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週報短文


バックナンバー 2005年11月分


2005年11月27日

「見よ、主の家族が共に集まる」

 今日からアドベント(待降節)。
 今年のクリスマスは、詩編133編1節の御言葉を主題聖句に掲げました。ところで、讃美歌21の161番はイスラエル民謡で同じ詩編133編の賛美です。「見よ、主の家族が共に集まる。なんと大きなみ恵みよ。なんと大きな喜びよ」。御言葉のように、主に結ばれている一人ひとり、教会につながっている一人ひとりが共に集まりたい。そこには恵みがあり、喜びがあります。わたしたちの身近な方々、地域の方々をお迎えして、共に喜びを分かち合いたい。神の家族としてクリスマスを祝いたい。そう願っています。
 主イエスの降誕を祝うクリスマス。主イエスも生れた時は赤ちゃんでした。本当に赤ちゃんはかわいいですね! 赤ちゃんには皆が集まってくる。赤ちゃんを囲んで皆が喜びに包まれます。見ているわたしたちに笑みがあふれます。とがった心も丸くなります。大切に抱かなければなりません。そのように主をお迎えし、主イエスを中心に喜びに導かれるクリスマスでありますように。
 いよいよ「クリスマスの夕べ」が12月2日金曜日に行われます。県南四市牧師会で祈り備えてきました。なお祈ります。座席が満たされ、奉仕者が尊く用いられ、交わりと伝道が祝福されますように。各教会の宣教が励まされますように。
 一般礼拝では、昨年に引き続き平和を祈り、特別賛美をささげます。12月18日の夕拝にはゴスペルJOINの賛美、12月24日の夜には川口市民合唱団のクリスマスコンサートです。これらのゲストを迎える集会のために、さらに祈ってください。そして家族や友人をお誘いして、ぜひ歌を楽しんでください。また、今年の新しい試みとしては、青年会がクリスマス祝会を担当します。温かく見守り背後でサポートし、喜んで彼らに協力してください。
 クリスマスは、「あなたは一人ぼっちじゃない」という神のメッセージが訪れる時です。

2005年11月20日

創立55周年記念礼拝をささげて

 先週の主日は、西川口教会創立55周年記念礼拝をささげました。わたしたちの祈りと労苦を主は受けとめてくださいました。一方で、多くのとりなしの祈りがあったことを感じました。主がご存知です。久しぶりの方も加えられて共に礼拝をささげられましたことは、大きな喜びでした。
 賛美礼拝での説教「神を喜ぶ人生」で、横山先生の信仰のルーツをわたしは先生の口から初めて聞きました。特におじいさまの回心の証は、高齢の父がいますので励ましをいただきました。一般礼拝では「わたしにつながっていなさい」と題して、ご自身の証を通し、御言葉を通して、主イエス・キリストにとどまるところに、豊かに実を結ぶ人生があるのだ、と希望を示されました。
 礼拝後の愛餐会では、参加者から横山先生や静子先生(牧師夫人)のエピソードを分かち合っていただきました。まるで昨日のことのように語られて心温まる思いがしました。最もつらい時、最も大変に思えた時にこそ、慰めと励ましは心に大きく届くのだと感じました。
 信仰の目は、過去に恵みを見出し、将来に希望を見ます。信仰によって、今このときを充分に生きることができます。聖書の示す神は、歴史を興され、導かれる方です。聖書は、神の救いの歴史とご計画の書物です。その神のご計画に西川口教会も仕えています。わたしたちが教会創立を記念するのは、ただ「良かった良かった」というのではなく、今生きて働かれる神にこの信仰を告白する決意でもあります。
 使徒言行録13章にこのような御言葉があります。「ダビデは、彼の時代に神の計画に仕えた後、眠りについて・・・」(36節)。ダビデはダビデの時代に神の計画に仕えました。わたしたちはわたしたちの時代に神の計画に仕えます。そのために、それぞれが主に呼ばれ教会の部分となりました。主の再臨を待ち望みつつ、一日一日、主に仕える西川口教会(わたしたち)でありますように。

