盲人文化史年表

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◆1960年代

◆1960年代
 1960年1月、最高裁が、HS式無熱高周波療法を行った者が、あん摩師、はり師、きゆう師及び柔道整復師法が禁止している医業類似行為として起訴された事件で、それが人の健康に害を及ぼさなければ違法とはされないとする判決を下す。
 1960年6月、道路交通法公布。視覚障害者は道路通交時に白または黄の杖を携えるか、盲導犬を連れていなければならないとされる。
 1960年7月、「身体障害者雇用促進法」公布(最低雇用率の義務付け、ただし非強制)
 1960年、沖縄県立沖縄盲学校で、自身も作家である山城見信(1937年〜)を中心に、粘土による造形美術教育が始められる (1981年、作品集『盲学校・土の造型20年』刊行。生徒たちの作品は、沖縄県宜野湾市の佐喜眞美術館に保管されている)
 1960年、鈴木力二(1908〜1984年。東京盲学校師範部卒、都立葛飾盲学校長、のち全国盲学校長会長)が『日本盲教育写真史』を自費出版 (他の著作に、『盲学校というところ』『日本点字の父 石川倉次先生伝』『中村京太郎伝』など。なお、『日本盲教育写真史』は1985年に『図説 日本盲教育史事典』として日本図書センターより改訂出版されている。同氏は、1966年第3回点字毎日文化賞受賞)
 1960年、浪曲師浪花亭綾太郎(1893〜1960年。本名加藤賢吉)没 (2歳で失明。7歳ころから流し按摩に従事するが、12歳で浪花節で身を立てようと決心し初代浪花亭駒造に入門、21歳で綾太郎の名で看板披露。文字を持たなかったが記憶力に優れ、歌舞伎に材をとった演題は千を越えるという。昭和初期、綾太郎の『壺坂霊験記』、とくにその冒頭の一節「妻は夫をいたわりつ、夫は妻を慕いつつ」は全国的に流行した。)
 1961年3月、全国初の盲老人ホーム「慈母園」が、奈良県高取町壺阪寺に開設される
 1961年4月、NHKが、盲人世帯のラジオ聴取料を無料化
 1961年、文部省が、盲聾の特殊教育職業開拓費として10学級分を計上、盲学校では、北海道庁立札幌盲学校(農産物栽培科:椎茸)、岩手県立盲学校(養鶏科)、神奈川県立平塚盲学校(電気器具組立科)、大阪府立盲学校(ピアノ調律科)、徳島県立盲学校(養鶏養豚科)の五校に新職業科が設置される。また1962年度は宮城県立盲学校(花卉栽培)と広島県立盲学校(農芸科)が、1963年度は横浜市立盲学校(手工芸:簾編みと毛糸編み)が新職業教育研究校に指定される。 (ほとんどは長くは続かず、その後成果が得られて継続したのは、大阪府立盲学校のピアノ調律科のみ)
 1961年6月、盲人郵便物(盲人用点字、盲人用録音テープ、点字用紙)の郵便料無料化
 1961年6月、鳥居篤治郎らを中心に、京都ライトハウス創設 (初代会長:鳥居篤治郎)
  [鳥居篤治郎: 1894〜1970年。4歳で失明。1905年京都市立盲唖院入学。1916年東京盲学校師範科鍼按科卒業。このころ盲詩人エロシェンコとの交友でエスペランティストとなり、またバハイ教の宣教者アグネス・アレクサンダー(1875〜1971年。日本には1914〜38年、および1950〜67年の2回滞在)を通してバハイ教徒となる。三重盲唖院の教員を経て、1929年より京都府立盲学校教諭(1951年より副校長)。1948年京都府盲人協会を結成し、その会長に就任。54年日本盲人会連合会長、55年日本点字研究会会長、同年世界盲人福祉協議会理事、59年日本盲人福祉委員会理事長。1950年藍綬褒章、54年ヘレン・ケラー賞、65年朝日新聞社会奉仕賞など受賞。]
 1961年7月、「雇用促進事業団」設立
 1961年7月、高橋實らが、職域の拡大と大学進学を促進することなどを目的に、「文月会」を設立 (1964年、日本盲人福祉研究会と改称)
 1961年9月、「身体障害者雇用促進月間」設定(以後毎年)
 1961年11月、障害福祉年金支給開始
