちろん、以前から教会を支えてこられた兄姉たちも、熱心に聖会に出席しておられた。
聞くところによると、喬木教会だけでなく、隣りの飯田市のいくつかの教会でも新しい神様のみ業がなされているようだ。「信州日報」という地方紙の第一面にカラー写真で、教会の若者たちのコワイヤーの働きが紹介されていた。これらの教会では、小牧者訓練会による弟子訓練が行われているという。神はその働きを祝福して諸教会の若者たちを用いておられるのではないか。
私は大正八年に飯田から始まった「大正のリバイバル」を思い起こした。昔話で恐縮だが、我らの指導者であった小原十三司師は、秋山由五郎、柘植不治人両師と共に飯田の聖会が終ってから山にこもり祈りに打ちこんだ。ところが、祈っているうちに秋山、柘植両師の深刻な罪の悔改めが始まった。それが延々と続く。若い小原師はそんなに悔改めることがない。そこで両師に向かって「さあ、悔改めはそこまでにして賛美しましょう」と力強く歌い始めた。両師も歌った。悔改めの祈りと神をほめたたえる賛美、そこから不思議な神の業が始まった。やがてリバイバルの火は全国に燃え広がった。リバイバルの結果は、「信者の霊的状態が一変したこと、伝道精神が旺盛になったこと、献金が増加したこと、霊的一致を生じたこと」と報告されている(「ホ群略史」)。
さて、今日はどうか。
2003年1月19日
小海寅之助師の説教より
今年の新年合同礼拝は、越谷教会を会場として行われ、昨春隠退された小海寅之助師が説教された。「良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか」(ロマ10:15)から実に力強い説教であった。師は、かつて越谷教会を十数年牧会されたから、特別の愛着がおありである。同教会は埼玉地区でも有数の歴史のある教会で、創立以来百十数年になるが、その伝道の初めは一人の宣教師の『足による伝道』であった。宣教師の熱心な伝道と、そのメッセージに心打たれた数名の者たちがキリストを受け入れて信者になったが、その越谷教会の初穂というべき人達の四、五代後の子孫達が立派に信仰を受け継いで、現在の教会を支えている。その日の礼拝にも何人か出席しておられ、先生から名前を呼ばれて紹介された。
また、17代目の長尾丁郎師は実に46年の長きにわたって牧会されたとのことだが、同師の靴のかかとはいつも磨り減っていることで有名だったという。美しい足をもって良き知らせを伝え歩かれたのである。私の隣りに座られた老姉は長尾先生のお嬢さんであった。同姉は長年にわたって奏楽の奉仕をされたとのことで、当日の礼拝の奏楽者に子供の頃ピアノを教えられた。その姉妹は、後にアメリカに留学して本格的にピアノを学び、当日の礼拝の後も、石橋牧師の指名により、出席者を歓迎するためにショパンの幻想即興曲をみごとに演奏された。新年礼拝でショパンを聞くのも珍しい。
越谷教会は先達の信仰を継承して教会を支えている多くの兄姉がおられることを知って感銘を受けた。
小海牧師の説教の一節に、「美」という字は羊の下に大と書く。これは神に献げられた大きな羊であり、また、我らの罪のためにほふられた羊、我らの主イエスをも思い起こす、と。実に恵まれた聖餐礼拝であった。
2003年1月12日
人生の午後
「人の一生で50歳といえば人生の節目の年、『人生の午後』が始まったと言ってもいいでしょう。私たちの脳細胞は140億個もあり、多くの人は60歳くらいまでに脳の半分、中には四分の一しか使ってなくて、未開拓の部分が広大に残されています。午前中の人生では、学校で勉強し、就職後は仕事に追われ、家庭を持って育児に専念したりと、義務や雑事に忙殺されます。ですから、午前中の人生は、正味使える自分の時間はごくわずかです。しかし、50歳を越えてからの『人生の午後』では、自分が選んだ物事に没頭する時間が増え、長く休眠していた私たちの脳の部分を目覚めさせる良い機会です。『人生の午後』からは、何か新しいことを始める時です。才能がないのではなく、その脳の部分を使わなかっただけのこと、まだ遅くはありません。始めることさえ忘れなければ、人はいつまでも若くあるのです。」
以上は皆さんよくご存知の、聖路加病院の日野原重明先生の本「いのちを創る」を、ある方が上手に要約されたものだ。これを読むと、なるほどと思い、自分もそのように生きてみようと思う方もおられるに違いない。
私の場合で言えば、牧師の道は自分で選んだ道なので、何の迷いもなくそれに没頭することができた。が、やはり今までは義務とか雑事に追われる事が多かった。しかし、これからは身辺を整理して、本当にやりたいこと、やらねばならないことに没頭する事ができるだろうか。これは難しい問題だ。牧師は仮に引退しても、献身を止めるわけにはいかない。モーセは80歳、アブラハムは75歳で神の召しを受けた。相手が神様ではしかたがない。だから、私がこの文章で一番心に留まったのは「始めることさえ忘れなければ、人はいつまでも若くあるのです」だ。西川口教会も、ようやく『人生の午後』に入った。
2003年1月5日
新年聖会の恵み
新年は元旦礼拝から始まり、恒例のホーリネスの群れ首都圏新年聖会が2日、3日と開かれた。札幌の母教会でも元旦礼拝、新年聖会は毎年開かれ、寒さの中で開かれるこれらの集会は強く印象に残っているが、特に伝道者となってから新年聖会は新年の歩みのために欠かせない心備えの時となっている。
今年の新年聖会は私たちが15年お世話になった更生教会で開かれ、しかも最後の聖会が静江牧師の説教ということで、生憎の雪のちらつく寒い日になったが、更生教会の方々が大勢出席されたようだ。私は、3日は東京フリーメソジスト10教会の新年聖会に招かれて小金井教会へ行ったので、静江牧師のご用する最後の聖会には出られなかった。最後も大変恵まれた聖会になったと聞いて感謝した。
小金井の新年聖会も恵まれた。以前から尊敬する芳賀正師や野田秀師らが中心に持たれてきた聖会で、今年は特に50周年の記念の年ということであったが、どうして私ごとき者がお招きを受けたかは謎である。しかし、午前の聖会の初めから、温かい家庭的な雰囲気に満ちて、とても話しやすい雰囲気だったのはありがたかった。午後は青年たちの特別賛美奉仕があり、ドラムやエレキギターの伴奏が賑やかだった。かつての聖会では考えられなかったことである。時代の推移であろう。ホ群の聖会でも青年たちはギター等でワーシップソングなどを歌うようになった。
小金井の聖会で特筆すべきは、海外で生活した方々の賛美奉仕があり、十数名の方々が前に出て賛美された。その中には香港時代にお交わりを頂いた方々も数名おられて、懐かしい再会を喜んだ。まだ教会学校の生徒だった子供たちも立派に成人した姿を見てうれしかった(私達も今春帰国後13年!)。
聖会の最後に恵みの座に出て共に祈り、献身を新たにすることができて感謝だった。