南相馬で行われているアートと考古学ハマカルプロジェクトに参加

上に戻る


 
 昨年9月、縄文の復元イメージ制作をしておられる安芸早穂子さんより、南相馬などで行われるアーティスト・イン・レジデンス事業に参加してみないかとの誘いがあり、参加することにしました。2021年秋に、国立民族学博物館で開催された特別展「ユニバーサル・ミュージアム ―― さわる!“触”の大博覧会」に、南相馬の縄文遺跡浦尻貝塚の生活の様子を描いた安芸さんの「貝塚の樹」が展示され、これを触察して私は浦尻貝塚の人たちの生活をイメージするとともに、この絵のメッゼージ性に心動かされました(国立民族学博物館で開催中の特別展「ユニバーサル・ミュージアム ―― さわる!“触”の大博覧会」 )。以下、現地滞在と成果発表会の記録です。
 
◆現地滞在
 2023年10月20日〜23日、経済産業省の令和5年度 福島県12市町村アーティスト・イン・レジデンス事業(ハマカルアート)で、安芸早穂子さん、春日井孝明さんと一緒に、南相馬市に行く。文化財課の川田強さんはじめ地元の方々の協力で浦尻貝塚を中心に各所を見学。
 
10月20日
 午後6時過ぎ現地到着、7時から交流会。
 
10月21日
 午前、浦尻貝塚を歩く。浦尻遺跡は現在の海岸線から700mくらい離れた25mほどの高い地にあり、面積は7ha。貝塚はいくつかあるようだが、とくにその中でも大きな東側の貝塚から西側の貝塚に向って歩く。その後に近くの大きなケヤキ(根元の径は1m近くあった)にしばし身体をあずけてみる。
 広さを確認しようと、大きな声を出してみたが、木霊のような反響音はほとんど聞こえず、かなり遠くまで高い山などないことが分かる。一部湿地帯にもなっているかと思ったが、歩いていても足元にあまり湿り気は感じられないし、水源らしきものがあるとのことだったが、水はほとんど枯れているようだった。
 貝塚を発掘した時の残土のようなもの(その中にはいろいろ細かな遺物が含まれている)をまき散らした場所があり、そこで土の上を指で掘りように触っていろいろな貝殻や土器片を見つける。
 
 午後は、貝塚観察館へ。今年夏に、浦尻貝塚縄文の丘公園の他の施設に先行して開館。貝塚の表面(水平)の剥ぎ取り標本と断面の剥ぎ取り標本に触る。さらに、貝塚の表面と断面を立体的に組み合せた、幅4m、高さ1.8m、奥行2mくらいもある大きな実物の剥ぎ取りも展示されていて、まるで出土した貝塚全体にふれているようだった。これを触っていて、土器類が多い所と貝類が多い所の区別がしっかりあるようで、種類別に捨てられていたのかもと思った。ハマグリやアサリ、カキなどの大きな貝殻のほか、貝でつくった腕輪、何の動物かは分からないが骨を加工したようなものもあった。
 また、貝塚から出てきた遺物をジャンルごと?にまとめて入れた箱が用意されていて、その遺物たちにも触れる。骨類では、犬のかかとの骨、クジラの肋骨?、イノシシの下顎(中央で折れていて、右側の顎骨には歯が並び、左側の顎骨では歯の根元が露出して3〜4cmの長さの歯が数本並んでいた)、タヌキの下顎(奥歯が2本で、その前後の歯は抜けていた)など。貝類では、いくつもの腕輪、貝刃(厚い貝殻の縁を波型の歯のように刻んで、魚の鱗を落とすのに使ったもの)など。石類では、石斧(幅5cm、奥行6cmくらいの小さなものだが、刃面はつるつるだった)、槍(長さ15cm余、幅2cmくらいで、中央から両側に向かって細かく線のようなのが彫られていた)、鏃(長さ6cmくらいでとがった3角形の両辺に細かく歯が刻まれているものと、長さ2cmほどで細く円錐形にとがっている)。その他、土を掘るのに使ったという、20数cmのシカの角もあった。
 
