週報短文
バックナンバー 2012年 7月
2012年 7月 29日
失敗しても
昨年7月から、祈祷会・昼間祈祷会において、「サムエル記(上・下)」を学び、今週で第50回目の学びになります。サムエル記は、イスラエルの王国の初期の時代のさまざまな出来事を記述しています。それらが全て人間の意志と決断によって起きていることを語りながら、さらにその背後に目に見えない神の摂理を見ようとする、その視点で描かれています。
祈祷会の学びでは、後半に、わたしが使っている参考資料の説き明かしを分かち合っています。先週、矢内原忠雄著「サムエル書」より励まされた文章を紹介したいと思います。(引用が主ですが、言葉使いを換えているところがあります。)
“信仰の人ダビデも自分の子を教え導くことにおいては失敗した。それほどに子を教えることは難しいのである。・・・我らはダビデが子供を教え導くことに失敗したからとて、彼を不信仰の人として責めることはできない。むしろ肉体を持つ人間の憐れむべき姿を、ダビデはここに代表しているのである。・・・神に全く罪を赦された者でも、幾多の失敗と悲哀と悔恨とを繰り返すのである。それを繰り返しつつ、その真っただ中から神により頼んで、ただ「罪を赦された罪人」としての信仰に生き抜く。これが信仰者の生涯である。・・・
我らの生涯に失敗が多くある。我らの生涯は失敗の生涯であり、敗北の生涯である。失敗は悲しく、敗北は痛ましい。しかしそれを苦にする必要はないのである。失敗は悲しむべきことであるが、決して致命的なことではない。致命的なものは罪である。キリストによって罪を赦された者は、失敗の度ごと、敗北の度ごとに、ますますキリストに依り頼みて、その十字架に身をなげかける。かくして永遠の生命を新たにせられ、希望により希望へと進むことができるのである。・・・”
信仰者でも失敗と敗北が付きまとうことがあります。だからこそますますキリストに依り頼むのです。キリストのほか誇るものもなく、キリストのほか依り頼むものはないわたしたちです。(No.424)
2012年 7月 22日
キングス・ガーデンに出かけて
先週の17日に初めて、草加キングス・ガーデンと、川口キングス・ガーデン(以下K・G)の礼拝の奉仕に出かけました。17日はたまたま、礼拝の奉仕にあたる協力牧師の会「みぎわ会」の、年に一度の全体会が行われましたので、この会議にも出席しました。
草加K・Gも川口K・Gも、「社会福祉法人 キングス・ガーデン埼玉」の施設です。「夕暮れ時に光がある」(ゼカリヤ書14・7)と聖書からの理念を掲げています。毎日礼拝がささげられていますのは、K・Gの大きな特徴だと思います。この礼拝のため、K・Gは、近隣教会から牧師たちの協力を求めているわけです。
埼玉県ではまず川越でK・Gの事業が始まり、その後草加、数年前には川口でも高齢者福祉事業が始まりました。今までに、西川口教会からも幾人かの兄姉が、川越、草加、川口の施設を利用してきました。
17日は、草加K・Gに朝9時前までに着くように入り、職員のためのショート・メッセージと、入居者のための礼拝(9時半から約30分)の司会と説教をしました。それから、川口K・Gに(車で)移動して、入居者のための礼拝(10時40分から約30分)の説教をしました。聖書は新改訳聖書で、讃美歌は既存の讃美歌集などから選曲されたオリジナルの歌集が用意されていました。礼拝後に、何人かの入居者の方からお声をかけていただきました。日本基督教団の教会の信徒である、という方もおられました。
みぎわ会の先生方は40数人おられるとのこと。日本基督教団の教師、そして、女性牧師は少ないようです(数人)。埼玉では、越谷、吉川、八潮、川口、草加、八潮、蕨、戸田などから、東京は足立区などから、千葉方面からも奉仕に来ています。
みぎわ会の全体会では、高齢者伝道と高齢者福祉について伺いました。牧師たちの交わりの中で考えたことなども、また書きたいと思います。(No.423)
2012年 7月 15日
KM兄、天に召される
KM兄の体に、昨年の2月にすい臓ガンが見つかり、闘病の日々が始まりました。西川口教会でも、また教会外の多くの方々による、執り成しの祈りがささげられていました。K兄は一所懸命生きぬいて、ついに7月10日、天に召されました。66歳でした。
幸いなことに、K兄は住み慣れた我が家で闘病の日々を過ごしました。K兄が自宅で療養できたのは、Y姉が看護師であることに多く負っており、最高の環境でした。体調を崩してからは、主日礼拝にはご子息のNさんがずっと送迎してくださって、今年のイースター礼拝まで、できる限り出席されました。一回一回、かけがえのない礼拝と感じていました。主日礼拝に来られなくなってからは、多くの兄姉がお見舞いに訪れました。教会の交わりの尊さを思います。
今月の月報に掲載しました、KM兄のメッセージ「祈りと勝利」をここに転載します。