 1961年12月、大阪医科大学の湖崎克(1929〜)の提唱で、高槻市立桃園小学校の分校として、大阪医科大学付属病院内弱視学級が開設される (同年に湖崎らが行った大阪府下の児童生徒の検診で、視覚に問題のある児童生徒が1340名にも及ぶことが明らかとなる)
 1961年、厚生省が、「声の図書製作・貸出事業」(録音図書制作・貸出への助成)を日本ライトハウスと日本点字図書館に委託
 1961年4月、鉄道弘済会が提供し、日本点字図書館が管理運営して、盲学生向けの月刊テープ雑誌「つのぶえ」が創刊される。そしてこのテープ誌上で、日本点字図書館が全国盲学校放送劇コンクールを開始
 1961年、弱視教育研究会(現・日本弱視教育研究会)結成。1963年4月、機関紙「弱視教育」創刊
 1961年、芹澤勝助(1915〜1998年)が、「経絡経穴の医学的研究」で、鍼灸師として初めて、昭和医科大学より医学博士号 (生来の弱視。尋常高等小学校卒業後、1930年東京盲人技術学校(現・都立文京盲学校)に入学、35年東京盲学校師範部鍼按科入学、研究科を経て、39年失明軍人教育所講師、45年東京盲学校教員、51年東京教育大学(特設教員養成部)講師、64年教授。理教連の会長をはじめ多くの団体の要職、各種審議会委員も勤め、また理療科の各種教科書もふくめ多数の著書を執筆。1977年、第14回点字毎日文化賞)
 1961年、カナダ、「職業リハビリテーション法」制定
 1961年、アメリカ、「身体障害者にアクセスしやすく使用しやすい建築設備に関するアメリカ基準仕様書」策定(世界で最初)
 1961年、ワシントンでアメリカ盲人協議会(American Council of the Blind: ACB)が NFBから分立する形で設立される(法律家、プログラマー、教師、公務員など職能別の専門団体がある)
 1961年、トーマス・キャロル(Thomas J. Carroll)が、失明者リハビリテーション理論の古典的名著とされる『Blindness』を刊行(邦訳:『失明』松本征二監修 樋口正純訳、日本盲人福祉委員会、1977)
 1962年3月、学校教育法施行令改定(盲・聾・養護学校の対象となる障害の程度を規定<第22条の2の表>)
 1962年、全国盲学校PTA連合会結成。
 1962年、田辺建雄(1928〜2008年)が、理療科教科書の田辺シリーズ6科目(解剖学、生理学、衛生学、病理学、症候概論、治療一般)を出版
  [1944年金沢医科大学附属薬学専門部入学、47年石川薬品試験株式会社入社、同年秋薬品の爆発で顔に重症、48年石川県衛生試験所勤務、49年9月目の状態が急変・失明。翌年石川県立盲学校専攻科入学、52年東京教育大学特設教員養成部、54年石川県立盲学校教員(〜88年)。1974年石川県視覚障害者協会理事長、81年石川県視覚障害者会館、97年石川県視覚障害者情報文化センター建設。理療関係の多くの図書を執筆、さらに1988年から光ある記録シリーズとして『わが六〇年のあゆみ』『宝生流 点字謡曲符の解説』『宝生流「点字小謡集」』『田辺建雄講演集 見えない目だからこそ』『耳と手で見たネパ−ル・タイの魅力』『宝生流点字謡曲初級本』『北海ジャーナル「盲界放談」』『石川県視覚障害者福祉文化大会50年』『父と母の思い出 四分の三世紀を振り返って』『懐かしい思い出「祝賀会」6つ。 傘寿(数え年80歳)を迎えて』を出版。1998年、第35回点字毎日文化賞受賞]
 1962年、松浦茂晴(1925〜1985年。九州大学経済学部在学中に反復性網膜硝子体出血に罹り、27歳ころ完全失明。教育学に転向。1960年ボストン大学の修士課程を終了)が、四国学院大学講師に就任。1969年同大教授、1983年同大文学部長。著書『教育のユートピア ベラミーの人と思想』、訳書『来たるべき時代の教育』(セオドア・プラメルド著)など。
 1962年、小説家・翻訳家武林無想庵(1880〜1962年。本名磐雄、後に盛一)没 (東京帝国大学中退。放浪しながら翻訳や小説を発表。1920年二番目の妻文子と渡仏、33年まで滞欧。1943年緑内障のため失明。三番目の妻朝子の口述筆記により、会員制の個人誌『むさうあん物語』(全44冊別巻3冊、1957年-1969年)を刊行。1944年から死の約50日前までの日記も、朝子の口述筆記により『武林無想庵盲目日記』として刊行されている)
