ラジオで展覧会:奈良国立博物館の空海展

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 5月11日午前1時台のラジオ深夜便は「ラジオで展覧会 奈良国立博物館 空海展」から。10年ほど前「高野山1200年至宝展」を見学(空海にふれる?したこともあり、興味深く聴きました。以下、その放送内容です([ ]内は私の補足です。)。
 奈良国立博物館で、真言宗の開祖空海の生誕1250年記念特別展「空海―密教のルーツとマンダラ世界」が開かれている。この展覧会は、空海が日本にもたらした密教の全貌を解き明かそうと、多数の仏像・仏画により密教の曼荼羅空間を再現。さらに各地で守り伝えられてきた至宝を一堂に展示し、空海と真言密教の世界を紹介している。奈良国立博物館学芸部列品室長の斎木涼子さんの解説(聞き手は中村宏)。
 
中村:どういう趣旨でこの展覧会を企画されたのでしょうか。
斎木:空海が生まれたのは774年、讃岐国[現在の香川県]生まれで、今年で1250年となる。空海と言えば教科書にも載っているだれでも知っている偉人で、今までにも空海を取り上げた展覧会は数多く開催されてきた。しかし、そもそも空海が伝え日本の文化に大きな影響を及ぼした密教とは何だったのか、ということについてはこうした展覧会ではあまりふれられることはなかったのではないかという点が、私たちの一つのテーマとして上がった。密教がシルクロードを経由して日本に到った軌跡をたどり、空海が日本にもたらした密教を解き明かそうというところから始まった展覧会だ。中国やインドネシアに残る密教美術の痕跡、空海が持ち帰った品々、空海の直筆の書などを集め、空海と真言密教の世界を紹介している。前期・後期合わせ、国宝28件、重要文化財59件を展示。
中村:空海は遣唐使船で中国、当時の唐に渡って、密教を学んで帰ったというのは、教科書でも勉強するが、なぜ密教だったのか、そして密教とは何なのか。
斎木:密教は仏教の中の教え・考え方の一つで、文字や言葉だけでは伝えられない深く秘された秘密の教えであるために密教と呼ばれる。この教えを解くのは大日如来で、大日如来そのものが世界の中心でありまた世界の真理であるとされる。密教では、心に仏の姿や世界をイメージし、手で印という形をつくり、口で真言を唱えるといった正しい修行を行えば、私たちも大日如来の悟りの境地に近づくことができ、長い修行を行わずとも現在のこの体のまま覚りを得て仏になれる、という考え方が特徴だ。また、密教の修法と呼ばれる法要・儀式は、素早く禍を取り去り願いをかなえることができ、国や人々の生活を守ることができるということも、当時の人々にとっては画期的な要素だった。空海は、それ以前の日本にはなかったこの密教によって人々を救いたいと考えた。
 
第1章 密教とは ― 空海の伝えたマンダラ世界
中村:(会場に入って)お寺の中のように赤い柱が4本立てられていて、仏像・仏画に囲まれて、荘厳な空気が感じられる。目の前にあるのが、展示番号 2 国宝「五智如来坐像」(平安時代(9世紀)、京都市山科区の真言宗のお寺安祥寺所蔵)。大日如来を中心に、前後左右に4体の如来が並んでいる。5体はいずれも木造で、表面には金箔が張られ、一部金箔が落ちた所は漆が塗られた黒い下地が見えている。ふくよかな顔に福耳。中央の大日如来は台座に乗っているが、像だけの高さおよそ159cm、頭は髪を高く結い上げている。左手の人差指を立ててそれを右手で包み込む形の印を結んでいる。他の4体は、如来の髪は螺髪、手はそれぞれ別の印を結んでいる。
斎木:五智如来の五智とは、大日如来がそなえる五つの智慧のことで、この五つの仏によってそれらを象徴的にあらわしている。先ほども少し説明したが、密教では大日如来は世界の真理を知っている存在、また真理そのものであるとされる。密教の仏の世界や教えを持ち運びやすい平面図で表現したのが、後ほど紹介する絵画の曼荼羅で、曼荼羅の世界の仏たちを三次元で表現し配置したのが、今目の前にあるこうした立体の曼荼羅だ。
中村:これを立体曼荼羅と言うのですね。
斎木:そうですね。この五智如来があらわす大日如来の五つの智慧というのは、例えば、この世のすべてを照らし出す智慧、物事を平等に見つめる智慧、物事の性質を正しくとらえる智慧など。この安祥寺の像は、空海の孫弟子に当たる恵運(えうん)が指揮して制作されたもので、五智如来としては現存最古のもの。
 
