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週報短文

バックナンバー 2006年 8月分


2006年 8月 27日

「新潟中越地震」被災教会・被災地支援

 今年度の関東教区総会(5月末)において、議案第12号「新潟県中越地震」被災教会・被災地支援推進に関する件が、賛成多数で可決されました。その議案の内容は、次のとおりです。
 “関東教区諸教会・伝道所は、教団の「『新潟県中越地震』被災教会会堂等再建支援募金(目標額1億5千万円)」に全力を上げて協力する。具体的には、1億5千万の募金目標額の50パーセント、7千5百万円を関東教区の目標額として、この募金に取り組む。”
 昨年度、当該地区である新潟地区では、この募金の10パーセントを新潟地区の募金目標額として定め、被災教会も募金に加わっています。この新潟地区の取り組みを受けて、関東教区全体として、具体的な数字を挙げて、この働きに連帯しようと、教区常置委員会から提案された議案でした。
 「この募金目標は、教区内の各個教会が、一年の経常会計収入合計の約一割を募金に献げることによって達成できます」とのアピールもなされました。それは本当に重い決断でした。高齢化・会員数減に悩む教会が増えつつある中、教区内の全教会の協力がなければ達しえません。文字どおり「共に苦しむ」覚悟のうえでの決断でした。ただし、ゼロからの出発ではなく、既に始まっている教団の募金の推進を願ってのことです。
 7月の役員会において、西川口教会でどう取り組むか協議しました。役員会での決定は次のとおりです。「教会としてこの募金に協力する。目標金額は100万円。経常会計からの支出はせず、募金の趣旨から「愛隣献金」に相当するので、「愛隣献金」に中越地震被災教会の再建への募金を加えてもらうよう教会員に呼びかける。愛隣献金から教団の募金に献げる。期間は2年程度」。
 目安として、月定献金の1〜2ヶ月分を1年(から2年)かけて愛隣献金に加えて献げていただく。全教会員がこれに参加したら達成できます。祈りと心を込めて、この業に加わってください。

2006年 8月 20日

主の再臨

 今年も中学生・KKS(教会高校青年)夏期キャンプを無事に終えることができました。五月の委員会では、講師の塩谷直也(しおたに・なおや)牧師(梅が丘教会)をお迎えしました。「主題が『イエス・キリスト』なら、十字架・復活・再臨、はどうでしょう」と、塩谷先生がおっしゃいました。「そのものズバリですね。再臨まで語るのですか」と、思わず問い返しましたら、「それ以外に何がありますか」、そして「最近若い人たちに再臨を語る必要があると感じている」と返答され、その意味を知りたいと思いました。
 キャンプでは、十字架と復活と再臨を、それぞれ約一時間ずつ語られました。マンガを描きながら、また、巧みな話術で自分の体験から皆を何度も笑わせながらも、肝心なことはきちんと伝えてくださいました。三回目のセッション「再臨」から紹介します。
 「作品と作者は一つ。だから、どんな作品でも傷つけられたら作者が傷つく。人間は神の作品。神を傷つけたければ、自分を傷つければよい。自分が本当に神の作品であるとわからない限り、自分で自分を傷つける行為を止められない。わたしたちが神の大切な作品であると知ってほしい」。
 「神様の創造の意味、それは、@大好き(どうでもよいものではない)、Aメーカーは神様(だから壊れたら来なさいよ)、B使い方を間違えない(使用説明書は聖書、間違えると壊れます)、C心をこめたよ、D責任取るよ(一人ひとり製造物責任者の刻印「神のかたち」がある)、E居場所を用意する。結局造るとは「存在が好き」(あなたがいてくれてよかった)。良い作品ができた時、人は作品を眺める。神様も皆を「いい作品だなあ」と眺めたい。それが日曜の礼拝。「あなたの作品です。見てね」と言えばいい。壊れても直す。それが復活。最後にイエス様が完成してくださる。それが再臨。そこでイエス様のテスト(裁き)がある。ずっと助けてくれた人がテストしてくれる。だから安心。ベストを尽くして生きていけるよ。」