 1962年、バイオリニスト和波孝禧が、第31回日本音楽コンクールに優勝
  [和波孝禧: 1945〜。先天盲。 4歳からバイオリンを始め、辻吉之助、鷲見三郎、江藤俊哉に師事。母が譜面を点訳。1967年桐朋学園大学卒業。児童・学生時代、1954年第6回日本全盲学生音楽コンクール1位をはじめ、58年第12回全日本学生音楽コンクール中学生の部全国第1位、62年第31回日本音楽コンクール第1位、特賞、安宅賞などを受賞。また1959年には音楽映画「いつか来た道」に主演。1963年、斎藤秀雄の指揮の下、日本フィルハーモニー交響楽団のソリストとして楽壇デビュー、65年パリのロン=ティボー国際音楽コンクール第4位、70年ロンドンのカール・フレッシュ国際コンクール第2位入賞。日本を代表するバイオリニストとして、国内の主要オーケストラをはじめ、ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団、セント・マーチン・アカデミー管弦楽団、バーミンガム市交響楽団など国外のオーケストラとの共演も数多い。84年から小澤征爾が総監督を務めるサイトウ・キネン・フェスティバル松本に参加し、オーケストラと室内楽の双方に出演。また、77年、ピアノ奏者の妻・土屋美寧子とデュオを組み、息の合った演奏が国内外から高い評価を受ける。1991年からは、毎年クリスマスの時期にバッハの無伴奏ヴァイオリン曲の演奏会を開いている。
   後進の育成にも力を入れており、1985年から毎年夏、山梨県・大泉村の八ヶ岳高原泉郷で「八ヶ岳サマーコース」を開催。91年、同コースに参加した若い音楽家たちにより、いずみごうフェスティバルオーケストラが結成され、指導に当たる。桐朋学園大学、愛知県立芸術大学でも非常勤講師として教鞭をとる。受賞歴は、1968年第5回点字毎日文化賞、1971、78、83年文化庁芸術祭優秀賞、93年モービル音楽賞、95年サントリー音楽賞、2005年紫綬褒章、鳥居賞、06年第3回本間一夫文化賞、15年旭日小綬章。『ブラームス/シューマン ヴァイオリン協奏曲』『バッハ:無伴奏ソナタ&パルティータ第1集』など数多くのCDを出しているほか、著書に『音楽からの贈り物』『ヴァイオリンは見た』がある。]
 1962年11月、岐阜県盲人協会が愛盲館の協力を得て、視覚障害男女の出会の場・結婚研修会「かがり火」(第1回)を開催(第8回(1973年9月)から主催者が愛盲館(岐阜訓盲協会)に代わり、対象も全国に広げる)
 1962年、赤座憲久(1927〜2012年)が、岐阜県立盲学校での教育実践記録『目の見えぬ子ら』で毎日出版文化賞 (1954年から岐阜県立盲学校教諭。1971〜91年大垣女子短大教授。1965年『白ステッキの歌』で講談社児童文学新人賞。72年児童文学雑誌「コボたち」の創刊に参画。87年『雨のにおい星の声』でサンケイ児童出版文化賞と新美南吉児童文学賞、読売絵本にっぽん賞。89年『かかみ野の土』『かかみ野の空』で日本児童文芸家協会賞。戦争・原爆・沖縄・障害者・盲導犬などをテーマに100以上の作品がある)
 1963年、大阪市立本田小学校に弱視学級設置
 1963年6月、厚生省から「眼球あっせん業許可基準」が公示され、同年10月には慶大眼球銀行と順天堂アイバンク、同年12月には大阪アイバンクなど三か所がそれぞれ認可される
 1963年10月、文月会が機関誌「新時代」復刊。1976年10月、「視覚障害―その研究と情報」に改名。2004年4月より月刊。
 1963年10月、松井新二郎が、「日本盲人カナタイプ協会」を設立
  [松井新二郎: 1914〜1995年。25歳の時、日中戦争で失明。国立東京視力障害センター相談室長、同研究室長、東北大学視覚欠陥学教室講師などを経て、1976年から日本盲人職能開発センター所長。また、日本盲人社会福祉施設協議会理事長、日本盲人社会福祉委員会常務理事、世界盲人福祉協議会日本代表委員、国際障害者年日本推進協議会副代表など、盲人団体の役員を多数兼務。1972年第9回点字毎日文化賞、85年第19回吉川英治文化賞受賞]
