2月11日、奈良県立橿原考古学研究所付属博物館で開催中の、「特別陳列 さわって体感考古学!!」にIさんと一緒に行きました(開催期間は、2月4日〜3月20日)。
近鉄橿原線の畝傍御陵前駅から歩いて5分余、博物館の入口が分からず周囲をぐるうっと回って、10時過ぎ到着。10時半から学芸員による解説があるということで、それに参加しました。参加者は20人弱くらいでしょうか、見えない方も数人おられました(中には全盲小学生とお母さん?もおられました)。
解説を担当したのは、この特別展を企画した北井利幸(主任学芸員)さん。北井さんによれば、これまで十数年博物館で仕事をしてきたが視覚障害者の来館はほとんどなかった(展示品はみなケースに入っていて触れないのでそれも当然だろう)、それで、視覚障害者もふくめ考古学を楽しむ裾野をひろげようと、今回の企画をしたとのことです。本来なら奈良県の予算でできたら良いが、今回は文化庁の「平成28年度地域の核となる美術館・歴史博物館支援事業」として行うことができたとのことです。
初めにこの特別展について私の率直な感想を言うと、考古学に初めてふれるという目的からすれば良いのかもしれませんが、触れられる物をいろいろ並べてとにかく触ってもらおう、体感してもらおうということが主眼になって、展示全体のテーマやとくに伝えたいことが何なのかといったことがあまり伝わってきませんでした。特定のテーマ(複数のテーマでも良い)について、展示品を触り体感しながら理解を深めて行くというような展示の方法があっても良いのではと思いました。
*後から知ったのですが、この特別展は、@考古学でなにがわかるのか? A奈良県から出土したもの B奈良県が世界に誇る”国宝藤ノ木古墳出土品” の 3コーナーで構成されていたとのことです。
もちろん、展示品の中には触ってすごいと思えるような展示もありましたので、北井さんの解説や、帰りに頂いた触図付きのごく簡単なリーフレットも参考にしながら、以下に書いてみます。
最初に触ったのが土器類です。まず縄文土器で斜めに並んだ縄目模様を触って確認しました。そして、縄文土器、弥生土器、土師器と、時代が下るにしたがって土器の厚さが薄くなっていることを確かめました(縄文晩期の土器では1.5cmくらい、土師器では5mmくらい)。弥生土器で長さ20cmくらいの長頸壺があって、この土器の底の裏の端あたりに、もみ柄の痕と思われる5mm弱の小さな穴がありました。また須恵器も並んで展示されていて、土器類と比べて硬い感じで、ちょっと軽くたたくと澄んだような音がします。須恵器でちょっと驚いたのは、製作年代として「約1540年前」とか「約1560年前」とか書かれてあったことです。このことについて尋ねてみると、これらは大阪の泉北地域にあった須恵器の一大生産拠点で作られたもので、その形や製作技法の特徴(たぶん工人集団や窯の変遷を反映している)から年代順に細かく区分されていて、その型式と照らし合わせれば出土する各須恵器の製作年代を20年くらいの単位(工人の1世代に当たる?)で特定できるそうです。(参考:
泉北すえむら資料館訪問――須恵器と土器の違いが分かった!)
銅鐸では、樹脂製のレプリカ、金属製の復元品(実際に鳴らすことができる)、そしてその銅鐸を作ったと思われる石製の鋳型が展示されていました。樹脂製と金属製の銅鐸は径が15cmほど、鈕もふくめた高さ25cmほどの小さめのものです。樹脂製のものは内側がでこぼこしていてあまり良いできではなさそうですが、金属製のほうはよくできているようです。私が注目したのは石製の鋳型の復元品のほうです。これは外側の型で、高さ40cm余り、幅30cmくらい、厚さ15cmくらいの大きさで、中央から下にかけて銅鐸の外形の片面に合うように大きく滑らかな凹の曲面になっています。重さは実物と同じ28kgあるそうです。実際に両手で抱えるようにして持ってみました。これは外側の鋳型の片方ですので、鋳型全体のセットとしては、外側のもう片方と内側の型が加わりますのでたぶん70kgくらいにはなるでしょう。この石製の鋳型は、私が住んでいる所からそんなに遠くない茨木市の東奈良遺跡(阪急南茨木駅を降りて東へ数百メートル。茨木市立文化財資料館がある)から出土した第1号流水文銅鐸鋳型で、凝灰質砂岩製だそうです。私は銅鐸の鋳型は粘土で作るものと思っていましたが、このような石製のものもあるのですね(そのほうが同じ型からより多くの銅鐸を作ることはできるでしょうが、鋳型そのものを作るのはよりたいへんだろうと思います)。
古墳関連では、まず箸墓古墳の1/300の復元模型に触りました。箸墓古墳は、3世紀半ば過ぎに、奈良盆地の南東部(現在の桜井市)に造営された最古の大型前方後円墳で、卑弥呼(248年没)の墓かも知れないという説もあります。この模型は古墳の形を模式的に示したものではなく、実際の地形をそのまま縮小したもののようです。大きさは奥行が1mくらい、幅がも1m近くありました。後ろのほうは直径50cmくらいの円形で、4段ないし5段になめらかに積み重なった形になっていて、一番上は平たくなっています(たぶんこの下に埋葬されたのでしょう)。後円部の前から、前が広くまた高くなっている台のようなのが伸びています(この前方部は、全体からすると小さく感じます)。触ってすぐ疑問に思ったのが、前方部を向って右奥から左手前に斜めに横切っている溝のようなものです。これは、地元で暮らす人たちが長年歩いたことで作られた道だとのこと、古墳をわざわざ迂回して行くよりはずっと便利なわけですね。また、前方部の向って左前から左に真っすぐ高い道のようなのが伸びていましたが、これは古墳の左側が大きな池で、その土手に当たるものだとのことでした。(資料によれば、箸墓古墳は、墳丘長約278m、後円部径約150m、高さ約30m、前方部幅約130m、高さ約16mとなっています。)