中村:展示番号 4 重要文化財「両界曼荼羅(血曼荼羅)」(平安時代(12世紀)、高野山の金剛峯寺所蔵)。絹の布に描かれた曼荼羅 2幅。胎蔵界曼荼羅と金剛界曼荼羅。どちらも、縦横4m前後と大きなもの。900年くらい経過しているが、赤をメインにたくさんの色が使われていて、当初は色鮮やかだったと思われる。今目の前にあるのは胎蔵界曼荼羅で、中央にある四角の真中に大日如来、その回りに8体の仏様が描かれている。さらにその回りに幾重にも四角が描かれていて、その中に仏様がびっしりと描かれている。まず、曼荼羅というのは何なのでしょうか。
斎木:空海は、密教は奥深く文字ですべてを伝えられない、そこで図や絵を用いて悟らない人に開き示すのだ、と述べている。この二つの曼荼羅は、密教の根本的な教えを解いた二つの経典、大日経と金剛頂経というお経の内容を絵画であらわしたもの。今ここにある胎蔵界曼荼羅は、大日経の世界をあらわしたもので、曼荼羅の中心にいるのは大日如来。大日如来はいわば全知全能の仏のような存在なので、その様々な力・特徴がそれぞれあらわれたものが周囲にいるたくさんの仏様なのだということになる。例えば、不動明王という目をむいて怒りの表情をした密教の仏がいるが、これは、やさしい言葉で諭しても言うことをきかず過ちを犯してしまう人に、恐ろしい姿でしかりつけ正しく導くために大日如来が姿を変えたもの。つまり、大日如来が必要に応じて様々な姿で人々を救いやさしく守っているのだという世界観をあらわしたのがこの胎蔵界曼荼羅だ。
中村:たくさんいる仏様は、結局大日如来が姿を変えたもの。
斎木:そうですね。ちなみに、こちらには血曼荼羅という通称が付いているが、これは、中央の大日如来の冠を描くさい平清盛が自分の血を絵具に混ぜて描かせたという話が平家物語に載っていて、これにちなんだ呼び名。
中村:隣りにパネルがあって、仏様の配置図がある。上の横の列には智慧の文殊様と書かれていて、右の縦の列には悩みや迷いを取り除く仏様たち、などと書かれている。こんな風に並んでいる、このパネルの展示もぜひ御覧ください。少し離れた所に、金剛界曼荼羅がある。胎蔵界と並び方が違う。縦に3つ、横に3つ、合わせて9つの四角があって、一番上の真中は大日如来だけ。横のパネルに図が載っていて、大日如来の教えへと向かう道筋が矢印で描かれている。非常にわかりやすいパネル展示。少し解説してください。
斎木:こちらの金剛界曼荼羅は、9つの区画に分かれている。このうち8つの区画の中心にいるのはすべて大日如来。これは、大日如来の悟りにたどりつくまで何段階もの考え方があること、またそれによって世界の見方が違っていることをあらわしている。今展示されている金剛峯寺所蔵の平安時代の両界曼荼羅は前期の展示だが、後期にもほぼ同じサイズの別の両界曼荼羅を展示する。そちらも色がたいへん鮮やかで見ごたえがある。
 
