週報短文
バックナンバー 2007年 7月分
2007年 7月 29日
「放蕩息子の帰郷」
数年前になりますけれども、ヘンリ・ナウエンの本をプレゼントされてから、彼の著作をよく読むようになりました。彼はカトリックの司祭ですが、プロテスタントの人々も多く彼の著作に親しんでいるようです。主に霊性がテーマとなっていますが(特に司祭職など指導的立場にある人のため)、ナウエンが、祈りの中で心を御言葉に照らされ、そして見出したことを率直に書いているので、教派を超えて、信仰者として共感できるのです。わたしが言葉にできなかった思いが、的確に表現されていてうれしく思います。カトリックでは、奉仕職にある人は特に「修練」を求められますが、これはわたしたちにとって「(霊的)訓練」に通じるので、その点でも学ぶことが多くあります。
今月のファミリーキャンプのために、ルカによる福音書15章を取り上げることにしたのも、彼の著作、「放蕩息子の帰郷―父の家に立ち返る物語」、がきっかけの一つでした。
この本は、レンブラントの「放蕩息子の帰郷」という絵画をもとに、ナウエンが数年にわたって続けてきた黙想から感じたこと、見出したことが綴られています。「弟」の章、「兄」の章、「父」の章と、それぞれの人物に焦点をあてて、深めているので、分かりやすい構成です。レンブラントの生涯をたどり、ナウエンも自分自身を探っていきます。読者も自分自身を探られ、御言葉に照らされていきます。
ナウエンは、初めのうち「自分の中にこんなに弟息子と同じようなところがある」、と友人に分かち合ったそうです。ところが友人から、「あなたは弟よりも兄息子に似ているのではないでしょうか」、と言われて驚き、兄息子を黙想しながら、自分を振り返ってみると、多くの共通点があったことに気づきました。そして時を経て彼は思いがけない言葉に出会います。「あなたは父となるように召されているのではないですか」と。彼はそれを自分への召命として受け取っていきます。
御言葉の深みへと招かれます。お勧めします。(No.167)
2007年 7月 22日
台風・虹・スタンツ―キャンプ報告―
祈り待ち望んでいた15・16日のファミリーキャンプでしたが、台風4号の到来で祈らされた始まりでした。電車で向かっていた者たちは青梅に着いたところで、青梅線が不通となりました。車で移動の方々、特に運転手の方々には労苦をかけました。電車組みは青梅駅まで車で迎えに来てもらい、これで会場の「奥多摩福音の家」に全員集合。一時間遅れで昼食、開会礼拝でした。
予定していた野外活動は雨のために中止とし、スタンツ(出し物・今回は聖書劇)の準備をしました。三つのグループに分かれました。題材はルカによる福音書第15章の三つのたとえを、それぞれのグループにひとつずつお願いしました。
スタンツの練習も終わり、夕食前の自由時間でした。東の空にはっきりと輝く虹が見えました。子供たちも歓声をあげました。創世記に出てくる雲の中にある虹と神の祝福を思いました。夕食後の「お楽しみタイム」では、手話賛美と賜物発表(ピアノ演奏、脳活性化体操)で楽しみました。夜はまた雨が降ってきてキャンプファイヤーも中止。そのまま集会室でフォークダンスを元気に踊りました。新館に泊まれなかった方には申し訳なかったですが、快適に過ごしました。
翌日は雨が上がり、朝のお祈りのあとは中庭で体操をして目を覚ましました。午前の「お楽しみタイム2」では、各グループのスタンツ発表です。「見失った羊のたとえ」・「無くした銀貨のたとえ」・「放蕩息子のたとえ」、どれもユニークな出来栄えで、涙が出るほど笑いました。感想文を書いて、閉会礼拝をささげ、スタンツの表彰式。中庭でバーベキューを頂き、帰路につきました。
西川口教会での主日礼拝も、台風にも関わらず、子供礼拝・賛美礼拝もそれぞれ奉仕者が集い、礼拝をささげました。参加者を送り出されたご家庭がありました。役員会、特に礼拝教育部の細やかな準備がありました。皆さんの協力がありました。すべてを主が一つにしてくださいました。(No.166)
2007年 7月 15日
牧師就任式に参列して
先週8日の午後、今年の4月から日本基督教団辻堂教会(神奈川県藤沢市)に転任した押川幸男・沢江牧師就任式に参列できました。感謝します。押川沢江牧師は、西川口教会からの献身者の一人で、わたしの姉です。
西川口教会は関東教区(埼玉、茨城、栃木、群馬、新潟)に属し、各地区は県別になっています(埼玉地区は埼玉県内の日本基督教団の教会の交わりです)。辻堂教会は、神奈川教区西湘南地区にあり、神奈川教区は神奈川県で一つの教区となっています。神奈川県内、特に海沿いの地域は、埼玉よりも教会がずっと多いのですね。
さて、押川牧師就任式には父、妹夫婦と甥っ子たち、父の妹夫婦、母方の叔母二人も参列して、親族紹介で大勢立ちましたので、辻堂教会の方々を驚かせてしまいました。姉が「佐久子さんの就任式も7月だったね」と言いまして、そうであったと思い出しました。
