週報短文
バックナンバー 2009年2月分
2009年 2月 22日
何があっても、一緒に生きてゆく
本日は一般礼拝で、I・I兄・Y姉ご夫妻の金婚祝福式を執り行います。ご家族・ご親族にとっても喜ばしい出来事ですが、教会にとっても喜びです。お二人が神に出会い、信仰をもって神の祝福をいただこうと、神と礼拝の会衆の前に立つことそのものが、もう祝福に満ちた出来事です。
聖書に登場する高齢の夫婦といえば、やはり創世記のアブラハムとサラ(はじめはアブラムとサライという名前でした)を思い起こします。アブラハムとサラは、現代の中近東の地方で、遊牧で生きている、子どももない夫婦でした。「子どももいないし、このまま年老いて終わるのだ」と、もしかしたら自分も思い、他人もそう見ているかもしれない、ちっぽけな二人でした。けれども神はこの高齢の二人を選び、イスラエルの信仰の祖として立てられたのでした。創世記を読めば、アブラハムとサラは、決して非のうちどころのない人物ではなく、失敗したり、迷ったりしているのがわかります。それでも二人は神に守られ、やがて子どもも与えられ、神のご計画のままに導かれ、祝福の源とされたのでした。いろいろなところを通されながらも、アブラハムとサラは、二人を見捨てず、決して離れない神と共に生きました。
今朝はお二人に、アブラハムに語られた神の祝福の言葉を取り次がせていただきます。
主はアブラムに言われた。
「あなたは生まれ故郷
父の家を離れて
わたしが示す地に行きなさい。
わたしはあなたを大いなる国民にし
あなたを祝福し、あなたの名を高める
祝福の源となるように。
あなたを祝福する人をわたしは祝福し
あなたを呪う者をわたしは呪う。
地上の氏族はすべて
あなたによって祝福に入る。」(創世記12・1〜3)(No.249)
2009年 2月 15日
神に祈るならば
水曜夜の祈祷会では、ヤコブの手紙を学び始めて、第8回となりました。信仰者にふさわしい生活の勧めに満ち、戒められ、慰められています。
「わたしの兄弟たち、あなたがたのうち多くの人が教師になってはなりません。わたしたち教師がほかの人たちより厳しい裁きを受けることになると、あなたがたは知っています。わたしたちは皆、度々過ちを犯すからです。」(ヤコブ 3・1〜2)
わたしたちの中に、完全な人はだれもいません。それではだれが教師になれるか、と言えば、召命が確かでなければならないでしょう。召命があればそれでいいのかといえば、そうともいえない現実があります。こんな文章に出会いました。
“牧師の仕事は「召命」だけでできるものではありません。あなたが想像する以上に「能力」が求められているのです。W.ウィリモンという牧会学の専門家は「牧師という職務は、広い範囲に及ぶ様々の高度な技術を要求する。すなわち弁論の能力、知的な能力、人間関係に関する賜物、自己認識の能力、神学的な能力、言葉に関わる能力、経営能力、床を掃除する能力、折りたたみいすを運ぶ能力、道徳的規範として奉仕する能力、そしてその他のあらゆる能力である」と書いています。日本の牧師の場合はこれらに加えて、「だれとでもにこやかに対応する能力、幼稚園の園長の能力、ホームページを作る能力」など、かなり「高度な技術?」が求められているのです。いったいだれが牧師になれるのか、たぶん99パーセントは不適格でしょう。でも、ウィリモンはこうも言います。「わたしたちに与えられた神の召命を果たすために、わたしたちが必要とするものを神が与えてくださるように日々祈るしかない」と。99パーセントが不適格としても、後の1パーセント「必要とするものを神が与えてくださるように日々祈る」ことができるなら、牧師であり続けることができるというのです。”(キリスト新聞 質問箱より 回答者 上林順一郎牧師)
「求めなさい。そうすれば、与えられる」。(マタイ7・7)(No.248)
2009年 2月 8日
選びにこたえていくこと
