4月7日、和歌山県立博物館に行って、「ロビー展 さわって学ぶ 仏像の基礎知識」を見学しました。
4月初め、職場(日本ライトハウス情報文化センター)に「さわって学ぶ 仏像の基礎知識」という14ページの触図録が届き、それをざっと読んでこの展覧会が開催中であることを知り、早速有給を取って行きました(6月4日まで開催)。
和歌山県立博物館に行くのは今回が3回目で、これまでは南海和歌山市駅からバスを利用していましたが、バスの本数が少く、またやはり年齢のためもあって、 1人歩きがあまり自信なくなってきたので、今回はタクシーを利用しました(料金は700円くらいでよかった)。
午後1時過ぎに博物館に到着、受付の方にエントランスの展示台に案内してもらいました。しばらく 1人で触っていると、学芸員の大河内さんが来られて、30分ほどいろいろ説明してくださり、その後はまた 1人で30分ほど作品をじっくり鑑賞しました。
まず触ったのが、2年余前、2014年末にも触った、「未来へ伝えよう私たちの歴史―文化財を守るために―」の中の不動明王像脚部や牛馬童子像などで、とても懐しく思い出しました。(これらについては、
和歌山県立博物館の「バリアフリー・ユニバーサルデザイン推進功労者表彰内閣総理大臣表彰受賞記念展示」――レプリカはこのように活用する! の中で紹介しています。その隣りには、和歌山県博に初めて行った時に触った、いろいろな仮面のレプリカ、そして檜製の能面3点(小面、深井、姥)が並んでいました。並んでいる樹脂製のレプリカと檜製の能面を触り比べると、能面のほうが触り心地がとてもよいです。木製ということとともに、胡粉(カキ殻を砕いた粉を主とする白色顔料)に膠を混ぜて丁寧に下塗りしてから彩色しているために、表面がとてもつるうっとしているからでしょう(能面の裏側には細い筋のように彫刻刀の彫り跡がきれいに並んでいて、これも私には好ましく思えました)。
その後、向い側の展示台に移動しました。こちらに今回のロビー展のレプリカの仏像 7展、およびそれらの触図と解説文がありました。レプリカの仏像は、いずれも実物と同じ大きさだとのことです。触図録では、各仏像の図像とともに、如来、菩薩、天、明王という 4種の仏像とその特徴などが簡潔に記されています。以下、触図録も参考にしながら、仏像 7点について紹介します。文化財保全に関する記述に当たっては、和歌山県立博物館のホームページのニュース記事などを参考にし、引用もしています。
●薬師如来坐像 (紀の川市粉河 龍門山薬師寺)
如来は、触図録によれば、「あらゆることを知り、悩むことも迷うこともない、悟りの境地に達した特別の存在」です。
この薬師如来は、大きさは、幅50cm弱、高さ60cmくらいだったと思います。結跏趺坐の姿勢で、左足を右腿の上に乗せています。右手は胸の前で手のひらを前に向けて立て、左手は左膝の上で薬壺を持っています。頭の上は、ぽこんと盛り上がってぶつぶつが並んでいる肉髻になっています。肉髻は髪形というよりも、「如来の智慧があふれるように満ちていることを象徴している形」だということです。この肉髻の根元の前の所に小さな穴のようなのがありました。これは、「肉髻珠」という丸い珠が取れた跡だろうということです。肉髻珠も、如来の智慧の象徴・光を表すものです。眉間には丸い白毫がしっかりとありました。体全体にはごく薄い衣を着けているだけのようで、胸のあたりはちょっと女性を思わせる感じがしました。
*この薬師如来坐像は平安時代後期の作とされる薬師寺の本尊ですが、 7年前に住職が亡くなって現在は無人となっていることから、盗難防止のため地元の要望を受けた県立博物館が坐像を保管。しかし、薬師寺は地元住民からの病気平癒の信仰を集めているため、県立博物館が、文化庁の支援を受け、県立和歌山工業高校産業デザイン科と連携して学校の3Dプリンターを使って原寸大の坐像を複製、2016年2月新しい本尊として奉納。私が触ったものも、同時に製作されたレプリカだということになります。
●釈迦如来坐像 (海南市 海雲寺)
