民博で学ぶ―オセアニアと朝鮮

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 1月25日、国立民族学博物館に行って、MMP(みんぱくミュージアムパートナーズ)の方々のガイドと解説で、オセアニア地域と東アジア地域の朝鮮半島の文化の見学をしました。オセアニア地域は1時間弱、朝鮮地域は30分ほど見学し、最後に10分ほど感想などMMPの皆さんと語り合いました。
 
◆●オセアニア地域
 私は、10年近く前に、単時間ですが、オセアニア地域の見学はしたことがあります。その時に南太平洋の島嶼民が航海に使ったという大きなカヌーにもちょっと触りましたが、なにしろ大きいので手の届く範囲の一部にしか触れず、また全体の形もよく分からないままに終わりました。その模型が出来上がって触れられるようになっているということを聞き、今回の見学となりました。
 
●チェチェメニ号
 ポリネシアやミクロネシアの人たちは、スター・ナヴィゲーションとも言われる伝統的な航法(星や太陽を観るだけでなく、風や波、雲、さらには鳥や魚の動きなども利用したらしい)で数千キロにも及ぶ航海をしていたらしいです。(ポリネシアは、ハワイ、イースター島、ニュージーランドを結ぶ3角形の広範囲の海域のなかにある部分の島嶼群で、サモア・トンガ・マルケサス・ソシエテなどの諸島が含まれる。ポリネシアの西側の島嶼群のうち、赤道以北がミクロネシア、赤道以南がメラネシア。ミクロネシアには、マリアナ諸島、カロリン諸島(ヤップ、パラオ、チューク、ポンペイ、コスラエ)、マーシャル諸島、ギルバート諸島(キリバス)が含まれる(1914年から第2次世界大戦まで、ミクロネシアの大部分は日本の委任統治領だった)。メラネシアには、ニューギニア、ソロモン諸島、ヴァヌアツ、ニューカレドニア、フィジーが含まれる。ポリネシアとミクロネシアにはポリネシア系の人々が多いのに対して、メラネシアにはオーストラロイド系が多い。)
 民博に開館以来今も展示されているチェチェメニ号(「チェチェメニ」は「よく考えろ」という意味だとのこと)という名のこのカヌーは、1975年の沖縄海洋博の時に、ミクロネシアの中央カロリン諸島のサタワル島(およそ北緯7度、東経147度付近)の人々6人が、「ポ」と呼ばれる大航海師レパングルグの指揮の下、沖縄までの3千キロを47日間かけて伝統的な航法で航海してきたものです(10月27日サタワル島発、12月13日沖縄海洋博会場着(。もちろん、チェチェメニ号の作りも、ミクロネシアで使われてきたカヌーとほぼ同じものです。
 実物は全長8m、船体の幅80cm(アウトリガーなども含めた横幅は7mくらい?)、マストの高さ7mもあり、展示場の天井が5mくらいしかないので、船体が大きく傾いた状態で展示されています。船本体には触れられますが、上のほうの帆や横に広がるアウトリガーなどには届きませんし、なにしろ全体が大きいので、全体の形を把握するのがけっこう難しいです。
 模型は10分の1の大きさだということです。長さは1m弱で、両手をかるく広げて一度に全体を確かめることができます。船本体の幅は10cmくらいで、全体にても細長い形です。船の両端にはちょうど洗濯ばさみのような形のものが付いていて、これはグンカンドリの尾羽を表しているそうです。船の両端はともに細くとがっていて、船首・船尾の区別はなくどちらにも進めるようになっています。
 船本体は模型では1本の丸太を刳り貫いて作られていますが、実物はとにかく大きいので、大きなパンノキを何本もココヤシの繊維で作った縄で強く結び付けて作られています(船底の部分は大きな1本の丸太を使っているようです)。縄と木の間の隙間には固いコンクリートのようなもの(なにかの樹脂と石灰を混ぜたものらしい)が詰められ、また、大きな木と木の間の隙間にも薄い弾力のありそうな板がはさみ込まれていました。(このような船の作り方は、数年前に帯広百年記念館で触ったアイヌのイタオマチプという板綴り船に似ているように思いました。)さらに、船首・船尾の部分も、舷側に細長い菱形の頂点が食い込むようなかたちで接合されていました。
 船の片側にはアウトリガーがあります。木を何本も連ねた腕木が4mくらい?橋のように伸び、その先には船体と平行に浮き木(浮材=フロート)が付いています。(実物の浮き木にジャンプしてちょっと触ってみましたが、たぶん直径30cm近くあるのでしょう、かなり太い感じでした。また、船体と浮材をつないでいる先ほどの橋のような所の上は、火をおこす場所にもなるとか。)この浮き木は、強い風を受けたときに重石・支えになって船体が倒れないようにし、また、向い風の時も、帆を張り、浮き木を風上側にして支えとして、船首・船尾を入れ替えながらジグザグに進むことができるようになっています。何ともすばらしい技術のように思えます(そのためには帆や櫓などもうまく扱わなくてはならないので、熟練した船乗りが必要だったでしょう)。アウトリガーと反対側の舷側には、2m弱四方の小部屋があります(上の屋根の部分は開閉できるようになっている)。ここは、荷物置き場や寝室として使われるそうです。
  帆布は、タコノキの葉を細く割いて編まれていて、触ってきれいです(少し隙間が多いように感じましたが、このほうが風を適度にとらえるのには良いとのことです)。また、帆柱の位置を少し変えることができるように、船の先近くに直径5cm弱ほどの円い掘り込みもありました。船の先端には、先が1cmくらいしか開いていない20cmくらいの細長い通路のようなのがあって、これは、この細い通路のようなのから星などを観て、船の方向を定めるのに使うものだそうです(照準器のようなもの)。
 船内には、幅20cmくらいの横木がいくつか渡されていて、10人近くは乗れたのでしょう。このようなカヌーで、ミクロネシアやポリネシアの人々は、日常的に数百kmの範囲を往来し、ごくまれでしょうが、ときには数千kmの航海もしたのでしょう。今回触ったカヌーは、シングル・アウトリガーですが、反対側にもアウトリガーをつけたダブル・アウトリガーもあり、また、カヌーを二つ平行につなげたダブル・カヌー(双胴船)もあるそうです(ダブル・カヌーは積載量がずっと大きくなる)。
 