 1963年11月、第1回全国盲人カナタイプコンテスト開催
 1963年11月、点字毎日が、第30回総選挙から「選挙のお知らせ」の発行を開始
 1963年、スウェーデンで、障害児のための「おもちゃの図書館」が始まる。 (日本では1981年から)
 1963年、ドイツのシュルツェ(Hans-Eugen Schulze: 1922〜)が、連邦通常裁判所(最上級の裁判所)の民事第2部の判事に就任(〜1985) (幼少期に失明。盲学校に入り、速記タイプなどいろいろな職業訓練も受ける。1939年盲学校を卒業、速記タイプの技術を生かしてドルトムントの地方裁判所で司法補助官として働く。44年に仕事を止めてマールブルクのブリスタに進学、翌年アビトゥアを取得。46年マールブルク大学に入学、法学と国家学を学ぶ。49年司法試験の第1次試験に、51年第2次試験に合格、また同年ミュンスター大学で博士号取得。51年ボーフムの地方裁判所の判事、55年ハムの高等裁判所の反事に就任。裁判官としての仕事のほか、アフリカ・アジア諸国での視覚障害者支援や失明予防活動にも熱心に取り組んでいる。)
 1964年1月、国立函館光明寮設置(6月、国立函館視力障害センターと改称)
 1964年、東京教育大学附属盲学校と大阪府立盲学校に、理学療法士養成課程(当初「リハビリテーション科」、後「理学療法科」)設置。翌年、徳島県立盲学校にも設置される
 1964年、国立光明寮が、国立視力障害センターと改称
 1964年4月、NHKが、ラジオ第2放送に「盲人の時間」を設ける。盲人家庭のテレビ視聴料を半額とする
 1964年5月、山梨放送(YBS)が、視覚障害者向けの番組「ラジオ・ライトハウス」を開始(当初は毎週火曜日14:30〜15:00、2004年4月からは毎週日曜日7:45〜8:00放送)
 1964年6月、「あん摩師、はり師、きゆう師及び柔道整復師法」(昭和26年法律116号)が、「あん摩マツサージ指圧師、はり師、きゆう師、柔道整復師等に関する法律」(法律第120号)と名称が改題され、指圧が明確に位置づけられる(その他、あん摩マッサージ指圧師について、晴眼者と視覚障害者の比率等を考慮して、晴眼者を対象とする学校、養成所の認定、定員増の承認を行わないことができるとされた)
 1964年7月、日本ライトハウス理事長の岩橋英行が、WCWBの副会長に就任
  [岩橋英行:1925〜1984年。1950年3月、関西学院大学文学部哲学科卒業。52年7月、ライトハウス常務理事。54年5月、日盲連事務局長。同年10月、父岩橋武夫の死をうけて、日本ライトハウス理事長就任。1960年1月、日本盲人福祉委員会常務理事。69年6月、職業・生活訓練センター開設の功で第6回点字毎日文化賞。(このころから、網膜色素変性症のため次第に視力を失う。)70年2月、厚生省身体障害者福祉審議会委員。73年4月、アジア眼科医療協力会を結成、理事長に就任。81年12月、盲人の職域拡大の功で総理大臣表彰。82年、藍綬褒章。]
 1964年、毎日新聞社が、点字毎日文化賞を創設(第1回受賞者は、好本督)
  [好本督:1878〜1973年。大阪に生まれる。弱視。府立第一中学校を卒業後、東京高等商業学校(現一橋大学)に進む。内村鑑三の感化でキリスト者になる。東京高商卒業後、1900年パリ万博を見学、その後渡英してオックスフォード大学で学ぶ。1902年帰国して、『真英国』を著し、各地の盲学校に送る。その後再びオックスフォード大学で学業を続ける。1906年帰国し、早稲田大学の英語講師になり、また同年盲人有志に呼びかけて「日本盲人会」を結成し、自らの『日英の盲人』『新英国』をはじめ、ヘレン・ケラー『我が生涯』、内村鑑三『後世への最大遺物』などの啓蒙書を点字出版。1908年再び渡英し、マーガレットと結婚、また商事会社「オックスフォード・ハウス」を設立。