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週報短文

バックナンバー 2010年 7月分


2010年 7月 25日

もう一度、二つの奉仕

 珍しいことに、今月は外部奉仕が重なり、先週も二つの奉仕のため出かけました。皆様方のお祈りのお支えを神に感謝いたします。
 月曜日(祝日・海の日)に、お隣の教会である、日本バプテスト連盟西川口キリスト教会(戸田市喜沢)の献堂感謝礼拝に参列しました。県南四市牧師会からのお祝いを述べるためです(事情により、川口神召キリスト教会・安田眞先生の代わりとして出席)。他教派の教会の献堂式に出席するのもめったにないことで、礼拝をささげつつ、興味をもって過ごしました。礼拝において特に印象に残ったのは「献堂のことば」でした。礼拝堂は来客者で占められていましたが、そこに西川口キリスト教会の教会員の方々が静かに入堂し、講壇と礼拝堂の壁際に立って会衆取り囲むように輪になり、「献堂のことば」を唱えました。神への賛美、感謝、教会堂を献げることによって自分たちの献身を言い表し、宣教の使命に生きる決意を宣言されました。子どもたちも数名共に立っていて、すばらしいことだと思いました。この「献堂のことば」は教会員からの言葉を合わせて完成したとのこと。神と会衆との前に力強くなされた宣言に、心を揺さぶられる思いがしました。他に、バプテスト連盟の連帯についても知り、よい助け合いがなされていると感じました(資料は、1階集会室の書棚に置いておきます)。
 そして火曜日は、赤羽朝祷会に奨励のために出かけてきました。朝祷会は信徒運動として始まった超教派の働きで、全国各地で、朝の祈りの集会が開かれています。また、食事を共にします。赤羽朝祷会は、第177回とのことでした。赤羽教会の信徒の方が責任を持って運営しておられました。大友先生、吉武先生も加わり、10人の出席者でしたが、お休みの方もおられ、これだけの方々が祈るために集まることに力づけられました。奨励は、「日々、自分自身に福音を告げよ」という内容で、マタイ福音書4章4節から、ディボーションの必要を語りました。(No.321)


2010年 7月 18日

使徒信条の成立

 主日礼拝のプログラムを一部変更したことに伴い、使徒信条の内容について礼拝説教で少し触れました。それに加えて、説教ではなかなか触れられない、使徒信条の成り立ちについてここに書いておきます。
 「信条」とは、キリスト教の「大切な教え(救いの真理)」を「ことばで公に言い表したもの」と言えます。神はどういうお方か。救いとはどういうものか。どうしたら救われるか。そうして救いに関する問題について、時代の状況や必要に応じてキリスト教会が「ことばで公に言い表したもの(文書)」を「信条」と言います。
 使徒信条の歴史的起源はまだわかっておらず、それだけ古いということです。紀元2世紀にはその原型は生まれていたと考えられています。なぜそういう文章ができたかというと、洗礼準備のためにどうしても必要であったからでした。洗礼を受けたいと願い出たとき、その人がどのような信仰を言い表すかが問われます。それは、どれだけ立派であるかということではなく、教会に与えられ、教会が宣べ伝えている福音を受け入れるかどうかということです。それが何かを適切に簡潔に言い表したのが使徒信条です。
 紀元2世紀ごろ、使徒信条の原型が作られたと言われます。ローマの教会で作られた「古ローマ信条」に使徒信条の原型が見られるというのが定説になっています。教父テルトゥリアヌスの著作に「古ローマ信条」が「信仰の規準」として引用されているので、その頃にはすでに、信条としての文章ができて用いられていたことになります。
 使徒信条という名前の由来について。12人の使徒が、それぞれ一項目ずつ書いて使徒信条が生まれたという伝説があります。それが「使徒たちの信条」として伝えられ、「使徒信条」と呼ばれるようになったのです。実際にはペトロやヨハネが書いたと考えることはできませんが、確かに使徒たちが語った信仰の教えの要約であることは間違いありません。(No.320)