●ヤップ島の石貨
 ヤップ島(北緯9度30分、東経138度付近)は、上のサタワル島から西北西に1000km以上離れた所にあります(こんなに離れているのに、現在はともにミクロネシア連邦の中のヤップ州に属しています。ちなみに、ミクロネシア連邦は、東から西へ、コスラエ、ポンペイ、チューク、ヤップの4州からなり、東西2550kmにも及びます!でも面積は700平方キロメートルほどで、奄美大島くらいです。)ヤップ島の人々の生活には最近までむかしながらの伝統や慣習がかなり残っていて、石貨もその1つです。
 私が触ったのは、直径40cm弱で厚さが3〜4cmくらいの小さいものと、直径1.5m弱くらいはあり厚さもたぶん10cm以上はある大きなものでした。この大きいほうの石貨は、入手当時(たぶん40年くらい前)の値段は千ドルだったということです。最大のものでは、直径4m、重さ5トンもある石貨もあるそうです。どの石貨にも中央に穴が開いています。この穴に丸太を通して、石貨を運んだとか。この石貨の材料となる石は、ヤップ島にはなくて、ヤップ島から南西に500km近く離れたパラオ諸島(とくにその中のマラカス島)から運んで来たものだとのこと、驚きですね!ヤップからカヌーの船団を組んでパラオに向い、パラオブ石と呼ばれる結晶質石灰石(霰石や大理石と同種)を切り出し、貝斧や石斧で円盤状に加工してから、重くてカヌーには積めないので、竹筏につるし、この筏をカヌーで引いて帰ってきたとか!たいへんな労力ですね。
 1880年代に、アイルランド系アメリカ人のデミッド・ディーン・オキーフ(1825〜1901年)が、パラオに最新の道具を持ち込んで石貨に加工し帆船で運搬して大もうけしたそうですが、こうして作られた石貨はあまり高くは評化されなかったようです。石貨の価値は、その大きさ、色合い、形状のほか、その年代、それがどれだけ労力を掛けて作られたか、それにまつわる歴史・物語などによっていろいろと異なるようです。
 ヤップ島では、石貨に限らず、儀礼的に貴重品を交換することを通じて、お互いの気持ちを表現しあい、社会関係を維持してきたようです。交換に用いられる財としては、「ライ」と呼ばれる石貨のほか、「ヤール」と呼ばれる白蝶貝や黒蝶貝などの貝貨、「ガウ」と呼ばれる貝や鯨類の歯を削ってネックレス状にしたもの、「ムブル」と呼ばれるバギという織物(ラバラバ)をビンロウ樹の茎衣でくるんで俵状にしたもの、「ラン」と呼ばれるターメリックをすりつぶしてボール状にしたものがあります。このような交換関係は、ヤップ島に限らず、ミクロネシアやメラネシア、ポリネシアの諸島に広く分布していたものです。
 
