週報短文
バックナンバー 2003年3月分
2003年3月30日
出会いの不思議
K兄が召された。K兄のことを思うと、出会いの不思議さを覚える。この教会で、K兄に会ったのはS兄と牧師夫婦だけである。兄弟がS兄に出会ったことによって、この教会で葬儀が行われることになった。
K兄は若い日に、沖縄においてボーリンジャー宣教師に出会ってキリストを信じ、洗礼を受けてキリスト者になった。その後、献身を志して、東京神学大学に学ぶことになった。ここで、学長の桑田秀延師に出会った。以後、師が召されるまで20年間「師弟関係というよりも、親子のような間柄で、天国に召された時も、私が先生の死に水とやらを取らせてもらいました。横浜の市立病院に入院なさっていた間、毎日、一日も欠かさずお見舞いに通いました。・・・先生が名刺の裏に書いてくださった自宅への案内図が、その後の私の人生の道しるべとなり、信仰の盾となり、神の愛と人間の愛の尊さを、深く深く知るきっかけとなったのである」と、東京神学大学の学報146号に記しておられる。
K兄は沖縄のバプテスト教会から神学者として著名な北森嘉蔵教授が牧会するT教会に転会された。アメリカにも学ばれたと伺ったが、名刺には人生コンサルタント、肩書きに「神学博士」とある。お元気なうちにお会いできたら、いろいろ興味あるお話しも伺うことができたであろう。
先週の月曜日にS兄と病院に見舞った時、T教会の会員であることが判り、その夜に電話を入れて同兄の病気の状況等を話したら、T牧師がその夜に役員全員にお電話して、こちらの教会への転会の薦書を翌日速達で送ってくださった。その迅速な対応に敬服した。しかし、召される日はまだ少し先と楽観していた私の判断が甘く、水曜の夜にさっと主のみもとに召された。役員会の承認を頂いて、この教会の準会員(?)として天国にお送りさせていただきたい。
2003年3月23日
苦難の意味(2)
恐れていたイラク戦争が始まりました。これが新たな戦争の世紀の始まりとならないように、また、速やかな戦争終結を祈りたいと思います。
前号に苦難の意味について一筆しましたが、先週、母教会の友人に会いました。彼は昨年30歳の長女を病で亡くして、まだその心の傷が癒えない状態にあります。お嬢さんはアメリカに3年程留学して帰国し、クリスチャンスクールの英語教師になって、いよいよこれからというときにがんで倒れ、彼女を知る多くの人々によって祈られました。彼も必死で祈り、一時は医者に奇跡とまで言われるほどに良くなったのです。しかし、病気は進行していました。最後は、彼も断食して祈ったそうですが、15日目に召されました。彼も奥様も虚脱状態になって、祈ることもできなくなり、深刻な懐疑に襲われたと話してくれました。そういう苦しみを経験したことのない私には、とうてい彼の苦しみはわかりませんでした。ただ、黙って彼の話を聞くだけでした。「祈りとは何か、果たして神は我らの祈りを聞いてくれるのか」等々、率直な疑問もぶつけてくれました。
彼が、信者になって間もなくの人なら、いろいろアドバイスすることもあったでしょう。しかし、彼はその点でも私の先輩です。頭ではよく分かっているのです。ただ、気持ちの上でどうしても納得がいかないということではないでしょうか。
苦難にはそういう面があります。そのことをよく示しているのがヨブ記です。ヨブは、彼を慰めに来た3人の友人の意見を聞いて、あなた方の言うことは私もよく分かっている、私があなたたちの立場なら、私も同じことを言えるだろう。しかし、私はこんなに苦しんでおり、あなたたちは苦しんではいない。このギャップはどんなにしても埋まらない、とヨブは訴えるのです。ヨブの苦難の解決者は神以外にはなかったのです。
2003年3月16日
苦難の意味
火曜会の最高齢は今のところ93歳のI姉だが、「今まで様々な苦労を重ねてきたが、すべては感謝です」と述懐された。苦労や苦しみがなければダメだというのだ。
永六輔さんの本にもある老婦人が、
「米寿の祝いを済ませました。皆さんがよくしてくれるので、辛いことはございません。
でも、もったいないといいますか、辛いことがなにもないということがかえって辛いんでございましてね。辛いことがないもんで・・・・うれしいことがないんでございますよ」と。
この老婦人の気持ちがわかるような気がするが、どうだろうか。
旅行に行くときは、みな旅の無事を祈る。それは当然である。しかし、何の事故もなく、危険もなく、ハッピーハッピーで終わった旅行が心に残るだろうか。そういう旅行は間もなく忘れてしまう。しかし、私のようにわざわざ穴に落ちないまでも、例えば体調を崩しながらも何とか皆さんについていけた、全行程を全うできた、というような旅行はいつまでも忘れられず心に残る。