大きさは、幅40cmほど、高さ50cm弱くらいで、上の薬師如来より少し小さいですが、全体にどっしりとした感じで、衣も厚く、その襞も深くきれいでした。結跏趺坐の姿勢で、足は衣に隠れているようです。顔がかなり大きい感じで、肉髻、肉髻珠、白毫などがしっかり分かります。首の下あたりには 3本のゆるやかな曲線もあります。手の形は上の薬師如来とほぼ同じで、右手は胸の前で手のひらを前に向けて立て、左手は膝の上で手のひらを上に向けて、両てとも指を伸ばしています(中指と薬指はわずかに内側に曲げている。また、左手の中指は第2関節から先は欠けてなくなっていました)。触図録ではこの釈迦如来の解説の中で印相について書かれ、右手は「怖がらなくてもだいじょうぶ」という意味を表す施無畏印、左手は「欲しいもの(救い)を与えます」という意味の与願印の印相で、印相は仏の役割をジェスチャーで伝えています、とあります。なお、この仏像の底面には、「 運慶五代之孫/ 法眼康俊之作/ 貞和三年六月日」と、3行で文字が刻されています。レプリカでは、触って分りやすいように浮き出しで書かれていました。(貞和三年は1347年。康俊は、鎌倉末期から南北朝時代に活躍した、最後の慶派仏師とされる方)。
●菩薩形坐像 (紀の川市 林ヶ峯観音寺)
これは、2年余前に触ったことのある像でした。直径10cmほどの丸い蓮の花の台の上に座しています(蓮台の花の部分はなくなっているのでしょうか、花の中心の細い蕊の部分が円形に並んだようになっています)。本体の像は高さ20cmほどで、全体に凹凸が少なくするうっとした感じです(古くて出っ張った部分が摩耗したためなのかも?)。 頭の上は、髪を束ねて長く結い上げた宝髻になっています。左ては肘までで、その先は欠けています。右手も膝のあたりまで下に伸びていますが、手首から先は欠けています。胸の前あたりにはなにか飾り(ネックレス?)があります。膝の前あたりには衣の薄い襞があります。この像は9世紀中ごろの作と考えられるとのことですが、本来はもっと大きな仏像の光背に取り付けられた化仏の一つらしいです。
触図録によれば、菩薩は、如来となるために、人々を救済する誓いを立てて修行している仏で、釈迦の時代(約2400年前)の貴族の姿で表わされているということです。
●滝尻金剛童子立像 (田辺市 滝尻王子宮十郷(とうごう)神社)
この像も 2年余前に触ったことのあるものでした。触図録では「天」の 1例として紹介されています。天とは、仏教の教えを外敵から守り、また仏教を信仰する人々を助ける神で、護法善神とも言うそうです。その多くはヒンドゥー教の神をルーツとしていて、毘沙門天や弁財天、吉祥天などが有名です。
15cm余四方の岩座に立っている、高さ40cm弱の像です。足は大きく、胸から腰のあたりは鎧を着け、頭には兜を被っているようです。顔はちょっと角ばってとてもしっかりした感じで左前を向き、また左の肩も前に出ていて、威嚇している感じのようです。左手はまっすぐ下におろして手を握り、右手は肘を外側に向けて肩の高さくらいまで上げ、手は胸の前あたりにあるようです(手の先は欠けているようです)。触図録によると、本来は左手に弓を持ち、右てで弦を引き絞っている姿だったようです。天には、このように武装した姿のものが多く、代表的なものに四天王や十二神将があるとのことです。
この像があった滝尻王十郷神社の境内は、2011年9月の台風12号の豪雨で水没してしまったそうです。さいわいこの像は被災はしませんでしたが、保存の上で大きな懸念があったことから、レプリカを2点製作、 1点を2013年3月に現地の神社に収め、もう 1点はこのように県博で展示しているわけです(実物は和歌山県立博物館で保管)。
●愛染明王立像 (紀の川市 円福寺)
触図録によれば、明王は、密教で信仰される仏で、天と同様に仏教の教えを外敵から守るとともに、仏の教えに従わない者を怒りの力で導くとされます。
