盲人文化史年表
◆ 19世紀前半
1800〜1830年代、イギリスの盲学校では各種の線字(line letters)が用いられ、その発明者の間や採用する学校の間に、激しい対立と争奪(線字戦争)(Battle of lines)が行われた
1801年、名古屋の平曲家荻野知一検校(1731〜1801年)没 (京都で波多野孝一検校(?―1651年)に始まる波多野流と前田九一検校(?―1685年)に始まる前田流の両流を学び、名古屋に出て尾張藩の後援を得、1776年平曲を集大成したといえる『平家正節』という譜本を編纂)
このころ、地歌三弦家の三つ橋勾当が大阪で活躍。作曲には『松竹梅』『根曳きの松』があるが,これらは作曲者未詳の『名所土産』とともに地歌三弦の免許制における「三役」とされ,三味線組歌を除いては最高の曲とされる(『松竹梅』では,新しく一下り調子の調弦を考案)。
19世紀初め、オーストリアのガハイス(Franz von Gaheis)が、盲児と弱視児を分離して教育すべきだと主張
1803年、塙保己一が、当道座惣録職に就く(関八州の座の監督に当たる)
1804年、俳人・竹内玄々一(勾当。1742〜1804年)没。幼年期に失明、子の青青の手になる「俳家奇人談」「続俳家畸人談」がある
1804年、クライン(Johann Wilhelm Klein: 1765〜1848年)が、かれのもとに救いを求めてくる貧困な盲人の悲惨な姿に接し、また、当時ウィーンの音楽学校で教えていたパラディスの影響を受け、ヤコブ・ブラウンを最初の生徒として、ウィーンに盲学校を開設。アユイの線状凸字よりも触読しやすい針文字(活字の文字部分を連続した針状の突起にして、それを紙に押し当てて裏面に点線の文字形を浮き出させる)を採用し、また計算ひもによる算数や浮彫り地図や浮彫りの楽譜も使用した。職業教育として手工芸も指導し、それは社会的も高く評価されて、盲学校は1816年に国立に移管される。
1806年、バランタン・アユイが、ベルリンに盲学校開設
1808年、宮本準竜(生没年不詳。7歳ころ失明。鍼を学んだが、音理の学にも精通)が、「六声発揮」を著した。また、音韻開合器を発明。
1808年、チェコスロバキアの盲教育がプラハではじめられた。
1808年、フランスのバルビエ(Nicolas Marie Charles Barbier: 1767〜1841)が12の点や線を使って伝達する方法を考え始める(彼はフランス軍の砲兵士官で、戦場や夜でも使える伝達手段として、点や線の組合せによる暗号を考えた。1819年、彼はこれを盲人教育に採用するようフランス学士院に申請したが満足すべき結果は得られなかった。さらに改良を加えて、ソノグラフィー(Sonography)と名づけ、1820年パリ盲学校に採用するよう要請したがいれられなかった。たまたま校長の異動があり、1821年新校長ピニエ(Andre Pignier: 1785〜1874年)に再び要請した。ピニエはこの点字を職員生徒に回覧して研究させた。生徒のルイ・ブライユはこの点字を手にして感激し、盲人の立場から独特な点字組織を開発した。)
1808年、オランダの盲教育がはじめられた
1808年、スウェーデン、ストックホルムで盲聾唖教育始められる(1879年盲と聾唖が分離される)
1809年、バランタン・アユイが、サンクト・ペテルブルクにロシア最初の盲学校開設
1809年、スイス、チューリッヒ市立盲学校設立
1810年、新内節の鶴賀新内没 (1747〜1810年。初代鶴賀若狭掾の高弟鶴賀斎の弟で、盲人。加賀歳、若歳を経て、2代新内となる。美声と鼻へ声を抜く独得の節落しが世上でもっぱらの評判となり、1777年(安永6)ごろから鶴賀、富士松、豊島などの系統の浄瑠璃を総括して新内節と呼ばれるようになる。作品に「藤蔓恋の柵」「二世の環襷」など。)
このころ(文化-文政期)、京都で地歌三弦家の石川勾当が活躍。「石川の三つ物」として知られる『八重衣』『 (新) 青柳』『融』をはじめ,『新娘道成寺』などを作曲したが,その才能のためにかえって職屋敷の反感を買い,晩年は不遇であったとも伝えられる。
このころ、地歌・箏曲家浦崎了栄一活躍 (京都の人。安村検校の門人。1801検校。弟子の八重崎検校らとともに既成の地歌三味線曲と合奏するため「里の暁」「末の契」「深夜の月」などの箏の旋律を作曲,箏組歌の普及にもつとめる)
1811年、デンマークのコペンハーゲンに盲学校開設
