北海道・ミュージアム巡り

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 8月9日から12日にかけて、北海道の4箇所のミュージアムを見学しました。以下、その報告です。
 

目次

1 中原悌二郎記念旭川市彫刻美術館
2 沼田町化石館
3 帯広百年記念館
4 浦幌町立博物館
 

1 中原悌二郎記念旭川市彫刻美術館(8月9日)
 8月9日、午前10時40分ころ新千歳空港に着き、それからJR快速エアポートで札幌、さらに特急に乗り換えて午前1時20分ころ旭川着。駅員に尋ねても私の乗るべきバスがよく分からず苦労しましたが、なんとか探してもらって旭川電気軌道バスの5番系統のバスに乗車、30分近くで春光園前着、2時過ぎようやく美術館に着きました。
 中原悌二郎記念旭川市彫刻美術館の建物は、百年余前に旧陸軍第七師団将校のために建てられたものだとのことです。頑丈そうな木造建築で、会談もかなり急でした。
 1階は特別展示室で、木彫の展示が行われているとのことでしたが触れることはできないということで、2階の常設展示室を案内してもらいました。教員の研修も行われていて、次々と先生たちのグループが回ってきて、その合間をぬって案内してもらい鑑賞する感じになりました。
 
●中原悌二郎の作品
 この美術館は、現存する中原悌二郎の全作品(12作品)を所蔵しており、その内私は「エチュード」を除く11作品を鑑賞しました。これらの作品は、「憩える女」を除き、いずれも首から上または胸から上の像で、大きさもほぼ実物大です。(中原悌二郎につい詳しくは、中原悌二郎についてなどを参照)
 ・女の顔(1910年):目がはっきり表現されておらず明いているのかつぶっているのかよく分からない。鼻は大きい。あちこちにぶつぶつしたような凹凸があったりしてまだ未完成のようだ。もっとも初期の作品だとのこと。
 ・老人(1910年):眉毛の部分がはっきりしている。口の辺りから下は髭。髪は後頭部の辺りだけ。首の筋肉の感じがよく表わされている。
 ・乞食老人(1918年):顔全体が髭で覆われている。肉が落ち痩せこけている感じ。胸に、指でなぞったような、斜めの凹み線が多数ある。
 ・墓守老人(1916年):顔が大きく、やや前のめりになって左前をつよく見つめているような感じがする。額の上をはじめ、いくつか皺がしっかり刻まれている。なにか力強く、完成度も高いように思う。
 ・若きカフカス人(1919年):鼻が高く、ヨーロッパ系の顔。全体に荒々しい感じ。モデルはコーカサス(カフカス)生まれのニンツァというロシア人青年だが、この人は新宿のパン屋中村屋に滞在していたとのこと(有名な盲詩人エロシェンコもこの中村屋で世話になっていました。エロシェンコは中原悌二郎など中村屋に集った彫刻家たちとも交流があったかも知れません)。ニンツァをモデルとして制作を始めて1週間が過ぎた頃、ニンツァがモデルになるのを嫌がりだし、制作途中の作品を「鬼の顔」だと言って壊そうとしたとか。本当に壊されかねないと思った悌二郎は早々に石膏に取り、鋳造までしてしまう。わずか2週間で制作されたことになる。
 ・平櫛田中(ひらくしでんちゅう)像(1919年):中原悌二郎の絶作。全体にごつごつした感じで、左耳と右耳の形が違ったりしている。未完成品。
 ・石井鶴三像(1916年):頭部の後ろ半分が無くなっている。
 ・坪井経蔵(つぼいけいぞう)像(1916年):全体につるっとした手触りで、形も整っている。
 ・三宅辨次郎像(1916年):頬から顎にかけて、顔を縁取るかのように、髭がはえている。
 ・保田龍門像(1915年):鼻や口が高く、その細かい所までよく表現されているようだ。
 ・憩える女(1919年):全身像で、高さ30cmほどの小さな像だが、私にはとても好ましく感じた。全体としては、脚を伸ばして体をくるっと丸めたような姿勢。左脚は伸ばし、右脚は膝を曲げて立てている。左手を伸ばして右足首をつかんでいる。右腕は曲げて肘を右膝の上に乗せ、右手で左上腕をつかんでいる。顔を曲げた右腕に埋めるようにしている。背中は広く、お腹や胸の膨らみもよく表わされている。外界から離れてなにか感慨に耽っているようにも思える。
 