●イースター島のモアイ像
 イースター島(南緯27度、西経109度付近)は今はチリ領ですが、チリのサンチアゴからは3800kmも離れ、最も近い西方のピトケアン島とも2000kmも離れた孤島です(イースター島には5世紀ころおそらくマルケサス諸島(南緯10度、西経140度付近)からポリネシア系の人たちがやって来たとされていますが、マルケサス諸島からは東南東に4000km近く離れています)。イースター島の西300kmくらいの所を東太平洋海嶺が走り、そこから東にチリ海嶺が伸びていて、イースター島はその上にある火山島です。170万年前と70万年前の激しい火山活動で出来た20余の火山群から成る 3角形の島(面積170平方キロメートル)で、各頂点の位置に大きな火山があるそうです。 イースター島は陸地から遠くはなれた海洋島ですが、種子が海流で運ばれることによって、以前は他のポリネシア諸島と同じような亜熱帯林に覆われていたことが、火口湖の湖底に堆積した泥中の花粉分析から分かったそうです。1722年4月5日の復活祭(英語ではEaster、スペイン語ではPascua)の日に、オランダ海軍提督のヤーコプ・ロッヘフェーン(1659〜1729年)により発見されたのにちなんで、イースター島あるいはパスクア島と呼ばれていますが、現地語ではラパ・ヌイ(Rapa Nui: 「広い大地」の意)と言うそうです。
 私が触ったのは、高さ2m近く?(目の辺りまでしか届かなかった)、幅1m余のモアイ像のレプリカです。頭部だけで、その下はありませんでした。全体にざらざらした感じで、実物は凝灰岩製だということです(なにしろ火山島ですから加工しやすい凝灰岩はふんだんにあり、モアイ像は主に島の東南部にあるラノ・ララクという旧噴火口内で壁面に露出している凝灰岩を利用して作られたそうです)。長い鼻、下に伸びた耳、引き締まった感じの唇、とくに大きく窪んだ目が特徴のように思えました。目の窪みは、幅30cmくらい、深さは10cm以上あったでしょうか。この目の窪みには、本来は白色の大きな珊瑚の中央に黒い黒曜石を埋め込んだ眼球が入っていたそうです。ところが、18世紀から19世紀にかけて部族間抗争が頻発し、その際にモアイの目にはマナ(霊力)が宿ると考えられていたために、相手の部族を攻撃する時はその守り神であるモアイをうつ伏せに倒して目の部分を粉々に破壊したと言います。モアイは、アフとよばれる巨大な祭壇(内部は墓所になっているようだ)の上に数体から15体くらい立っていたそうです。アフは断崖上か海を眺望できる場所にあり、切り石を積み重ねてつくられ、大きいものでは長さ100m、幅30m、高さ5mくらいもあり、そのようなアフが200くらい見つかっているそうです。
 イースター島の人たちがたどった歴史については、Wikipediaをはじめネット上ではあちこちで紹介されていますが、とくにイースター島歴史年表 が参考になりました。外部から隔絶した環境で、少なくとも10世紀から17世紀まで800年くらい、モアイを中心とした宗教儀礼を行って安定した平和な生活が続いていたようですが、人工が増加し(1600年ころには7000人くらいになったらしい)、生活の必要のために、またモアイを運ぶために(丸太を並べてコロにしたらしい)木が切り倒されて森林が枯渇し、さらに土壌も流出したりして、閉じた島環境では文明が維持できなくなったのでしょう。1722年にイースター島に上陸したロッヘヘーンによれば、すでに島には1本も木はなく一面草原だったそうです。モアイは多数立っていて、人々はモアイを崇拝していましたが、草ぶきの小屋や洞窟で暮らし、未開のような生活ぶりだったようです。人工は4千人くらいと推定したそうです。1774年に訪れたジェームズ・クックによれば、モアイの半数くらいは倒され壊されていて、島民は飢えていて、武器を持って闘っていることも確認しています。その後、多数の島民が奴隷として連れ去られたり、外部からもたらされた天然痘などによって人工は激減し(1877年には老人と子供中心の111人)、島の歴史を伝承してきた故老や神官は絶えてしまったと言います。
 
