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週報短文

バックナンバー 2007年9月分


2007年 9月 30日

あなたに語りかける聖書

 特別礼拝によくおいでくださいました。塩谷直也先生を送り出してくださった梅ヶ丘教会に、何よりも主なる神に感謝します。
 塩谷先生は、日本基督教団出版局が発行している月刊誌「信徒の友」の「みことばにきく」というページの今年の担当です。毎年執筆者が替わります。楽しみに読んでいます。
 教会生活を続けていると、「聖書を読む」ではなく「御言葉に聴く」という表現に気づきます。敢えてしているのであって、そこに大切な意味をこめています。
 宣伝ではありませんが、たまたま「信徒の友」10月号の特集が「聖書を読むのはあたりまえ?」で、そこに「聖書を読む」ことから「御言葉に聴く」ことへの転換について記されていましたので引用します。
 “・・・どうしていいのか、何をしたいのか、身の置き所のないほどに悩み迷うわたしたちです。そんな時は聖書を読みましょう。ひとりで読みましょう。仲間と読みましょう。声に出して読みましょう。読んで祈りましょう。とにかく一生懸命読みましょう。
 すると、わたしが聖書を読んでいるつもりがいつしか聖書によってとらえられ、聖書がわたしに向かって語り出す時があります。そして何もできないわたしであっても、神さまが約束された「希望」を、そして「信頼」を人に届ける自分になっていることがあります。感謝です。
 御言葉がわたしを包み、御言葉がわたしを押し出してくれるのです。”(13ページ)
 「御言葉に聴く」とは、わたしに向かって聖書が語り出す、その語りかけを聴くということ。わたしが読んでいるようであっても、御言葉を通して神と出会うこと。その出来事が起こるのです。
 説教は聖書の説き明かしですから、その出来事は説教においても起こります。今日、塩谷先生を通して、聖書はあなたに語り出すのです。(No.176)


2007年 9月 23日

祈りから始める

 いよいよ特別礼拝が来週となりました。もう一息、祈りを積み、家族、友人、知人をお誘いできますように。案内をし、お誘いすることまでは、わたしたちができることです。その後どのように相手が応答するかは、わたしたちの手の内にはありません。できることをさせていただきましょう。後は主に期待いたしましょう。
 ところで、このように書いているわたしですが、常に心からそのように思えるわけではないのです。自分の心を探ってみれば、疲れを覚えていたり、怠け心に負けそうになったり、そんな自分があります。そんな自分の気持ちを無理に否定したり、目を背けたりしなくてもよいと思います。それは、詩編の祈りに学んだことです。ありのままの思いを神にぶつけて祈る信仰者の姿を知ったからです。それでずいぶん自由になりました。
 だからと言って、思いのままに行動してよいということではありません。その上でわたしはどうするか、そこにさらに主の導きを待つために静まることが必要になってきます(静まりの訓練も必要)。一方、主のための行動であれば、何でもよいかというとそうでもないのです。
 先週の昼間祈祷会では、使徒言行録16章に入り、使徒パウロの第二次伝道旅行の始まりのところを学びました。パウロとシラスとテモテの伝道の旅です。パウロの第二次伝道旅行には、福音がヨーロッパに初めてもたらされるという歴史的意義があります。しかし、彼らの当初の計画は、頓挫したのです。福音宣教の旅に出たのに、アジア州で御言葉を語ることを聖霊に禁じられ(6節)、ビティニア州に入ることをイエスの霊が許さなかったのです(7節)。その夜パウロはマケドニア人の叫びを幻で見て、彼らへの福音宣教が神の御心と信じて方向転換し、マケドニアへ向けて出発したのでした。
 そういうわけで、福音宣教も祈りから始まり、祈りにより導かれます。祈りに押し出されて伝道し、感謝と栄光を主にささげて祈ります。(No.175)


2007年 9月 16日

春日部墓苑改築に向けて(その3)

 先月の8月15日午後に、教会全体懇談会の結果を受けて、責任役員会を開きました。今回は設計士の松下充孝さんをお迎えしての協議です。
 松下さんに、教会全体懇談会においてB案(イエス様が納められたお墓のイメージ)の決定したことと、いくつか出された要望を伝えました。
 その上で改築に向けて話し合いました。
 メンテナンスに関しては、いくつか方法があり、たとえば、壁に石を貼り付ければそれほど汚れはつかないということです。
 この改築案が実現すれば「納骨堂」と言える建物になるわけですが、これが当局の許可が必要かどうか調査中とのことです。
 それから改築ゆえの課題としては基礎工事です。現在のカロートの撤去作業が必要になります。今のカロートの中でわたしはまっすぐに立つことができますから、撤去するというと地下1.5m以上掘り出すことになります。そうすると隣接地が崩れないようにする必要もありますから、カロートの撤去作業も基礎工事に先立つ工事となります。一般道路から奥まっていますから、作業の効率を上げるために工夫が必要です。
 他に細かいこととして、ご遺骨を土に返すスペースは棚の下に設けて蓋をつける、棚に骨壷の落下防止のため滑り止めをつけることなど確認しました。
 今後は、松下さんが正確な設計図面を完成し、業者に見積もりを発注します。その見積もりが出され次第、責任役員会を招集して次に進みます。
 感謝なことに、工事の期間中、ご遺骨を春日部教会のご好意で預かっていただけることになりました。納骨堂をお借りします。
 今度の役員会で、改築のための募金趣意書について検討します。召天者記念礼拝にて募金趣意書を配布・発送できるようにと考えています。
 必要が満たされ、主に栄光をお帰しできる改築なりますよう、引き続きお祈りをお願いします。(No.174)