第2章 密教の源流 ― 陸と海のシルクロード
中村:展示番号 27 「金剛界曼荼羅彫像群」(インドネシア、東部ジャワ期(10世紀)、インドネシア国立中央博物館所蔵)。 46体の尊像群で、銅でできている。数が多いので、2箇所に分かれて展示されている。目の前の大きなケースの中には、いろいろな形の仏像が円を描くように並べられている。真中の一番大きい、と言っても台座も入れた高さが27.5cmの仏像、四面毘盧遮那如来(四面大日如来)。頭には、ストゥーパ(仏塔)のような形のものを乗せていて、顔は前後左右に四つ。横に拡大された写真が張ってある。先ほど見た日本の大日如来とは違う顔つきをしている。しかし日本の大日如来と同じように、胸の前で手を合わせて印を結んでいる。光背にも飾りがつけられていて、光背の上に小さな傘のようなものがつけられている。飾りの多い仏像で、おしゃれと言ってもいいのでしょうか。
斎木:そうですね、確かに日本の仏像には見られない独特の装飾をまとっている。でも、これらも密教の仏像だ。密教の始まりは、仏教誕生の地インドだが、その後シルクロードを通って中国に伝えられた。シルクロードと言うと、砂漠や荒野をラクダが歩いていく西遊記のようなイメージがあるかと思うが、実は海路も重要なルートだった。先ほど紹介した胎蔵界の教えのほうは陸のルートで、そして金剛界の教えは東南アジアを通る海のルートで、中国へ伝えられた。そのため、密教の僧侶が滞在したインドネシアの島々にも密教が広がった。有名なインドネシアのボロブドゥール遺跡も実は密教の寺院で、密教の仏を立体の曼荼羅であらわしている。こちらのブロンズの像も、大日如来を中心にした金剛界の立体曼荼羅だ。
[補足]この展覧会の展示品一覧をみると、以下のような、インドネシアで発見されインドネシア国立中央博物館所蔵の仏像や密教の法具が並んでいる。
    28 三面六臂持金剛坐像 銅製 インドネシア・中部ジャワ期(8~9世紀)
    29 四面八臂降三世立像 銅製 インドネシア・中部ジャワ期(8~9世紀)
    30 四面毘盧遮那如来坐像 銅製 インドネシア・中部ジャワ期(8~9世紀)
    31 銅五鈷杵 銅製 インドネシア・中部ジャワ期(9~10世紀)
    32 銅三昧耶五鈷鈴 銅製 インドネシア・中部ジャワ期(8~10世紀)
    33 銅五鈷鈴 銅製 インドネシア・中部ジャワ期(8~10世紀)
    34 銅五鈷鈴 銅製 インドネシア・東部ジャワ期(10~15世紀)
    35 文殊菩薩坐像 銀製 インドネシア・中部ジャワ期(10世紀)またはインド・パーラ期(8~10世紀)
    36 四明妃坐像 石製 インドネシア・東部ジャワ期(13世紀)
 
