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週報短文

バックナンバー 2012年 3月分


2012年 3月 25日

家庭集会へどうぞ

 2011年度の主日礼拝も今日が最後、この一年の守りを主に感謝いたします。年度が変わっても、常に変わらず使命を果たし続ける教会です。福音を告げ知らせ、神とお出会いできるような場をもっと豊かに広げたいと願っています。
 その一環として家庭集会があります。どうぞご参加ください。二つの家庭集会ではどちらも初めに讃美歌を歌い、開会の祈り、その日の聖書を朗読します。そのあとテキストの解説部分を読み短く説き明かしがあります。そのあとはディスカッションで、参加者からの質問と感想を互いに聞き合います。茶菓などをいただきながら、楽しく語り合っています。会費は100円です。
 今週はM家家庭集会があります。原則として、その月の最後の火曜日の午後2時から4時に行っています。テキストは「イエスと出会う 福音書を読む」(アルベール・アリ、シャルル・シンガー共著)です。この本の推薦文を紹介しましょう。“イエス・キリストに出会うことによって、どれほど多くの人が生きる道を見出し、またどれほど多くの人が自分の命を賭けて、その道を貫きとおしたでしょうか。イエス・キリストとの出会いは確かに人を変える大きな力があります。そこには神の恵みが働くからです。でも本当にイエス・キリストに出会うためには、イエス・キリストをよく識らなければなりません。この本は、それを助けてくれます。そして私たちに喜びをもたらし、イエス・キリストに生きる者としてくれます。…(カトリック教会 東京大司教 白柳誠一)”
 I家の家庭集会は、原則として月初めの水曜日の午後2時から4時までです。テキストは「人生を導く5つの目的 自分らしく生きるための40章」です。著者はリック・ウォレン(サドルバック教会主任牧師)です。この原著「THE PURPOSE DRIVEN LIFE」は、全米で3000万部を超えており、世界40ヶ国以上で翻訳されています。神が備えられた人生の目的を知り生きるために、同伴してくれる本です。(No.406)

2012年 3月 18日

神との交わり(コイノーニア)

 本年の教会の御言葉、「わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです」(ヨハネの手紙一1・3)を思いつつ、西川口教会アシュラムでは、ヨハネの手紙一を読み通しました。御言葉から励まし、戒めをいただきました。ファミリーの交わりで豊かにされました。
 教会アシュラムのオリエンテーションメッセージで語りました「交わり」の意味をお伝えしたいので、ここにも記しておきます。「交わり」はギリシア語では「コイノーニア」という言葉です(新約聖書はギリシア語で書かれていますので、教会では、ギリシア語がそのまま用いられることがあります)。「交わり(コイノーニア)」は、もともとは物質的なもの、あるいは精神的なものを他人と共有するという意味です。そして、与える側の行為は、受ける側の積極的な協力があって完成されるというものです。このヨハネの手紙一のこの御言葉では、神の命が、わたしたちに御子キリストを通して共有されます。神はわたしたちに惜しみなくご自身の命を、キリストの復活の命を差し出してくださっています。その神の命を信仰によって積極的に受け取るとき、神との交わりが実現しています。御父と御子との交わりの中に招き入れられて、わたしが、あなたが、神の命にあずからせていただきます。それは、まことに大きな、一方的な神からの恵みです。神がそのように望まれ、恵みを備えてくださいました。こうして一人ひとりがそうなることによって、キリスト者はみな互いに神の命を共有することになります。そして、教会は神の命の交わりの共同体とされます。
 ある方がこう言いました。
「真の交わりは、まず一人ひとりが父と御子と共にあることにはじまる。異教は人間の交わりの中に神を迎えようとする」。
 主の日の礼拝、諸集会が、この一人ひとりと神との交わりに根ざしたものとなりますように、主の助けを祈り求めます。教会アシュラムのための執り成しの祈りを感謝いたします。(No.405)

2012年 3月 11日

祈りの種は天に蒔かれ

 教会アシュラム集会を新たな始まりとして、それぞれが置かれたところで、朝毎に、主なる神との祈りの交わりを持つことができますように。
 本日は、東日本大震災から一年。全国のいたるところで祈りがささげられます。
 祈りは聞かれるのでしょうか。マタイによる福音書6章8節には、「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ」とあります。「だからこう祈りなさい」と、主の祈りが続いています。
 このような信仰詩に出会いました。
 “・・・八木重吉の詩集『貧しき信徒』のなかに、主の祈りについて詠ったところがあります。
    祈りの種は天に蒔かれ、
    さかさまに生えて、地にいたりてしげり、
    しげり、しげりて、よき実を結び
    また種となりて天にかえりゆくなり。
 神は必要なものをご存じであって、祈るときは、すでによい実を手にしている、だから祈りなさいという聖書の言葉が、ここには詠われています。
 信仰は、「私」の生き方をもっともよい方向へと転向させるものです。・・・日々の生活の営みのなかで、願い事を心にもって祈ることもありましょう。しかし、願いどおりにならず、意に反した結果が待ち受けていることも一再ではありません。しかし、意に反したことであっても、信仰を通してよく見るなら、結局は、もっともよい実が「私」のために結ばれていることに気付くでしょう。
 信仰的転換を実生活のなかに経験しようとするなら、わが身に起こったことが意に反する出来事であればあるほど、そこから目をそらさないことです。・・・「地上のことから目をそらすな。神は地上の神である」(子ブルームハルト)という言葉を思い出します。神は地上で働くお方であることを信じるなら、地上で私の意志に反したことが起こっていたとしても、神の意志に反したことは起こっていないのです。”(賀来周一著「気持ち整理&生き方発見」より)(No.404)

2012年 3月 4日

西川口教会アシュラムを前に

 いよいよ今週の土曜日から、第36回西川口教会アシュラムが始まります。今回の聖書テキストは『ヨハネの手紙一』、一書全部です。語られるのは、活けるまことの神であり十字架と復活の主イエス・キリストであります。わたしたちはその御方の声として、聖書の言葉に耳を傾ける。そのような聖書の読み方、聖書に聴く祈りを身につけるため、アシュラムの集会が行われます。
 “・・・「アシュラムをひとことで言え」と言うなら「密室運動である」「密室を守ろう」という提唱でございます。「密室」というのは、神様と自分と二人が、「隠れたところにいまし給う神に祈れ」「天の父に祈れ」とイエスさまが仰いました。その様に、隠れたところに、戸を閉じて神様と自分と二人きりになって時を過ごす、そういう時を「密室」と言っています。「密室」を守ろう。…
 最近読みましたがボンヘッファーの本の中に、こういうことが書いてありました。「毎日、毎日、聖書を読んでいる人間には判るけれど、聖書を毎日毎日読んでいくのは、大変しんどい事である」…なかなか「守り続ける」という事はできない。守ろうと思ったら心の中でそれがつまらんことの様に思えて来たりするものですね。そういうものと闘って行かきゃならない。聖書は「読みたいときに読む」「読みたくないときには読まない」というのでは、自分が中心です。そんなのは、神さまを愛しているんじゃない。神様を弄んでいるんです。本当に私達の信仰は神様に私達自身を合わせていくのであって、私達に神様を合わせていく信仰じゃないんです。毎日朝、何時から、何時まで、神さまと自分との時間を持ち続けて行くというこの一つの事も、神さまのために自分があると、思わなければできない。神中心というか、そういう生活をして行くという事において、聖書の人々が告白し聖書の人々が伝えてきた信仰というものに私達は立つ事が出来るわけです。…”(日本でアシュラム運動に全力を尽くされた、榎本保郎師「ちいろば牧師アシュラムを語る」より。)(No.403)