●マオリのパータカ
 マオリはニュージーランドの先住民で、10世紀ころソシエテ諸島ないしクック諸島からやって来たポリネシア系の人たちにさかのぼります。熱帯のポリネシアから温帯のニュージーランドと、環境が大きく変わったので、サツマイモ中心の焼畑耕作が主になり、独自の文化様式も生まれてきたのではないでしょうか。ちなみに、ニュージーランドにはもともとは哺乳類はコウモリ3種しかいなくて、陸生哺乳類のニッチをジャイアントモアなど羽を退化させた鳥類が占めていました。新来の人たちにはこのような大型の飛ばない鳥たちは格好の食料だったようで、15世紀にはジャイアントモア(頭頂までの高さ3m以上、体重200kg以上もあり、草食で高い所にある木の枝についた葉などを食べていたらしい)は絶滅したそうです。なぜか理由は分かりませんが、ジャイアントモアが絶滅したのと同時期に、当時の生態系の頂点に位置されていたと思われるハルパゴルニスワシも消滅しています。
 私は「パータカ」という、高床の倉庫に触りました。1辺が2mほどの小さなもので、模型として新たに作ったもののようです。実物よりは小さいサイズかもしれません。小さな建物らしく、入口、窓、屋根、さらには階段までありますが、触ってとにかく驚くのは、壁面や柱などほぼ全面が木彫装飾になっていることです。全体に螺旋のようなのが多く、渦や波、植物の葉や蔓のような感じのものがありました。所々には、いろいろな大きさの貝もはめ込まれていました。そんななかで、ひときわ目立つのが、入口の柱に彫られた「テコテコ」とかいう名の精霊の像です。膝を少し曲げ、お腹の両横に3本の指を広げるようにして手を当てています。目には貝が入っています。たぶん守り神のようなものだと思いますが、とても親近感をもちました。このパータカは集会所として使われ、また貴重な彫刻や写真などその地の伝統文化を伝える宝物が保管され、さらには生活用具や保存食料まで入れられるものだそうです。
 もうひとつ、触ってこれは素晴しいと思うものがありました。現代のマオリの作家レックス・ホーメンという方の「男と女」という木彫です。向って右に女の顔、そこから左上に斜めに伸びていった所に男の顔が示されています。それぞれの顔は、口と目が大きく離れていますし、かなりゆがんだ?感じですが、それなのにその曲面・曲線、また全体の配置もとても好ましく感じました(手触りもとてもよかった)。触っては分かりませんが、「モコ」とかいう刺青も見えているようでした。
 
◆朝鮮の精神文化
 東アジアの中の朝鮮の文化の展示は、精神世界、住の文化、食の文化、衣の文化、あそびの文化、知の文化に別れていますが、今回は精神文化だけを解説してもらいました(大学のころはシャーマニズムに興味を持っていたことがあって、その中には朝鮮のこともふくまれていましたので)。
 朝鮮の文化、とくに精神文化は、おおまかに言えば、まず基層に何にでも神が宿るというアニミズム的な信仰があり、それが外部の世界から時代ごとに大きな影響を受けて変容してきたということです。外部世界からの影響は、主に次の4つの段階があるとのことです。もっとも古くは東シベリアのシャーマニズムの影響を受けます。4世紀以降は仏教が入ってきて、新羅や高麗時代に優遇されて精神文化にも大きく影響します。14世紀末以降の李氏朝鮮で儒教が国のイデオロギとして採用されます。19世紀末以降はキリスト教、さらに日本の植民地統治政策も影響を与えます。
 
●チャンスンとソッテ
 まず、「チャンスン」と「ソッテ」に触りました。チャンスンは四角い柱、ソッテは細い棒で、並んで立っています。チャンスンは高さ2mくらいの柱で、柱には「○○将軍」(たぶん「天下大将軍」だったと思います)と書かれています。柱の上には、届きませんでしたが、鬼のような顔があるとのことです(顔の様子は、鬼のようにも見えるが、なんか笑っているようにも見えるとか)。チャンスンは、以前は各村の入口に立てられていて、村の守り神であり、災いや疫病などから村の人々を守り、また、村の境や里程標の役割も持っていたそうです。(日本でも村のはずれに道祖神や地蔵が置かれていることがあり、それと似たようなものかもということです。)
 ソッテは高さ2m以上はある直径3cmくらいの細い棒で、その先には鳥がついているそうです。鳥は地と天をつなぐ使者としての意味がこめられているのでしょう(古代日本の鳥の埴輪などもそのような意味があったのでしょう)。チャンスンもソッテも、立っている樹をイメージしたもので、樹には神が宿り、天と地を繋ぐ聖なる樹というシャーマニズム的な意味合いが、当初はあったのかもしれません。
 