●中原悌二郎関連
 ここでは、中原悌二郎と交流のあった人たち、強い影響を受けた人たちの作品を鑑賞しました。
 まず、石井鶴三作の「中原悌二郎像」と堀進二作の「中原悌二郎像」に触れました。ともに、しっかりした顔立ち、意志の強そうな感じを受けました。
 ・戸張孤雁(1882〜1927)「虚無」:座った老人の像
 ・荻原守衛(1879〜1910)「坑夫」:肩から上の像。顔を左に向け、鼻がとても大きく突き出している。左肩が幅広く高く突き出しているのに対して、右肩はほとんど消えている。パリ留学中の作品だとのこと。悌二郎は1908年に荻原守衛に出会い、画家から彫刻家への道を歩むようになったようだ。(荻原守衛はロダンの強い影響を受けた彫刻家ということで、ぜひ一度触れてみたいと思っていました。碌山美術館にも行ってみたいものです。)
 ・加藤顕清(1894〜1966)「ペステム」:髪が後ろにばあーっと広がっていて、好ましく感じた。
 ・藤川叢三「立像20」:高さ70〜80cmくらいの、小さめの女の全身像。体が少しくねり、脚が細くなり、独特な姿勢。なにか現代的な感じ。イタリアに留学し、マリーノ・マリーニの影響を受けているとか。
 ・桜井祐一「レダ」:ほぼ等身大の女性の像で、脚を伸ばして座り、独特の姿勢をしている。顔は見上げるように上に向け、左腕はまっすぐ前に伸ばして手のひらを前に向け、右腕は肘をぎゅっと前に突き出して大きな輪をつくるように右手を左肩に置いている(座った姿勢のためだろうが、下腹が大きく感じる)。何かを待ち望んでいる姿勢のようにも思えるし、左肩から右肩そして右腕でつくられる大きな輪のなかに何かを抱いているようにも思えるし、さらに張り出した右肘からすると、外から入ってくる者から何かを守ろうとしているようにも思われる。作品名の「レダ」はギリシア神話に出てくる女性。アイトリア地方の王テスティオスの娘で、スパルタの王テュンダレオースの妻となるが、レダを愛するようになったゼウスはハクチョウに変身してレダを誘惑し、レダは卵を産み、その卵からヘレネーが生まれたという。このエピソードは西洋の彫刻や絵画の題材になっているとのことである。
 
●中原悌二郎賞受賞作品
 中原悌二郎賞は1970年に創設され、彫刻では日本でもっとも長く続いている賞だとのこと。(以下の括弧内は受賞年)
 ・加藤昭男「何処へ」(1994年): 2メートル以上はある大きな作品で、全体がなかなか分かりにくかった。馬に猿が 2匹取り付いている形になっていた。
 ・柳原義達「道標・鳩」(1974年):頭をぎゅっと後ろに向け、くちばしもほぼ後ろを向いている。胸が大きい所は鳩らしいのだろう。以前、三重県立美術館の柳原義達記念館で触ったことのある作品と同じであることを思い出す。
 ・一色 邦彦「ひびき」(1972年):30cm余の小さな作品。触った感じは、左肩と顔で地上に落下・着地しているようで、私はイカロスを連想する。しかし見た目は、落下というよりも浮遊感を感じさせるとのこと。右手で右膝をつかんでいて、右腕から右脚にかけて弧を描くような曲面になっている。確かに、こういう曲面はふわあっと浮いているような感じを与えるのかもしれない。
 ・山本正道「風と少女」(2000年):これまでの作品がすべてブロンズだったのにたいし、この作品は大理石(黄土色ないし黄色だとのこと)。とても手触りがよく、好ましく感じた。高さ 1メートル弱で、地面にうずくまっているような感じ。首から下はマントのような衣に被われていて、うつむき加減の小さな顔と握った両手だけが首の所から出ている。左側からの風で衣が右側になびき流されていることが、衣のいくつもの曲面から触ってもよく分かった。硬い石を触って、風の動きを想像できるのは楽しい。
 ・佐藤忠良「カンカン帽」(1975年):胸から上の像。カンカン坊のつばが水平に10cm以上も広がっているのにたいし、両肩はすうっと斜めに落ちている。笹戸千津子がモデルだとのこと。
 その他、佐藤忠良のモデルとなった笹戸千津子の「若き立像'86」(女の全身像)、いろいろ有名な人たちの像を作ったという西常雄の「藤原義江像」などに触れました。
 
●奥外展示
 この後、前庭に出て、いくつかの石(主に花崗岩)の作品に触れました。
 寺田栄「石走る(いはばしる)」は、雨だれがさあっと流れるような細い溝が何本もシャープにずらあっと並んでいて私好みの作品です。高岡典男「SUMMIT」は、細長い石の板(端には石を縦に割るための切れ込みがいくつかあった)が2本(もっと数が多いほうが良いと思いました)屹立しています。五十嵐晴夫「メビウスの立方体」は、立方体に近い各面に、触っては十分には分かりませんでしたが、いろいろな直線が刻されていました。山内壮夫「お母さんのひざ」は、つい座ってみたくなるような作品でした(同じないし類似の作品にはこれまでにも何度か触ったような気がします)。また、題名は忘れましたが、まったく同じドラム缶のような形なのですが、一つは鉄製、もう一つはブロンズ製の作品がありました。長い間風雨に曝されると、鉄製のものはどんどん錆びて風化してゆくのにたいし、ブロンズ製のものは表面に緑青が出来てそれ以上はあまり風化しないということになります。発想が面白いですね。
 