2007年 9月 9日

主はわれらのすみか

 今年も、愛する方々の敬老祝福式を執り行うことができました。教会員では御二人がこのたび祝福式にデビューされます。祝福式が近づくと、どの聖書を読むかを祈り求めます。そして、御言葉が与えられたら、なお思い巡らします。今回、詩編90編にと導かれました。全部は載せられませんが、紹介いたしましょう。
 1節はこう始まります。「主よ、あなたは代々にわたしたちの宿るところ。」 以前使っていました口語訳聖書では、「主よ、あなたは世々われらのすみかでいらせられる。」です。平易な英語訳では「主は常にわたしたちのホームです。」とありました。主なる神はわたしたちの居場所となってくださいます。主イエスも言われました。「わたしの父の家には住む所がたくさんある。」(ヨハネ14・2)。
 10節に、敬老祝福式を70歳以上とした根拠の一つと思われる御言葉があります。
「人生の年月は七十年程のものです。健やかな人が八十年を数えても 得るところは労苦と災いにすぎません。・・・」 現代の日本が今まで経験したことのない高齢社会を迎えており、70歳以上の方は増え、人口比率も高くなっています。いくつかの教会は、敬老祝福式の対象年齢を上げています。西川口教会でも協議したことがありますが、70歳で据え置いてきました。その人が70年守られてきたことを大切に思うからです。
 二千年以上前の詩歌ですが、その真実は今も昔も変わりません。労苦と災いのない人生はない、と詩編の作者は現実を見据えます。であるからこそ、神からの知恵によって自分を知り、神の配慮と助けを求める信仰者の祈りが生まれます。
「生涯の日を正しく数えるように教えてください。知恵ある心を得ることができますように。(12節)・・・わたしたちの神、主の喜びが わたしたちの上にありますように。わたしたちの手の働きを わたしたちのために確かなものとし わたしたちの手の働きを どうか確かなものにしてください。(17節)」アーメン!(No.173)


2007年 9月 2日

伝道の秋、到来

 今年の夏は本当に暑かったですね。酷暑を何とか乗り越えたという感があります。祈り祈られて主に守られました。
 秋らしさが少しずつ増してきている今日この頃、実りの秋、読書の秋、スポーツの秋、食欲の秋。西川口教会は伝道の秋の到来です。本日のキッズクラスの振起日に始まり、敬老祝福礼拝、特別礼拝、交励会担当の伝道夕拝、召天者記念礼拝と、ふだん礼拝にお見えにならない方もお出でになる機会があります。しかし、特別の時もいつもの時も祈りこそ備えです。この秋もまた、祈りに始まり、祈りで進み、感謝の祈りをささげます。
 既に何度もお伝えしておりますが、今年の秋は都合により9月に特別礼拝を行うことになりました。30日の特別礼拝の講師は、わたしの記憶では西川口教会で初めて、同年代の牧師、塩谷直也先生をお迎えいたします。塩谷先生とは昨年の春の「ホーリネスの群・ユースフェスティバル」で出会い、昨年夏の「埼玉地区中学生KKSキャンプ」でもご一緒しました。今回、賛美礼拝では模造紙にマンガを描きながら「マンガ説教」をしていただきますので、中学生、高校生ばかりでなく、興味のある方や、キッズクラスの高学年の御友だちや保護者の方も参加していただきたいと思います。これも初の試みです。今からドキドキ、ワクワク、とても楽しみにしています。
 先週の昼間祈祷会で学んだ次の御言葉が、なぜかとても心に残りました。「(パウロとバルナバは)到着するとすぐ教会の人々を集めて、神が自分たちと共にいて行われたすべてのことと、異邦人に信仰の門を開いてくださったことを報告した。」(使徒14・27) わたしもいつか必ず神の御前で報告をするのだな、と思わされたのです。神が共にいて行われたことの報告、信仰の門を開いてくださったことを報告するのです。伝道は「わたし(たち)」が行うのではなく、教会の祈りに支えられ、神が共にいて「わたし(たち)」を通して業をなされ、神が門を開いてくださるのです。(No.172)


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