週報短文
バックナンバー 2014年7月から12月
2014年 12月 28日
主の恵みを感謝して
2014年の最後の主日礼拝を迎えました。クリスマスの諸集会も守られ、新来会者がイブ礼拝には特に多く与えられ、感謝でした。一方で主日礼拝に来られなくなっている方が少しずつ増えているので、祈らされています。一年を振り返り、祈りと感謝とを主にささげています。この年は、西川口教会がこの地にこの会堂を建て、献堂式をしてから50年の記念の年で、秋には特別集会を行うことができました。
この年、この世界にもこの国にもいろいろなことがありました。今年は、東京オリンピックから50年、東海道新幹線開業から50周年とのことでした。キリスト教界関係では、今年は、三浦綾子さんの小説「氷点」の出来事から50年でした。そして今年の秋に、綾子さんの御連れ合いの三浦光世さんが召されました。三浦綾子さんの信仰に根差した数多くの小説やエッセイ、ご夫妻の愛の業と祈りによって、どれほど多くの人たちが慰めと励ましを受け、神の元に導かれたことかと思います。三浦綾子さんも光世さんもキリストの証人として用いられたと、改めて思わされました。
先週と今週は、祈祷会がいつも通りにできないので、詩編の学びをお休みして、祈りについて学びました。そこでは、感謝をささげることについても、信仰の戦いがあることを学びました。
しかし、この食物は、信仰を持ち、真理を認識した人たちが感謝して食べるようにと、神がお造りになったものです。というのは、神がお造りになったものはすべて良いものであり、感謝して受けるならば、何一つ捨てるものはないからです。神の言葉と祈りとによって聖なるものとされるのです。(テモテ一4・1〜5)
結婚やある種の食べ物を禁じる誤った教えが当時の教会に入り込んでいたようです。しかし神の霊に導かれる人は、神の言葉と祈りとによって、食べ物も、結婚生活も、生きることそのものを、神からのものと感謝して受けます。主の恵みを感謝して、主と共に、新しい年へ踏み出します。(No.548)
2014年 12月 21日
共におられる神
本日はアドベント第4主日。12月25日の降誕日もいよいよ近づき、今日の主日礼拝はクリスマス礼拝としてささげます。
教会生活を長く過ごすようになれば、それこそ何度でも聞いてきた御言葉があります。マタイによる福音書第1章23節です。
「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。
その名はインマヌエルと呼ばれる。」
この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。
救い主の誕生が、イザヤ書第7章14節に記されている預言の成就として告げられました。マタイによる福音書は、福音を聴く人のためにこの名前の意味を告げてくれました。救い主は、わたしたちと共にいてくださる神であられます。
礼拝に集うようになり、繰り返し語られるのは、主イエスが共にいてくださるということです。わたしたちは、たとえ誰かと共にいても、その人と心が通い合わないのであれば、一緒にいること自体がつらくなってしまいます。そういう経験をしている人は少なくありません。自分が心頑なになってしまうこともあれば、相手が心を閉ざしてしまうこともあります。一方、共にいてくれる人が自分に寄り添い、理解してくれれば、心開かれ、勇気が与えられます。
イザヤ書第53章の御言葉、「彼は軽蔑され、人々に見捨てられ多くの痛みを負い、病を知っている。・・・ 彼が担ったのはわたしたちの病 彼が負ったのはわたしたちの痛みであった」(3、4節)。この主の僕の歌が、主イエスによって実現したと教会は信じています。主イエスがわたしたちの病、悲惨、罪、死を担ってくださったので、わたしたちの病、悲惨、罪、死は取り除かれ、わたしたちは癒され、救われます。救いそのものであられる御方が共にいてくださる。わたしたちと共にいるために主イエスはお生まれになったのです。この方の名を呼ぶ者は、だれでも皆救われるのです(ローマ10・13より)。(No.547)
2014年 12月 14日
来年の教会の御言葉
2014年も12月半ばで、あと半月を残すばかりとなりました。先週7日の定例役員会で、わたしが牧師として選び取った来年の御言葉をお伝えし、了承をいただきました。「愛をもって互いに忍耐し、平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい。」(エフェソの信徒への手紙4・2〜3)。
今月の西川口だよりの巻頭言にも書きましたが、今年、西川口教会にとって特記すべき出来事の一つは、3月末に現会堂の耐震診断を行い、その結果を受けて、10月から会堂建築検討委員会が立ち上がったことです。先月28日、現在関東教区総会議長であり、同じ埼玉地区の上尾合同教会の秋山徹牧師より、会堂を建てるとはどういうことか、教会の信仰の筋道にたったお話を伺いました。会堂建築の具体的なことや実際的なことについての質問にも、その筋道にたちつつ、丁寧に答えてくださいました。その後、上尾合同教会の会堂、幼稚園のお部屋も見学しました。その記録は今週中にまとめて、出来れば今度の日曜日までに配布したいと思っています。
もう一つ特記すべき出来事は、西川口の地における伝道開始から50年を記念して特別集会(礼拝と講演会)が行われたことです。大船渡から山浦玄嗣先生をお迎えしました。山浦先生は、神の言葉を力強く、また温かく、ユーモアをもって語られましたので、わたしたちは喜びに包まれました。このようにして献堂50年・西川口伝道50年を記念できました。この地で宣教を続けて来られたのは、まことに大きな神の恵みであることを深く心に刻みました。特別集会も録音から文章を起して記録を残したいと思っています。この記念の時、神が遣わしてくださった講師の言葉をしっかりと受け取りたいからです。それが、次の新しい神の御業へつながると信じるからです。
会堂建築は皆が力を尽くしていかなければ、成し遂げられないことでしょう。その力をくださるのは神です。聖霊による一致を願い求めます。(No.546)
2014年 12月 7日
