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週報短文

バックナンバー 2012年11月


2012年 11月 25日

「クリスマスの夕べ」へどうぞ!

 今年は12月2日の日曜日からアドベント(待降節)に入ります(12月24日まで)救い主イエス・キリストの誕生を祝うクリスマスを、祈りつつ備えて待つ期間であると共に、やがて必ずお出でになり、この世界の救いを完成させてくださる再臨のキリストを、特に思いつつ待ち望む期間です。「マラナ・タ」(主よ、来てください)と、主を呼びましょう(コリント一16・22)。
 アドベントに入り、すぐにクリスマスの集会があります。毎年恒例になりました「クリスマスの夕べ」が、今年も川口リリア音楽ホールで開催されます。12月4日(火)午後7時開演です。すでにチラシが配布されています。ご家族やお友だちをお誘いして、ぜひいらしてください。
 毎回、キリスト者の音楽家をお迎えして、演奏と証しをしていただいています。今年の音楽ゲストは、オルガニストの河野和雄さんです。リリア音楽ホールの素晴らしいパイプオルガンの演奏をとても楽しみにしています。さらに今回は新しい試みとして、音楽と絵画のコラボレーション、絵画をスクリーンに映して、絵を観ながら、オルガン演奏を味わい楽しんでいただきます。画家の松岡裕子さんのキリスト教絵画を十数枚ほど、オルガン演奏に合わせて映します。今回の集会のチラシに松岡さんの作品の一つが載っています。希望を感じさせてくれる素晴らしい絵画です。
 今回のメッセンジャー(説教者)は、罪人の友 主イエス・キリスト教会の牧師、進藤龍也(しんどう・たつや)先生。進藤先生は元ヤクザ、服役中に聖書を読んで信仰を与えられ、出所後洗礼を受け、さらに献身に導かれ、神学校卒業後、川口で開拓伝道を始められました。進藤先生は福音とご自身の救いの証しを携えて、刑務所伝道や、ロータリークラブや学校などで講演活動にも励まれ、何冊も本を出版して文書伝道もされています。東日本大震災の後は被災地へ奉仕と伝道にたびたび出かけておられます。伝道に燃える進藤先生のメッセージも楽しみにしています。(No.440)


2012年 11月 18日

三枝先生との出会いを喜ぶ

 本日の秋の特別礼拝に、三枝道也先生、育代先生を講師としてお迎えできたことを、神に感謝しています。心から喜んでいます。
 三枝道也先生と育代先生は、1982年に西川口教会の2代目の牧師として着任され、8年間奉仕してくださいました。わたしは西川口教会で、三枝先生方が着任される前のクリスマスに洗礼を受けましたので、教会生活、信仰生活については、三枝先生方に導いていただきました。高校生の頃、そして学生時代の教会生活を振り返ってみますと、教会の兄姉はもちろんのこと、三枝先生方の愛と忍耐によって育てていただいた、とつくづく思います。自分勝手な面が多々ありました。神のお導きにより、今はこの教会の牧師ですが、牧師になってみなければ気づかなかった様々なことを覚えるときに、三枝先生方の礼拝・伝道・牧会の姿勢に、学ばされることばかりです。
 先週のディボーションでこのような御言葉を読み、力づけられました。命を救うために、神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのです。(創世記45・5) 神は、一人ひとりのことを心にかけ、救いのために、先立つ人をお遣わしになるお方です。今までの歩みの中で、そのような方々を数多く与えられていますが、三枝道也先生、育代先生もわたしの救いのために備えられた存在でした。わたしは洗礼を受けておりましたが、信仰者は常に、「恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努め」る者です(フィリピ2・12)。良き導きをいただけたことを、そして、今日に至るまで、主にある交わりに共に生かされていますことを感謝します。
 今年度の初めには、特別礼拝の講師は未定でしたが、今年の5月の関東こころの友伝道講習会で三育代先生と再会し、先生方の近況を知りました。特別礼拝にいらしていただきたいとお願いし、先生方も快く引き受けてくださいました。主の導きを感謝、主をあがめます。(No.439)


