週報短文
バックナンバー 2003年4月分
2003年4月27日
だぶだぶの洋服
カトリック作家の遠藤周作さんが、自分は母に連れられて教会に行き、12歳の時に友達と一緒に洗礼を受けた。だから、よくわからないままに、だぶだぶの洋服を着せられたようなもので、その洋服を着こなすのに苦労したという意味のことを書いておられる。
それは遠藤周作ばかりでなく、日本人のクリスチャンは大体そうではなかろうか。昔はキリスト教はバタ臭いなどと言われたが、キリスト教は欧米のものだった。今日でこそ、韓国をはじめキリスト教はアジアにも定着してきたが、日本人の日常性から遠いものであった。だから、キリスト教の土着化ははじめから叫ばれていたのだ。プロテスタントが日本に来て140年余り、どれだけ日本人の感覚にマッチしたものとなったであろうか。
過日、他界されたK兄は演歌などを歌いながらキリスト教を伝えようとした人だが、それがどこまで達成できたかはわからない。
だぶだぶの洋服といえば、牧師が説教することもそうだ。説教は聖書を語らねばならない。しかし、はたしてどこまで自分の言葉で聖書を語ることができるか、これは説教者の一生の課題である。無理をしないで、自分で語れることを語ればよいのだと言うかもしれないが、それが果たして聖書を正しく語ることになるかどうかは別の問題だ。だから、我々はいつも聖書から問われ続けている。
しかし、もう少し根本的に言えば、キリスト教自体が、我々の理解を超えているということである。神のことを我々人間がどこまで理解できるだろうか。我々の理解を超えている神との関わりをあえて問題にするのがキリスト教である。はじめからだぶだぶの洋服なのだ。それを上手に着こなすことができると考えること自体が不遜とも言える。
だぶだぶの洋服とは今の場合キリスト教のことだが、聖書は「イエス・キリストを着なさい」という。(ローマ13・14)いかがか?
2003年4月20日
基本が大事
イースターの朝を迎えた。復活節と共に、礼拝堂に新しいピアノが来た。このピアノで復活の主を力一杯賛美したい。
新しいピアノは、過日召天されたK兄の記念のピアノである。兄は歌手でもあった。兄の詩に作曲されたM.E氏推薦のピアノだそうである。
一階には先にI姉から寄贈されたピアノがあり、これで教会のピアノは三台になった。どなたか、ピアノ教室を始めてはいかがであろうか。
昔話で恐縮だが、私は中学三年のとき音楽の先生から、一年間学校のピアノで練習する許しを得て、バイエルからチェルニー30番まで練習した。朝、一時間早く登校して練習した。時たま、昼休みに先生に見てもらったが、間違っているとき以外は特に注意はなかった。それで、私の弾き方はすっかり我流になってしまった。専門家になるわけでもないので、先生は厳しくしなかったのだろう。
大学の三年の時、一念発起して近所にお住まいの大学の先生にピアノを習った。この先生は基本から手ほどきして下さり、なる程、ピアノを弾くとはそういうことかと目から鱗が落ちる思いであった。しかし、実験が忙しくなって、半年ほどしか続かなかった。もっと早くこの先生から習っていたら、今とはかなり違っていたのではないか。
何事も基本が大事だと思う。
信仰もそうだ。初めにしっかり罪の悔改めをして、イエス・キリストによって新しくされるところから出発した人は、その後の人生に紆余曲折があっても、一本筋の通った信仰生活を送ることができる。私の場合、クリスチャンホームに育った甘えがあり、信仰のスタートが曖昧であったから、後で苦労した。しかし、今はそれも意味があったと思っている。私にとってピアノは趣味に過ぎないが、信仰は命がかかっているから重大だ。
2003年4月13日
酔いか狂気か
ある雑誌に面白いことが出ていました。それは、酒に強い人を酒豪と言いますが、英語で酒豪のことをa hard drinker というのだそうです。つまり強い酒を飲む人という程の言い方です。ところが、「飲んだくれ」となるとa drunkardと言って、もはや酒を飲まされている(受身)状態、もっと言えば、酒が人を飲む状態だというのです。つまり、酒も自分が主体的に飲んでいる間はまだコントロールが可能だが、その境界線を越えてしまうと、もう何がなんだかわからなくなって、酒を飲んでいるというより、酒に飲まれているという状態になるという。ここに酒の怖さがあります。
わたしたちの教会では毎週火曜日の夜に、アルコール中毒と戦っている方々が集まって、酒に負けない生活ができるように互いに励まし合っています。
ところが、エレミヤ記に出てくる「酔い」は酒に酔うだけではなく、情欲に酔う場合にも用いられているというのです。セックスや暴力、他者への憎しみ、被害妄想等、今日の社会にもそのような恐ろしい「酔い」が至るところに顔を出しています。それがテロや戦争という恐ろしい結果を産む事にもつながります。それは酔いか狂気か、とにかく人間の理性がコントロールできない世界であることを思わせられます。
しかし、わたしたちの希望は神にあります。神は望みのない世界に、イエス・キリストをお与え下さって、イエス・キリストの福音によって人間を正気に返らせ、人間の弱さや罪を越えて「神の国」を実現させようとしておられるのです。この神の可能性を信じないと、私たちは虚無に陥り、この世に絶望してしまうのではないでしょうか。
戦争の悲惨は続き、家庭の悲劇も絶えません。しかし、「神は生きておられる!」と証し続けようではありませんか。
2003年4月6日
三 つ
桜が満開となり、入学式、入園式、あるいは入社式が行われて、春爛漫というところ。
教会の暦では、次週が主のご受難週、そして20日にイースターを迎える大事な時です。ホーリネスの群では1〜3日に年会が開かれ、今年も多くの教師たちが新しい任地へ遣わされて行きました。「見よ、世のおわりまで、わたしはいつもあなたがたと共にいる」という主の約束の言葉と共に。
クリスマスは「神、我らと共に」(インマヌエル)が実現した出来事であり、十字架と復活は「我等のために」、そしてペンテコステは「我らの内に」という神の業がなされた時です。わたしたちの救いのために、どの一つも欠くことはできません。
年会聖会では、「わたしは道であり、真理であり、命である」(ヨハネ14・6)から、ウェスレーの道、真理、命という三要素について語りました。今年はウェスレー生誕300年の年に当たり、それを意識して語ったのですが、ウェスレーの場合もこの三要素がバランスよく備わっていた故に、後世に大きな影響を与えることができたのだと思います。
聖書には「信仰と希望と愛」、「律法、預言書、諸書」(旧約聖書の三区分)というように、三の数字に関するものが多いですね。何よりもわたしたちの信じる神は三位一体の神です。そして、われらの主は、祭司、預言者、王です。これが、道、真理、命に対応するとバックストン先生は語っています。
人間はとかく一面的になりやすいと思います。一つの面からだけでなく、こちらからもあちらからも見る必要があるでしょう。それでも私たちは独善的になりやすいので、最低二人のアドバイスを受けることが必要だと思います。私も独善的傾向があるので、せめて静江牧師と金田牧師には相談するように致します。聖書にも「三つよりの糸は切れにくい」(コヘレト4・12)とあります。