この事業で得た利益の多くを日本の盲人のために使い、英国にあってその後の日本の盲人福祉増進のために物心両面で支援し続ける。例えば、1912年毎日新聞の河野三通士に点字新聞の発行を提唱、同年の中村京太郎の英国留学、その翌年の熊谷鉄太郎の関西学院入学、1919年の「盲人キリスト信仰会」の結成(新約・旧約聖書を点字出版)、1925年の岩橋武夫のエジンバラ大学留学、 1951年の日本盲人キりスト教伝道協議会創設、1955年の「第一回アジア盲人福祉会議」の開催などを支援。その他、中国語点字によるバンヤン著『天路歴程』を中国の盲人に送ったり、ヘレン・ケラーの第1回日本訪問を後押ししたりもしている。著書に1934年『十字架を盾として』、1948年『英国人とキリスト教』を、1949年『神に聴いて』、1967年『わが隣人とは誰か』など。]
 1964年、童話作家・佐々木たづ(1932〜1998年。都立駒場高校3年に在学中緑内障のため両眼失明。野村胡堂に師事して童話を書きはじめる。1962年イギリスに渡り、盲導犬ロバータを得て帰国)が、『ロバータ さあ歩きましょう』を刊行、翌年第13回日本エッセイストクラブ賞受賞(他に、『白い帽子の丘で』『わたし日記をかいたの』『らい年はよい年』『子うさぎましろのお話』『少年と子だぬき』など)
 1964年、生田流箏曲家佐藤親貴(1914〜。2歳のとき麻疹で失明。6歳で名古屋系生田流箏曲を習い始め、10歳のとき上京して米川親敏に入門。点字・点字楽譜も近所の盲学校卒業生に習う。1928年名取となり、40年一門の会「白菊会」設立)が、師匠の米川親敏より独立、「白菊会」家元となる。1967年から聖心女子大学箏曲部講師。1977〜96年「佐藤親貴三弦箏曲演奏会」開催、その収益金を視覚障害関係施設に寄付。1998年、白菊会次期家元に二宮貴久輔(1950〜。57年佐藤親貴に入門、東京教育大学附属盲学校音楽科を卒業し、69年白菊会師範。87年よりリサイタル開催)を指名。
 1964年、アメリカ、10月15日を「白杖安全デー」と定める (毎年この日に大統領が声明を発表し、視覚障害者の歩行の安全および白杖というシンボルを通して視覚障害者への理解を深めるような記念行事を行う。)
 1965年、東京都が、視覚障害者向けに公職選挙候補者の経歴・政見を東京ヘレン・ケラー協会の選挙特集号を購入し「おしらせ」として公布
 1965年、日本身体障害者スポーツ協会発足。毎年、国民体育大会のあと、全国身体障害者体育大会を開催するようになる。
 1965年6月、理学療法士及び作業療法士法成立
 1965年、石松量蔵が、自伝『盲目の恩寵』を出版
 1965年、伊藤岳峯(1920〜。本名政太郎。4歳で失明。大阪市立盲学校鍼按科の時詩吟部に入り、44年には当時の吟詠の最高位・奥伝師範を許される。52年日本詩吟学院帯広支部を設立)が、北海点字図書館より「テープ詩吟教室」を月刊で発行(2005年1月まで)
 1965年9月、日本ライトハウスが、職業生活訓練センターを開所
 1965年11月、万国郵便条約により外国向け点字郵便物が無料となる
 1965年、第1回全国盲人珠算検定試験実施 (日本商工会議所など主催。 36盲学校参加。受験者851人)
 1965年、盲人の電信級アマチュア無線の受験が認められる
 1965年、日本鍼灸師会主催の第1回国際鍼灸学会が東京で開かれる(フランス、イギリス、西ドイツ、アメリカ、韓国、南ベトナムなど19カ国、80人が参加)
 1965年、青木優・道代が、小郡教会付属のすみれ園で、視覚障害児もふくめ多種の重度の障害児を受け入れ始める
  [青木優:1924〜(道代:1933〜)。24歳のとき、広島医大付属病院で医師としてのインターン中、網膜硝子体出血により失明。1952年、東京神学大学3年に編入学。56年、卒業と同時に道代と結婚。1960〜86年、山口県の小郡教会の主任牧師。64年すみれ園開設。1986年東京に移り、調布柴崎伝道所設立、障碍を負う人々・子どもたちと「共に歩む」ネットワークの活動を始める(会報誌「共に歩む」発刊)。著書に『障碍を生きる意味―共に歩む』『スウェーデンの心を訪ねて』など]