2005年11月13日

神の導き―創立記念礼拝―

 本日は、敬愛する横山義孝師(東京新生教会)をお迎えして、西川口教会創立55周年記念礼拝をささげることができ神に感謝いたします。
 先週は、月曜日から水曜日までホーリネスの群れの教職信徒共同セミナーが開催されました。わたしは行く予定にはしていませんでしたが、川崎理子先生(名古屋西教会)がお声をかけてくださり、火曜夜は島隆三先生(仙台青葉荘教会)の説教だと知り、その聖会だけ参加しました。
 久しぶりの島先生の説教を懐かしく聞きました。「神に近づこう」と題し、ヘブライ人への手紙10章19節〜25節からでした。説教の要約は書きませんが、「真心から神に近づこう」(22節)が心に留まりました。御言葉は「神に近づこう」とわたしたちを招き、励まします。
 わたしは「神は共にいてくださる」と、よく口にします。神は共にいてくださる。これも恵みの事実の一面です。一方で、わたしたちが神に近づける恵み、神は、わたしたちが立ち上がりご自身に近づくのを待っておられる、その恵みを新たに感動をもって覚えました。
 島静江先生からも先日の応援伝道のお礼や感想を伺い、楽しいひと時を持ちました。また横山義孝先生に、本日のことでご挨拶をしました。横山先生が真剣に祈ってくださっているのを肌で感じました。さらに、三枝道也・育代先生(丸の内教会)にもお目にかかり近況などお伝えしました。期せずして、西川口教会に仕えてくださった先生方との交わりを与えられました。
 歴代の先生方はそれぞれ個性も賜物も異なりましたが、神に近づいておられた、「神に近づこう」と招いてくださった、と思わされました。すべてが神の導きのもとにあり、この教会は今日まで守られました。「あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています」(フィリピ1・6)。アーメン。


2005年11月6日

いのちより大切なもの

 「わたしはもう死んでもよい。お前がまだ生きていて、お前の顔を見ることができたのだから。」(創世記46・30)
 これは、息子ヨセフに約20年ぶりに再会した父イスラエル(ヤコブ)の言葉です。ヨセフは兄弟の中で一番父に愛されていました。彼をねたんだ兄たちはヨセフを砂漠の商人に売り渡そうと謀り、父には彼の着物に動物の血をつけて「ヨセフは死んだ」と欺きました。それ以来ヤコブは悲嘆にくれ、慰めを拒んで生きてきました。しかし、神の不思議な導きのもとヨセフは生きており、父との再会が実現したのでした。(詳しくは創世記をお読みください。)
 なぜヨセフ物語か。先週火曜日の県南四市牧師会で、発題を担当された先生が、「わたしは毎週の礼拝をこのような思いでささげます」とおっしゃったからです(テーマは「豊かな礼拝、その一考察」)。牧師会は毎回礼拝を持って始まりますが、礼拝の聖書が創世記のこの箇所でした。それを引用されたのです。いったいどういうことか。先生は続けます。「礼拝で神に出会う。礼拝において神の臨在にふれたなら、もう死んでもいいと思う。礼拝とはそういうものでしょう。わたしはいつも、これが地上で最後の礼拝だと思ってささげ、御言葉を語っています」。わたしは目の覚めるような思いがしました。「礼拝こそ宣教であり、神の臨在に触れ、人は救われる」と明確に語り、具体的な取り組みを紹介してくださいました。
 無意識のうちに安易に流れている自分に気づかされました。礼拝において神を仰ぎ、平安を与えられ、生きて働かれる神を体験しています。しかし、安心して死ねるとか、今日が地上で最後の礼拝かもしれない、という緊張感がありません。召天者合同記念礼拝に先立って、気づかせてくださった神に感謝します。いのちの源は神であられる。わたしたちの生は神の御手の内にある。主日礼拝(子供礼拝、賛美礼拝、一般礼拝、夕拝)において、神の臨在が満ちあふれますように。

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