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2 沼田町化石館(8月10日)
 朝7時過ぎ、旭川から特急に乗り20分ほどで深川へ、8時過ぎに深川から留萌線の1両のワンマンカーに乗り15分ほどで石狩沼田着、それから駅近くの情報プラザで1時間半ほど待って町営バスに乗り、20分余で終点の幌新温泉に到着。ここに化石館があります。バス停では博物館のIさんが出迎えてくれて、早速案内してくれました。だだっ広い感じがして尋ねてみると、広い駐車場になっているとのこと、平日のためか車はほとんどいないようです。私のように公共交通機関を使って来る者はほとんどいないとのことです。
 玄関を入るとすぐ、貝の化石を多数含む大きな岩塊がありました。よく触ってみると、どこもかしこも直径3〜5cmくらいの二枚貝の貝ばかり。 4千万年前の物だとのこと。隣りには、やや大型で平べったい貝がびっしり固まった岩塊。これは 2千万年前の物だとのこと。シジミそっくりの貝の塊もありました(これは 2千万年前)。
 次は、生物が活動していたことを示す化石です。中心に穴があり、その回りがぷくっと膨れた形です。ゴカイなどの巣穴かも知れないということです。そういう生き物が粘液を出して回りの砂を固めたようで、それが化石化したのでしょう。その他に、もっと大きな、真ん中に穴の空いた円柱状の物(カニなどの巣穴かも?)もありました。
 ナミガイという二枚貝のほぼ完全な化石がありました。これはかなり大きくて、殻の幅が15cm近く、上の殻と下の殻の間の厚さは5cmほどもありました。
 直径30〜40cmほどもある大型のアンモナイトの化石が数点ありました。その中に、触ってはほとんど分からないのですが、細かなきれいな模様、菊の葉のような模様のあるものがあります。これは一般には菊石と呼ばれているとのことです。アンモナイトの化石の表面の殻の部分が侵食されて無くなると、中の組織構造(いくつにも分かれた気室とそれを支える構造)が現われてきて、菊の葉のような模様に見えるようになった物だとのことです。
 ウミトカゲ類の椎骨の化石がありました。長さは全体で25cmくらいで、そのなかに5cmほどの椎骨が 3個並んでいます。全長は 5メートルもあったとか、ちょっとこわいですね。
 
 この辺りはタカハシホタテの化石の多産地のようで、小さ目のものから大きいものまでいろいろ展示してありました。小さいのは10cm弱ですが、大きいのは20cmくらいもあります。形は今のホタテガイに似てはいますが、耳が大きく、上にぼこうっと膨れていて、 2枚の殻の間の距離が5cmほどもある物もあります(実際には、ぼこうっと膨れたほうの殻が下になって砂に埋まり、平べったいほうの殻が上になっているはずです)。殻の厚さも大きい物では 3ミリくらいはあるでしょうか、持った感じもずっしりと重量感があります。Iさんによると、今のホタテでは殻に縦に走っている筋が23本くらいなのにたいし、タカハシホタテでは15本くらいと少なく、それが特徴だとのことです。平べったいほうの殻にも筋がありますが、その中の 3本ないし 2本の真ん中辺りにはぼこっとした突出部があり、これも特徴なのではと私は思いました。タカハシホタテガイは 500万年前の化石で絶滅種だということですが、その絶滅の原因の一つとして、大型化し重くなることで、今のホタテガイのような遊泳能力(殻を急激に開閉することで水を強く噴出し推進する)が無くなり、捕食者から逃れにくくなったという考えもあるようです。
 もう一種、これも絶滅種で、トウキョウホタテというのもありました。100万年前の物だとのことです。私が触ったのは直径15cm余もある大きなものでしたが、平べったくて形は現在のホタテとほとんど同じようです。手触りも本物の貝のようで、それは、まだあまり時間が経っていないため別の鉱物に置き換わっていないためだろうとのことです。この種は、どうして絶滅したのでしょうか?
 長さ50cmくらいのクジラの肋骨の回りに、タカハシホタテなどの貝が多数くっついた物もありました。タカハシホタテは、ぼこうっと膨れた殻のほうを上にしたもの、殻の内側が上を向くもの、立っているものなどあって、面白いです。化石の発見現場を髣髴させてくれます。いろいろな生物遺体がいっしょに流されて、特定の場所に堆積したのでしょうか。
 二枚貝としては、中生代白亜紀(9千万年前)のイノセラムスの化石もありました。長さは25cmくらいもあり、あちこちぼこぼこしていて、あまり二枚貝という感じはしませんでした。
 
