トップページへ戻る週報短文へ戻る

週報短文

バックナンバー 2006年 3月分


2006年 3月26日

「喜びと重荷を分かち合おう!」

 
 3月21日、上尾合同教会を会場として、2006年度の埼玉地区総会が開催されました。
 開会礼拝の説教者は越谷教会の石橋秀雄牧師でした。「恵み、溢れ出す」と題して、コリントの信徒への手紙二第8章2節「彼らは苦しみによる激しい試練を受けていたのに、その満ち満ちた喜びと極度の貧しさがあふれ出て、人に惜しまず施す豊かさとなったということです」を引いて、新潟中越地震被災教会再建支援募金の現状を紹介し、この御言葉のように、試練が神の恵みの豊かさとなっている諸教会の証をされました。
 総会の重要な議案の一つは地区委員選挙でした。選挙の結果、教職から竹内紹一郎牧師(深谷西島)・飯野敏明牧師(本庄)・田中かおる牧師(安行)、信徒から阿久澤紀雄さん(安行)、石川幸男さん(大宮)が新委員として選出されました。留任は 山岡創牧師(坂戸いずみ)、深見祥弘牧師(東所沢)、金田佐久子(西川口)、豊川昭夫さん(越谷)、アンダーソン礼子さん(埼大通り)です。最上光宏地区委員長(浦和東)と新年度の地区委員会を構成します。
各常設委員会・各特設委員会・各部等の報告、地区宣教活動計画、桶川伝道所支援、災害に対する対応、新潟中越地震被災教会支援、地区一般会計予算などの議案が出され、可決されました。
 2006年度の地区宣教活動計画の主題は、昨年に引き続き「喜びと重荷を分かち合おう!」です。聖句は「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。」(コリント一12・26) 。「地区活動の主たる目的は、各個教会・伝道所の主体性を尊重しつつ、互いに連帯し、協力し合い、共に成長することにあると思います。ますます伝道の困難な状況の中で、それぞれの教会・伝道所はさまざまな課題をかかえて苦闘しています。互いに祈り合い、励まし合って、同じ埼玉の地における共同の宣教の使命を共に果たしていきたいと願っています。」(総会議案書より)


2006年 3月19日

「ただ一つのことを」

  3月11日〜12日と、第30回西川口教会アシュラムが恵みの内に終わり、神に感謝します。昨年のアシュラムでもそれぞれが日々の祈りにファミリー(小グループ)を覚えましたが、今年はファミリーで集まる機会をもち、互いに励まし合い、祈ることができるようにしたい。また今回アシュラムに参加できなかった方々も共に加われるように工夫したいと思います。
 さて、アシュラムを終えた12日の夕拝は、柏神学生の最後の説教奉仕がありましたので、大勢の方と共にささげました。説教では、今年の第45回ケズィック・コンベンション、日本人講師のお一人、久保木師のメッセージ「ただ一つのことを」を交えて、御言葉が説き明かされました。
 初めに、ヨハネによる福音書9章25節より、「ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです」。証とは、このようにキリストがわたしになされたこと、その事実を語ることですね。
 次にルカによる福音書10章42節、「しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない」。イエスの足元で、その声に全身で聞き入っていたマリア。主イエスはマリアの選択を喜ばれました。
 第三に、フィリピの信徒への手紙3章13節〜14節より。「兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです」
 「ただ一つ」知っていること・必要なこと・なすべきことが示されて、わたしの心に思い起こされたのは、「ただ一つ求めること」でした。それはアシュラムの目指すところでもあります。「ひとつのことを主に願い、それだけを求めよう。命のある限り、主の家に宿り、主を仰ぎ望んで喜びを得、その宮で朝を迎えることを。」(詩編27・4)


2006年 3月12日

神の愛を体得するまで

 今年も、村瀬俊夫先生を教会アシュラムの講師に迎えることができ、感謝です。村瀬先生は月刊で個人誌「西東京だより」を編集発行しておられます。昨年のアシュラムより、わたしも愛読者の一人になりました。巻頭言は「聖句黙想」ですが、今月号(第23号)は西川口教会アシュラムのため、ローマ5章8節の黙想が書かれています。
 さて昨年の教会アシュラムでわたしの中に問いがわきました。それは村瀬先生が「福音を体で聴く。神の愛を全身で受けとる」とおっしゃったことがきっかけです。思わず「心で聴くのではないのですか。体ですか」と聞き返しました。村瀬先生は「当然でしょう」というお顔でした。それ以来文字通り「体で」聴くとはどういうことかが問いとなり、またさらに問いが拡がって身体性への思いを深めています。先月の打合せの時にもわたしがしつこく尋ねたので、そのことを覚えてくださったのでしょう。「西東京だより」の巻頭言の一部を紹介します。
 “・・・私たちが神の愛を知り、その愛を深く味わうためには、イエス・キリストを知らなければなりません。「知る」と言っても、ただ頭で理解するだけでは足りません。心で理解することは、頭で理解するだけよりも少しはましに思えますが、心は変わりやすいのでそれほど当てにはなりません。頭で理解していることも、心で感動していることも、いつか忘れ去られてしまうでしょう。せっかくイエス・キリストを知り、その愛を心で感じても、それが忘れ去られては何にもなりません。・・・ 「わたしたちに与えられた聖霊によって神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」(ローマ5・5)・・・。私たちの心に注がれている神の愛は、私たちの全身にみなぎります。したがって、私たちは神の愛を全身に感じるようになり、まさに神の愛を体得する者とされるのです。聖霊は、イエス・キリストのものを受け、それを余すところなく知らせてくださいます。聖霊によって注がれた神の愛は、同時に、イエス・キリストの愛でもあるのです。・・・”


2006年 3月 5日

御言葉をたくわえる

 先週の主日は玉井邦美先生をお迎えし、一般礼拝・礼拝スタッフ研修会で養われました。神に感謝です。先生の説教より信仰のチャレンジと共に、新たな思いを与えられたことがありました。
 まずはカレブに倣って「85歳まで健やかに」ですね。カレブの信仰の告白を受けています。「御覧ください。主がモーセにこの約束をなさって以来四十五年、イスラエルがなお荒れ野を旅した間、主は約束どおりわたしを生き永らえさせてくださいました。今日わたしは八十五歳ですが、今なお健やかです。モーセの使いをしたあのころも今も変わりなく、戦争でも、日常の務めでもする力があります」(ヨシュア記14章10〜11節)。
 この御言葉から、カレブは40歳のとき約束を受けたことがわかります。実はわたしも今年の誕生日で40歳になります。そういう意味で心に留まりました。これから先の45年もカレブの告白のように、神の約束に生きる。「85歳まで健やかに」なんて可能でしょうか。主の許しの中でできると言いましょう。「わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です」。(フィリピ4・13)主の用のためにいつでも立ち上がれる高齢者がたくさんいたら、どんなに祝福された教会でしょうか。
 もう一つは、御言葉の暗誦です。前述のフィリピの信徒への手紙4章13節の御言葉も玉井先生はそらんじておられました。子供礼拝では、毎回暗誦聖句を掲げていますが、スタッフの皆さんや子供たちはどのくらい覚えているでしょうか。わたしは学生時代までは口語訳に親しんでおりました。教会で新共同訳に切り替えてからしばらく経ちますが、いまだに口語訳で思い出されることも多いです。それはそれで大切にしながらも、御言葉を正確にしっかりと覚えましょう。
「わたしはあなたにむかって
 罪を犯すことのないように、
 心のうちにみ言葉をたくわえました。」
(詩編119・11 口語訳)


トップページへ戻る週報短文へ戻る