2010年 7月 11日

二つの奉仕

 先週の月曜日は二つの奉仕を果たすことができました。お祈りを感謝します。
 ひとつは、A女子短期大学の説教奉仕です。キリスト教主義学校での礼拝を初めて体験しました。担当の方々から伺いましたが、9割ほどの学生が入学して初めてキリスト教に触れるとのことでした。短大の礼拝は自由参加ですが、必須科目との関わりもあって、100人ほどの出席者があるそうです。率直に言って、西川口教会がどのようにしても、大学生を100人集めることなどできはしません。しかし大学なら可能なのです。得がたい機会が与えられたことと思い、祈りの応援をお願いして、出かけてきました。月曜、水曜、金曜と週に3回、昼休みの30分に礼拝がもたれています。出席された学生の方々は静かに説教を聞いてくださいました。大学の礼拝に出席される方々、また勧められて教会の礼拝に集われる方々がおられます。キリスト教学という授業があります。学内の働きの中で 蒔かれた御言葉の種が芽生え、育って、実を結びますようにと祈ります。
 もうひとつは録音の奉仕でした。短大の礼拝を終え、渋谷から吉祥寺に移動し、キリスト教放送局日本FEBCのオフィスに向かいました。日本FEBCでは毎晩のラジオ番組を放送し、そしてラジオ番組をインターネットでも放送して伝道しています。また、リスナーのために聖書通信講座や教会紹介など、フォローする働きもしています。番組はいろいろありますが、「今あるは神の恵み」といって、全国各地の牧師の声を聞くことができる番組があります。その先生がどのようなところから救われたか、どのようにして牧師として導かれたか、信仰生活の喜びや苦しみや感謝など語られます。この番組の録音のため出かけてきました。ラジオまたはインターネットを通じて多くの方が福音に耳を傾けています。リスナーの中には、教会の礼拝に行けない方も大勢おられるとのこと。この福音の放送もまた種蒔きです。主が用いてくださるようにと祈りつつ帰ってきました。(No.319)


2010年 7月 4日

教団の教会観

 本日から主日礼拝のプログラムを一部変更します。礼拝についての検討は継続中ですが、信仰を公に告白すること等改めて考えさせられました。日本基督教団の機関紙「教団新報」は教会堂の玄関の受付脇に置いてありますが、最新号に教団総幹事の内藤先生の文章が掲載されていました。教団信仰告白に示される教会観についての文章です。参考にしていただきたく、全文引用します。
 “最近よく『教団の教会観はどのようなものですか』と質問される。そのとき私は、教団信仰告白の教会の項の告白文を引用して答えることにしています。そこには『教会は主キリストの体にして、恵みにより召されたる者の集ひなり。』と教会の本質が告白され、更に、『教会は公の礼拝を守り、福音を正しく宣べ伝へ、バプテスマと主の晩餐との聖礼典を執り行ひ、愛のわざに励みつつ、主の再び来たりたまふを待ち望む』と教会の使命が告白されています。
 ここで告白されている『教会』について簡潔に言い直してみると以下のようになります。
 @教会とはまず神に召された者たちの礼拝共同体(求道者も含めて)です。その礼拝において、主から与えられた公同教会の権能である神の言の説教と洗礼と聖餐が行われます。すなわち聖書が証しする福音が正しく宣べ伝えられるとき『イエスはキリストである』との信仰が芽生え、A教会は信仰告白共同体となります。このキリスト告白した者はキリストと一つになる洗礼(聖礼典)を受けてキリストの体である教会に加えられます。B教会はまさに洗礼共同体なのです。洗礼共同体である教会の一員となった者は、キリストと一つにされていることを体得するパンとブドウ酒をいただく聖餐(聖礼典)に与り、C教会が聖餐共同体であることを深く知っていき、永遠のみ国への望みを確かにされていくのです。これが教団の教会観の素描です。”(教団新報 第4701号 2010年7月3日 4ページ)(No.318)