 夕方、海岸近くの崖に露出している製塩土器が入っているという地層に触る。急な斜面に草なども生えているが、あちこちに土器の縁が多数確認できる。縁をそうっと引張ってみると取り出せるが、引き出している途中あるいは取り出してからすぐ割れてしまう。濃くした海水を煮詰めることで土器が脆くなってすぐ割れるようだ。土器の外面も内面も平滑で文様はない。
 縁の横幅5cm、下に向かっている長さ10cmくらいのかなり大きな土器片(厚さは1cm余)を割れずに取り出すことができた。縁の湾曲から推定して全体の直径は20数cm、深さも25cmくらいはあるかなり大きなものだと思う。外面には縦に溝がほぼ規則的に何本も走っていて、これはアカガイやサトウガイなどの縁がぎざぎざした貝でこすってできる条痕だとのこと。内面は滑らかでその右下には煮沸した塩による剥離痕がはっきり確認できる(ざらついていて少し薄くなっている)。これは粗製土器で、この剥離痕から製塩に使われていたことが分かるとのこと。
この地層は2800年前、縄文時代晩期のものだとのこと、製品土器の使用は関東や東北の太平洋岸でこの時代に始まったようで、最初期の例に属するもののようだ。(この方法でできる塩は、塩というより苦りに近いもののようだ。)
 この後、さらに海岸に向って歩き、防潮堤に上り、下る。防潮堤の高さは7mくらい、幅はかなり広く10m近くはあったように思う。防潮堤を下って岸辺で太平洋の波音にしばらく耳をかたむける。(防潮堤がそんなに高くないと思ったが、このあたりでは、数段階の対策で津波に対応しているようにしているそうだ。)
 
22日
 午前、文化財課で、南相馬市博物館より仮り出してもらった触察してよい資料に触れる。化石、土器、土偶、馬具など。
 まず、中生代のネオコスモセラスというアンモナイト。(残念ながら古生代の化石はなかった。三葉虫もたくさん出ているが、多くは小さいものだとのこと。)ネオコスモセラス(白亜紀前期)は、長さ20cmほどの雌型と、それを型にしてつくられたシリコンゴムの雄型。アンモナイトの中心部とそれを取り巻く2巻分くらいで、全体はおそらく直径30〜40cmはあったと思う。巻いている方向と直行して規則的に肋が並び、その肋の上に、ちょうどそろばん玉を横半分に切ったような形の突起(幅2cm弱、高さ1cm弱)がいくつもあちこちに並んでいる(この突起が特徴かも)。その他アンモナイトが数点。ジュラ紀後期のシダの化石(中央の茎から左右対称に多数の細い葉が伸びている)やソテツの葉が広がったような化石もあった。新生代の化石では、4〜5cmほどの大きさで縁がぎざぎざしているウバトリガイ(鮮新世後期。2枚貝でザルガイ科)、クジラ(たぶん同じ時期のものだと思う)の指骨(長さ5cm弱、太さ1cmくらい。両端が窪んでいて、関節になっていただろうことが分かる)、長さ3cm余のサメの葉(縁が鋭くぎざぎざ)。
 土器では、上の径が20cm余、下の径が10cm余、高さ30cm余で、上縁に8個渦巻文様のある突起が等間隔に出ているもの、直径20cm余、高さ30cm余のほぼ円筒形のもの、直径35cm、高さ7cmくらいの深皿のようなものなど。土偶では、浦尻貝塚出土の「うらこちゃん」のモデルになっているという土偶(7〜8cmほどの長さで、顔の部分)のほか、脚など土偶の一部のかけらのようなのが数点あった。馬具では、長さ30cm弱のU字型の金属製のあぶみ。これは螺鈿が施され、象嵌もされているとか。その他、野馬追の時などにも使われるかぶともあった(かぶとの後ろ側に半円形にカーブした薄い金属板を数枚重ねたものがあり、各金属板は下に動いて後頭部から首の部分を適当な幅で覆うことができるようになっていた)。
 その後、一緒に行った写真家の春日井さんの作品と私の木彫作品を、集まった10数人の地元の方々の前で展示し説明する(私の作品は、「聴く」「ふんわりと」「なかよし」「土偶 T」「祈る V」)。
 また、文化財課の倉庫?のような所で、安芸さんの「貝塚の樹」に触れる(これは、2021年秋に国立民族学博物館で開催された「ユニバーサル・ミュージアム ―― さわる!“触”の大博覧会」で展示されていたもの)。また、小高区井田川の河口部で採取されたボーリングコアに触る。直径5cmほどの金属製?のパイプに入っていて、長さは計3m余(2つに切断されていた)。ボーリングコアを直径に当たる部分で縦に上から下まで真っ二つに切断し、その片側を水平に置いて水平な切断面を触ることができた(もう一方は大学の研究室にあるとか)。一部分析のために資料が欠如している所もあったが、さらさらやすべすべなどある程度手触りの違いが分かった。少しざらついた砂の多い部分が大津波に対応しているとのことで、約1000年前の貞観地震(869年)のほか、古墳時代前期、弥生中期にも津波があったらしいことが分かるとのこと(触って明瞭には区別できないが、数cmの幅で砂のようなざらついた部分があった)。
 