悲しみの中にこそ
先月、西川口教会は愛する2人の教会員を神のみもとに送りました。他にもこの年に地上の生涯を終えていった方々があり、今なお愛する者を喪い悲しみの中にある方々がいます。寄り添うばかりのわたしですが、やはり喪失の思いがあります。そのように感じていたところ、「信徒の友」12月号の加藤常昭先生の巻頭言「悲しみの中にこそクリスマスの喜びを」に、とても慰められましたので、一部紹介いたします。
“先月号で報告したように、妻が地上の生涯を終えました。
私は妻を喪いました。喪失の悲しみの中にあります。・・・日本には、愛する者を喪った者は喪に服し、一定の期間は年末年始の挨拶もしてはならないという風習があります。・・・
喪中の者は「クリスマスおめでとう!」と言ってはならないのでしょうか。
確かに、主のご降誕を歌う歌を共に歌った最愛の者が今年はいません。そのことが悲しみを倍増させます。しかし、羊飼いを囲んだ闇を照らし、神の栄光と地の平和を告げた天使の歌声は、私の苦しみの深みには届かないのでしょうか。
いいえ、とんでもありません。むしろそこでこそよく聴こえるのです。むしろそこでこそ、主が赤ちゃんになって生まれてくださったことがもたらす慰めと喜びがわかるのです。ですからその慰めと喜びを歌ったらいいのです。語ったらいいのです。悲しむ者、苦しむ者は今こそ、その悲しみを訴えていいのです。そこでは喪中欠礼などという慣習は吹き飛ぶのです。
クリスマスは教会堂に集まることができる健康な者たちだけの祝いではありません。どんな悲しみ、苦しみの底にいる人でも打ち勝つことができる慰めが与えられた出来事の祝いです。だから闇にうずくまっている人のところにこそ届けるべきなのです。
私たちが天使になり、その喜びの歌声を届けましょう!”(No.545)
2014年 11月 30日
SK兄召される
今年の9月半ばから入院していたSK兄が、先週11月24日朝、御連れ合いのE姉に見守られ、息を引き取りました。73歳でした。葬儀は西川口教会で行われました。
S兄は、E姉と共に約1年礼拝に励み、初心者会にも出席し、昨年のクリスマス礼拝で洗礼を受けられました。その洗礼志願の証を紹介したいと思います。
“今年(2013年)、年明けて間もなく、気づけばこの礼拝堂にわたしは居たのです。突然難病の診断を受けた手術直前、何の所縁(ゆかり)もない此処(ここ)に直行した理由は、全くわかりません。人智を超えた力に引き寄せられたとしか言えません。牧師はその折、掛け軸に掲示されたばかりの主の御言葉を指し示されました。不覚にも落涙した「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」(ヨハネ15章16節)は、今も私を奮いたたせます。
それが全ての始まりでした。試行錯誤の1年を経て、私の真に求めるものが・・・疲れた私を振り返りまた振り返る「永遠の同伴者の慈しみの目差し」であることに気づきました。・・・
復活したイエスは、エマオの弟子たちを開眼させこう言わしめます。「(師が)道を説き、聖書の説明をして下さったとき、私達の心は燃えていたではないか」と。
人間のはかなさ、弱さと、愛・希望・信仰はまさに裏腹であると思います。私は「奇蹟的な」病の完治などを期待しておりません。心の貧しい人の貧しさ、悲しむ人の涙、苦しむ人の絶望感を理解できないことが、どんなに間違っているかを、主イエス・キリストは言いたかったのではないでしょうか。・・・”
長い人生からみれば最晩年の日々、S兄は貪るように聖書を読みました。人間が「塵にすぎないこと」(詩編103・14)を痛感し、そのような自分に「永遠の命」という希望を与えられたキリストに依り頼んで過ごされました。(No.544)
2014年 11月 23日
ヤコブの祝福
朝ごとに、聖書の御言葉を神からの語りかけとして聴く幸せをいただいています。聖書日課の本や雑誌は数多くありますが、現在は「信徒の友」に掲載されている「日毎の糧」の聖書日課に従って聖書を読んでいます。西川口教会でも多くの方がこの日課を用いており、わたしも毎朝分かち合いメールを送って、同じ聖書の言葉に共に養われていることをうれしく思っています。
さて、昨日(11月22日)までの約1ヶ月間、創世記のヨセフ物語が聖書日課の箇所でした。何度読んでもヨセフ物語はおもしろい。どこにいてもどんなときも神を見上げて、自分にできることをしたヨセフに励ましを受けました。まことの神を知らない異教の国エジプトの牢獄にも神は臨在し、ヨセフと共におられたことに力を得ました。
詳細は聖書を読んでいただくことにして、最近の聖書日課から、深く心を動かされた御言葉を分かち合いたいと思います。死を目前にして、ヨセフとその子どもたちを祝福したヤコブの言葉です。
「わたしの先祖アブラハムとイサクがその御前に歩んだ神よ。わたしの生涯を今日まで導かれた牧者なる神よ。 わたしをあらゆる苦しみから贖われた御使いよ。どうか、この子供たちの上に祝福をお与えください。どうか、わたしの名とわたしの先祖アブラハム、イサクの名が彼らによって覚えられますように。どうか、彼らがこの地上に数多く増え続けますように。」(創世記48・15〜16)
ヤコブが神を呼ぶその言葉の中に、彼の信仰の告白があります。ヤコブの人生はまことに波乱万丈で、労苦に満ちていましたが、神の知らない苦しみは何一つありませんでした。このとき彼は高齢の貧しい羊飼、まもなく死ぬのですが、神の目には、神に選ばれ、神に祝福された人であり、神の祝福は死においても揺るがず、死の間際まで信仰者は祝福を告げることができるのです。このヤコブの祝福が、今に至るまで成就し続けていることに、目がくらむような驚きを覚えました。(No.543)
2014年 11月 16日
MK兄召される
お祈りに覚えていただいていたMK兄が先週の11月12日夜、ご家族に見守られ、眠るようにして息を引き取りました。76歳でした。家族葬がS病院礼拝堂(長野県O町)で行われ、わたしは14日の葬送式に参列いたしました。