人生も旅行と同じである。何の波風もなく、試練もない一生とは果たしてどんなものだろうか。悲しみもない代わりに、喜びも感謝もない一生となるのではないか。
有名なロマ書5章のみことば、「そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。」
さらに、フィリピ1章には「あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです」とある。
苦しいことは誰も望まない。しかし「後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。」(ヘブライ12・11)アーメンではないか。
”火曜会” 月半ばの火曜日に開かれています。高齢者の方を中心に、語りあう時を持っています。昼食も御一緒します。そして同じ時間に開かれている小羊会の子どもたちとの交流もあります。
2003年3月9日
東京聖書学校
東京聖書学校の卒業式が7日に行われ、6名の兄姉が卒業したこと、また卒業式に先立って6日に新年度の入学試験が行われ、7名の志願者が全員合格したことは大きな感謝であった。
今年の志願者を見ると、男子が5名、女子2名で、男子寮は満杯に近づいた。うれしい悲鳴である。来年、再来年のことを考えると、施設の拡充に真剣に取り組まねばならない。特に、現在家族寮がないことは大きな問題である。在校生の中には、近所にアパートを借りて通学している夫婦もある。今度の新入生の一人は茅ヶ崎に家があり、そこから吉川まで通うことになっている。片道2時間はかかる。O姉も10月からつくばの自宅通学に切り換えた。つくばから毎日通うことも容易ではない。以前は、ある事情で静岡県の掛川から新幹線で通った学生もあった。東京聖書学校は小さいけれども、ちょっと他に例を見ない学校である。
もう一つは男女比の問題である。新年度は全科聴講生も含めて17名となるが、男女比は11対6である。今までは半々くらいが多かったが、男子がやや増えてきたことは良い傾向ではないかと思う。というのは、決して女性差別で言うのではないが、女性教職の無任所教師が多くなっている現実がある。せっかく教団の教師になっても、女性であるゆえに迎えてくれる教会が少ないのである。まだまだ日本の教会においては、女性教職のハンディーは大きいと言わねばならない。これは神学校にとっても大きな課題で、最善を尽くすとしても卒業後のことまで責任負いますとは言い難いのである。
小さなホ群(ホーリネスの群れ)が神学校を運営していることは驚くべきことで、教団全体でも注目され、ホ群外の教会からも献身者が次々と送られており、また、卒業生を欲しいという声も多くなっている。聖書学校の使命は大きい。
”東京聖書学校” 埼玉県吉川市にある日本基督教団の認可神学校。島隆三牧師が校長です。
2003年3月2日
ケズィック・コンベンション
第42回を迎えた日本ケズィック・コンベンションに今年も聖書学校の学生達と参加を許されて感謝であった。ケズィックというのは英国の地名で、湖のある美しい所と聞いているが、そこで百年以上前に開かれた聖会が今日まで続けられており、40年ほど前にその本場のケズィックを訪れた金井為一郎、小原十三司師らが祈りを合わせて始めたのが今日の箱根のコンベンションである。超教派で霊の恵みを慕い求める多くの人々が、このコンベンションで養われてきた。初めの頃は、日本基督教団からの出席者が一番多かったが(尤も淀橋教会だけで百名近い参加者)最近は参加者の幅がやや狭くなってきているのを感じる。それでも、今年も五百名近い兄姉が出席した。
ケズィックの説教集は何冊もまとめられているが、百年を超えて語り継がれてきたメッセージは基本的に変っていない。すなわち、聖書的かつ霊的なメッセージで、それは説教者の信仰と人格を通して語られるものである。本場の英国にも日本にも、このコンベンションを主催する委員会があり、説教者の選定は委員会で慎重になされると聞く。ケズィックの精神をよく知り、その信仰に生きている人々が選ばれる。日本のケズィックの育ての親と言われたパウロ・リース師は、20回来日してご用された。バイブル・リーディングでは、師の右に出る人はないとまで言われた。実に深い、味わい深い聖書の説きあかしであった。
懐かしいリース、ダンカン師らは世を去り、その後を継いだオルフォード師も高齢になられた。今年は、R・エイメス、T・レンドル両師が主講師であったが、レンドル師は初めて、エイメス師も二度目で、共に新鮮な印象を受けた。お二人とも英国で育った方で、日本と英国とは共に島国であり、お話を聴いていて相通ずるものがあるのを感じた。