第3章 空海入唐 ― 恵果との出会いと胎蔵界・金剛界の融合
中村:展示番号 37 国宝「聾瞽指帰(ろうこしいき) 下巻」(平安時代(8~9世紀)、金剛峯寺所蔵)。空海直筆の書で、巻物のかたちになっている。縦およそ28cm、長さは11m76cmもあるが、その一部、3m余が展示されている。達筆で有名な空海の筆使いを間近で見ることができる。「聾瞽指帰」は、見ようともしない、聴こうともしない人を指導するための書、ということ。
斎木:そうですね。煩悩の闇に閉ざされ真実を知らない者に教え諭し指示するという意味で、中国で生まれた思想である儒教、道教、それから仏教の教えを架空の人物に語らせて比較し、仏教がもっとも優れていると述べる書物だ。空海は、都ではたらいていた叔父の勧めで早くから学問を修め、役人の養成でもあった大学にも通ったが、いろいろと悩んだ結果大学を辞めて仏道修行に入る。この聾瞽指帰は、空海が24歳の時にまとめられたもので、仏教の思想に生きる決意を表明した書物とも言われている。内容を簡単に紹介すると、ある所に不真面目な甥を更正させようとする男性がおり、まず儒教の先生に説得を頼む。しかし、儒教を学べばりっぱな人物になり出世できるという教えを聴いた道教の師匠が、道教の思想のほうが優れており、長生きしたり超人的な力を得ることができると説得する。そこにあらわれたのが仏教修行中の人物で、俗世間の価値観を超越した壮大な仏教の世界観を解き、皆がこれに感動して仏教を讃えて終わる。
中村:この一部分を、私が分かるように読み下していただけますか。
斎木:では、終わりに近い部分です。[以下、私の聴き取りも漢字の使い方もあいまいです。]「ここに亀毛公らひとたびは怖じ、ひとたびは恥じ、または悲しみ、または笑う。」意味としては、ここに亀毛公(儒教の先生)たちは自分たちの悪行の結果が重いことを恐れ、儒教などの浅いことを恥じ、仏法を知らなかったことを悲しみ、今ここで知ったことを喜んだ、というようなことが書いてある。その後「われら幸いにうどんの大阿闍梨に会いたてまつりてあつく出世の最訓によくす。」私たちは幸いにもたぐいまれな大阿闍梨に会って仏法のもっともすぐれた教えを受けることができた。「もし不幸にしてわじょうに会いたてまつらざりしかばながくげんよくに沈んで定めて三途に没っしなん。」もし不幸にしてあなたに会わなければ、ながく目の前の欲におぼれて地獄餓鬼畜生の道に没してしまっただろう。ということで、儒教や道教の師匠たちが仏教の教えを聴いて仏教に感動して、最後には仏教をたたえて終わるという結末になっている。
 
中村:展示番号 48 一級文物「文殊菩薩坐像」(中国、唐(8世紀)、西安の碑林博物館所蔵)。台座も入れた高さが 74cm。大理石製で、今はクリーム色に見えるが、金箔などを張り付ける技術、切金がほどこされているということで、足元のあたりに金箔が残っているのがわかる。ふくよかな輪郭、弧を描いた長い眉、うすく開けた目、いかにもやさしそうだ。口はちょっと小さめで、豪華な首飾りをつけ、頭はすてきな被り物で覆って飾りもついている。薄い衣を複雑に、でもすてきにおしゃれに巻きつけている。左手はかるく胸の前まで上げているが、右手は手首のあたりから失われている。ウエストが細く、女性的だ。
斎木:大理石の一材から彫り出したもので、唐の密教が最盛期を迎えていたころにつくられた仏像。安国寺という唐の皇帝ゆかりの寺院跡から発掘された。同じ遺跡からはこの像のほかにも大理石でつくられた複数の密教の仏像が発見されている。豊かな体つき、細部の端整なつくりはこの時代の特色で、当時のこうした彫刻作品の中でも高い水準のものだ。時代的にも、唐の都長安に留学してあちこちの寺院を訪ね歩いていた空海が実際にその目で見た可能性もある。
 