1813年、スウェーデンの化学者・鉱物学者A.G.エーケベリ(1767〜1813年)没。幼児期より難聴。1794年ウプサラ大学化学教授。1801年実験中に片眼を失明するが、02年73番元素タンタルを発見。
1815年、座頭の高利貸を禁ず
1817年、筝曲山田流の始祖山田斗養一(1757〜1817年)没 (1797年検校。主な作品に『初音曲』『葵の上』『長恨歌』『小督曲』『熊野』)
1819年、塙保己一が『群書類従正篇』を完成
1819年、ブリュッセル(ベルギー)で盲教育始まる
1819年、クラインが、その著書の中で、盲人が訓練を受けた犬を使用する方法について記述
1819年、フランスの博物学者ラマルク(Jean-Baptiste de Monet chevalier de Lamarck: 1744〜1829年)が、失明。その後も著述を続け、『観察に直接または間接に由来する知識に限定された、人間の実証的知識の分析体系』を口述、娘のコルネリーが筆記。また、1815年から書き始めていた『無脊椎動物誌』(全7巻)を娘たちの助力で1822年に完成させる。
1820年、大坂の町人学者山片蟠桃(1748〜1821年)が、晩年の失明にもかかわらず、大著『夢之代』(12巻)を完成(地動説、『日本書紀』応神紀以前の否定、あらゆる俗信の否認など、その実学的合理的思考は高く評価されている)
1821年、バルセロナ(スペイン)に盲学校開設
1821年、バルビエが、12点点字「ソノグラフィー」をパリ盲学校に盲人用として採用を要請
1824年末、フランスのルイ・ブライユ(Louis Braille: 1809〜1852年)が、6点による盲人が読み書きできる文字(点字)を考案
1824年、未生流の創始者山村山碩没 (本名:未生斎一甫。1761〜1824年。関東の幕臣の家に生まれたといわれる。若くから風流の道を志し、全国各地を放浪後、1807年ころ大坂に居を構えて未生流家元を起こす。50歳ころ失明したが、門人の指導を続け、「虚実等分」の説をたて、生花の三角形式を体系づけるなど、生花理論においても優れた業績を残す。口述によるいけ花理論書として、1816年に『本朝挿花百練』を刊行。その序文に「豫も亦浪花の里に閑居して草木の四時うつり変るにしたがひ、己がまにまに生出ておのづから見する造花の微妙を愛し、年の積るも覚えざりしに、つひに見る事を失いしが、されども好める道にしあらば心眼をもて、指導するに、さして明らかならざるを悔べくもあらで……」と述べている。)
1824年、地歌・箏曲家菊永太一(1742〜1824年)没 (1763年検校。芸名に菊の字のつく大坂の菊筋の祖となる。「新増大成糸のしらべ」の筆頭校訂者で,菊崎検校や2代菊沢検校らおおくの門人をそだてた)
1825年、エジンバラに盲婦人ホーム開設
1825年、ブダペスト(ハンガリー)で盲教育始まる
1825年、アメリカの盲聾の女性ジュリア・ブレイス(Julia Brace: 1807〜1884. 5歳の時発疹チフスのため盲聾になる)が、ハートフォードの聾学校(R.T.H.ギャローデットが1817年に設立したアメリカ初の聾学校)に入所。触覚により手話(ASL)を覚え生徒や職員とコミュニケーションできるようになり、また縫い物や編み物も修得。1841年から1年余、すでにローラ・ブリッジマンの教育で顕著な成果をあげていたパーキンス盲学校のハウが、ブレイスにアルファベットに基づく英語を教えようとするが期待したほどの成果はなく、ブレイスは手話を使い続ける。
1826年、グラスゴーに盲院(The School for the Indigent Blind)設立
1828年、国学者雨富流謙一検校(1759〜1828年)没。塙保己一の門下、皇典に通じ和歌に長じていた
1828年、国学者本居春庭(1763〜1828年)没。本居宣長の長男。29歳で眼病になり32歳ころ失明。猪川元貞に学んで鍼医を業としながらも、父の学問を継いで後進の指導に尽し、妻・妹の助けを借りて添削・著述、『詞八衢』『詞通路』を著した(用言の活用や分類について評価されている)。
1829年、惣検校吉川湊一(1748〜1829年)没。平曲家、歌道にもしたしみ、歌集「芳川集」がある
1829年、ブライユが「点を使ってことば、楽譜、簡単な歌を書く方法―盲人のためにつくられた盲人が使う本」を出版(1837年に増補)
1829年、ニューイングランド盲児保護院設立