全国で一番大きいという円筒埴輪にも触りました。メスリ山古墳(4世紀初めに桜井市付近に築造された前方で、墳丘長250m近く、後円部の径130m近く、高さ23m)にあったものだそうです。高さは2m以上あって手を伸ばしても上のほうの広がっているだろう部分にまで届きません(帰りに頂いた触図付きのリーフレットにこの埴輪の図があり、それには高さ240cmとあります)。直径は1mくらい、側面には30cmほどの間隔で7段くらい(上のほうは届かなかったので、もう1段くらいはあったと思う)、樽の箍のような太い帯が付いています。そして各段には頂点を下向きにして三角形の穴が2つずつ空いています(触ったのは正面の半円の部分だけだったので、反対側もふくめると4つかも知れない)。これは特別に大きな円筒埴輪でしょうが、メスリ山古墳には高さ2m前後の埴輪が並んでいたそうです。
車輪石という面白いものに、初めて触りました。厚さ3cmくらい、直径20cmほどの円盤で、中央に5cmほどの穴が空いていて、そこから放射状に外側に向って20本?くらいきれいな曲面の窪みが走っています。緑色凝灰岩製だとのことです。これは島の山古墳(4世紀末から5世紀初めに築造された前方後円墳。川西町)から出土したもので、しかも百個近くも見つかっているそうです。いったいこれは何だろうと思ってしまいますが、腕輪だということです(島の山古墳からは腕輪としてこの車輪石のほかに、鍬形石や石釧も出ているそうです)。縄文時代から弥生時代にかけていろいろな貝を加工して貝製の腕輪(貝輪)が作られていましたが、中でもゴホウラ、イモガイ、オオツタノハなどの南海産の貝輪が珍重されるようになり、そのような貝輪を模倣して石製の腕輪も作られるようになったようです。車輪石は、オオツタノハという貝で作られた貝輪を真似たもののようです。オオツタノハは、伊豆諸島南部や奄美諸島などにしか産しない笠貝の仲間の貝(たぶん岩にぴったりくっついていて剥がし取るのはたいへんだと思う)で、中心から放射状に筋があり、磨くと色模様もきれいなようで、放射状の模様は太陽に見立てられたのかもしれないということです。このような貴重なものを、緑色凝灰岩で模倣したものだったとはいえ、多数持っていることは、権威の象徴として大いに力があったのでしょう。
有名な藤ノ木古墳(6世紀後半に築造された直径48m、高さ9mの円墳で、1988年に石棺の中から2人の男性の骨が見つかっている)から出土した馬具の金銅製の飾りのレプリカにも触りました。龍文飾金具、鞍金具の前輪(まえわ)、鞍金具の後輪(しずわ)です。これらに触った第一印象は、金銅製なので金属のように少しはつるうっとした感触かなあと思っていたら、樹脂製?で3Dプリンタで製作したものらしく、ざらついていて触ってきれいとは思えませんでした。実物は6〜7cmくらいの小さなもので、実物の大きさのものとともに2倍に拡大されたものも用意されていましたが、それでも触ってそこに何が描かれているのかはよく分かりませんでした。(鞍金具の前輪と後輪には鳳凰や象が描かれているそうです。触図付きのリーフレットには、後輪とその中の象が拡大して触図化されていて、後輪に描かれている象の形はよく分かりました。日本には生息していない象の、長い鼻や大きな耳などの特徴がよく表現されているとのことです。)
その他、石包丁(刃に垂直に刃毀れの痕がいくつもあって、ふつうの包丁のような使い方ではなく、稲穂を水平に切断するように切ったことが分かる)、杵(長さ1.5mくらいの棒状で、両端が直径7、8cmくらいに膨れている。中央部を持って脱穀に使用)、円筒埴輪の断片、三角縁神獣鏡(出土した断片のレプリカと完全な形の復元品)、石斧(刃は5cmくらいで小さかったが、よく磨かれていた)などに触りました。また、展示はされていませんでしたが、触図付きのリーフレットの表紙には椅子に座る男がありました。これは、石見遺跡から出土した埴輪がモデルになっているそうです。石見遺跡(三宅町)は、5世紀後半から6世紀初めの遺跡で、いろいろな種類の埴輪や木製品が出土していて、古墳ではなく、治水か豊作か生産に関連ある祭祀儀礼の営まれた遺跡とも考えられるそうです。古墳以外でも埴輪が使われていたのでしょうか?)
ちょっと珍しいと思ったのは、太安万侶の墓誌です。これまで私は、博物館で文字資料に触ったことはほとんどありませんでした。1979年1月、奈良市此瀬町の茶畑から奈良時代の火葬墓が見つかり、その木櫃の下に銅板の墓誌があり、その墓誌から太安万侶の墓であることが分かったそうです(墓誌には名前とともに、位階や住んでいた場所、亡くなった日などが書かれていた)。その銅板の墓誌を3Dで復元したものに触りました。長さ30cmくらい、幅6cmくらいの薄板で、板の左側面は少し凹凸があります。ざらざらした手触りで、何か書いてあるらしいことは分かります(触図付きのリーフレットには、銅板墓誌に書かれている2行41字のうち、名前を示す「太朝臣安萬侶(おおの あそん やすまろ)」の文字が拡大して書かれていました)。
今回の特別陳列展、こうして振り返ってみるとけっこういろいろな物に触っていました。機会があれば、常設展示で古墳時代を中心にもっと詳しく説明してもらいながら展示を見て(触って?)回りたいと思います。
(2017年2月19日)