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週報短文

バックナンバー 2006年 5月分


2006年 5月28日

天上の礼拝に共に連なる

 あなたは地上の生涯を終え、天でどのように過ごすかご存知ですか。天使が羽ばたいて、美しい音楽がどこからともなく聞こえ、太陽の輝く楽園でのんびりするのでしょうか。いいえ、そうではありません。わたしたちは、すべての聖徒たちと共に、天において神を礼拝するのです。
 昼間祈祷会で現在「ヨハネの黙示録」を少しずつ学んでいます。先週の木曜日には第4章がひもとかれ、わたしたちは天上の礼拝に共に連なる者とされている幸いを覚えました。
 ヨハネは聖霊に導かれて開かれた天の門を見ることを許され、さらに、呼びかける声の中で天に引き上げられて、天上の光景を見ることになりました。そこには、玉座に座っておられる方(神)がおられました。神は栄光に輝き、虹も輝いていました。ほかにも不思議な光景が展開します。さらにそこには、白い衣を着て、頭に金の冠をかぶった二十四人の長老が座っていました。これは、主イエスによって勝利を与えられた者たちの代表であり、わたしたちもその後に続く者だといえます。長老たちは、ひれ伏して、冠を投げ出して神を礼拝しました。
「主よ、わたしたちの神よ、
 あなたこそ、
 栄光と誉れと力とを受けるにふさわしい方。
 あなたは万物を造られ、
 御心によって万物は存在し、
 また創造されたからです。」
(11節)
 主の日ごとに、わたしたちは礼拝に集います。主日礼拝もまた復活の主のおられるところですから、そこには開かれた天の門があります。主に結ばれたわたしたちは、復活の主と共に既に天の座につかせていただいています。そして、わたしたちの冠を投げ出して礼拝をささげるのです。
 主日礼拝を整えようと進めていますけれども、大切なのは、主日礼拝がこの天上の礼拝に根ざしているのだという信仰に立ち生きることです。

2006年 5月21日

「生きている者の神なのだ」

 本日午後二時からは、西川口教会の教会墓地である春日部墓苑にて、墓前礼拝をささげます。西川口教会の二代目・三枝道也・育代牧師の時代に、秩父にありました教会墓地を現在の春日部の地へ移しました。本日の墓前礼拝において、主の栄光があらわれますように。
 さて、先週の夕拝はわたしにとって一区切りとなりました。それは、西川口教会の伝道師となってから、夕拝では創世記をずっと開いてきて、ついに、最後の50章になったからです。
 そこには、イスラエルの父祖の一人であるヤコブの埋葬の出来事が書かれています。飢饉のためエジプトに避難していたヤコブの一族でしたが、ヤコブは自分の体はカナンにある墓に葬るように、息子ヨセフに遺言を残していました。ヨセフはそのとおり丁重に父の葬りを行いました。
 御言葉を学びながら、聖書では葬りを大切にしていること、それが残された者の務めであると改めてしみじみ感じました。
 主イエスの死に際しては、十二弟子は逃げてしまっていましたが、主を慕っていたアリマタヤのヨセフが、ピラトに願い出て、そしてその体は丁重に葬られました。
 わたしの母の召天は突然で、何の備えもなかった我が家でしたが、教会墓地に納めることができ、備えられていた教会の業は本当に有難いことでした。そして、わたし自身も今度はお仕えする側として、整えられていきたいと願っています。
 先週は、N兄の召天と葬儀、またT姉の召天とがありました。
 主イエスは言われました。「『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ」(マタイ22・32)。主は、御言葉を通して、復活は確かにあるのだと、告げられました。終わりの日には主の後に続く復活を信じて、墓前礼拝を、そして葬りの式を執り行います。


2006年 5月14日

母の日ファミリー礼拝によせて

 母の日ファミリー礼拝にようこそ!
 西川口教会では、主日(日曜日)の午前中には三つの集会があります。九時からの「子供礼拝」、九時半からの「賛美礼拝」、十時半からの「一般礼拝」です。けれども、年に何回か、これらの礼拝に集う皆さんが一つになるファミリー礼拝(子供も大人も共にささげる礼拝)を企画しています。今年度は、本日母の日と来年の2月にファミリー礼拝を予定しています。
 さて、西暦とは、キリストが生まれた年を起点とされた暦ですから、西暦の年数はほぼ教会の歴史の長さとみてよい。約二千年の教会の歴史があり、わたしたちもその教会の歴史の中に置かれ、今日この日、今この時も、教会の歴史を刻んでいます。
 教会の中心は主日礼拝です。その長い長い教会の歴史の中で、教会はずっと昔から家族皆で礼拝をささげることによって信仰を継承してきました。「神を礼拝する」ことを知識として教え込むのではなく、幼いときから両親に伴われ、礼拝体験を通して信仰を受け継いできました。
 信仰は、わたしたちが神に愛されていること、神に受け入れられていることから出発します。この神の愛で生きていこうと決意し、洗礼を受けてキリストに結ばれたわたしたちは、教会という神の家族の一員とされました。
 教会は神の家族です。造り主なる神は天のお父さん、キリストは一番上のお兄さん。皆が兄弟姉妹です。西川口教会だけではありません。歴史の中に生きた、生きている、これからも生まれる全世界の教会すべてが神の家族です。神の家族は、神の確かさによってどんな悪の力にも負けることはありません。わたしたちは弱くもろいのですが、神が共にいてくださるから大丈夫なのです。先月は西川口教会に新しい家族が増えました(月報をご参照ください)。それはそれは大きな喜びでした。あなたも、神の家族の一員になりませんか?


2006年 5月 7日

「心の穴は空けたままで」

 「いのちのことば」本年5月号の森祐理さんのインタビューがこころに響きました。森さんは福音歌手として全国や海外でコンサート活動等をしておられます。11年前の阪神淡路大震災で弟さんを失う体験をしました。今回は「喪失」をテーマに語られたものです。以下引用します。
 “「人を癒すには自分が傷つかなければならない」というマザー・テレサの言葉があります。自分が痛んで初めて、第三者の痛みというものがすごくわかるようになりました。ですから、心の穴が開いたおかげで、自分の中だけの狭い世界や、自分の思いだけで生きていた世界が、広がっていったっていう気がします。・・・私にとっての「心の穴」は、弟の死がきっかけです。・・・何かを喪失したとか、心に一部に穴があいて欠落したという意味ではなく、穴が開いたおかげで世界が広がったっていうような感じなんですね。そして、その広がったところからいろんなものが入ってくるようになったんです。・・・手に傷があったら、水で洗うだけで沁みますよね。だから、心が敏感でいられるように、私にはその穴が必要だったんだって思います。弟が命をもって空けてくれた“穴”を、私は大事にしていきたいなと思います。一生空いたままでも大丈夫だと思います。・・・私は、弟を喪失したことによって「穴の空いた自分を得た」って思っています。心の一部を失ったのではなく、「穴の空いた自分」を創出したのですね。・・・私はよく「さかさまの法則」という言葉を使います。声を失って歌を得て、弟を失っていのちの意味を教えてもらって・・・・・・。イエス様の十字架も死があるから永遠の命を得るということですよね。失って得る。これがある意味で神様の法則なんだろうなって思います。・・・”
 私事ですが先週3日で母の召天10年となりました。この事がなければ献身もなく今頃どうしていたことでしょうか。母の死によって、主は、わたしにたくさんのことを教えてくださいました。


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