1831年、ベルギーのローデンバッハ(Alexander Rodenbach: 1786〜1869年。11歳で失明。パリ盲学校のバランタン・アユイの下で教育を受ける。1830年のベルギー独立時に有力新聞の主筆として独立運動を推進して政治的頭角を現す)が代議士となる (彼は、ディドロの「盲人書簡」にたいする反論や盲・聾についての著述も残している)
1832年ころ、吉田久庵(埼玉県出身。医師を志て長崎に行き、オランダ医学の視点から針灸・導引を研究したという)が、線状揉みを特徴とする按摩(吉田流按摩)を江戸日本橋で始める。晴眼の者が門下となって広まり、杉山流の盲人按摩業者としばしば縄張り争いを起こす (文久のころ(1861〜1863)、盲人按摩数十人が日本橋四日市の吉田家に押しかけて、晴眼の者が盲人の業を成しては盲人は活計に苦しむので業を転ぜよ、そうでなければ我等を養え、と要求。吉田家は不当行為として南町奉行所に訴え、奉行所はそれを認めて盲人たちの身柄を惣録屋敷に引き渡したという)
1832年8月、ボストンにニューイングランド盲学校(New England Asylum for the Blind。校長サミュエル・ハウ。後のパーキンス盲学校)開設
[ハウ(Samuel Gridley Howe, 1801〜1876):1824年ハーバード大学医学部を卒業して医師の資格を取るが、ギリシア革命運動に6年間参加。29年帰米、31年にボストンのニューイングランド盲人収容所設立事業の経営に従事、盲人教育の実地調査のため渡欧し、ポーランド革命に巻込まれて逮捕・投獄されたが、32年ボストンに帰り、プレザント街の父の家で6人の盲児の教育を開始。これがパーキンス盲学校の発端。亡くなるまでの44年間校長を務める。盲聾のローラ・ブリッジマンの教育は彼のめざましい成功の一つ。その後、盲教育だけでなく、精神障害児の処遇や治療をはじめ、監獄改良運動、奴隷解放運動など多方面で活躍。また、民間慈善中心であった19世紀のアメリカ社会事業の中で公的責任の必要性を説き、1865〜74年には、アメリカ最初の公的福祉機関であるマサチューセッツ州慈善委員会の委員長を勤めている。]
1832年、ニューヨーク盲学校設立
1833年、ユリウスRフリードランダー(1803〜1839年)が、フィラデルフィアにペンシルベニア盲学校(後のオーバーブルック盲学校)開設
このころ、竜眠(生没年不詳。上総久留里藩士の子で、幼少時に失明)が、父の創案した識字教材(和紙を文字の形に切り取り貼り付けたもの)で文字を学び、1万余を習得、詩作に励んだという(別に、500字余を覚え詩作したとする伝もある)
1835年、ニューヨーク盲学校で開かれた盲教育者の会議で、パーキンス盲学校長のハウが考案したボストンタイプが認定され、以後アメリカでは凸字としてはこれが主流となる(1836年新約聖書が、43年旧約聖書がボストンタイプで印刷される)
1835年、ベルギーの物理学者プラトー(Joseph-Antoine-Ferdinand Plateau: 1801〜1883)が、ジャーン大学の実験物理学教授に就任。生理光学や毛細管現象・表面張力についての研究のほか、ストロボを利用した振動運動の研究も行なう。網膜の機能を調べようとして太陽を直接見るなどして失明するが、その後も1871年まで教授職にあった。
1836年、エジンバラ芸術協会(Edinburgh Society of Arts)が、盲人のための実用的な凸字形式を募集。15形式の応募があり、1838年、フライ(Edmund Fry)のローマ字の大字が選ばれた
1837年、オハイオ盲学校(州立)設立
1837年、マンチェスターに盲人収容施設設立
1837年10月、盲聾の女性ローラ・ブリッジマンが、パーキンス盲学校に入所、ハウの教育を受ける
[ローラ・ブリッジマン(Laura dewey Bridgman, 1829〜1889): 猩紅熱のため2歳半で盲聾となる(嗅覚や味覚も失う)。やがてパーキンス盲学校長ハウの関心をひき、1837年10月同校に入学。ハウはまず触覚を通してアルファベットを教え込んだ。鍵やスプーンやナイフなどごくありふれた物に、突起した文字で名称を記したラベルを貼ってそれを覚えさせ、物の名称を覚えたところでひとつひとつの指文字を教え、徐々にアルファベットと数字を教えていった。こうした適切な指導により系統的な教育が盲聾唖者にも成り立つことを証明しようとした。こうして彼女は浮出し文字を使って読書したり、簡単な家事をしたり、さらには針仕事も覚えて、その作品を盲学校が販売するまでになった。しかし、自宅での家族との生活はうまくコミュニケーションが取れず、生涯盲学校で縫い物の先生として暮らす。ヘレン・ケラーの教師として有名なサリバンは、パーキンス盲学校で最晩年のローラ・ブリッジマンと指文字を使って交流し、盲聾の世界や、ハウのローラへの教育法を知ることとなる。]