●ムーダン
 ムーダンは、朝鮮における広い意味でのシャーマン(エクスタシーや憑依などによっていわば神がかり状態となって、神や精霊と直接交流できる呪術・宗教的職能者。各種の祭儀や治病や予言を行う)との呼称です。ほとんどが女性であるため、ムーダンと言えば女性のシャーマンを指すようです。ただ、数は少ないようですが、男性のシャーマンもいて、パクスー(博士)と呼ばれるそうです(今でも済州島には男性シャーマンがいるようです)。
 ムーダン(mudang)という語は、モンゴル語などウラル・アルタイ語族で女巫を表す「udagan」に由来し、これに漢字の巫(朝鮮音 mu)の影響が加わって「ムーダン」となったとする説もあるようです。ムーダンが一般的な呼び名のようですが、マンシン(万神)ともよく呼ばれ、地方によってはタンゴル(丹骨)、チョムジェンイ(占匠)、シンバン(済州島での呼称)などとも呼ばれるそうです。ムーダンの役割や性格にも地域差があって、一般的傾向としては、中部から北部では神霊が憑依してトランス状態での踊りや託宣がされるのにたいして、南部では世襲巫が多く、静かな舞い・楽・歌を主体とした芸能的性格が強いらしいです。
 朝鮮の巫俗(シャーマニズム)は、古くから民間ではもちろん、しばしば国家のためにも行われてきたようです。高麗時代には、巫俗信仰が王室や民間の生活面に広がり、治病や国家的な祈雨祭もつかさどっていたそうです。李朝時代には政府専用の巫庁まで置かれましたが、民衆を眩惑するものとして疎んじられもし、またいわば国是となった儒教の考えから次第に賤しされるようになっていったようです。日本の統治時代や、戦後のセマウル運動(1970年代に行われた「新しい村づくり」運動)でも迷信などとして排除されてはきましたが、今でもムーダンや彼らが行ういろいろな神事(ふつう「クッ」と呼ばれる)は、衰退したとは言え、まだまだ行われているようです。
 私は、ムーダンの使う鈴(大きな鈴がいくつも連なっていて、あの大きなじゃらんじゃらんという音が連想された)、身に着ける服(ちょっと触っただけ)、それにお供え物に触りました。お供え物は、菓子や果物が、それぞれ1種ずつ、こででもか、これでもかというほど、何重にも積み重ねられていて、なんとも韓国らしいなあと思いました。ケースに入っていて触れませんでしたが、斫刀(チャクトウ)というのが展示されていて、これは、水を入れた竜宮壺の上に米を入れた箱を置き、その上に斫刀を二つ並べて固定させた後、その上にムーダンが素足で上がって踊ったり、神託したりするのに使うものだそうです。
 
 私が大学のころシャーマニズムについて調べていた時に、朝鮮では盲人男性がシャーマン(覡)として活動していたというような記憶があったので、あらためてちょっと調べてみました。ムーダンには、各種の祭儀や治病、託宣や予言などいろいろな役割がありますが、予言や占いは男性盲人が担うこともあって、彼らは判数(パンス)と呼ばれます。判数は、卜筮を使って吉凶を占い、また読経もする僧形の盲人で、卜筮や読経は先輩盲人から習うようです。
 古くは、13世紀、『高麗史』に盲僧・盲覡が集団化して祈雨・占卜・呪詛に携わったとの記述があります。さらに、李朝時代の15世紀には彼らは国設の明通寺を拠点に活動し、国家は命課盲人制度を作って優秀な盲人を命課盲人として登用し国家の宗教儀礼や占卜を担当させたと言います。李朝末期(19世紀末)にも、勢力は衰えたとはいえ、判数はなおかなりよい暮らしをしていたようです。日本統治時代には、その他の宗教的な活動と同様盲僧集団の活動もにぶりますが(済生院盲唖部が設けられて鍼按術が導入されたことも少しは影響したかもしれません)、大韓盲人易理大承教が組織されています。さらに1970年には大韓盲人易理学会と改変されて、現在も活動しています。インターネット上でも、今も盲僧としてあるいは易学に基く占いを専門とする盲人が紹介されています。
特集2 身体から見えてくる世界 「見る」-盲僧が教えてくれたこと
ソウル路地裏案内(3) 「彌阿里 占星村」 インタビュー
 