MK兄は、60代半ば頃から手足のしびれ感を訴えられ、2005年に難病のALS(筋萎縮性側索硬化症)と診断されました。この病気は原因不明で治療法がなく、筋肉の委縮と筋力低下をきたします。本当に厳しい病気です。M兄がこの病であると診断されたころ、お孫さんの数年にわたる摂食障害が癒されたという出来事もありました。これらのことがきっかけとなって、M兄は、御連れ合いのY姉と共に、2006年11月から西川口教会の主日礼拝に通うようになりました。M兄が礼拝にお出でになったときは、うれしい驚きでした。Y姉に「教会に行ってみるか」と語られたそうです。一所懸命礼拝に来られていましたが、翌年の夏頃から出席できなくなりました。代わりに、Mさんのお宅でプライベートの家庭集会を始めました。父も参加させてもらい、ヨハネによる福音書を少しずつ学びました。この家庭集会が洗礼準備会となりました。2007年クリスマス礼拝において、M兄は洗礼を受けられました。Y姉もご一緒でした。
M兄は、自宅での暮らしがだんだん困難となり、2009年春からご子息が勤めておられるS病院に入院されました。わたしは年に一度しかお見舞いに行けませんでしたが、この病院はキリスト教主義(日本聖公会関係)で、チャプレン(病院付き牧師)がおり、チャプレンが折々にM兄を訪問して、御言葉を読み、祈ってくださいました。何よりもY姉、ご子息のMH先生とご家族が心を込めて日々お世話されました。病院のケアも行き届いておりました。療養の環境が整えられたことは、厳しい病に耐えているM兄への神のお恵みと信じます。最期の日々も主の守りの中に置かれ、安らかに過ごされました。(No.542)
2014年 11月 9日
聖書が語る成長
本日の一般礼拝では成長祝福式をいたします。七五三のお祝いを、キリスト教会が取り入れたものです。いのちの造り主である神様の祝福がありますように、とりなし祈ります。
生れてから成人する頃までの、子供たちの心身の成長はまことに目を見張るものです。「大きくなったねえ!」と感嘆の声を上げてしまいます。
けれども、わたしたち大人も成長させていただけると、聖書には記されています。それは、キリストの恵みを受けているからです。キリストの恵みを受けて、変わらない人はいません。恵みはキリストに向かって成長させてくれると、聖書が語っています。ですから、子供も大人も共に成長するのです。それはとてもうれしいことではないでしょうか。
「こうして、聖なる者たちは奉仕の業に適した者とされ、キリストの体を造り上げてゆき、ついには、わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです。こうして、わたしたちは、もはや未熟な者ではなくなり、人々を誤りに導こうとする悪賢い人間の、風のように変わりやすい教えに、もてあそばれたり、引き回されたりすることなく、むしろ、愛に根ざして真理を語り、あらゆる面で、頭であるキリストに向かって成長していきます。キリストにより、体全体は、あらゆる節々が補い合うことによってしっかり組み合わされ、結び合わされて、おのおのの部分は分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆくのです。」(エフェソ4・12〜16)
この御言葉から、教会から離れ、孤立していては成長できないと分かります。言葉が重要です。間違った教えではなく、愛に根ざした真理の言葉が語られ聴かれるところ―まさに礼拝において―わたしたちがキリストに向かって成長します。それによって、キリストの体である教会も成長します。キリストが成長させてくださるのです。(No.541)
2014年 11月 2日
復活の信仰
先月の10月19日は、祝福に満ちた特別集会となりました。講師の山浦玄嗣先生は、まことに生き生きと神の言葉を語ってくださいました。山浦先生が講演後の質疑応答で語り、ご著書(「イエスの言葉 ケセン語訳」文芸春秋発行)にも書かれた復活について紹介したいと思います。本日は召天者合同記念礼拝ですから、復活の信仰をいっそう鮮やかにさせていただきたいと祈ります。
“「わたしは復活であり、命である。」(ヨハネ11・25)。「復活」はアナスタシスの訳です。動詞アニステーミの名詞形で、「立ち上がる/立ち上がらせる」という意味です。・・・横に倒れているものが立つこと、あるいはそれを立てることです。・・・寝転がっている人が立ち上がることもアニステーミです。ここから、死んだ人が生き返るということもアニステーミといいました。それでアニステーミを「復活する」と訳します。・・・イエスは死んで三日目に復活したそうです。・・・これを見た人々が「わたしは確かに見たのです」と言いはり、殺されてもなおその証言を変えなかったということから、これはやはり神様の御業なのだと信じているわけです。・・・これを他動詞にして「わたしは復活させる」と理解しますと、それはわたしたちがこの世の生を終わって死ぬときに、イエスはわたしたちを必ず復活させてくださるという信仰につながります。・・・でも、アニステーミを「復活」に限定して考える必要はありません。その本来の意味である「立ち上がる/立ち上がらせる」意味にとって考えることもできます。・・・打たれても倒れても必ず立ち上がるイエスの姿は「わたしは立ち上がる」という言葉にぴったりです。では「わたしは立ち上がらせる」という意味に理解するのはどうでしょうか。じつはわたしが大好きなのはこの意味です・・・人生の重荷に疲れはて、生きているのに死んでしまったようにぶっ倒れ、息も絶え絶えになっている人を、イエスは立ち上がらせます。・・・「さあ、立ち上がれ。俺がついているぞ!」といって、引っぱり起してくださる。”(No.540)
2014年 10月 26日
会堂建築検討委員会を始めます(2)
今日の礼拝後、第1回会堂建築検討委員会を始めます。10月12日の週報短文に書いた通り、教会は、教会規則の手続きを踏んで行くこと、教会総会での決議を重んじるべきこと、その決議に至るためには、合意形成に時間がかかること、それは、それぞれの意見をできるかぎり互いに聞き合わなければならないためであること、これらのことをしっかり心に留めて取り組んでまいりましょう。