 1966年4月、中道益平(1907〜1978年、網膜剥離のため25歳で失明)が、福井県鯖江市に、重度身体障害者更生施設「ライトセンター光道園」(全国初の盲重複障害者施設)を設立 (1967年藍綬褒章、1971年第8回点字毎日文化賞)
 1966年4月、日本点字図書館が、盲人用具取扱い業務開始
 1966年、国立塩原視力障害センターに、農芸科が設置される(養豚・養鶏・しいたけの栽培などの職業訓練が行われる)
 1966年、「全国視力障害者大学進学対策委員会」発足
 1966年、東北大学教育学部に視覚欠陥学教室開設
 1966年、岩手県の盲聾教育の創始者で多くの社会事業も行った柴内魁三(1879〜1966年)没
  [柴内魁三:盛岡中学校卒業後、1901年11月陸軍士官学校卒業。日露戦争に従軍、1905年3月の奉天の会戦で負傷・失明。06年日露戦争失明軍人のための講習会将官コースを受講、09年東京盲唖学校教員練習科に入学、10年教員資格を得て帰郷、11年私立の岩手盲唖学校を設立し校長に就任。1925年私立岩手盲唖学校が県に移管され岩手県立盲唖学校となり、校長になる。48年盲聾分離により、岩手県立盲学校の校長となる(就任直後に元軍人ということで公職追放となるが1年足らずで復帰)、翌年退職。
   この間盲唖学校の運営に尽力するとともに、地域の要請に応じて各種の社会公共的な事業にも取組む。1928年盛岡水道利用組合を結成、理事長となって水道事業を始める。31年盛岡消費組合の組合長(国家統成のため盛岡消費組合は42年解散)。33年有限責任購販利用組合盛岡病院を設立し組合長になる(さらに県下各郡に一つずつ病院や診療所を設置すべく岩手県医薬品購販利用組合連合会を結成・組織化。1950年岩手県はこの組合方式による病院を買収し、盛岡市の岩手県立中央病院等県内各地区の岩手県立病院とした)。(これらの社会公共事業は、各種の協同組合を規定した1900年制定の産業組合法に基くもの。)また1962年には財団法人柴内愛育会を設立、盲学校・聾学校の設備拡充や盲生徒の角膜移植資金の補助等を行う。]
 1966年、視覚障害児を持つスタンフォード大学の J.リンビル博士が、オプタコンを開発
 1966年、ドイツの法学者ショラー(Heinrich Johannes Scholler: 1929〜2015年)が、ルードヴィッヒ・マクシミリアン大学(通称ミュンヘン大学)の国家法・行政法・法哲学の教授になる (1945年(15歳)実習先の化学工場での事故で両眼失明。マールブルクのブリスタに進学、48年にアビトゥアを取得し、ルートヴィッヒ・マクシミリアン大学で法学を専攻。54年司法試験の第1次試験に、58年第2次試験に合格。60年法学博士号取得、同年よりバイエルン州行政裁判所に勤務。70年代以降、エチオピアをはじめしばしばアフリカ・あじあ諸国に出向いて講義などをし、またドイツ国内でも盲人諸団体の活動に貢献。1995年大学を定年退官。)
 1966年、オーストラリアの盲聾の女性ベタリッジ(Alice Betteridge: 1901-1966)没 (2歳の時に髄膜炎にかかりその後遺症で視力と聴力を失う。1908年から、現王立盲聾児協会で、大学を卒業したばかりのロバータ・リードの献身的な指導を受ける。アン・サリバンがヘレン・ケラーに試みたのと同様の方法で、物には名前があることを教え(初めて理解した語は'shoe')、さらに点字の読み書きも覚え、多くの点字書も読む。1920年に卒業するが、その後も学校に残って生徒たちの世話係として働く。1939年、全盲でペンフレンドのウイル・チャップリンと結婚。1948年には、オーストラリアを訪問中のヘレン・ケラーと会っている。)
 1966〜72年、ノースカロライナ美術館のメアリー デューク・ビドン・ギャラリーが、26回に及ぶタッチ展を開催