中村:展示番号 55 国宝「諸尊仏龕」(中国・唐(7~8世紀)、金剛峯寺所蔵)。「龕」は、仏像を収める厨子のこと。高さおよそ23cm。白檀とされる木の丸太を上から半分に割って、その片方だけをさらに上から半分に割って、大きなほうの一つを中心にして小さな二つを両側に蝶番でつけると三面開き、いわゆる観音開きになる。今は開いてあるが、折りたたむとストゥーパ、仏塔の形になるということだ。それぞれの中にたくさんの仏像が彫り出してある。中央の真中には如来坐像、それを10体余の仏像が立って囲んでいる。左右の扉には、それぞれ中心に観音菩薩と弥勒菩薩が座っていて、6体ずつの仏像が傍らに立っている。極めて精巧にできていて、仏様がいっぱい、なぜこんなに小さいのでしょうか。
斎木:仏龕は、持ち運びができて、いつでも側に置いておける仏像で、この品も空海の枕本尊、つまり常に身近に安置して礼拝した仏像と呼ばれてきたもの。これは、空海が唐から持ち帰った文物の目録にある白檀の仏龕に当たる。空海の記述によれば、これはインドから海路で唐に密教を伝えたインド人僧金剛智がインドから持ってきたもので、それが中国の密教の大成者である不空という人物、そして空海の師匠である恵果へと直系の弟子へ受け継がれてきたもの。携帯可能な小さな仏壇は中央アジアや中国の例が知られ、その中でもこれはとくに完成度が高いものだ。
 [補足]空海が唐から持ち帰った文物の目録とは、国宝「弘法大師請来目録」(京都 教王護国寺(東寺))のことで、これも展示されている。空海が帰国直後に執筆した成果報告書で、空海が新たに請来した経典、仏画、密教法具を列記し、修学の経緯と内容も記している。今回の展示品の中に、「白螺貝」(中国・唐(8世紀) 京都 教王護国寺(東寺)所蔵)がある。白螺貝というのは、インド西岸やスリランカに分布する巻貝シャンクガイのことで、殻が分厚くてずっしりと重い白い貝。インドでは神聖な貝とされ、ヴィシュヌ神の持物にもなっている。この白螺貝は、金剛智、不空、恵果、そして空海へと受け継がれたものだとのこと。
     密教の伝来の経緯について、「かつてない空海展」というのは本当だった!から引角する。「大乗仏教の思想を基盤とした独自の理論的な世界観が形づくられていき、7世紀には2つの経典が成立しました。密教の教主、大日如来(大毘盧遮那仏)が心の在り方とその実践を説いた『大毘盧遮那成仏神変加持教』(通称『大日経』)と悟りを得て仏と成る(即身成仏)実践方法を具体的に説明する『金剛頂経』です。『大日経』は、陸のシルクロードを通って唐に入ったインド出身の僧、善無畏(637-735)の協力によりもたらされました。入唐時はすでに80歳だったそうで、弟子の中国人僧、一行(683-727)が漢訳しました。一方、『金剛頂経』は、インド人僧の金剛智(671-741)がスリランカやインドネシアの島々の海のシルクロードを通って唐の広州に至り『金剛頂経』を漢訳しました。金剛智の弟子である不空も、別の『金剛地経』を翻訳しています。不空は祈祷や修法を用いて密教に護国思想の要素を持たせました。不空の弟子である恵果(746-805)は、『大日経』と『金剛頂経』2つの思想系統を1つのものとして体系化し、様々な儀礼や経典を整備して、密教は中国において最盛期を迎えました。そんな恵果の元を訪ねたのが入唐僧の空海でした。」
 [補足]金剛智(671~741年):インドの僧。サンスクリット名はバジラボディVajrabodhi。中インドの王子とも、南インド、マウルヤ国のバラモンの出身ともいわれる。10歳でナーランダ寺で出家し、ここで大乗仏教の論書『般若燈論』『百論』『十二門論』『瑜伽論』『唯識論』『辨中辺論』を学んだ。さらに南インドで『金剛頂経』系の密教を修め、インド、スリランカなどを巡ったのち、航路で中国に行き、720年(開元8)洛陽に入った。玄宗の庇護のもと、洛陽と長安にあって、723年から約20年間に『金剛頂瑜伽中略出念誦経』4巻をはじめ、おもに『金剛頂経』系統の経典、儀軌を翻訳した。『金剛頂経』などのインド密教中期の密教経典を次々に紹介したことは、善無畏(ぜんむい)による『大日経』の翻訳とともに、中国密教確立の端緒となった。のち、弟子の不空の奏請により、大弘教三蔵の諡号を賜る。真言宗付法の第五祖。(日本大百科全書より)
 