午後は、小高区の街歩き。大正から昭和初期の近代を思わせる洋風建築だと言う奥に細長い家を訪ねる。いろいろな品々や文書類が箱に入ったり露出で保存されているようだ。門の上に付いている飾りのようなもの、銅板で覆われた幅1mもある鬼瓦のようなもの、建物の太い柱のつなぎ部にはめ込まれていた飾りのある部材、丸瓦など多くのものがあった。たぶん縄文の遺跡から出土したと思われる籠ざるもあった。細い笹竹のような竹で編んだものらしい。本体には触れられなかったが、ザルに入っているものに触れた。下のほうに木の枝や葉など、その上にトチの実(大きいものと小さいものがあった)やクリの実、多くのどんぐり、丸っこい石も。
 その後近くの教会と幼稚園へ。教会は今はほとんど活動していないようだ。礼拝などに集まる人たちの座る椅子、説教する場所など。付属の幼稚園は、2011年3月11日の地震後のままのようで、多くの日記帳?のようなのや絵本、楽器?、ぶらんこ?のような遊具、子どもたちの着替えまであって、なんか生々しかった。今年5月、当時の年中組さん(今は高校3年生)を中心に保護者や関係者が集まって同窓会が行われ、園舎を記念館として残すことにしたとのこと。
 場所はよく覚えていないが、高さ130cmほどのテトラポッド(波消しブロック)に触る。1辺が50cmくらいの立方体に近い形のものが下に3個、上に3個ずつ互い違いに配されたような形だったと思う。このテトラポッドの1mくらいの高さまでフジツボがびっしり着いている(この部分が海水に浸かっていた部分のようだ)。そして、立方体の上面など大きく欠けてざらざら・でこぼこになっている所が何箇所もあり、津波の際に流されて強い力でぶつかってできたものだろうと思う。(このテトラポッドは1個2トンの重さがあるとのこと。)
 
 文化財課に戻り、午後3時過ぎから1時間余、粘土による作品イメージの制作。
 
 夕方、大悲山の大杉と石仏を見学。谷に向ってゆるやかな坂を降りて行くと、伸び広がる杉の木の根を保護するために設けられた木の道になる。その道を10m近く進んで木の根元へ。両手を広げて抱きつくようにしても、木の直径にはまったく至らず太さを実感。手触りは縦に伸びる幾筋ものやわらかな杉の皮の触感。木の高さは40m以上。樹齢は千年と言われる。枝は杉なのでそんなに横には広がっていないが、石仏の上に達するくらいにはなっているかな?とのこと。
 この大杉から数十メートル歩いて石段を上るとお堂(薬師堂)があり、その中に入るとエアコンの音がして湿度など管理されているだろうと思う(電気もお堂に入ると自動で点くようだ)。石仏はガラス越しに見るようになっている。幅10m、高さ5mほどもある大きな岩窟の中に、中央に薬師如来(と言っても風化が進んで顔のあたりなどはよく分からないようだ)の座像、その両側に如来像、さらにその外側に菩薩像(立像?)が浮出しで立体的にあらわされ、その回りや間にも線描で仏が何体も描かれているそうだ。お堂の端のほうに、たぶん中央の如来から剥げ落ちた顔の部分があった。高さ40cm余、幅30cm余はある大きな岩塊で、ざらついた割れやすそうな砂岩のような手触り。目や鼻・口などはこの辺りの位置かなと思えるくらいで形としては分からないが、頭の部分はノミ痕のようなのが残っていて、その幾筋ものゆるやかにカーブする痕は如来の螺髪を連想させるようにも思った。なお、この薬師堂の石仏に関連して大蛇と琵琶法師の言い伝えがあるということで、その話もうかがう(大悲山蛇巻山、南相馬小高に伝わる、山を七巻半する大蛇伝説)。
 