日本基督教団は牧師・伝道師を招聘する制度となっています。つまり教会が牧師・伝道師を招き迎えるのです。牧師・伝道師は教会からの招聘を神のみ旨と信じ、神に遣わされたと信じて立ちます。教会は、主から遣わされた牧師・伝道師として受け入れるのです。
辻堂教会の就任式の中で、牧師の誓約、教会員の誓約、牧師への勧告、教会員への勧告を聞きながら、わたし自身、神と教会との前でなされた誓いにどうであったか問われる思いがしました。
「どうか、あなたがた自身と群れ全体とに気を配ってください。聖霊は、神が御子の血によって御自分のものとなさった神の教会の世話をさせるために、あなたがたをこの群れの監督者に任命なさったのです。(使徒言行録20・28)」
来週22日は、埼玉地区では浦和東教会の永井牧師就任式があります。同日には、今年の春、東京聖書学校を卒業し、清水ヶ丘教会(横浜市)に遣わされた柏明史伝道師の伝道師就任式が礼拝の中で行われるとのことです。祝福あれ!(No.165)
2007年 7月 8日
説教者トレーニングセミナーに参加して
今年も鎌倉でのセミナーに参加できました。説教作成のトレーニングです。しかし、方法論ばかりではなく、自分がどこに立っているか問われるセミナーなのです。
まず独りになって(個室です)聖書だけ読みました。ディボーションと異なるのは、そこで説教の聞き手を思いながら御言葉に聴くことです。「Aさんはどのように、また求道中のBさんはどう受けとめるだろうか」と問いながら、御言葉と対話します。わたしも西川口教会の皆様方を思い浮かべました。分からないところもあります。何が分からないか明確にします。それらを書き出します。これを「第一の黙想」と呼びます。次いで共に集まり、第一の黙想を発表しました。第一の黙想から与えられた課題を踏まえて、講師の加藤常昭先生が翻訳した説教黙想を共に読みました。御言葉の解釈の可能性を知り、御言葉の豊かさと力強さを味わいました。
再び独りになり、「第二の黙想」を書きました。説教の前段階になる、「これで説教できる」と言える黙想です。苦闘しました。再び集まり、第二の黙想を発表しました。それを聞いた人は説教者が何をしているかをとらえ、説教に必要なことは何かを言うのです。良し悪しではなく、なぜそうなるのか、どうすればよいか言うのです。批判する力を問われます。
最後に説教演習です。また独りになって説教原稿を作成しました。全員はできないので、説教する人をくじで決めました(わたしは外れ)。食事を取らずに原稿を書いた人もありました。共に集まり一人ずつ説教を聞きました。その後で原稿を渡され、批評します。吟味する力が求められます。「この説教で教会に変革は起こりますか」。厳しい問いです。真実な批評に耳を傾け、自分を変えていくしなやかさがなければ。信仰がなければ。
参加者一同献身の思いを新たにされて、それぞれの地に遣わされていきました。主に感謝です。(No.164)
2007年 7月 1日
今のときを生かして
7月を迎えました。2007年も残り半年になるわけです。「早いわね。もう○月よ」がわたしの口癖になっています。時間はすべての人に平等な賜物なのですが、月日の経つのが年々早くなり、この感覚を無くすことはできません。今の時をどのように過ごしたかが、大切だと思います。教会も、この後半の半年にも夏や秋の諸行事が予定されており、冬がくればクリスマスがあります。
自分への戒めとしているのは、手段が目的にならないように、ということです。どういうことでしょうか。例えばこの月はファミリーキャンプが開かれます。担当者は準備を重ね、教会全体にまた一人ひとりに呼びかけます。多くの方々の協力がなければ実現できない活動です。細心の注意を払います。心を込めて配慮します。容易でない働きです。ところが一生懸命奉仕していますと、「キャンプが無事終わること」のみに心が集中して、「何のためにキャンプをするのか」がおろそかになることがあるのです。キャンプは手段です。キャンプという特別な、非日常の活動をとおして、参加者に体験してもらいたいことがあるのです。神を知る喜び、神に知られている喜びを体験することです。これは、わたしたちだけでは決して実現しないことです。ですから、聖霊の臨在を願い求めます。神の霊の導きなくして、神との出会いは起こらないことをわたしたちは知っているからです。祈りこそ必要な準備です。
“・・・私たちの救いにとって決定的なことが神の側から起こるのであって、人間の側からではないことは真実である。しかし、聖霊は、怠け者たちがしでかしたことの穴埋めをなさるわけではない。人間が全力を尽くしてなし得ることをなし、神のご臨在が起こることに備え、姿勢を整えるところでのみ介入されるのが常なのである。・・・”(「慰めのほとりの教会」(C・メラー)より)
天の父は求めるものには良い物をくださいます(マタイ7・11)。今日という日、わたしにできることをささげて、主を待ち望みます。(No.163)