 タキカワカイギュウとヌマタカイギュウの肋骨のレプリカが1本ずつ比較できるように並べられていました。タキカワカイギュウの肋骨は直径6、7cm、長さ1mくらい、ヌマタカイギュウの肋骨は直径4cmくらい、長さ50〜60cmくらいで、いずれも弧状に湾曲しています。全長もタキカワカイギュウは 8m以上、ヌマタカイギュウは 4mくらいで、倍ほど大きさが違っただろうということです。(タキカワカイギュウは正式の種名として認められているが、ヌマタカイギュウは通称で新種としては同定されてはいないとのことです。ヌマタカイギュウは化石として全身のごく一部しか発見されていないためでしょう。タキカワカイギュウは、1980年に滝川市を流れる空知川で発見された化石で、約500万年前に生息。 なお、私は以前にステラーカイギュウのレプリカに触ったことがある:東海大学海洋科学博物館と自然史博物館
 次に、ヤマシタヌマタネズミイルカです。これは、この博物館で私がもっとも素晴らしいと思った展示です。実際に発見された状態のレプリカと、それを元に復元した組立て模型が展示されていました。実際に発見されたのは、ほぼ完全な椎骨と左右の肋骨、それに鰭で、かなり良い状態で発見されたようです。組立て模型で確認すると、全長は 2メートル余、頭部、椎骨17個、肋骨13対、胸骨1個(胸の前にぶら下がっている感じ)、鰭(前脚。長さ50cmくらいはある大きなもので、先は5本の指になっている)から成り、後脚は完全に無くなっています。ほぼ同じ形の細かい歯が多数並んでいて、左下顎で数えてみると、23個くらいありました。
 また、古いタイプのミンククジラ(プロトミンククジラ)の発掘された状況のレプリカもありました。尾から腰辺りくらいまでの椎骨がずらあっと 3メートルくらい並んでいます(一部ははみ出していたり離れているものもあります)。椎骨は約20個ほどあり、一つ一つの椎骨は10cm近くの厚さがあります。これで全体の半分にも満たず、全長は 7メートル以上はあるだろうとのことです。
 
 その他、フジツボが多数くっついた岩塊、キンチャクガイやウニの化石、植物の葉の化石、珪化木、石炭、サメの椎骨の化石など、いろいろありました。サメの椎骨は、3×4×5cmほどのほぼ直方体の形で、前後の面が四角錐状に窪み、上面に 2個の穴がありました。持ってみると体積のわりに軽く、手触りも乾燥した高野豆腐のような感じで多孔質のようにも思います。軟骨魚だからかも知れないということでした。
 
 この博物館では、化石の擬似発掘体験やレプリカ作りもできます。私も早速やってみました。
 化石の擬似発掘体験としては、硬い砂の中にタカハシホタテが埋められていて、それを小さな鏨と金槌でちょっと注意しながら掘り出します。表面をブラシで少し磨き、さらに保存のために刷毛で樹脂を塗ります。また、硬い土の塊の中に小さな化石が入っていて、その土塊を棒で崩していって化石を取り出すというのもありました。私のにはサメの歯が入っていました。
 化石のレプリカ作りでは、タカハシホタテの石膏のレプリカを作ります。タカハシホタテの両方の殻をシリコンで型を取った物が用意されています。両方の殻の型の中に石膏を流し込み、少し固まりかけたところで、両方の殻を合わせて一つにします。30分ほど乾くのを待ってから、慎重に型をはずすと、大きなタカハシホタテが出来ています。回りにはみ出している薄い石膏を割り取って完成です。
 これらの体験はいずれも有料ですが、掘り出した化石や作ったレプリカは持ち帰ることができ、良い土産になります。
 

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3 帯広百年記念館(8月11日)
 旭川から帯広へはバスで行くことにしていました。8時前にホテルを出て旭川駅付近に行きバス停を尋ねようとしましたがなかなか分かりません。結局交番まで連れて行ってもらって警察の方に案内してもらってバス停に行きました。旭川から狩勝峠(石狩地方と十勝地方を分ける峠のようです)を越えて、3時間半ほどで帯広に着きました。帯広駅からはタクシーに乗り、10分たらずで百年記念館に到着(帰りは暑いなか帯広駅まで歩いてみました)。
 このミュージアムは、1883年に帯広の地に開拓のために晩成社が入ってから百年目に当たる1982年に開館したとのことです。スタッフの案内と解説で、常設展示の各ゾーンを見学しました。
 
●イントロダクション・マンモスのいた風景
 2万年前(氷河期でももっとも寒冷な時期)の初夏のころ、薄く雪に覆われた沼地にマンモスが居る風景のジオラマがあるとのことです。このマンモスは樺太で見つかった物から復元したもので、毛が長く、耳が短いのが特徴(これは寒い地方の動物の特徴)だそうです。当時は北海道は大陸とつながっていてマンモスがやって来たと考えられ、北海道がマンモスの南限ではとのことでした。ただし、北海道でもナウマン象の化石が見つかっていて、幕別町忠類からはナウマン象のほぼ完全な全身骨格が発見されているそうです。マンモスとナウマン象が同時期に北海道にいたというよりも、より寒冷な時期にはマンモスガ、より温暖な時期にはナウマン象がいたということではないでしょうか。
 