 1967年3月、鈴木敏之(1919年東京生まれ。2歳の時左眼を失明、画家を志すが21歳の時右眼も失明。鍼灸師をしながら、一時文学に転向するが、1961年より作画を開始)が、東京丸の内大丸百貨店画廊で「鈴木敏之作品展」を開催 (著書『指が目になった―ある全盲画家の半生』1970年、朝日新聞社)
 1967年3月、三宅精一(1926〜1982年。安全交通試験研究センター初代理事長)が 1965年に考案していた点字ブロックが、初めて岡山市で設置される (30cm4方のコンクリート製で、縦横7個ずつの丸い突起がある)
 1967年、山形県立山形盲学校、ピアノ調律科を設置(1989年3月閉鎖)
 1967年、小森禎司が桜美林短大の英文科の専任助手となる (小森禎司:1938〜2010年。先天盲。栃木県立盲学校を経て、1959年桜美林短大英文化入学。1963年明治学院大学文学部英文学科卒、1965年、明治学院大学大学院入学。1970〜72年、カリフォルニア州クレアモント大学に留学、ミルトンの研究で修士号を取得。以後桜美林短大教授を経て、同大学英語英米文学科教授)
 1967年5月、大阪で、全国視力障害者協議会(全視協)結成
 1967年8月、身体障害者福祉法の改正 (障害の範囲拡大〔心臓、呼吸機能障害〕、身体障害者相談員の設置〔障害のある当事者を相談員に起用〕、身体障害者家庭奉仕員の派遣、内部障害者更生施設の設置)
 1967年10月、大分生態水族館に「耳と手で見る魚の国」が設けられる。タチウオなど41種の魚の模型が置かれ、レシーバーで説明を聞く。
 1967年12月、障害者の生活と権利を守る全国連絡協議会(障全協)結成
 1967年、在京大学の点訳クラブ会員などにより、盲大学生の援助を目的として「東京盲人問題学生協議会」が結成される。
 1967年、宮崎康平(1917〜1980年。34才で完全失明、島原鉄道取締役など歴任)が、歴史書『まぼろしの邪馬台国』を刊行 (同年、妻和子とともに、第1回吉川英治文化賞受賞
 1967年、第1回全国盲人将棋大会が行われる
 1967年、アメリカ、ジェームズ・フェイマン(James D. Faimon: 1938〜2012)が、弁護士としてネブラスカ州リンカーン市の法務部に勤務(〜2007年) (出産時の事故で片耳の聴力と両眼の視覚を失う。ネブラスカ州立盲学校を卒業後、ネブラスカ=リンカーン大学に進学して教育学を学び、さらに同大学院で歴史学で修士号を取得。その後、進路を変更してロー・スクールに進み、1966年に司法試験に合格。1983年から3年間、アメリカ盲人法律家協会の会長)
 1968年4月、国立東京視力障害センターに「カナタイプ科」が新設される
 1968年4月、慈母園(奈良県)・聖明園(東京都)・白滝園(広島県)の3施設で、全国盲老人福祉施設連絡協議会(全盲老連)結成 (2011年現在80施設が加盟)
 1968年7月、点字毎日が、ハンセン病療養所在園者や盲老人ホーム入所者のために、テープ版の『声の点字毎日』を創刊 (2005年からはデイジー形式のCD版になる)
 1968年8月、文部省が、公立小中学校の心身障害児童生徒の実態を調査、視覚障害児童生徒6684人(小 3740人、中 2944人。視力別では、0.04から0.3未満が6268人、0.03以下が416人)
 1968年、山梨ライトハウス点字図書館が、拡大写本(弱視用図書事業)を開始
 1968年、三宅精一が考案した振動触知式信号機が、宇都宮市に16機設置される (このタイプの信号機は日本ではあまり普及しなかった。)
 1968年、 日本ライトハウス職業生活訓練センターの訓練生が日本で初めて電話交換手として就職。また、国立東京視力障害センターで訓練を受けた2人が録音タイピストとして就職
 1968年、名古屋で、視覚障害者を中心としたラテンバンド「アンサンブル・アミー」発足 (1988年に中国で、1998年にメキシコでコンサートを行っている)
 1968年12月、「日本ハンセン病盲人テープ・ライブラリー」設立(全生園・日本MTLの援助による)
 1968年、名古屋市で、日本最初の共同作業所「ゆたか作業所」が開設される