2006年 8月 13日

創世記をめぐって

 7月31日、地区一区教師会が浦和東教会で開かれ、山野忠男先生(日野原記念上尾栄光教会)の発題を聞きました。山野先生は聖書考古学の専門で、聖書が書かれた土地・現場行くことを大事にし、すべて出かけてきたそうです。
 聖書を多少学びますと、聖書は全66巻(旧約聖書39巻、新約聖書27巻)からなる書物であること、各巻は早く書かれた順に並んでいるのではなく、神の救いの歴史と救いの完成に向かって、意図を持って配置されていることを知ります。
 近代の聖書学は、聖書の成立過程を紹介しました。聖書の初めの書「創世記」も、最初に書かれたのではなく(素材としての史料や伝承は既にありましたが)、最終編集されたのは、バビロン捕囚後数十年を経た人々によってなされたと考えられています。編集者はバビロニアの神話物語を借りて、創世記を編集したのです(創世記ばかりではなくほかの書も)。バビロン捕囚とは、強国バビロニアによって南ユダ王国は滅亡させられ、大半の人々が囚人として捕らえられ移送された出来事です(紀元前587年)。バビロニアとは今のイラクです。後にはペルシャとも呼ばれたこの地域は、人類の文明発祥の地とも言われ、チグリス・ユーフラテスという大河に恵まれ、文明・文化が花開いていた土地。農耕技術、治水学、数学、天文学、地質学、建築、美術。さまざまな文明・文化に触れて、神の民のある人々は大いに刺激を受けたのでしょう。ハムラビ法典も受け継がれていました(ハムラビ法典と十戒の類似もよく指摘されるところです)。
 「聖書を通読しよう!」と決意しながら、創世記は読み終えても、出エジブト記の律法あたりで挫折した経験を持つ人が多いと思いますが、それだけ「創世記」は読ませる、面白い書物、今を生きるわたしたちにも読める物語なのです。創世記の成り立ちもまた興味深い。捕われの民が、捕われることなく、捕われの国の物語を拝借して編まれた物語。このしなやかさに学びたい。

2006年 8月 6日

「あたらしい憲法のはなし」

 8月は特に平和を覚える月です。地区「平和を求める8・15集会」は憲法がテーマです。憲法を巡ってさまざまの思惑による憲法改正へ向かおうとする動きがあり、一方で「九条の会」など、平和憲法を守る市民運動が各地で展開されています。関心を持つことが大切だと思います。「復刻『あたらしい憲法のはなし』」(永絵夢社刊)を読み返してみました。「あたらしい憲法のはなし」は、日本国憲法の施行後まもなく、新憲法について政府が国民に対して明らかにした公式の解説書です。義務教育となった中学校一年生向けに社会科用教科書として発行されました。著作者は文部省です。しかし、四年ほどして姿を消しました。
 憲法第九条の解説に相当する「六 戦争の放棄」の一部分を紹介します。現代仮名遣いに書き改めてあります。「・・・戦争は人間をほろぼすことです。世の中のよいものをこわすことです。だから、こんどの戦争をしかけた国には、大きな責任があるといわなければなりません。・・・そこで、今度の憲法では、日本の国が、けっして二度と戦争をしないように、二つのことを決めました。その一つは、兵隊も軍艦も飛行機も、およそ戦争をするためのものはいっさいもたないということです。・・・これを戦力の放棄といいます。「放棄」とは「すててしまう」ということです。・・・もう一つは、よその国と争いごとがおこったとき、けっして戦争によって、相手をまかして、じぶんのいいぶんをとおそうとしないということをきめたのです。おだやかにそうだんをして、きまりをつけようというのです。なぜならば、いくさをしかけることは、けっきょく、じぶんの国をほろぼすようなはめになるからです。また、戦争とまではゆかずとも、国の力で、相手をおどすようなことは、いっさいしないことにきめたのです。これを戦争の放棄というのです。・・・みなさん、あのおそろしい戦争が、二度とおこらないように、また戦争を二度とおこさないようにいたしましょう。」

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