●開拓の夜明けと発展
 まず、開拓当時生えていた木として、ミズナラの切り株(直径 1メートルはある)に触りました。斧が突き刺さった状態で展示されていました。ミズナラとともにこの辺りではカシワも多かったということです。
 開拓当時の家(「拝み小屋」とも呼ばれるそうです)の 3分の1の模型がありました。高さ80cmくらい、幅1.3mくらいです。骨組みは木ですが、壁や屋根はなにかの植物の茎です。中には囲炉裏があります。暖を取る物として、直径10cmくらいの竹筒の湯たんぽがありました。また、枕ほどの大きさの石もあり、これは囲炉裏の近くで暖めておいて使ったらしいです。
 帯広の開拓は、1883(明治16)年5月、静岡出身の依田勉三(1853〜1925年)をリーダーとする晩成社移民団一行13戸27人の入植に始まるとのことです。(この中には赤ちゃんもいて、赤ちゃんもふくめ全員が何らかの役を分担していたとのことです。)米・麦・粟・豆など穀類のほか、野菜類を栽培しますが、バッタやノネズミの襲来、度重なる冷害などにより生活はとても苦しかったようです。にもかかわらず、養豚や酪農、さらにはバターや練乳の製造など先進的な試みを次々としますが、そのほとんどが失敗、50年後には晩成社は解散することになります。(晩成社の行った事業の中で唯一成功したのは、水田耕作だそうです。)
 晩成社が入植してから10年余りして、道庁は1896年十勝を「植民地解放」します。開墾した土地を無償でもらえるようになったことも相俟って、一般の人たちや結社の入植が進んだとのことです。(十勝地方には屯田兵は入っていないそうです。)
 同じころ、1897年、二宮尊徳の孫二宮尊親が率いる興復社(尊徳の報徳思想を実践する開拓結社)の移民段が、現豊頃町に入植します。興復社は、移住した小作人を土地を持つ自作農に育てることを目的として、勉強会や互いに助け合う独特の組織・制度をつくり、順調に目的を果たしていったそうです。
 また、少しさかのぼりますが、1895年、帯広に北海道集治監十勝分監(後、十勝監獄)が置かれます。当時帯広の人口は300人、そこに囚人1,300人と職員200人がやって来たといいます。囚人たちはもちろん開拓のためのいろいろな作業にも駆り出され、帯広の発展にとって大きな役割を果たすことになるわけです。
 監獄の扉が展示されていました。高さ10cm、幅40〜50cmくらいの小窓があり、そこから食事など物を出し入れしたそうです。扉には犯罪の等級と人数が書いてありましたが、その人数は「…本」となっていて、犯罪者は人扱いされていなかったようです。
 
●十勝平野の生いたち
 日高山脈が姿を現す前から現在の十勝平野ができ上がるまでを順に紹介しています。
 まず、触れることはできませんでしたが、2億4千万年前の海の様子が展示されていました。アンモナイトなどのようです。
 次に、 1千万年前の火山活動を示す物として、斑糲岩、玄武岩、溶結凝灰岩、黒曜岩(通称「十勝石」と呼ばれ、地元ではごくありふれた石のようです)が展示されていました。日高山脈に当たる部分が隆起し始めるのはこのころ(第三紀中新世)からで、西側のユーラシアプレートの下に東側の北アメリカプレートがもぐり込むように衝突して生じた大きな力によって、年平均最大2.8mmの割で隆起したようです。
 数百万年前(このころは十勝地方はまだ海だった)の物として、樺太から見つかった化石から復元したというデスモスチルスの頭骨模型が展示されていました。長さは80cmほどで、口が長く前に伸び、奥に上下1対の歯(臼型の歯が数本くっついたような形)があるだけです。このほかに、鯨の第3頚椎のレプリカも展示されていました。
 十勝地方が陸になってきたのは百万年前以降のことで、60万年ころは広い湿原(現在の釧路湿原の6倍)が広がっていたとのことです。
 十勝地方に生息しているいろいろな動物の剥製なども展示されている(その中には氷河期のころから生きていたナキウサギもある)ようですが、触ることはできないということで、その代わりに、エゾリスの冬毛と夏毛の毛皮を触らせてもらいました。冬毛はやはりふわふわで心地よいですね。
 
●「十勝のくらし」と「十勝農業王国の確立」
 この2つのコーナーは、簡単に説明してもらいました。道産子の実物大の模型があり、触ってみると、体は太いですが、思ったより小さく感じました。トラクターが使われる以前の、馬に引かせるさまざまな耕作道具が展示されていました。馬橇も展示されていて、これは懐かしかったです(私は小さいころ馬橇に乗ったことがあります)。
 