それと同時に、わきまえておかなければならないのは、これらの合意形成の判断基準となるものは何か、です。「もう分かっている」と言われるかもしれませんが、改めて書いておきたいと思います。これから、時間をかけてそれぞれの意見を大切に聞いていきますが、それらの多様な意見を根底のところで導くのは主なる神であられる。そう信じる。わたしたちは、わたしたちの願いをかなえるための会堂を建てるのではない。キリストを宣べ伝えるために、主を礼拝するために、礼拝堂のある教会堂を建てるということ。それは主の家を建てるということ。主の家は主のものです。わたしたちの所有物ではない。主のものである教会堂を建てるのです。そういう信仰が大前提です。そして、その信仰にふさわしい会堂の形を求めていくことになります。
奇しくも今週は、10月31日の宗教改革記念日を迎えます。ルターが教会あてに質問状を出したことがきっかけとなって、ルターは教会改革の担い手とされました。わたしたちの教会の源流をたどれば、この出来事にさかのぼります。プロテスタント教会は、御言葉と聖礼典(洗礼と聖餐)によって立てられます。信徒はすべて祭司であり階級の差はなく(万人祭司)、共に神の前に同じ地平に立ちます。わたしたちの信仰が見えるような礼拝堂、教会堂を求めていくことになります。 会堂建築へ向かって、共に主の前に、上からの知恵と力を祈り求めて参りましょう。(No.539)
2014年 10月 19日
出会いのプレゼント
2012年の秋、説教塾の仲間の牧師に勧められ、山浦玄嗣先生の著書「ガリラヤのイェシュー」(2011年出版)を読みました。衝撃でした。礼拝説教は、新約聖書のギリシア語を読み、注解書を読み、準備します。ギリシャ語がよくできないのでいつも苦労しています。ですから、カトリック教会の信徒の方が、ギリシア語から学び、故郷の気仙地方の言葉をもって、新約聖書四福音書の翻訳をされた(「ケセン語訳新約聖書」)ことに、さらに全国各地の方言を学び、それらを福音書の登場人物にふさわしく用いて、今までには全くない、新しい日本語訳新約聖書四福音書である「ガリラヤのイェシュー」を書かれたことに大変な衝撃を覚えました。ふるさとの言葉で神の言葉を伝えたいと願い、そして、長い時間をかけて、医師としての本業のかたわらにコツコツと夢に向かっていかれたことを知り、深く感動しました。
2013年2月、仙台での研修から足を延ばして大船渡を訪れ、知り合いであった日本基督教団大船渡教会・村谷正人牧師に取り次いでいただき、この本と出会った衝撃と感動を、山浦先生にお会いしてお伝えできました。十分に幸いなことだと思っておりましたが、この報告をしたところ、やがて西川口教会の役員会で、山浦先生をお招きしたいという声が上がりました。そして山浦先生の快諾をいただき、この度の来訪が実現いたしました。ちょうど西川口の地で伝道を開始して50年の記念の年に、この特別集会ができますことを、神の計らいと感謝しています。
神は不思議なことをなさいます。歴史に「もし」はありませんが、もし村谷先生が大船渡におられなかったなら、大船渡に行っていただろうか、もし説教塾の仲間に勧められても山浦先生の本を読んでいなかったら、どうだっただろうか。わたしの思いを超えて、出会いは広がっていきました。そして、今日の集会に来られた方々と山浦先生との出会いがありました。すべて神のなさったことです。ハレルヤ。(No.538)
2014年 10月 12日
会堂建築検討委員会を始めます
現住陪餐会員の皆様にお伝えします。役員会では、会堂建築委員会の立ち上げについて協議し、次のように決定しました。
「・会堂建築委員会は第4主日午後に行う。
・第1回会堂建築委員会は10月26日午後12時半から14時半まで。
・構成員は、現在の役員会より牧師と役員9人、交励会から2人、マリア会から3人、希望者、とする。役員は今年度末で任期満了の人も会堂建築委員として引き続き奉仕する。」
会堂建築検討会は、出席者はある程度決めていましたが、出入りの自由な会合でした。しかし、会堂建築委員会は、「委員」の集まりとなります。会堂建築委員となる人には、当事者意識を持ち、会合にできるかぎり出席し、責任を負っていただきたい。若い人も委員になっていただきたいです。
牧師として、現住陪餐会員に知っていただきたいことは、先日配布した資料のように、教会の財産の処分の決定には、規則上の手続きを踏んで行く必要があること、教会総会で決議したことは重んじられるべきことです。ですから、合意形成には時間がかかります。例えば現住陪餐会員が90人いたら、自分の意見は90分の1が通れば良いということです。それぞれの意見をできるかぎり互いに聞き合わなければならない。それは、一人ひとりがキリストの体なる教会の大切な部分であるからです。
一つ一つを丁寧にしていくところ、堅実な教会形成をすることになると、希望を持っています。「わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、 忍耐は練達を、練達は希望を生むということを」(ローマ 5・3〜4)。キリストが救いのために苦難を引き受けてくださったように、わたしたちも、聖霊に導かれ、励まされ、労苦をいとわず、取り組んでいくことです。苦しみが大きいほど、喜びもまた大きい。会堂建築委員として立ってくださる方を、お待ちいたしております。 (No.537)
2014年 10月 5日
主にある出会いを感謝
年に一度の休暇、今回は栃木県に参りました。その目的は、近江八幡のアシュラムセンター主催の、日光オリーブの里アシュラムに参加するためでした。アシュラムセンターとは、「ちいろば牧師」で有名な榎本保郎(えのもと・やすろう)先生が、1975年に始められたアシュラム運動の活動団体です。2007年からアシュラムセンター主管牧師には、保郎先生のご子息の榎本 恵(えのもと・めぐみ)先生が就いておられます。