2012年 11月 11日

苦しむことも恵み

 “・・・「サラダ記念日」の著者で歌人の俵万智さんが、こんなことを書いています。 「自分が結婚する相手として、この人となら苦労しないだろう、と思う人を選ぶか、この人となら苦労しようと思う人を選ぶか。自分は、後者を選ぶ」。 ・・・「この人と一緒なら、苦労をしなくて済むだろう」と思う人よりも、「この人と一緒なら、苦労をしても良い」と思える人を、自分は結婚相手に選ぶというのです。…こういう結婚であれば、実際に苦労することになっても、夫婦の絆はより一層強まるでしょう。しかし、「この人となら苦労しないで済みそうだ」・・・で一緒になったのであるなら、実際に苦労が来たときには、「こんな筈ではなかった」と逃げ出すことになるだろうと思います。
 その人を信頼し、その人を本当に愛する時には、その人と一緒に苦労しようという気持ちになります。同じ様に、主イエスを心から信じ、心から愛するならば、主イエスと共に苦労しようという気持ちに導かれる筈です。・・・ パウロは、「あなたがたは、キリストを信じることだけでなく、彼のために苦しむことも恵みとして与えられている」(フィリピ1・29)と言っています。 ・・その苦しみのただ中において、共に苦しんでくださる主イエスと出会い、主イエスと結びつくことができる。そのことが恵みであるということです。
 この「主イエスが、共にいてくださる」という恵みは、じっと動かずにしていては分かりません。一歩踏み出すときに、初めて、主も共に歩いていてくださることが分かります。十字架の上でも、なおこの私のために、執り成しの祈りをしてくださっている主イエスの恵みは、自分が自分の十字架を背負って歩み出すときに、初めて分かるのです。・・・「あなたは決して一人ではない。私が共にいる」という主イエスの御声を聞くことが出来るのです。・・・”(清水ヶ丘教会・柏 明史師のホームページ説教より)
 今日から会堂建設検討会が始まります。主の恵みを見出す歩みとなりますように。(No.438)

2012年 11月 4日

身体のよみがへりを信ず

 召天者合同記念礼拝にあたり、わたしたちは最後にはどうなるのか、ということをお伝えしたいと思います。わたしたちは、キリストの教会の信仰の表明として、毎主日、使徒信条を告白していますが、その中に、「身体のよみがへり・・を信ず」という告白があります。先に神の御もとに召された兄姉も、地上の生涯をやがて終えることになるわたしたちも、究極の終わりの時には、体ごと復活させられる、という希望を持っています。死者の中から復活されたイエス・キリストと同じように復活するという希望です。
 イエス・キリストは、人となられた神です。わたしたちと同じ体をお持ちになりました。主イエスは食べることも飲むこともお好きだったようです(マタイ 11・19より)。イエスは疲れて座り込まれることもあり、人々からのもてなしを喜んで受け入れられたこともありました。イエスの地上の生涯の終わりは十字架の上でした。極限の苦しみを引き受け、「十字架から降りるがいい」と、侮辱される苦しみも、その身に味わわれました。わたしたちの罪を贖うために、神の裁きをその身に負われました。イエスは死ぬために人間と同じ者となられた神の子でありました。
 牧師として、体の弱さや病との闘いに忍耐している兄姉をお見舞いし、祈るときには、いつも十字架のイエスと重なります。動けない自分に耐え、そしてどうすることもできない苦しみに耐えている姿を見て、キリストを思います。
 十字架で死なれたイエスは、墓に葬られ、三日目に死から復活させられました。福音書を読みますと、イエスの復活は手や足があり、復活のイエスはお魚も召し上がり(ルカ24・42〜43)、二度と死ぬことはない栄光の身体を伴って、復活させられました。
 わたしたちも主イエスの復活にあやかって、体ごとよみがえる、その希望を抱いています。この希望がお一人おひとりの慰めとなりますように。(No.437)