●十勝の先史時代
 十勝に人が住み始めたのは、2万年以上前だといいます。旧石器時代です。黒曜石で作られた鏃、石刃、細石刃が展示されていました。細石刃は、長さ数cm、幅数mmの薄い剃刀のような刃で、角や硬い木に溝を掘って、そこにこの細石刃をいくつか並べて使います。刃が欠ければ、そこだけを別の細石刃に交換すればよい訳で、替え刃型のとてもすぐれた狩猟具といえるでしょう。狩猟との関連なのでしょう、ナウマン象の牙のレプリカとヘラジカの角も展示してありました。ナウマン象の牙は、長さ1.2〜1.3mくらいで、弓状に曲がっています。ヘラジカの角は、1m近くもあったでしょうか、根元は7、8cmの太さで、まず二つに別れ、それぞれがまた二つに別れていました。(2万年前ころにはナウマン象は北海道にはいなかったような気もしますが…。)
 北海道の縄文時代の始まりは、以前は8千年前ころとされていたようですが、各地の遺跡発掘の結果、最近は12,000年前ころの土器もかなり見つかっているようです。縄文時代の土器のレプリカが5個展示されていました(6,500年前、4,000年前、3,500年前、2,300年前が2個)。いずれも底は細くなっていて(底が平たくなっているのもあった)、後期の物には壺形の物もありました。縄文時代の遺物としては、石斧、黒曜石のナイフ、石皿と磨石などに触れました。6千年前の墓穴の1/2のレプリカがありました。縦60数cm、横30数cm、深さ20数cmほどの大きさで、底はベンガラで赤く着色してあるとのことです。この大きさだと、膝を曲げてなんとか人を入れられるくらいですね。ちょっと変わった物としては、土器の内側の底に4本の指で2回爪痕を付けたような物とか、土器の底の裏側にホタテの貝殻を押し当てて模様を付けたような物もありました。
 本州の弥生時代から古墳時代にかけては、北海道ではあまり土器には変化はなく、続縄文時代と呼ばれているそうです。続縄文の土器として触れられたのは、土器パズルの物だけでした。
 本州の奈良・平安時代にかけての時代は、北海道では擦文時代と呼ばれるそうです。土器の表面にハケで擦ったあとが見られることから「擦文」という名が付いたとのことです。擦文土器のレプリカが3点ありました。土師器の影響を受けているらしいですが、私にはよく分かりませんでした。土器のほかにも本州の文化からの影響を受けるようになって、一部で鉄器が使われ、オオムギ・キビ・ソバ・ウリなどの栽培が始まり、また竪穴式住居で竈が使われるようになったとのことです。そして、この擦文文化が母体となって、次のアイヌ文化につながっていったようです。しかし、二つの文化の関係をはっきり示すような遺跡はまだあまり見つかっていないとのことです。
 
●十勝のアイヌ文化
 このコーナーでは、なんといっても「イタオマチプ」(板綴り船)のレプリカがすごかったです。実物の半分くらいの大きさで復元したものだとのことです。長さは5メートル余、幅は1メートル弱です。船の底の中心部分は、丸太の内側を刳り貫いた形(=丸木舟)になっていて、船尾と船首ではさらに丸太が継ぎ足されています。そして、この丸木舟の両側に、幅10cmほどの板が数段斜めに植物製の綱で連ねられて、船全体の形になっています。(綱は板に開けられた穴に通されていますが、水に漬かると綱が膨れて穴がきっちり閉じられるとのことです。)このイタオマチプはおそらく、川や沿岸で使っていた丸木舟を基に、それを外洋でも使えるように發展・改良したものだと思います。この船で、樺太や千島、さらにはたぶんロシアなどとも交易していて、アイヌにとっては外国人はそんなに珍しいものではなかっただろうとのことです。
 船の中には木の椅子のようなのがあり、たぶん10人くらいは乗れるでしょうか。船の側面にはオールのようなのが4本あります。船の中にはまた、石の錨や水を汲み出す小さな桶もありました。船のやや前の部分には茣蓙のような帆が立ち、前後に帆綱が3本あります。帆は蒲と木綿で編まれ、独特の文様になっているとのことです。このような帆や衣服を編み文様を作るのは女性の仕事で、木の細工などは男性の仕事だとのことです。
 船尾と船首には「イナウ」という、人間の願いを神々に届け、また神々の土産にもなるという木の幣があります。触った感じは、細い木の棒の先のほうに木の皮かなにかでわさわさしたのが付いています。船首にはさらに飾り板のようなのが付けられています。この飾り板には尖った角がいくつもあり、こういう尖った角は魔除けになるそうです。また飾り板には幾何学的なアイヌ模様が描かれているとのことです。飾り板の先端にはさらに、1本の木から掘り出したという、円柱が 3個縦に連なったようなのがぶら下がっています。こういう木の細工物やイナウを作るのは、男の仕事です。
 この「イタオマチプ」は、アイヌ文化の集大成のように私には思えました。
 最後に、「ムックリ」と「トンコリ」というアイヌの楽器を体験させてもらいました。「ムックリ」は、長さ15cmほど、幅12cmくらいの竹の薄い板で、中央部に細長く切れ込みが入れられて振動する弁のようになっています。右端の弁の基部に穴があって紐が通されその先に短い棒が付いています。左手で竹の左端を持って振動弁の先端付近を口に当て、右手で紐の付いた棒をを引っ張って弁を振動させ、その音を口腔内で共鳴させます。びょーんびょーんといったような音がします。(私はミュージアムショップでムックリを買ってちょっと練習しました。)「トンコリ」は、5弦の細長い楽器です。ギターなどのように弦を途中で押さえて音程を変えることはせず、あらかじめ調弦された音だけで奏します。
 