参加した目的は、西川口教会で毎年アシュラムを行っていますが外部のアシュラムに参加してこなかったので、基本を学び直すため、そして榎本恵先生のメッセージを伺うためでした。アシュラムは9月25日・26日でしたが、一足早く宿に24日に前泊することにしました。それが幸いして、榎本恵先生はじめアシュラムセンターのスタッフの皆様が前泊されたので、食事の時など親しくお話をすることができました。来年はスタンレー・ジョーンズ先生が、日本の教会にアシュラムを導入して60年の記念の年です。その記念のために、西川口教会の初代牧師の横山義孝先生がアシュラムセンターにお出でになったというお話も伺い、主にあるつながりを感謝しました。
翌日からのアシュラムには、関東の方が多かったですが、西日本各地の方々も参加して41人の参加者があり、牧師も数名おりました。御言葉を慕い求めて来られた方々の集会という感じがひしひしとしました。聖書箇所は、山上の説教マタイによる福音書5章〜7章でした。開会礼拝では、山上の説教の主イエスの教えに対してわたしたちは、「人にはできない」と言う。確かに「できない」けれども、「できない」と「やらない」は違うのではないか、と迫りを受けました。ファミリー(小グループ)の出会いも幸いでした。お互いのために祈り合うことを約束しました。各地で祈りの友が一所懸命信仰によって生き、祈ってくれることは大きな励ましです。友は、わたしと西川口教会のために祈ってくださいます。ハレルヤ。(No.536)
2014年 9月 28日
(年に一度の休暇で、短文もお休みしました)
2014年 9月 21日
会堂建築を目指して
会堂建築について今まで数年間の取り組みを振り返ってみたいと思います。
「西川口教会10年の記録誌」の巻頭言の最後にこのように書きました。
「教会活動の器としての教会堂を
1997年度より、会堂建設基金会計が始まり、新会堂建設と土地取得のための積み立てが始まりました。ビジョンを与えられるよう祈りつつ、一億円まで着実に励んでいきたいと続けました。具体的な計画を待ち望みながら、地上の生涯を終えた兄姉たちも含めて、信仰によって、献金が続けられてきました。2010年度の教会全体懇談会で、会堂建築への願いの声が大きく上がりました。
2011年度は役員会のもとに、会堂建築(土地・駐車場・牧師館も含め)を検討する委員会を立ち上げることになりました。これからの10年に引き継ぐ課題となりました。
礼拝し、伝道する教会の活動の器、教会の近くにおられる方をできるだけ多く迎えられるような器としての会堂を待ち望みます。」
2011年度は、役員会では、部制と担当について時間をかけ、会堂建築(土地・駐車場・牧師館も含め)を検討する委員会設置は、果たせず、次年度の課題となりました。2012年度は、ようやく11月から会堂建築検討会を立ち上げ、月一回の定例会を始めました。2013年度は、役員会のもとに会堂建築検討会を継続し、会堂の耐震診断をしてもらうことを決めました。そして今年4月の耐震診断、5月には診断結果が出て、6月の全体懇談会ではその説明を行いました。厳しい結果でした。そして8月の全体懇談会を実施したところです。
今、心に示されている御言葉の一つは、自分の十字架を背負ってついてくるように語られた主イエスのお言葉です。「あなたがたのうち、塔を建てようとするとき、造り上げるのに十分な費用があるかどうか、まず腰をすえて計算しない者がいるだろうか。」(ルカ14・28)。(No.535)
2014年 9月 14日
主なる神の家に生きる
今日の礼拝の聖書箇所(創世記17・9〜14)には、神が、アブラハムとその子孫を神の民とする約束のしるしとして割礼を命じたことが記されています。キリストの教会に生きるわたしたちはもう割礼はしませんが、その意義は受け継いでいます。その意義は洗礼に込められているということを、ぜひ知ってください。このように記されています。「あなたがたはキリストにおいて、手によらない割礼、つまり肉の体を脱ぎ捨てるキリストの割礼を受け、 洗礼によって、キリストと共に葬られ、また、キリストを死者の中から復活させた神の力を信じて、キリストと共に復活させられたのです。」(コロサイ2・11〜12)
わたしたちの信仰は、精神的なこととか、抽象的なこととか、心だけのことではありません。体を伴うものです。存在がかかっています。このコロサイの信徒への手紙の御言葉にあるように、信じる者は、その存在ごとキリストと共に死んで、キリストと共に復活させられました。新しい存在になりました。そう信じています。この出来事は体の目には見えません。御言葉をあるがまま信じています。
今日の敬老祝福式では、詩編84編を朗読して祝福をお祈りいたします。わたしたちの慕うべき場所は、主の庭であり、神の家です。キリストの救いを受けて、新しくされ、神の子、神の民の一員となった人は、神の家に生きる神の家族です。すべての人が、喜びに溢れる神の家族となることが主の御心です。教会は世にあって神の家として置かれています。詩編の語る幸いに共に立つことができるように、主の祝福を祈ります。
「万軍の主、わたしの王、わたしの神よ。いかに幸いなことでしょう あなたの家に住むことができるなら まして、あなたを賛美することができるなら。・・・あなたの庭で過ごす一日は千日にまさる恵みです。・・・万軍の主よ、あなたに依り頼む人は いかに幸いなことでしょう。」(詩編84・5、11、13)(No.534)
2014年 9月 7日
詩編第22編―嘆きを学ぶ
今年の2月から、祈祷会・昼間祈祷会では詩編を学び始めました。最近は3度にわたり、詩編第22編を学びました。これは、主イエスが十字架の上で叫ばれた言葉ですから、教会に生きるわたしたちには忘れられない詩編です。詩編の資料の説き明かしからも深く教えられていますので、ご紹介します。主イエスに従うわたしたちは、苦しみの中にあっても祈り続けるために、詩編の祈りを何とかして身に付けたいと思っています。
わたしの神よ、わたしの神よ/なぜわたしをお見捨てになるのか。・・・(2節)
“通常、人はこのような神に棄てられた状況におかれる時、直ちに神を三人称的な対象として捉え、神はわたしを棄てた、といって自らをも中立的な立場に置き始めるのであるが、その点でもこの詩人の在り方は異常である。詩人は「わが神、わが神」と言って棄てられた状況で神にすがっている。「なぜ」と言って、神を訴えながら、いちばん深いところで神に服従している”(関根正雄)