23日
 午前、浦尻を越えて南隣の浪江町へ。南相馬では今は船を出せる海岸がなくて、南隣の浪江町の港(請戸漁港?)から出しているとのこと。そこは、請戸川と高瀬川の河口になっている所で、両川が合流して広い河口域になっているようだ。海岸に、船を海に導くレールのようなのがあって、それに沿って10mほど進み、岸まで行った。岸辺もコンクリートだが、ごく小さな貝のようなものや藻?のようなものがあり、杖で海水を確認し、海水をちょっとなめてみるとそんなに塩っぽくなくて、汽水域なのだなと思った。ここでも太平洋の海音を聞いたり、つながれている船の船端に当たる水音(なにか音楽のようだった)を聴いたりした。
 その後、浦尻のほうに戻って、福浦小学校へ(震災前は浦尻と浪江の子どもたちが通っていたとのこと)。ここも震災後再開されることはなく数年前に閉校。中に入って、学校の設備や物品類、昭和の民具?と言えるような物に触る。初めに、福浦小学校と関係ないが、ある家の屋根裏にあったという船の模型のようなものに触る。長さ1m弱、中央から後ろにかけて30cmくらいの長さの小さな箱?が乗っていて、なにかの祭のような時に使われた宝船のようなものかも。福浦小学校のものでは、足踏みのオルガンが何台もあり、実際に演奏してみる(まったく壊れていない)。子どもたちの椅子や本などのほか、大きな木の風呂桶、最初期のころの電気炊飯器(私が小学校高学年の家庭科でご飯の炊き方を習った炊飯器と同じ)、鰻と泥鰌のウケ(細い竹のようなのを筒状に編み、中にカエシのようなのがある)、羽毛取り機?、ミ(箕。もみ殻などと穀物をふるいわけるためのザルのようなもの)、天秤ばかり(天秤の一方の皿に乗せる数種のおもりもあった)、ソノシートなど多彩なものがあった。中でも懐かしかったのが、手押しポンプ(小学校低学年の時盲学校の旧校舎で手押しポンプで井戸から水を汲み上げながら手を洗ったり水を飲んだりした)で、実際に動かしてみた。この学校も記念施設のようなものとして保存されるのだろうか?
 
 小高の街に戻って、粒粒(つぶつぶ)で午後1時過ぎから3時近くまで、粘土による作品イメージ制作。4時前に帰路につく。
 
◆成果発表会
 2024年2月10〜12日、および17〜18日に、成果発表展覧会アート×考古学 南相馬タイムトリップショウが行われた。
 私は2月9日に安芸さんとともに南相馬に向かい、その日の午後展示会場となる表現からつながる家「つぶつぶ」に作品を設置。作品のタイトルは「つながる」で、10日と11日の両日、地元の皆さん中心におそらく100人くらいの方々に見てもらうことができた。(11日午後には、わずかの時間だが、大蛇物語をテーマに、粘土による造形製作の実演もした。)
 *9日の夕方には、大悲山の大杉の近くにある蛇巻山(じゃまきやま。ちょっとした小さな丘?)に行く。そこは「大悲山の大蛇物語公園」になっていて、大蛇物語に関する碑文、大蛇踊りの道具、龍の絵や彫刻などがあるようだ。私は、高さ30cmくらいの龍の頭のブロンズの彫刻に触ることができた。枝角のように2本に分かれた長い角、かわいい耳、覆いかぶさるような眉毛に隠れた目、巻き付くように長く伸びたひげ、口を大きく開けて舌が伸び、上顎に歯、頭の後ろから体にかけて多数の鱗。
 
●つながる
 作品制作のきっかけは、東日本大震災で今も数百名いる行方不明のままの人たちはどうなっているのだろうか、どのように受け止め考えたらよいのだろうかという私の想いから。このようなテーマを、浦尻貝塚もふくめ時間的にも空間的にも広いスケールの中に位置づけて作品をつくろうと思った。(以下の写真は、現地で撮影したものではなく、自宅の近くのコミュニティセンターの会場を借りて事前に撮影したもの。)
 