 1968年、ジェーニガン(Kenneth Jernigan: 1926〜1998年、アメリカ、幼少期に失明)が、NFBの第3代会長に就任(〜86年)
 1968年、ホセ・フェリシアーノ(Jose Feliciano: 1945〜。プエルト・リコ生まれの先天盲のポップシンガー・ソングライター・ギタリスト)が、グラミー賞最優秀新人賞を受賞
 1968年、アメリカ、「建築物障壁除去法」(Architectural Barriers Act: ABA)成立。連邦政府建造物のアクセシビリティ向上の為、「統一連邦アクセシビリティ基準」(UFAS: Uniform Federal Accessibility Standards)の策定が始まる。
 1968年、スウェーデン 1968年法制度(ノーマライゼーションの推進)
 1968年、スウェーデン、「やさしく読める図書(LLブック)」の製作開始(2007年までに約800冊製作)
  [LLブック:「LL」はスウェーデン語の「やさしく読める」を意味する「lattlast」の略。主に知的障害、認知障害、ディスレクシア、自閉症、学習障害、先天性聴覚障害を持つ人やスウェーデン語を母国語としない外国人移民など言葉の理解の難しい人たちを対象にし、やさしい単語や文章を用いて書かれているほか、書体や行間、文字色など見やすさにも配慮]
 1969年2月、電電公社が、電話交換の業務に視覚障害者の受験を認める
 1969年4月、日本ライトハウス職業生活訓練センターが、厚生省からの委託を受け、盲人電話交換手養成事業を開始
 1969年4月、地方自治法の一部改正により、リコール請求、国会請願、最高裁等への陳情の点字署名が認められる(1951年山口県、1963年和歌山県、1966年松山市、1968年大阪府と京都市で、市長や議員のリコール請求や条例制定の直接請求での点字署名が無効とされてきた)
 1969年、聖明福祉協会が、盲大学生奨学金制度を創設
 1969年4月、わが国初のプロの盲人録音カナタイピスト誕生
 1969年7月、聖心女子大学MS社会奉仕団の学生たちが盲人の高等教育のために街頭募金で集めた200万円近くの資金を基金として、「盲人の高等教育援助委員会」が発足(盲大学生にテープレコーダー、点訳者に点字タイプライターなどを貸与する)
 1969年7月、長谷川きよし(1949〜.2歳で失明)が、「別れのサンバ」でデビュー、大ヒット。1973年から「ふたつの顔」を企画、加藤登紀子や五輪真弓と共演。
 1969年、川上泰一(1917〜1994年。当時、大阪府立盲学校の理科教諭。 1987年、日本漢点字協会設立、会長に就任)が、8点による漢点字を発表
 1969年、地歌・箏曲家富山清琴(1913〜2008年.本名八田清治)が、重要無形文化財保持者に認定される (大阪市生まれ。1歳4か月で失明。4歳で富永敬琴に入門。12歳で野川流三味線および継山流箏秘曲の伝授を受け、富山清琴の芸名をもらう。1930年上京して富崎春昇に入門。師春昇の遺産をすべて受け継ぎ、古典継承とともに作曲にも優れる。1948年独立し家元。作品に『雨四題』『防人の賦』『鐘の音』など。1988年芸術院会員。1993年、文化功労者、および第30回点字毎日文化賞。2000年、名を長男に譲り清翁を名乗る。)
 1969年、中川童二(1904〜1986年。本名光一)が、『「ランカイ屋一代(わが博覧会100年史)』で講談倶楽部賞受賞 (洋画家を目指し1942年中川造形図案社を開く。1945年秋メチルアルコールで失明、新潟盲学校で鍼按を学ぶ。1951年雑誌や新聞に「洋裁手帳」「山伏悲願」「超路太平記」が入選。サンデー毎日大衆文芸に1955年「ど腐れ炎上記」、1958年「鮭と狐の村」が入選。1959年『たとえ光が失われても』(光書房)、1969年『指に目がある』(毎日新聞社)。1971年岩橋武夫賞。)
 1969年、コロンボで、第1回国際盲人連盟(IFB: International Federation of the Blind)開催

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