1837年、ハウが、パーキンス盲学校に工房を設置、盲成人にかご・マットレス・ブラシ・縫物などを作らせ販売(1952年まで続く)
1838年、エクセター(イギリス)のジョン・ベーコン(john Bacon)が、貧困盲人に読書を指導
1838年、フリーアー(James Hatley Frere: 1779〜1866年。盲人)が、表音的な速記文字形式の盲人用文字を考案
1839年、心学者柴田鳩翁(1783〜1839年)没。45歳で失明、京都を中心に教化活動を行い、広く大衆に影響をあたえた。「鳩翁道話」3巻がある
1839年、ニューイングランド盲学校が、マサチューセッツ・パーキンス盲学校(Perkins Institution and Massachusetts Asylun for the Blind)と改称
1839年、ルイ・ブライユ、目の見える人と見えない人が直接意思を伝え合うことができるように、ラフィグラフ(raphigraph:縦10×横10の点(decapoint)のパターンで普通のアルファベットの形を表すようにした一種の点線文字)を考案
1840年ころ、菊崎左一(1770?〜1840?年)没 (1795年検校。大阪菊筋の祖の菊永検校門下。大坂手事物の大成者の1人。作品に『西行桜』など)
1840年、アルストンタイプ(John Alstonがローマ字の大文字を基本にして考案)の聖書完成
1840年、ロシアの詩人コズロフ(Ivan Ivanovich Kozlov: 1779〜1840年)没 (貴族の家に生まれ、近衛連隊に勤務していたが、37歳のとき病気で足が不自由になり、さらに42歳で失明。失明後詩作活動を始め、叙事詩『修道僧』『ドルゴルーキー公爵夫人』『馬鹿な女』などを著す)
1842年、ロンドン盲人教育教会(The London Society for Teaching and Training the Blind)が、リューカスタイプ(1830年にブリストルに盲学校を開設したThomas M. Lucas(〜1837)が、速記文字を基本に考案)の聖書を出版
1842年、ワルシャワにポーランド最初の盲学校開設、盲人音楽同志会、ポーランド盲人協会も組織される
1844年、パリ盲学校長ピニエが、点字の公式採用を宣言
1846年、心学講師・田中一如(1769〜1846年)没 (松山藩士の家に生まれる。10代で失明、家督を譲る。心学を志、京都で上河淇水、江戸で中沢道二・大島有隣に師事、「三舎印鑑」(心学講師資格証明書)を受け、1814、5年ころ帰郷、松山に「六行舎」を設立し、市民にひろく道をとく。1830年代には六行舎は藩直営の卒族および平民の教諭学舎となり、舎主田中一如は城下の卒族や市民に心学を講説。さらに農村を巡回して農民にもわかりやすく教諭した。)
1847年、ムーン(William Moon: 1818〜1894年、イギリス、4歳で猩紅熱のため失明。当初速記文字的なフリーアータイプを習得するが、より触知しやすく合理的な文字を研究)が、浮出の線字であるムーン・タイプを完成(中途失明や触覚の鈍い者にも読みやすく、各種の線字の中で長く使われた)
1848年、戯作者滝沢馬琴(1767〜1848年)没 (長編『南総里見八犬伝』執筆中の1833年右眼失明、40年にはさらに左眼失明したが、息子の嫁・路(1806〜1858)が字を覚え口述筆記することで執筆を続け、28年かかって1842年に完成させた)
1848年、生田流地歌・箏曲家八重崎検校(1776?〜1848年)没。1815年検校。浦崎検校(1760ころ〜1840年ころ。箏手付を積極的に行う)門下で、京都の地歌三絃曲の大半に箏の手付けをして「京流(京風)手事物」といわれる新様式を発展・完成させた。
1850年、国学者沼田順義(1792〜1850年)没 (医術を学び武州川越で開業するが、後に失明。検校に補せられ江戸湯島に移る。林述斎に入門。本居宣長の『直毘霊』や『葛花』を批判して『級長戸風』を著し、次いで賀茂真淵の『国意考』に痛論を加えて『国意考弁妄』を著した)
1850年、イギリス、ホームティーチャー協会が、ブライユ点字の導入に反対