第4章 神護寺と東寺-密教流布と護国
中村:展示番号 69 国宝「両界曼荼羅(高雄曼荼羅)」(平安時代(9世紀)、京都・神護寺所蔵)。空海が制作に関わった現存唯一の曼荼羅。前期は胎蔵界曼荼羅、後期は金剛界曼荼羅が展示される。縦横4m前後ある。江戸時代に修理が行われたが、近年再び修復が行われ、黒ずんではいるものの金銀の輝きが光を反射してよくわかる。先ほどの曼荼羅と同じで、中央の四角の中に大日如来と8体の仏様、回りに幾重にも四角が描かれて、その中にびっしりと仏様が描かれている。
斎木:この曼荼羅が伝えられてきた神護寺は当初は高雄山寺という名前だったが、平安京に入った空海が最初の拠点を置いた寺院。今までの日本の仏教とは違う本格的な密教を伝えた空海の情報はすぐに広まったようで、とくに比叡山に拠点を置いた日本天台宗の祖である最澄はいち早く空海に連絡を取っており、2人の間に交わされた経典の貸し借りや仏教について語り合いたいといった内容の手紙がたくさん残されている。最澄は、空海から密教を学ぶことを望んだため、密教の仏と縁を結ぶいわば入門的な儀式である結縁灌頂という儀式を高雄山寺で空海から受けている。こうした最澄との関係に関する資料も今回展示している[この資料は、神護寺所蔵の国宝「灌頂歴名」のことで、本点にも出品されている。灌頂歴名は、弘仁3~4(812~813)年に3回行われた結縁灌頂の空海による手控えで、結縁者の筆頭に最澄の名があるという]。この高雄曼荼羅の図柄は、空海が唐で師匠の恵果阿闍梨から授けられたものを忠実にあらわしたと考えられている。
   空海が直接制作に係わった曼荼羅で現存しているものはこの曼荼羅だけだ。また、紫の絹に金銀で描かれているというのも非常に特徴的だ。しかも、絹は文様を織り出した綾と呼ばれるもので、非常に贅沢な素材を使っている。淳奈天皇の願いにより制作されたと伝えられ、すべてにおいて特別な曼荼羅ということができる。特別な曼荼羅なので、過去にも修理が行われた。最後は、江戸時代。しかし、大切に保管されていたとはいえ、素材の劣化や自然環境の影響などによりどうしても傷みが出てしまう。そこで、2016年から6年かけて修理されて、今回の展覧会が修理後一般の初公開になる。修理前は折れや傷みが目立ち図柄も見えにくかったが、今回の修理で深い紫色に金銀で仏様たちが描かれている様子がとても見やすくなった。
 
中村:展示番号 100 重要文化財「孔雀明王坐像」(快慶作、鎌倉時代初期(1200年ころ)、金剛峯寺所蔵)。全体の高さは 2m以上ある。木造、彩色、切金がほどこされていて、2本の脚でしっかり立った孔雀が金色に輝いている。その上に高さおよそ78cmの明王が座っていて、孔雀の開いた羽が光背になっている。明王はふくよかな顔で、目には玉が入っていて、リアルだ。金銅製の冠、宝冠が極めて精巧につくられている。腕飾りや胸飾りもつけている。手は左右に2本ずつ、合わせて4本で、それぞれ金色の何かを持っている。これ、何を持っていますか。
斎木:手には、蓮、孔雀の尾羽、倶縁果(ぐえんか)、吉祥果(きちじょうか)という果実を持っている。蓮は仏の慈悲の心、孔雀の尾羽は禍を払う力を意味する。また、倶縁果というのは食べると元気になり、吉祥果というのは鬼を追い払うパワーを持つ果実。孔雀は毒蛇さえも食べてしまうと言われており、孔雀明王というのはそういう害悪や禍を払う力を持った密教の仏様だ。この像は、高野山に建てられた孔雀堂という建物の本尊で、東大寺仁王門の仁王さんを彫ったことで有名な鎌倉時代の仏師快慶の作。空海はこの孔雀明王に関する経典や密教儀式に関する書物を持ち帰っている。また、快慶がこの像をつくる時に空海が描いた孔雀明王の絵を手本につくったとされており、この像も元をたどれば空海につながる。
 