わたしは虫けら、とても人とはいえない。(7節)
“自分は虫であるとの最初の告白にはただ人の前でそのように低くされているというばかりではなく、神の前に自分が失われ、人格性を喪失しているという全体的な罪の自覚が含まれているであろう。このような自覚にまで深まらない罪の自覚はまだまだ浅いものである。”(関根正雄)
あなたはわたしを塵と死の中に打ち捨てられる。(16節)
“彼を死の塵に伏させているのは神ご自身にほかならないのである。彼の苦難の背後には、彼が自分の救いを期待できる唯一の神が立っており、両者は同一の神であるという点にこそ、解きがたい謎がある”(A・ヴァイザー)
“神が関与しない嘆きは、不平や愚痴にすぎず、聖書の嘆きとはならない。敵の行動を座視しているとしか思えない神になおかつ訴えるところに聖書の嘆きの本領がある。”(雨宮慧)。(No.533)
2014年 8月 31日
第61回こころの友伝道全国大会
8月25日から27日まで、こころの友伝道全国連合会主催「第61回こころの友伝道全国大会in鹿児島」に出かけてまいりました。主題は「教会の源流をたずねて」、特別講師は吉井秀夫先生(キリストの教会・鹿屋キリスト教会牧師)でした。会場は、桜島と錦江湾を目の前にしたホテル「ウェルビューかごしま」でした。参加者は部分参加も含めて約150人、そのうち約90人は鹿児島からの参加でした。
この全国大会のため2年前からこころの友伝道南九州支部が現地実務委員会を組織して、準備を引き受けてくださいました。今回は、今まで全国大会に参加されたことのない先生方が、愛を持ってわたしたちを喜び迎え、熱心に奉仕してくださり、感激しました。また、開催地ならではのプログラムも盛り込まれて、一日目の夜はウェルカムナイト(オカリナ賛美、ゴスペルフラダンスなど)で楽しみました。2日目の自由時間には、ザビエルコースと薩摩維新コースと、歴史を知るツアーは意義深く、楽しいものでした。
吉井先生による特別講演「教会の本質とその使命」は、教会の本質と教会の使命を丁寧に語られ、「こころの友伝道は、最も堅実な教会形成の働きと信じる」と力強く宣べられました。吉井先生は、鹿屋で50年以上一つの教会に仕えておられます。このたび鹿児島での全国大会を実現できたのは、30年近く続けられている「鹿児島キリスト伝道協力会」という超教派の牧師会が受け皿となってくださったからでした。講師の吉井先生が、数名の先生方と「鹿児島キリスト伝道協力会」を立ち上げ、長きにわたりリーダーとして奉仕されたとのことです。現在は次世代の先生方に引き継がれています。この働きの恩恵をうけて、全国大会があったのだと感じました。
ここに書ききれないほどの多くの恵みをいただいて、無事帰ってまいりました。皆様のお祈りを心から感謝いたします。(No.532)
2014年 8月 24日
第2回教会全体懇談会を前に
来週の午後は、2014年度第2回教会全体懇談会を開催します。テーマは「会堂建築について」です。ぜひ配布資料を読んで、できるだけ多くの方が、懇談会に臨んでくださいますようにお願いします。
今までの経過を簡単に記します。2013年度末に現会堂の耐震診断を発注しました(診断は4月23日実施)。今年度当初は、その結果を待つほかありませんでした。5月29日に業者より結果報告説明会がありました。6月の定例役員会で結果報告を受けて、柱の補強工事を発注しました(工事は、6月30日・7月1日実施)。6月29日の第1回の教会全体懇談会では、耐震診断結果の報告がなされました。この結果は非常に厳しいもので、大地震がきた時に倒壊する可能性が高いこと、補強しても現在の耐震基準を満たすことはできないことが示されました。
7月、8月の定例役員会では、現会堂は建て替えねばならないこと、次の段階として、今後の可能性としては、@現在地に建て替え、または、A移転となることを確認しました。第2回の教会全体懇談会では、この2案について、現在提示できるだけの情報集めてそれを伝え、互いに意見聞き合おうと考えました。教会員の多くの意見を聞くために、説明の後は、小グループに分かれて意見交換をし、懇談会の最後は再び集まり、小グループの発表をして、終わります。
今回の懇談会は、これからの長い長い取り組みの小さな一歩でしょう。地震はいつ来るか分かりませんから呑気に構えてもいられません。しかし、性急に事を進めることもできません。神の時があります。祈りながら一歩一歩を進み、建築の基本的な構想が生みだされていくまで、大まかには、宣教の方向、宣教の器としての建物、資金面をどうするか、検討を十分行うことになるでしょう。
いずれにせよ、わたしたちは到達したところに基づいて進むべきです。(フィリピ3・16)(No.531)
2014年 8月 17日
地区中学生KKS青年キャンプ
先週の8月12日から14日まで、埼玉地区中学生KKS青年キャンプ(地区教育委員会主催・地区青年部合同)に、中学生の小口立桜さんと一緒に参加しました。会場は、立教学院みずず山荘でした。全体では60人の参加者でした。
事前に届いたキャンプのハンドブックにはこのように招きの言葉が記されていました。
“・・・軽井沢の涼しい気候の下、このキャンプを通して、仲間と出会い、神さまと出会い、親しく交流し、聖書の恵みと楽しい思い出をたくさんいただくことのできるキャンプにしたいと願っています。みんなで協力し、盛り上げていきましょう。今回のキャンプは「教会―そうだ!神のもとへ帰ろう」とのテーマのもとに、講師として東京・深川教会の長尾邦弘牧師・愛子さんご夫妻をお迎えしました。・・・二人から、〈放蕩息子のたとえ〉(ルカによる福音書15章11〜32節)を学び、3つのグループで、このたとえ話を劇にして、このキャンプの中で演じ発表します。そのワークショップを通して、神様が兄と弟、2人の兄弟に呼びかけたように、私たち一人ひとりの心にも、いつでもわたしのもとに帰っておいで≠ニ呼びかけ、待っていてくださり、迎えてくださる大きな恵み、愛を知り、自分のものにしてほしいと願っています。”