今年になって心新たに聖書通読を始め、一ヶ月続きました。一日4章、一年で通読予定です。御言葉を味わい、思い巡らすとき、「わたしが」「聖書を」「読む」のではなく、主客が逆転し、「聖書が」「わたしを」「読む」のです。聖書の御言葉の光がわたしを照らします。聖書の力ある御言葉に戒めされ、慰められ、押し出され、導かれます。御言葉がわたしに働きかけるのです。神が、今、ここで、わたしに語られるのです。そのことを意識して、聖霊の助けを祈り求めて聖書を読むことを、「御言葉に聴く」と言っています。
このたびの聖書通読では、聖書を読んだ後、榎本保郎先生の「旧約聖書一日一章」を読んでいます。次週の教会総会を前に、信仰生活について教えられたので、分かち合いたいと思います。民数記第29章の文章から、39節の黙想です。
“…神に対しては自分から進んでなすものと他律的な規定に基づくものと二つがあることをこのところで示されている。私たちは信仰生活において自発性を重んずる傾向がある。進んで聖書を読み、祈りたいときに祈り、意欲の出ることに対して奉仕をする、そういう信仰生活は楽しく充実感を覚える。しかし、定められた宗教生活に対してはともするとおざなりになりやすい。日課として聖書を読み、祈りをするとか、与えられた奉仕をするといったことである。…しかし、もし私たちの信仰生活が自発的なものだけであるならば、それは所詮自己中心的であって、およそ聖書が示す神への姿勢とは異なるものである。…教会生活は弱い人間が忍耐深く信仰生活を続けていくために生み出した知恵だと思う。…私たちは自発の供え物についても熱心であるように、「なければならない」という他律的な宗教生活にも熱心であることが必要である。…”
牧師も、役員も、神の選びにより立てられます。自発より他律に重きがあることです。その務めは祈りなしに、忍耐なしに全うできません。神の選びにこたえる教会の信仰が常に求められています。(No.247)
2009年 2月 1日
教会総会に向けて その2
本日、2月15日の教会総会が公示されました。毎年2月の教会総会の議題は役員改選の件です。
教会総会は教会の最高議決機関ですが、年に何度も教会総会を開催して総会で何もかも決めていくということは、実際的なことではありません。そこで、教会の務めを常に果たし続けていくために、その運営主体としての役員会が置かれます。そこには、牧師と、総会で選挙された役員がおります。日本基督教団の規則で定められています。
そのように組織をきちんと整えていくというのは、聖書に見られるものです。
例えば、民数記11章では、神がモーセにこう語られます。「イスラエルの長老たちのうちから、あなたが、民の長老およびその役人として認めうる者を七十人集め、臨在の幕屋に連れて来てあなたの傍らに立たせなさい。わたしはそこに降って、あなたと語ろう。そして、あなたに授けてある霊の一部を取って、彼らに授ける。そうすれば、彼らは民の重荷をあなたと共に負うことができるようになり、あなたひとりで負うことはなくなる」(16、17節)。神はモーセにも民にも心を配り、皆が共に自分の役目を負い、重荷を負い合うことで、荒れ野の旅を続けさせてくださいました。
使徒言行録第6章やテモテの手紙一第3章を読んでも、そのような組織が整えられていることがわかります。信仰の共同体が正しく、生き生きと生きることができるように心を配る者が立てられて、教会全体が使命を果たしていくことができます。自分勝手な振る舞いをしていては、旅を続けることができません。わたしたちは教会総会で選挙することによって役員を選びます。選挙によって神の御心が現れると信じています。尊く、また決して容易ではない役員の務めです。その役員を神が選んでくださると信じて、祈り求めます。そして、信仰による一人ひとりの判断を神が用いられる。信仰がなければ。愛がなければ。神の御心に適う教会総会であるように!(No.246)