●キリスト教
 韓国では現在、カトリックが人口の約10%、プロテスタントが約20%で、人口の約 3割がキリスト教徒だそうです。このほかに、仏教徒が20%余となっています。儒教の影響は今なお残っていますが、社会的な規範ないし道徳のようなものととらえられていて、宗教とは意識されていないようです。また、占いをしてもらったり、クッ(ムーダンが行う各種の神事))にかかわることも、とくに宗教とは考えられていないようです。
 カトリックの宣教は18世紀末から始まりますが、李朝ではもちろん抑圧され1866年の大弾圧では2万5000人の信徒中1万余人が犠牲になったそうです。プロテスタントは、1880年代からメソジストと長老派を中心に宣教活動が行われ、学校や大学、病院や孤児院を設立したりして、朝鮮の近代化に貢献します。日本統治時代には、キリスト教徒は独立運動に積極的にかかわり、また戦後の韓国の独裁的な時代には、民主化運動や労働運動にもかかわりました(長年韓国の民主化運動を担い15代大統領となった金大中はカトリック教徒)。
 キリスト教関連の展示では、牧師の服に触りました。首から下げているネクタイのようなものに、十字架の形と放射状に広がる形を一緒に縫いこんだような模様がありました。
 
◆その他
 最期に、「探究ひろば」にある「世界をさわる」の展示にちょっと立ち寄ってみました。これまでもこのコーナーには何度か行ったことはあって、イヌイットの石製の熊やバードカービングのトキなど、十数点の展示に触りましたが、入ってすぐの所にある女性の像が印象に残っていて、今回またそれを触りました。
 この像は「ミム(Mimu)」という名前です。金属(真鍮だそうです)製で、高さは30cmほどのものです。女の人が、頭に大きな壺(側面には3方向にちょうどカップの持ち手のようなのが付いている)を乗せ、その壺を左手を伸ばして支えています。右手には細くて長い棒を持ち、杖のようについています。全体にとてもバランスのとれた、きれいな形です。
 この女性像は、カメルーンのバムン族の人たちが、脱蝋法という手法で作ったものだそうです。バムン族は、17世紀ころからカメルーンの西部高地に住むようになったセミ・バントゥー系の民族で、小さいながらも、フンバンという所を都にして王国を作っていました。バムンの王国では、木製や真鍮製による豊かな王朝美術が生まれましたが、特に真鍮の鋳造技術である脱蝋法は、19世紀までは王のためだけの技術とされました。20世紀に入って、王が技術を解放したので、今では真鍮製品は土産物としてたくさん作られるようになりました(この像も、1990年代に収集されたものです)。
 この地方の真鍮製品の鋳造技術である脱蝋法(lost wax: 失蝋法とも呼ばれる)は、次のようなものです。まず、蜂の巣から採ったロウでもとになる形を作ります(その形がそのまま出来上がりになるので、細かなところまで丁寧に仕上げます)。こうして出来上がったロウの型を粘土で覆い、一箇所だけ穴を開けておきます。この粘土の型に開けておいた穴から、溶けた真鍮を流し込むと、ロウが溶けて消えます。全体が冷えると、中にもとのロウの型と同じ形の真鍮の像ができています。粘土の型を壊して像を取り出し、表面を磨いて仕上げます。この技法では、粘土の型はその都度壊されるので、製品はすべて一点物となります。金属の鋳造技術としての脱蝋法は、すでに4千年以上前のインダス文明で青銅器の製作に使われています。南米でも500年以降金の鋳造に使われています。アフリカでは、ナイジェリアのイフェ王国では11世紀ころから、ベニン王国では14世紀から始まったようです。
 
*その日の午後には、民族学博物館の近くに昨年末に開館した「ニフレル」に行ってみました。展示の方法がいろいろ工夫されていて、とても親しみのもてる水族館?でした(ワオキツネザルやアフリカの鳥などが放し飼いになっているゾーンもありました)。ペリカンやホワイトタイガー、カワウソ、ペンギンなどの小さな模型も売られていて、私は羽を広げたペリカンの模型を買いました。
 
(2016年2月20日)