わたしたちのため神が備えられた場所は教会です。それは建物ではなく、ルカ15章のたとえで父が愛をもって弟息子と兄息子が迎え入れているように、神の愛の呼びかけの声によって集められている人々の集まりです。この3日間のキャンプも教会の映しでした。温かく迎えてもらえていることが感じられる集いでした。3つのグループに分かれて劇を造り上げましたが、どのグループもみんなが参加し、協力して作り上げられた劇で、一所懸命な姿に心を打たれました。心が柔らかな若い人たちから教えられ、元気をいただきました。お祈りを感謝いたします。ハレルヤ。(No.530)
2014年 8月 10日
平和はどこから
説教のために「アブラハムの生涯 森有正講演集」を繰り返し読んでいます。創世記14章に基づいてなされた、「平和の王」という講演があります。その講演の終わりに、本当の平和について、森先生が語っておられます。戦争の終結から69年、8月15日を迎えます。平和を祈り求めるこのとき、森先生の言葉を紹介したいと思います。
“・・・平和というのは、単に戦争がないという消極的なことだけではありません。現にアブラハムは戦争をやっています。つまり平和というのは、一人一人の人が自分の責任を感ずること。これが平和の一番最後の根底です。人が自分のことで何かやってくれる責任があると思って、人を責めている、お互いに責め合って、しまいには戦争になってしまう。けれども一人一人が自分の責任を自分で感じるということが徹底したとき、それが一番平和の大きな基礎になるわけです。たとえ戦争が起ころうとも、たとえ何が起ころうとも、その基礎の平和の方がもっと強い。それがなければ、どんな戦争がなくても、・・・だから平和だ、とは言えない。・・・私ども少なくとも聖書を読み、その中の深い意味を知ろうとする者にとって、本当の平和が何だということを、すくなくとも私どもの根底においては、確実に知っていなければならない。アブラハムの生涯が、高潮に達して、サレムの王様の前まで上って行ったように、本当に自分の責任というものはどこにあるか、自分の責任は何だということを、具体的な事柄について私どもは、決定できるようでなければならない。それができる人が、 初めて平和というものを語ることができる。そのようにわたしは考えております。・・・”
「人が自分のことで何かやってくれる責任があると思って、人を責めている、お互いに責め合って」いるところに争いが生まれるとはその通りです。自分の中にもあります。自分の思いを神に明け渡し、神に対し、また人に対して、責任を感じ、決定できる人になる大切さを示されました。(No.529)
2014年 8月 3日
クリスマスの夕べに向けて
8月を迎えました。真夏にクリスマスの準備を進めています。埼玉県南牧師会を中心として、ずっと続けている「クリスマスの夕べ」のことです。埼玉県南牧師会は、川口市、戸田市、蕨市の教会の牧師たちと協力関係にある牧師たちで組織され、毎月1回の会合を開いて、聖書に聴き、お互いの近況、祈りの課題を祈り合い、励まし合い、宣教の協力としてクリスマスの夕べを企画・実行しています。
今年は、12月2日(火)に、リリア音楽ホールで開催されます。音楽ゲストは、ヴァイオリニストの工藤美穂さんに決定しました。説教者は鷲尾繁牧師に決定しました。鷲尾先生は「はれるや・デフ・スポーツ伝道団」という名称の教会を開拓、スポーツを通して伝道しておられます。昨年のクリスマスの夕べの手話賛美を覚えておられる方もあると思います。3年ほど前から、埼玉県南牧師会に加わってくださいました。クリスマスの夕べでは、鷲尾先生方が加わって手話通訳を始めました。この度は、手話通訳付きの説教は初めてです。その他の出演としては、子供聖歌隊、連合聖歌隊、手話賛美を予定しています。秋から募集と練習とを始めていきます。またご案内をいたします。皆様のお祈りとご協力をお願いします。
リリア音楽ホールでクリスマスの夕べを始めてから、今年は第15回となります。初めのころは、外部の説教者をお招きしたこともありましたが、地域の宣教のためには、自分たちの中から説教者を立て伝道しようということになり、現在に至っています。
主イエスは弟子たちに命じられました。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」(マルコ16・15)。教会が置かれている地域も世界の一部です。伝道のためにどれだけ労苦して汗を流すか、御言葉の種を蒔けるか、とりなし祈るか、問われていると思います。先立ってくださる主に従っていきます。(No.528)
2014年 7月 27日
スピリチュアリティの視点から
7月14日〜15日、別所沼会館ヘリテイジ浦和にて、教師委員会主催の埼玉地区教師一泊研修会が開かれ、通いで参加しました。主題は「癒しの教会形成―スピリチュアルケアと牧会―」、講師は、聖学院大学大学院教授の窪寺俊之先生でした。
教師委員長の三羽善次牧師(和戸教会)による開会礼拝の後、窪寺先生の講演T「主の使命に応える―癒しの教会形成」がありました。次いで、土橋誠牧師(飯能教会)、金田の発題があり、夕食後は、分団で互いに分かち合いました。翌日は講演U「牧会者の危機―スピリチュアルな視点からの慰め」がありました。
スピリチュアリティ、スピリチュアルケアというものを分かっていたつもりでしたが、窪寺先生の講演を通して整理できました。「スピリチュアリティ」は、「魂」とか「霊性」などと訳されます。それは静的な感じがします。窪寺先生はスピリチュアリティの機能を紹介され、ダイナミックな(動的な)側面を示してくださいました。かいつまんで紹介します。
“スピリチュアリティの特徴をあらわす三つのキーワードがある。一番目は「聖なるもの」に触れること(必ずしも神ではない)。二番目は「癒し」。三番目は「自己存在の確立」ということ。私の生き方、人生の意味、これが私ということを教えてくれる。自己アイデンティティが確立すること。例えば、私たちが疲れ果てて、どうなるのだろうかと行き詰っているとき、スピリチュアルなものに出会うことによって初めて、「ああ、私はこれで生きられそうだ」というものが出てくる。現代人というのは非常にスピリチュアルなものを求めている。自分を取り戻させてくれる、自分を包んでくれる大きな世界があるという気づき。人は人生の危機に直面してスピリチュアリティが目覚める。スピリチュアルケアは癒しを与えるもの。聖書の救いは、その人が神と出会い、罪を赦されること。救いをなさるのは神のみである。・・・”(No.527)