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4 浦幌町立博物館(8月12日)
 午前10時ころ帯広駅から根室本線の各停の列車(これも1両のワンマンカー)に乗り、 1時間ほどで浦幌駅に到着、そこで博物館に電話をして迎えに来てもらいました。そして博物館に着くと教育長さんが出迎えてくださり、思わぬ歓迎を受けました。
 この博物館のメダマは、なんといっても、浦幌町の鳥であるアオサギをはじめ、多くの鳥の剥製の展示です。そしてその多くはだれでも直接触れてみることができます(やはり冠羽など一部取れたりしている部分もありましたが)。浦幌町では、年間で300種もの鳥を観察できるとのこと、自然の豊かな鳥の宝庫といえるでしょう。
 まず、アオサギの営巣地(コロニー)のジオラマがあります(これは触れられません)。直径 1メートルほどの巣で、周りに4、5羽のアオサギがいます。巣の中には、鶏の卵よりもやや小さめの卵が見えるそうです。アオサギの剥製もあって、触れて観察できました。浅瀬に立っている状態で足先は水面の下になっています。体長は70〜80cmほどで、羽はかるく閉じた状態ですが、広げると 1メートル50〜60cmくらいにはなりそうです。細い首がすっと上に20cmほど伸び、頭の両側に目があり、やや太めのくちばしがすうっと水平に20cmくらい伸びています。全体としてバランスの取れたとてもきれいな形です。
 猛禽類として、クマタカ、ハイタカ、チゴハヤブサ、ツミ、そしてオオワシが展示されていました。これらに共通する特徴として、くちばしが鉤形に下に向いている、爪が長く鋭い、目が斜め前を向いているなどを触って確認できました。クマタカは、飛び立とうとして羽を上に伸ばしている状態で、尾羽も広げています。体長は60〜70cmくらい、羽を広げるとおそらく 2メートル近くになりそうです。オオワシはさらに巨大で、羽をほぼ広げた姿で展示されています。体長は 1メートルくらい、片翼だけでも 1メートル20〜30cmはあります。羽の先端はすうっと横に伸びていますが、全体に幅広く(羽の前縁から後縁まで40〜50cmはある)何層にも分厚く(10cmくらいはある)重なっています。真ん中あたりの斜めに伸びる羽も力強く感じました。翼全体の曲面の形がとてもきれいで、よく空気をつかまえて飛べそうな感じがします。尾羽は、先端がとがり、両側に三角形に広がっています(長さは40cmくらい)。
 フクロウ類としては、コノハズク、オオコノハズク、エゾフクロウが展示されています。形はともによく似ていて、大きさが展示順にほぼ倍、倍になっています。いずれも目はしっかりと前を向いています。オオコノハズクでは、頭の両側に斜め上に向って羽毛が立っていて、ちょっと耳の形のように思われます(コノハズクではこの部分は取れてなくなっていた)。この形が「ズク」と呼ばれるとのことです。
 このほかに、マガモとコガモ、オシドリ、エゾライチョウ(雄と雌)、ミヤマカケス、アカショウビンが展示されていました。また、10〜15cmくらいの小鳥としては、コルリ、ノゴマ、メジロ、センダイムシクイが展示されていました。
 さらに、展示ケースに入っている剥製も一部出してもらって触らせてもらいました。アマサギ(雄と雌。雄が雌の倍ほども大きかった。いずれも水掻きを触察できた)、ノスリ(猛禽類。羽は閉じているが、両横上に羽が大きくふくれていて力を感じる)、クマゲラ(上のミヤマカケスと同じくキツツキの仲間。木と平行にとまり、木に向って5cmほどのくちばしが水平に伸びている)、ヤマセミ(上のアカショウビンと同じくカワセミの仲間)、キレンジャク(小鳥)などです。鳥の標本の大いことには驚きました。浦幌町は鳥の隠れた宝庫のようです。
 鳥の剥製のほかにも、イトウやゴマフアザラシの剥製に触りました。イトウは長さ 1メートル以上(重さは9.2kgあるそうです)、背腹間が20cm余、左右の厚さは5cm余ほどで、魚の体形としては細長いほうのようですが、やはり太く感じました。少し内側に曲がった細かい歯が多数並んでいて、ちょっと怖そうです。上顎の歯の内側にはさらに、まるで歯の赤ちゃんのように、小さな突起の列が並んでいました。ゴマフアザラシは、生まれて4、5ヶ月の小さなもので、50cmほどありました。なんともかわいい形で、その毛皮も触ってとても心地よかったです。また昼御飯を食べた食堂では、マスターが製作したというヤマメ(30cmほどもあり細かい歯が並んでいた)とニジマス(40cm以上)の標本にも触らせてもらいました。、
 