・陸の部分(本体) (幅57cm、奥行50cm、高さ30cm) (写真はこちら
 本体の手前は、ほぼ真っすぐな現在の海岸線で、それと平行して防潮堤が走っている。本体の中央部から前に飛び出しているのは、むかしあったという砂浜と遠浅の海。この砂浜の右側には、見えにくいと思うが、防潮堤の下を通って海が入り込み、縄文のころの浦尻貝塚の深い入り江につながっている。浦尻貝塚は細長くちょっと高台になっている所。浦尻貝塚の右後ろに大きな樹、その右に、何でも受け止めてくれるような、腕を広げた人。
 砂浜の左側には、防潮堤が切れて海とつながっている所がある。その後ろが、時の棒(ボーリングコアからイメージ)。時の棒には、見て分かりにくいと思うが、片側に規則的なメモリ、もう片側には不規則なイベントが刻まれている。時の棒の左には、原発の格納容器とタンク群(原発の前には、処理水放出のための穴もある)。その後ろはなんにもない広い斜面と、山の上に見えるというソーラーパネル。
 本体の左奥に飛び出しているのは、穴に入って祈っている人(南相馬の南西40〜50kmほどにある浅川町の即身仏からイメージ)。本体の右に飛び出しているのは、南相馬市で近接して見つかっている古生代から新生代までの地層と化石(古生代は三葉虫とスピリファ、中生代はアンモナイトとシダ植物、新生代はクジラなどの脊椎骨とサメなどの歯)。さらにその手前に、貝塚の表面の貝などや、ちょっとした崖に露出していた土器片。本体のずうっと後ろにある高い山は、南相馬の西100kmほどにある磐梯山(磐梯山では明治21年の大噴火で数百人が犠牲になっている)。
 
・船 (長さ20cm、幅4.5cm、高さ10cm) (写真はこちら
 遠く太平洋の対岸まで流された船。船の上では、肋骨が飛び出した人が、陸の方に向って手を目いっぱい伸ばして手を合わせている。
 
・全体 (写真はこちら
 南相馬を含む陸の部分(本体)から約1.5m離れて船が位置し、海岸部の両端と船が細い糸で結ばれている。この糸で、流された人たちと、陸にいる人たちの想いが伝わりつながるのでは?
 作品全体としては、空間的には西の磐梯山から南相馬を経て、太平洋の対岸(カナダやアメリカ)まで、時間的には5000年ほど前の縄文時代(あるいは5億年前の古生代)から、現在、そして未来へというスケールの中に、行方不明の人たちの想い、過去・現在・未来の人たちの想いも組み込み編み込んだ記憶となるような作品になればと願いながら制作した。
 
●来展者の言葉など
 10日、11日両日とも、来展者が数人集まるごとに作品解説をしました。各日とも10回前後したように思います。船はともかく、陸の部分はふつうに見た(触った)だけでは何が何だかわからないような木のかたまりのようなものですが、現地の人たちにはとてもよくわかってもらえたようです。解説した直後はしばしばしいんとなり、じっと見入っているような方、中には涙ぐんでいる?のかと思うような方もおられました。いろいろ声をかけていただきましたが、とくに忘れられないお二人の言葉がありますので、紹介します。
中年(40〜50代?)の男性:知り合い(漁師だった?)で、海に出ていて、流れて来た屋根の上に乗ってずうっと流されて。その人が目にしていたのは、こんな陸の風景だったろうなあ、と、船のほうからのぞきこみながら、つぶやくようにしみじみと話していました。 (私は無言)
若い学生風(美術系?)の男性:これまで街中などでいーっぱいたくさんの彫刻を見てきたが、みんなただの彫刻で、ただの一度もアートだと思ったことはなかった。この彫刻は、初めてアート作品だと思った彫刻でした。感動しました!
 
 なんとも有り難い望外の言葉です。 なにか分からないような木のかたまりのようなのが、皆さんに見てもらって作品になっていくような気がしました。とてもうれしく、有り難かったです。
 その他、来展者の中には友達が現在も行方不明だという方がおられたようで、その方は作品にどきっとし、即身仏の話なども腑に落ちるようにうなずいていたとか。また、船のやや斜め下から視ると、陸が浮び上がるように見えて全体が見て取れるという方もおられました。さらに、南相馬在住の彫刻家大龜清寿さんも来られて、私がとてもお世話になっている緕R賀行先生のこともよくご存知で、彫刻や木の話もできて楽しかったです。
 また、解説無しで見ただけの方でも、「かっこいい」とか「これは(私の)ランドスケープだね」といった言葉も聴きました。それなりの作品?になっていたのかも知れません。
 今回のプロジェクトに参加できて、本当によかったです。安芸さんはじめプロジェクトのメンバー、川田さんはじめ現地の皆様に心より感謝申し上げます。現在は、大悲山の大蛇物語に関連した作品をつくっています。
 
(2024年2月21日)