2014年 7月 20日
就任式から10年
毎月、「西川口だより」を長欠の教会員や、礼拝に来られたことのある方々に郵送しています。その時には、手紙を添えて発送しています。その手紙では、お名前とわたしの署名は手書きで、本文は、季節のことや教会の出来事などについて書いたものを印刷しています。今月の手紙にはこのように書きました。
“主の御名を賛美いたします。梅雨の中で6月も守られ、この年も後半に入りました。いかがお過ごしでしょうか。「西川口だより」2014年7月号をお届けします。
10年前の2004年7月18日は、暑い日でした。この日、西川口教会においてわたしの主任牧師としての就任式が執り行われました。7月になると就任式のことを思い出します。初心を忘れず、主なる神の愛に応えて、見えない神を見るようにして、これからも歩みます。喜んで働けることを感謝しています。共に礼拝できますように。お待ちしています。主の御手が支えてくださいますように。主の祝福をお祈りいたします。
わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。(コリントの信徒への手紙二4・18)”
実際には2004年4月から主任担任教師としての働きを始めましたが、就任式は同年7月18日に執り行われました。神と会衆のとの前で、この教会に招聘されたことを神の御旨と信じ、献身すること、御言葉に仕えること、牧師の務めを忠実に果たすことを誓いました。教会もまた、この教師を神から遣わされた牧師として受け入れること、牧師を重んずること、牧師を支えることに努める、と誓いました。
わたしは主の恵みを数えるのが好きです。わたしのために、教会のためになされた神の御業を数えていくうちに、感謝と賛美がわいてきて、元気を与えられるからです。主の恵みの中に導かれ、守られた10年でした。ハレルヤ!(No.526)
2014年 7月 13日
西川口伝道50年を記念して
わたしたちの西川口教会が、現在地に現会堂を建てたのは、1964年(昭和39年)のことでした。「西川口教会創立50周年誌」(2000年発行)によると、このように記されています。
“1964年度 ―新会堂完成―
4月の総会において、建築総額670万円をもって着工することを決議すると同時に、戸別募金が提案された。新会堂は川口全市民の救霊の家であるとの信仰に基づき、主日礼拝後、2人1組で建築趣意書と奉加帳を持って、市内全戸を回り始めた。約500軒の方々から尊い17万円を超える協力を得ることができたことに一同感激し、主に感謝した。
7月5日、「主が家を建てられるのでなければ、建てる者の勤労はむなしい。」(詩篇127篇1節、〔口語訳〕)を牧師〔横山義孝師〕が墨書した杭を土中に打込む定礎式を終えると、いよいよ三木弘氏による設計図のもと、細木馨兄が主の身体なる教会に全信仰を献げて施工に当った。木造2階建60.5坪の会堂が完成し、12月13日、教団、教区、地区の諸教会と、多くの善意の人たちの祈りとご協力、それにもまして「無から有を生み出す神」のお力が、形となって恵みの献堂式を挙行するに至った。そして川口本町教会は、西川口教会へ名称を改め、新しい地における宣教の業へと導かれた。”
ちょうど50年前の7月5日、この地に御言葉の杭が打たれました。こうして西川口における伝道を始めて、今年は50年の記念の年となります。信仰の先輩たちの献身・献金によって、また地元の方々の協力をいただいて、自前の土地と会堂を得、今日まで西川口での伝道が続けられてきました。これはまことに大きな恵みです。主なる神に栄光を帰し、ますます伝道に励むことができますように。今年の秋の特別集会(講師・山浦玄嗣先生、伝道牧会部・社会部共催)は、「西川口伝道50年記念」と掲げることにしました。(No.525)
2014年 7月 6日
アブラムの出発まで
本日からしばらく、一般礼拝では、創世記のアブラハム(17章で名前が与えられるまではアブラム)の物語から説教することにしました。
カトリック司祭で上智大学神学部教授の雨宮慧(あめみや・さとし)先生が書かれた「旧約聖書を読み解く」(NHK出版)は、旧約聖書の手引きとしてお勧めの本です。旧約聖書の原典であるヘブライ語の構造、言葉のもともとの意味を丁寧にたどって説き明かされて、聖書に記された出来事の意味を探っていきます。この本から、本日の聖書テキストに関連するところを一部引用します。
“・・・出家も召命も信仰の道に入ることですが、出家は「俗世間を捨て、仏道修行に入る」というものですから、人間の決意に重点を置いた言葉です。しかし、召命は「神に呼ばれること」であり、神の働きかけの方に注目した表現です。・・・聖書の記述は創造の物語から始まることからも分かるように、創造する神に重きをおいています。しかも、聖書における創造は歴史と一体と見られています。・・・万物を創造した神がその秩序を維持する場として歴史が捉えられています。”
“旧約聖書は「創世記」で始まります。この書では、1―2章に創造の物語が置かれ、続く3章では人類の最初の罪が描かれ、4章は弟アベルを殺すカインの物語となり、5章ではアダムからノアにいたる系図が載せられています。6―9章に入るとノアの洪水の物語があり、10章はノアの子孫の系図、11章1―9節がバベルの塔の話となり、11章10―32節はセムからアブラム―後に新たな名が与えられアブラハムとなる―にいたる系図になっています。ですから、創世記1―11章は、イスラエルの物語というより、全人類に適用される原初の物語と呼ぶべきです。そこから、創世記1―11章は原初史と呼ばれ、イスラエル史からは切り離してみるのが普通です。
この原初史のテーマは「創造とその秩序の破壊行為としての罪」にあるのは明らかですが、その直後に、アブラムの召命が物語られています。”(No.524)
トップページへ戻る>週報短文へ戻る