第5章 金剛峯寺と弘法大師信仰
中村:展示番号 115 「弘法大師坐像(萬日大師)」(室町~安土桃山時代(16~17世紀)、金剛峯寺所蔵)。木造、彩色、高さ 83.5cm。袈裟を着け、左手は膝において念珠(数珠)を持っている。右手は胸の前で五鈷杵という密教の道具、法具を持っている。顔はおだやかな表情で、左を向いていて、しわがなくて、若く見える。
斎木:萬日大師というのは、ある行者が30数年、およそ 1万日にわたり、平安時代につくられた弘法大師空海の像に参詣し続けたところ、夢に大師があらわれ、万日の功、つまり 1万日の努力は本物である、と言って東を向いたという。目が覚めた行者が像を確認すると、夢と同じように左側を向いていた、という話が伝わっていて、この話にちなんで、この像の姿が萬日大師と呼ばれている。この像がつくられたのは16世紀から17世紀にかけてのころだが、本当に長い間現代にいたるまで空海が多くの人々から尊崇を集め続けていることを物語っている。
 
中村:この展覧会で見てもらいたいのは、どんなところでしょうか。
斎木:空海は歴史上の偉人ですし、多くの方が弘法大師を知っていると思うが、そもそも空海が生涯をかけて一番伝えたかった密教とは何なのか、ということになると、どうしてもわかりにくい。そこで、密教の成り立ちから紹介することで、少しでも密教から生まれた様々な文化を知るきっかけにしていただければと思う。素晴しい曼荼羅や仏像はもちろん1点ずつ鑑賞するのもいいのだが、とくに今回の最初の展示室は密教の世界を広い空間にダイナミックに展示して、空海が言った、目で見て感覚的にわかるという体験を皆さんにしていただきたいと思う。空海が初めて本格的な密教を持ち帰ってきて曼荼羅などを日本の僧侶や貴族たちに見せた時、やはり当時の方たちもいきなり目の前に見たことのない仏様たちが整然と並ぶ世界があらわれて、よく分からないけれどなんだかすごい、という風に心を打たれたと思う。
 
[参考:空海の年譜]
宝亀5(774)年 讃岐国多度郡屏風ヶ浦(現在の香川県善通寺市善通寺)に生まれる
延暦7(788(年、15歳 上京し、母方の叔父阿刀大足(あとのおおたり)に文書の習読を学ぶ
延暦10(791)年、18歳 大学で学ぶ
           阿波の大滝岳、土佐の室戸岬、伊予の石鎚山、大和の金峰山などの聖地を巡り歩いて修行に励む
延暦16(797)年、24歳 聾瞽指帰を執筆して、儒教・道教・仏教を比較し仏教の素晴らしさを述べる
延暦23(804)年、31歳 4月得度して正式な僧となり、7月遣唐大使藤原葛野麻呂(ふじわらのかどのまろ)(755~818)の船に橘逸勢らと同乗し、途中暴風雨にあい九死に一生を得て入唐、12月長安に入る。
延暦24(805)年、32歳 長安の醴泉寺(れいせんじ)のインド人僧般若三蔵らに就いてサンスクリットやインドの学問を学習し、6月から半年間、青龍寺の恵果から密教の伝授を受けて、真言密教の第八祖を継ぐ。12月15日、恵果が60歳で没したとき、門下から選ばれて追悼の碑文を書く。
大同元(806)年、33歳 滞在期間を短縮し、10月帰国。膨大な密教の典籍、仏像、法典、曼荼羅、その他の文物を日本にもたらし、12月『請来目録』を朝廷に差し出す。
大同4(809)年、36歳 高雄山寺(神護寺)を拠点とする
弘仁元(810)年、37歳 10月高雄山寺で鎮護国家の修法を行う
弘仁3(812)年、39歳 高雄山寺で11月金剛界、12月胎蔵界の結縁灌頂を行う
弘仁7(816)年、43歳 道場建立の地として高野山を賜る(819年5月から伽藍の建立に着手)
弘仁12(821)年、48歳 讃岐の満濃池を修築
弘仁14(823)年、50歳 京都の東寺(教王護国寺)を給預されたので、ここを京都における真言密教の根本道場とする
天長5(828)年、55歳 東寺の東隣に、日本最初の庶民教育の学校・綜芸種智院を開設
承和2(835)年、62歳 1月、宮中真言院で後七日御修法を行う。3月21日、高野山にて入滅。
延喜21(921)年 醍醐天皇より弘法大師の諡号が贈られる
 
(2024年5月15日)