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週報短文

バックナンバー 2004年2月分


2004年2月29日

権威の問題

 第43回日本ケズィックコンベンションが箱根で開かれた。今年の主講師はおなじみのS・オルフォード師とR・ブラウン師であったが、両師とも御高齢でオルフォード師に至っては86歳、かくしゃくとして力強いご用をされた。しかし、私のかねてからの持論は、いつまでも外国の講師に頼らないで、早く日本人講師を立てるべきではないかということであった。事実、今回の聖会でも二回の早天聖会と午後の聖会(青年と壮年)には4人の日本人講師が立てられたが、いずれも印象に残るすばらしいメッセージであった。
 しかし、最後の聖会でオルフォード師の説教を聴きながら、何か、日本人講師と一味違うものを感じた。それは何だろうか。私なりに分析して見ると、圧倒的な上よりの権威である。日本人講師は大体私たちのよく知っている方々で、親しみを感じる反面、どうしても人間的な面が強くなる。ここが難しいところで、説教者がはるか雲上の人間ではその説教は届かないし、かといって余りに身近かになると主イエスでさえ、故郷のナザレでは人々に受け入れられなかった。「大工ヨセフの息子だ」という仲間意識で見られたからであろう。
 説教は人間が語るが、実は説教者は管に過ぎない。説教者を通して神が語られることに説教固有の意義がある。その点で、海外の講師には確かに権威がある。本人もそれを深く自覚して語っておられるに相違ない。日本人講師にはそれがないとは言わないが、弱いのではないか。聴く側にも、その信仰が足りない。語る者と聴く者との双方の問題である。
 これは日本の教会の現状と関わる。説教は説教者とその教会から生れるものだ。その点、昔のメソジストやホーリネス教会には、巡回伝道者がいた。ウェスレーや中田重治などは生涯巡回伝道を使命とした人たちだ。彼らには、牧会に専念する牧師達にはない権威があったのではないか。それはただ上から遣わされたという意識からくる権威であったと思う。

2004年2月22日

疑いとの戦い

 東京聖書学校の西海静雄舎監が入院中は、教師たちが交代で寮に泊まり、早天のご用を続けて来たが、私は先週で今年度の宿泊を終えた。早天は毎日「アパルーム」に従って守っているが、20日は、信仰に疑いが生じた時、どこで神のいますことを確認するかがテーマであった。「アパルーム」には、「親切な言葉、犠牲的な贈り物、助力の申し出など、あらゆる愛の表現の中に、神が生きておられ、私たちの周りの至る所で働いておられることが見えます」という実践的な解決が示されている。
 「キリスト教信仰は90%の疑いと10%の信頼である」と言った人があるが、信仰は不信仰との戦いである。疑いがないのではないが、疑いの中でも敢えて「信じます」と信仰に立つことが大事である。
 神が生きておられることが信じられなくなると、私たちの足場が根本から崩れることを経験する。それは恐ろしい瞬間である。私たちは「聖書正典の信仰」に立っているが、この点で渡辺善太師の貢献は大きい。師は、ホーリネス教会で救われたが、後に素朴な聖書信仰を失って苦しんだ。しかし、新しく聖書を読みなおして聖書正典の信仰に立つことが出来た。それは知的、神学的闘いであったが、それを内側から支えたのがホーリネス教会で与えられた恵みの体験であったと師が証している。
 ホーリネス教会はジョン・ウェスレーの信仰を受け継いでいるが、ジョンの父、サムエルの最後に遺した言葉は「息子よ、内なる証、これこそがキリスト教の最強の証明だ」であった。これは、キリスト者個人が心の内に持つべき霊的な経験である。渡辺善太師も、これを内に持ち続けておられたのだろう。それが、知的、神学的戦いを支えたのだ。
 以上、疑いに勝利する三つの道があることを簡単に示した。第一は知的、第二は霊的、そして、第三は実践的な道(愛)である。
 「信じます。信仰のないわたしをお助けください」(マルコ9章)の叫びが大事だ。


「アパルーム」  全世界各国で発行されている黙想のための小冊子です。
「渡辺善太」(1885-1978) 聖書正典論を主唱し神学教育者として多くの伝道者を育てました。東京聖書学校では聖書正典論の学びがあります。