20cm四方ほどの岩座(高さは10cm弱で、回りがいくつも大きく切れ込んでいて、あたかもぎゅっと強く握ったような拳が並んでいるようだった)の上に、高さ60cm弱くらいの三眼六臂の像が立ち、後ろには直径30cmくらいの大きなお盆のような形の光背があります。頭の上には、左右と後ろに逆立った炎髪(怒髪)がにょきにょきと立ち、その間に獅子冠(しっかり獅子の顔になっているようで、口を開け、何本もたてがみのようなのがあった)があり、その上には五鈷杵(中央と四方の 5つに別れていて、先は丸く閉じていた)が乗っています。両眼とともに、眉間に縦に眼があります。両眼は見開きすぼめたような形です。口も大きく開けています。右手は肘を外側に張り出すようにして胸の前で両端に五鈷杵が付いた棒の中央部を握っています(肘の外側には衣がなびくように伸びている)。左手は肘を少し曲げてお腹の前で五鈷杵鈴(上が五鈷杵、下が鈴になっている)を持っています。その他の2本の腕は、肩の高さで外側に広げ肘を直角に上に曲げて手をかるく握っています。残りの2本は、外に開くように斜め下に向け手を握っています。これらの手にももともとはなにか物を持っていたと思われるとのことです。上半身には両肩に薄い衣が掛かり、下半身には 2、3枚の厚めの衣を重ねていて、何重にも襞になっています。全体としては、この像は激しく怒っている姿を表していて、身体も燃え盛る炎と同じ赤で彩色されているということです。
*この仏像は、2010年10月に盗難被害を受けたもので、その後2013年2月に発行された古美術商のオークションカタログに掲載されたことで所在が判明し、円福寺へと取り戻されたものです。取り戻した後、管理上の不安が解消されないことから、県立博物館で寄託を受けてきましたが、信仰環境を少しでも維持するためにレプリカの作製と安置を提案して同意を得たもので、レプリカ 1点は2015年3月に円福寺に収めたということです。
●阿弥陀如来坐像 (高野町 花坂観音堂)
幅35cmくらい、高さ40cmほどの坐像です。結跏趺坐の姿勢で、膝の上の中央で定印(両手の中指から小指までを組み合わせて重ね、両人差指を第2関節の所で曲げて立てて親指と輪をつくるようにする)を結んでいます。頭には肉髻と肉髻珠、白毫もあり、首の下には3本の線もあります。像の背面の下のほうは大きく欠けて、がさがさと朽ちたような手触りになっていて、かなり古いことを感じさせます。
この像で特徴的なことは、頭から胴にかけての部分と、前に出ている両膝と両手の部分の、 2つの部分から成っていることです。レプリカでもこの 2つの部分に別れていて、つなぎめには四角くく出っ張った部分とそれが入る穴もありました。触図録では、仏像の素材についての説明の後に、「多くの仏像は、このように飛び出た部分を別材でつくって組み合わせるなど、効率的につくられています」とあります。
*花坂観音堂の阿弥陀如来坐像は、現在、江戸時代の修理による彩色に覆われていますが、奥行きが深く背筋が伸びた緊張感ある体型や、体部と両脚部材の接合面を湾曲させる技法など、平安時代中ごろ、10〜11世紀に造られたものと考えられます。花坂地域にのこる最古の資料ですが、傷みも大きく、また同堂では平成23年に別の仏像が盗難被害に遭っており、精巧な複製を制作し、「お身代わり」として安置することとなりました。2017年2月に複製した阿弥陀如坐本像を花坂観音堂に奉納しました。(これで、複製品の奉納は10箇所目(21体目)となるそうです。)
●仏頭 (紀の川市 横谷区茶所)
長さ10cm弱の蓮の花 3枚(前と左右)の上に、高さ15cmほどの頭部だけが乗っています。大きな螺髪と肉髻、それに白毫もあり、如来の頭部だと考えられます。顔は全体に丸っぽい感じでゆたかな印象を受けます。触図録によると、首の部分に焼け焦げた痕跡があり、火災のために体部が失われ頭部だけが残り、それを大切に守り伝えてきたものだとのことです。左の耳のあたりはかなり摩耗しているような感じですし、その後ろには深い長い傷もあってとても痛ましく思いました。平安後期に制作されたと考えられ、火災に遭ったのはいつかは分かりませんが、こうして大切に伝えられて来た像に触れることで、地域の人たちの心にも少しでもつながるような気がします。
*茶所は粉河方面から紀の川を渡り、高野山に至る麻生津(おうづ)道(西国街道)の途中にあり、江戸時代は高野山に参詣する人々の休憩所としてにぎわいを見せた。近年は地区の人口が減少し、管理が難しくなってきたことから、昨年の秋、県立博物館を通じて和歌山工業高校にレプリカの製作を依頼、2016年11月に奉納。
今回のロビー展では、仏像の入門的な知識を実際の仏像を触りながら知ることができるとともに、地域の拠点博物館が、レプリカ製作を通じて、各地域の文化財保全とともに、さわる展示も充実させている様子がよく分かりました。今後の展覧会にも期待しています。
(2017年4月11日)