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週報短文

バックナンバー 2005年3月分


2005年3月27日

死者の中からの復活

 主の復活ハレルヤ! イースターおめでとうございます。
 イースターは、イエス・キリストの復活を記念する復活祭のことです。教会で最も古い祝日です。イースターは3月22日〜4月25日の期間を移動する移動祝祭日です。325年のニケア公会議において「春分の次の満月のすぐ後の日曜日」と決められました。それ以前は、ユダヤ教の過越しの祭りとともに祝われてきました。イエスが最後の晩餐を行ったのが、過越しの祭りのときであったことに由来すると考えられます。
 イースターは、その日だけを祝うのではありません。40日前の灰の水曜日から始まるレント(受難節)があり、その最後になる受難週では、主イエスの十字架への道行きを特に思い巡らします。そして、イエス・キリストの復活をほめたたえるイースターの朝を迎えるのです。
 今年のレントは、教会アシュラムに向かって祈りを深めていましたが、そのただ中で、思いがけずS兄が天に召されました(3月11日召天)。西川口教会で葬儀が営まれ、多くのご親族・知人友人、兄姉が集いました。ご遺族に主の慰めを心から祈ります。S兄の愛唱聖句は、「神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです」(フィリピ3・14)でしたので、ここから、葬儀説教を語らせていただきました。
 フィリピ3章で、パウロは「キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださる」(21節)と語り、その少し前の箇所では、「キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したい」(10〜11節)と語っています。
 キリストは死者の中から復活されました。この事実により、信仰者は死からの復活が約束されています。同時に信仰者は、この約束が成就する時まで、日々キリストの復活の力(福音・神の愛)を追い求めつつ、主と共に走るのです。

2005年3月20日

「先立つ主イエスに身を委ねて」

 3月13日〜14日の第29回西川口教会アシュラムには、村瀬俊夫先生(日本長老教会教師)をお迎えしました。アシュラムの主題聖句は「愛を追い求めなさい」(コリントT14章1節)でした。奉仕者の村瀬俊夫先生は、福音が服を着て歩いているような方でした。先生にとって、福音に生きるとは、息をするようにごくごく自然なことのようでした。驚きました。
 オリエンテーションでは神の愛を説き明かしてくださいました。「聖霊のあらゆる賜物があるが、最高の賜物は愛である。愛は、@すべてのクリスチャンに与えられ、A他の賜物をすべて生かす(逆に、愛がなければ他のさまざまな賜物が役に立たなくなる)。愛の特色を御言葉から二つ挙げると、@愛は忍耐強い(寛容である)、A愛は情け深い(親切である)。それは、@赦す心があること。わたしを赦してくださる方がいるから、相手の存在を無条件に受け入れられる。A自分がしてあげたいことではなく、相手がして欲しいことをすること。『神の言葉を聴く』とは、福音を聴くこと、それは、イエス様の愛を体で受け取ること。頭だけでなく、心だけでなく、体で知り、体で感じること。静聴とは、イエス様の愛を全身で受けとめること。それには、まずイエス様に心を開かなければならない。イエス様は日々新たに語ってくださる。『あなたの罪は赦されている』、『わたしはあなたを喜ぶ』、『あなたは愛されている』と。」
 日曜日の早天祈祷会では、「信仰とは神の愛を喜んで受けること。自分のプライドや誇りが、神の愛を受ける妨げになる」と語られました。
 生き生きと神の愛を説く村瀬先生を通して、福音の力がわたしたちに注がれました。そして目標が与えられました。御言葉を頭でも心でも聴いていたけれど、体全体で聴くには至っていなかった。体で受け取ることを経験したい。主に求めます。年度末にアシュラムを通して恵みを与え、先立って教会を導かれる主を賛美します。

2005年3月6日

「たゆまず祈りなさい」(ローマ12・12)

 「朝祷」誌(朝祷会全国連合事務局発行)第925号(2005年2月1日)のコピーをたまたま入手しました。巻頭言は、仙台青葉荘教会の島隆三牧師でありました。このメッセージを読ませるため、わたしの手元に届いたのだと、神のご配慮に感謝しました。教会アシュラムも目前です。そのことも覚えながら、島先生の文章の一部ですが、ご紹介します。

 「たゆまず祈りなさい」と使徒パウロは勧めているが、30年、40年祈り続けることは決して容易ではない。・・・祈りを優先順位の第一に置かなければ、とうてい祈り続けることはできない。・・・今は何でも横並びの時代で、隣の人と自らを比べる。教会の中でも、隣の人を見て、自分もこの程度と決めていく。しかし、聖書は、「神にならえ」「キリストにならえ」「使徒にならえ」と高い標準を示している。隣の人が規準になると、知らず知らずレベルが落ちていく。だから、聖書が標準とならねばならない。
 仙台青葉荘教会は、わたしの第二の母教会で、久しぶりにここに戻ってきて、この教会が「祈りの教会」であることに大きな喜びを覚えた。・・・かつてホーリネス教会への弾圧が起こった時も、牧師は投獄されたが、信徒たちが自主的に集まって熱心に祈り続けた教会だ。この祈りの伝統が生きていることを感じて、胸が熱くなるのを覚えた。
 朝祷会の皆さんにお願いしたいことは、日本の教会が聖書の標準を回復するように、そして、日本のリバイバルのために祈っていただきたいことである。
 かつて、アシュラム運動を指導された榎本保郎師が、アシュラムが不必要になるほどに日本の教会に祈りの生活が日常化することが、アシュラムの目的だという意味のことをいわれた。朝祷会も、同様のことが言えるかもしれない。・・・その日が来るまで、どうか「たゆまず祈り続ける群れ」であっていただきたいと切に願う者である。 


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