2004年2月15日

献身満39年

 今年も2月14日を迎えて、献身満39年となった。札幌の母教会の伊藤馨牧師が召されたのが2月14日、伝道旅行の旅先での召天であった。私の大学三年の時で、その後仙台に就職して一年足らずの1965年2月14日、日曜の朝、中島代作牧師夫人ヤス師が突然天に召された。偶然と言えばそれまでだが、「お前はどうするのか?」という神の問いかけに思われ、祈って献身を決意した。与えられたみ言葉はヨハネ12・26、ロマ1・14であった。
 しかし、神学校に行く道が拓かれず、中島師の勧めにより日本基督教団の補教師検定試験を3年かけて受験するという、いわゆるCコースで資格を取り、東京聖書学校の男子寮に半年お世話になった後、中野区の更生教会に伝道師として迎えられたのが1969年春であった。同教会に15年、香港JCFに6年、そして西川口にきて14年が過ぎようとしている。この区切りの年に過去39年の献身の歩みを振り返って、神の約束は真実であると言わざるを得ない。
 香港在任中は、東南アジアのJCFを訪ね、インドネシアでは宣教師の通訳によって現地の人々にもみ言葉を語ることを許され、特に電気も水道もない田舎の家庭集会や、T医師を訪ねた北スラベシのアムランへの宣教旅行など忘れることができない。先に与えられたロマ1・14(ギリシヤ人にも未開の人にも負債がある)が文字通り実現するなど夢にも思わなかった。また、長く東京聖書学校に関わって、伝道者養成の重い務めの一端を担うことを許されたことも大きな喜びであった。これも、先のヨハネ12・26の約束の成就と受けとめている。足りないこと、神様に申し訳ないことは山ほどあったが、39年の歩みを振り返って、米田豊師の次の言葉を思い起こす。
「過去を思えば感謝、現在は平安、将来に対しては信頼あるのみ」。さらに、「命のある限り、恵みと慈しみはいつもわたしを追う」(詩23編)。そして、使徒パウロと共に「神の恵みによって今日のわたしがあるのです。」ハレルヤ

2004年2月8日

西海師の闘病記

 先月末に半年振りで退院された西海静雄(にしがい・しずお)先生の闘病記「生還の軌跡」が発行されました。まさに奇蹟の生還です。先生は「骨髄異形成症候群」という白血病に近い難病に罹り、治癒は極めて困難と医師から宣告されました。その宣告を冷静に受けとめ、いつ主のみもとに召されても良いという覚悟を決めて心は平安そのものでした。ところが、満希子先生がアシュラムの友から東京女子医大病院のM医師を紹介され、早速連絡をとると、M先生は治療の可能性を示されました。それは骨髄ミニ移植です。しかし、骨髄が適合する人がいるかどうかが問題です。まずきょうだいの骨髄を調べてみたら、お兄さんの骨髄が百パーセント適合することが判りました。しかし医療的には、移植ができるかできないかのぎりぎりのところでした。高熱が続く中、移植に踏み切るかどうか、いつそれをするかの決断は本人に委ねられました。先生も満希子夫人もしっかり信仰に立って冷静に対処し、ついに移植を行なって、お兄さんの細胞が先生に生着するまでがこの本のクライマックスでしょう。ひとつ間違えば天国というところでしたが、文字通り奇蹟の生還をなしとげました。医者にも「西海さんには神さまがついているから」と言わせるほどでした。
 この記録を読んで、人の命の不思議さをつくづく思わされました。同室の方が無念の思いの中、入院一ヶ月で他界されましたが、同じように西海先生が召されても何の不思議もないでしょう。しかし、先生が生かされたのは、なお果たすべき使命があったからです。私たちにはまだよく分からない点も多くありますが、先生ご自身が「確かにこの入院を通して霊的に覚醒した面があります」と記しておられるように、新しい人となって今までとは一味違った奉仕をされるのではないでしょうか。
 この記録を読んで、「ラザロの復活」を思い起こす方があるかもしれません。しかし、私はむしろ主イエスの復活を思いました。復活の力が先生の内にも働かれたのです。ハレルヤ!

※西海静雄先生は、同じ埼玉地区の吉川教会の牧師です。島牧師が校長をしている東京聖書学校の舎監でもあります。退院されましたが、なお治療は続いています。皆で祈っています。

2004年2月1日

大 阪 へ

 久し振りに大阪へ行って来ました。日本と韓国と台湾の三ヶ国の神学校連合会の総会とシンポジュームにF師と共に参加するためでした。こちらの委員会を終えて大急ぎで直行しましたが、すでに歓迎会が始まっていて、四十名余りの参加者の自己紹介が行われていました。すぐに我々の番が回ってきて、「日本基督教団に属するホーリネスの群の東京聖書学校から・・・」の「ユナイテド チャーチ」を「ユナイテド ステーツ(合衆国)」と言ってしまって、アメリカの宣教師が目を白黒していました。私の英語はその程度なので、英語漬けの会議とシンポジュームは大変でした。しかし、F先生との二人三脚だったので、心強く、楽しい旅となりました。一人では半人前、二人で三人前とは言い過ぎでしょうか。
 珍しい方にお会いしました。
 その1。D先生。東北学院の教授で、教会史の権威のお一人ですが、1968年春の東北教区総会で私が補強師の准允を受けた時、先生は正教師の按手を受けられたのです。お会いしたのはその時以来ではなかったでしょうか。自分のことを棚に上げると、先生も随分お歳を召されたと思いました。ご挨拶したら先生も覚えていてくださって、懐かしそうに30数年前のことを語られました。
 その2。T先生。T先生は参加者の紅一点で、貴重な存在でした。もちろん日本人ですが韓国の神学校からの代表で、シカゴの三一神学校で勉強され、現在は同校の韓国の分校で教えておられるとのことでした。私たちが数年前にシカゴを訪れて、A師の案内で三一神学校を見せていただいた頃在学しておられた由で、「何人かの日本人が学んでいます」と聞いたそのお一人であったことが分かりました。私たちと関係の深い葛原千秋師のシカゴレーキサイド教会でも何度もご用をされたと伺って、ますます身近かに感じました。きれいな英語でご自分の考えをはっきり述べられる貴重な日本人のお一人でした。


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