 この博物館は、鳥の標本だけではありません。町内で見つかった石器や土器などの考古資料、化石などの地学関係の資料にも優れた物がいろいろありました。
 考古資料は、一つ一つケースを開けていろいろな物を触らせてもらいました。縄文、続縄文、擦文、アイヌに分かれています。
 縄文土器は、底が平たくなっている物が多いです。縄文早期(8千年前?)の遺跡で、縄文土器と石刃が一緒に出土する極めて珍しい遺跡があります。また、7千年前の、緑色をしたヒスイの飾り板のようなのがありました。長さ10cm弱の薄い板状で、端に穴があります。ヒスイの装身具としては国内最古ということです。(ただし、このヒスイは硬玉ではなく軟玉だとのことです。軟玉だからこそこのように薄く加工できたのでしょう。)石斧などの石器類もいろいろありました。
 続縄文文化では、耳飾や管玉、さらに琥珀製のネックレスのようなもの(中に穴のあいた直径5mmくらいの小さな玉がいくつもあった)など、お墓の副葬品に触れました。
 擦文時代の展示は興味深かったです。おそらく火事のためなのでしょう、壺の中に入っている穀類が炭化したものがありました。炭化したオオムギ・シソ・キビ(塊状になっていた)・オニグルミにそっと触りました。また、ふいごの一部と思われる鉄の塊や、溶けた鉄の塊がありました。当時鉄製品は本州から入ってきた物ばかりでなく、北海道でも鍛冶屋のような所で鉄を加工していたらしいです。錆びてしまった刀子や鉄斧もありました。
 
 タカハシホタテやアンモナイトなど化石類もいろいろあるようでしたが、時間があまりなかったので、デスモスチルスの歯の化石にちょっと触れてみるくらいにし、最後に浦幌町の誇り?ともいえる二つの資料、K/T境界の地層の標本とウラホロシンカイヒバリガイの化石に触れさせてもらいました。
 K/T境界は、中生代白亜紀と新生代第三紀(地学界の最近の用語では古第三期=Paleogene。時代区分・名称の変更により、K/Pg境界と表記するのが正式のようだが、ここでは従来通りの表記にした)との境目のことで、約6,550万年前に当たります。よく知られているように、この時期に現在のユカタン半島付近に直径約10kmの隕石が落下、それを主要な原因として恐竜やアンモナイト等をはじめとする大量絶滅が起ったとされます。この隕石落下の一つの証拠として、北アメリカだけでなく世界各地で発見されている独特の地層があります。それは、化石を含まず高濃度のイリジウムを含有する粘土層で、1984年に、日本で初めて、というよりアジアで初めて(その後中国での発見が報告されている)、山形大学理学部地球科学教室の斉藤常正・海保邦夫等によって、浦幌町の川流留布(かわるっぷ)川の露頭で確認されました。(浦幌町のK/T境界層については、「日本のK/T境界層を訪ねて」を参照)私が触ったのは、幅10cmほど、高さ6、7cm、厚さ3、4cmくらいの大きさの石です。かなり硬い感じで、横ないし斜めにいくつもの筋が走っていました。色は真っ黒だとのことです。実際には、この黒い粘土層は白亜紀の有孔虫を含む石灰岩と古第三紀の有孔虫を含む石灰岩にはさまれています。町立博物館ではこのK/T境界層を観察する見学ツアーもしています。
 ウラホロシンカイヒバリガイは、アマチュア化石研究家井上清和さんの紹介で、上越教育大学の天野和孝教授等が2009年浦幌町内の厚内(あつない)川支流の石灰岩盤(この石灰岩は、メタンなどを含む冷湧水のため生じた炭酸塩岩らしい)から発見したシンカイヒバリガイ類の新種の化石です。触ってみると、長さ4cmほど、幅1cmほどの少し弓形に曲がったかわいい感じの二枚貝です。(私の触った標本では、貝の先端部にはまだ石の塊が付いていました。)水深500〜4,000mの熱水噴出孔(主に海嶺部)や冷水湧出帯(主に海溝部)に生息している二枚貝です。光のまったく届かない数百℃あるいは数℃の、普通の生物(光エネルギーに依存する生態系)なら生きることのできない極限的な環境です。このような環境でも、豊富に存在する硫化水素やメタンを利用して一次生産を行う化学合成細菌が生息し、さらに化学合成細菌に依存する化学合成生物群集が形成されているそうです。シンカイヒバリガイ類はそのような化学合成生物群集の優占種の一つで、鰓の上皮細胞内に共生するメタン酸化細菌や硫黄酸化細菌からエネルギーを得ることで生命を維持しているとのことです。ウラホロシンカイヒバリガイは約 3千万年前の化石で、シンカイヒバリガイ類の化石としては国内で最古、世界でも 2番目に古いものだとのことです。北海道からは遠く離れた太平洋の 3千万年前の極限環境の深海底で生息していた生物を間接的にでも現に触っているのだと思うと、なんともわくわくするではありませんか。また、化学合成といえば、生命の起源の最初期の話としてあまり実感がありませんでしたが、この化石に触れたことで俄然興味を持つようになりました。(詳しくは、国内最古のシンカイヒバリガイ化石についておよびシンカイヒバリガイ類の系統と進化なども参照してください)
 
(2011年9月7日)