“発病から一年半くらい経過しているが、その戦いに皆様の祈りにどれ程励まされているか、その結果が今日に結びついていると思う。クリスチャンは祈りが中心で、すべて祈りに応えてくださるというかたちでこんなにうれしいことはない。
今は高齢化社会で、どこの家庭でも、どこの教会でも戦っている。明日の教会を信頼し、日々、信じて働いていけるよう願っている。
病気が完治したから勝利とか、病気が治らなかったからキリストの負けとか、世間的に判断するのではなく、私自身どういうことが勝利に結びつくのか。完治はしない、どうなるかわからないが、信頼しているから勝利をはっきり思っている。
知り合いの方を教会に誘い、どんどんイエス・キリストのみこころを伝えてほしい。我が家にも愚息が一人いるが、イエス様は必ず息子に応えてくださると確信している。
神はわたし自身に対し、信頼と働きをもって勝利させてくださる。”(No.422)
2012年 7月 8日
福音宣言
先月開催された、地区IT祭りで、カトリック教会の福音宣教からプロテスタントの私たちとしては学ぶべきことが多くあると思いました。前後しますが、少し前の「信徒の友」2012年3月号に、カトリック多摩教会の晴佐久昌英司祭の講演録が掲載されました。この講演録からも、学ぶべき言葉を与えられました。一部紹介します。
“今、わたしは、福音を「説明」するのではなく「宣言」する司祭と言われています。…ずっと「説明」をしてきました。でも神さまが私を通してお語りになりたいことは「説明」ではなく、もうすでに実現された福音の言葉「あなたは救われる」という宣言なのだ、ということを。
聖書を読むとイエスさまはあらゆるところで宣言をしています。「恐れるな」「あなたは救われた」「天国にいる」と。いずれもシンプルでストレートな宣言です。今は肉体を持ってイエスさまはこの世界におられません。だから私たちの肉体を通して同じようにこの宣言をなさるのです。「もうだいじょうぶ。ここに来たらもうだいじょうぶだよ。信じてほしいこの教会を、この礼拝を。よく来てくれましたね、ここには神さまがおられるからあなたは救われます」。これがキリスト教の本質です。教会の使命の本質です。…私は、教会に新しい方が来られたらまず「神はあなたを愛しています。だいじょうぶ、あなたは必ず救われます」と宣言します。なぜなら、それは私の考えではないからです。神さまが福音の宣言をもって世界を救いたいと願っていらっしゃるのです。…誰であれ聖書を一回読んだら、もうそれは神さまから語りかけられているのです。同じように牧師の説教を一回聴いたら、もうそれは語りかけられているのです。教会に来た、そこでお茶を一杯飲んだ、そこにもうすでに語りかけがあるのです。…
もう神の国は始まったし、イエスは来られました。それは誰も消すことができません。何も恐れずに「救いはここにある」と宣言することのできる時代に私たちは生きています。・・・”(No.421)
2012年 7月 1日
生涯の終わりを見て
先週は思いがけず、埼玉地区の先生方の相次ぐ訃報を受け、言葉なく、驚くばかりでした。水曜日午後は、埼玉新生教会にて中村忠明先生の葬儀に、木曜日午後は、日野原記念上尾栄光教会の長橋晴子先生の葬儀に参列しました。先生方のご遺族、御教会・関係者の方々に、主の慰めを祈ります。
わたしは、「伝道者として死ぬ」ということを思わずにはいられませんでした。「あなたがたに神の言葉を語った指導者たちのことを、思い出しなさい。彼らの生涯の終わりをしっかり見て、その信仰を見倣いなさい。」(ヘブライ 13・7)の御言葉を思い起こしていました。
中村忠明先生は、66年前、埼玉新生教会を開拓し、後に、教会付属幼稚園も設立(今年3月で卒園者は5000人を超えたとのこと)。ご自分が開拓した教会と設立した幼稚園に仕え続けてこられました。昨年秋に体調を崩され、今年3月に教会を辞任して隠退教師となり、また園長を退かれたばかりした。ご子息であり、現在の主任牧師である中村眞先生が、「父は、キリストに結ばれて生きた生涯であった。」とおっしゃいました。昨年、忠明先生の説教集をいただきましたが、キリストへの愛にあふれている説教ばかりでありました。
長橋晴子先生は、昨年3月に東京聖書学校を卒業され、翌月の4月、日野原記念上尾栄光教会の主任担任教師として着任されました。約1年間の教師としてのお働きであり、人間的には、もっと働いていただきたかった、残念であったという思いがわいてきます。教会の役員の方のご挨拶に、長橋先生は着任後、教会の宗教法人取得のために、法的な手続きを忍耐強くなし、長年の祈りの課題であった宗教法人の登記を完了してくださった、と感謝が述べられました。そのご挨拶を聞いて、「主の業に常に励みなさい」(コリント一15・58)を思いました。「後で」ではなく、今、この時、主に従うこと、命は主の御手にあるのだから、と心に刻みました。(No.420)
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