盲人文化史年表

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◆1970年代

◆1970年代
 1970年、篠田順一郎(1917〜。1961年ベーチェット病と診断され失明宣告を受けるが、会社経営を続け発展させる)が、ベーチェット病友の会を結成、初代会長に就任
 1970年4月、東京都立日比谷図書館が、録音朗読サービス、および試験的に対面朗読サービスを開始
 1970年5月、著作権法が改正され、点字図書は無条件で、録音図書は政令で定めた福祉施設に限り、著作権者の許諾無く製作できるようになる(同法37条。施行は1971年1月)
 1970年5月、「心身障害者対策基本法」公布・施行 (主な内容は、@個人の尊厳とこれにふさわしい処置を保障される権利をもつこと、A国と自治体は負担軽減と自立促進のために税制上の措置や公共施設使用料の減免などの施策をとること、B国・自治体は早期発見・早期治療に努め、医療・年金・住宅などの面での福祉対策を行うこと、C総理府に中央心身障害者対策協議会を置き、都道府県と指定都市に地方心身障害者対策協議会を置くことなど)
 1970年6月、東京ヘレン・ケラー協会より、月刊誌『点字ジャーナル』創刊
 1970年6月、市橋正晴(1946〜1997.先天の弱視)らが中心になり、「視覚障害者読書権保障協議会」(「視読協」)発足 (1998年4月、解散)
 1970年7月、堀木訴訟提訴 (全盲の堀木文子(1919〜1986年。数え3歳で失明。マッサージ師)が、1970年2月児童扶養手当の受給資格の認定申請をし、3月却下される。5月異議申し立てをし、6月却下される。7月、障害福祉年金と児童扶養手当の併給禁止は憲法の生存権保障および平等保障原則に違憲するとして提訴。72年9月の神戸地裁第一審判決では、児童扶養手当法の併給制限条項は、母が健常者であるか障害者であるかにより、また障害者が男であるか女であるかにより、それぞれ合理的理由なく差別するもので、憲法14条の法の下の平等条項に違反するとして原告勝訴。75、78年の二、三審では敗訴。この間、国は73年、児童扶養手当法の改正により、併給を認める。)
 1970年3月、高田瞽女の杉本キクエ(1898〜1983年。5歳で麻疹のため失明。6歳で高田瞽女の親方杉本マセに弟子入り、マセの養子となる。芸名ハル、後に初梅。23歳で家を継ぎ、親方となる)が、重要無形文化財に指定される(1973年11月に黄綬褒章受章) (杉本キクエとともに、刈羽瞽女の伊平タケ(1886〜1977年)も、重要無形文化財に指定され、黄綬褒章も受けている)
 1970年11月、筝曲家・中村双葉(1900〜1970年。本名 中村 生平)没。 3歳で失明。6歳で高松市の平井検校に師事。香川県立盲唖学校を卒業後、1921年から、大阪市立盲学校の洋楽教師でわが国最初の盲人バイオリニスト杉江泰一郎(1891〜1935年)や国立高等音楽院教授末吉雄二に師事してバイオリンを学び、邦楽・洋楽両面にわたっての名手となった。1929年高松で盲人として最初のバイオリン・リサイタルを開いている。1931年大阪市立盲学校邦楽科主任教授となり、以来大日本筝曲会協会、生田流筝曲葉風会、大阪三曲協会、日本筝曲会連盟、日本盲人会連合音楽部などに関係し指導的立場にあった。1967年より大阪音楽大学講師。
 1970年、神奈川県点字図書館が、リーディングサービス開始
 1970年、全国盲学校長会より『弱視用広辞苑』が出版される(9ポイントで全2冊)
 1970年、版画家棟方志功(1903〜1975年)、文化勲章受章 (青森市生まれ。囲炉裏の煤で眼を傷めて極度の近視になる。少年期にゴッホの絵に出会って感動し、「ゴッホになる」と芸術家を志す。1924年上京。28年第9回帝展に『雑園』(油絵)で入選。1956年ヴェネチア・ビエンナーレ国際美術展に『湧然する女者達々』などを出し、国際版画大賞を受賞。強度の近視の為に眼鏡が板に付く程に顔を近づけて版画を彫った。)
 1970年、ベルギー王立歴史美術博物館内に、「盲人のための博物館」(Musee pour Aveugles)が開館 (年に1回特別展を開催)
 1970年、韓国、大韓盲人易理学会(伝統的な占卜や読経を業とする盲人団体)発足
 1971年4月、盲・聾・養護学校の小学部に「養護・訓練」の教科が設けられる(72年中学部、73年高等部にも設けられる)
 1971年4月、塩谷靖子(1943〜。旧姓浜田。先天性緑内障のため6歳ころ完全失明。東京教育大学附属盲学校を経て、1967年東京女子大学文理学部数理学科入学)が、日本ユニバック株式会社(現日本ユニシス株式会社)にプログラマーとして就職 (1年半後に退社。現在は声楽家として活躍。2002年、CD「わかれ道〜 日本の四季に寄せるノスタルジア〜」をリリース)
 1971年、盲大学生の教科書等の点訳・音訳を主目的に「関西SL(スチューデント・ライブラリー)」発足
 1971年5月、社団法人「障害者雇用促進協会」発足 (→1974年、社団法人「全国心身障害者雇用促進協会」、→1977年3月、「身体障害者雇用促進協会」、→1988年、「日本障害者雇用促進協会」に名称変更、→2003年10月、独立行政法人「高齢・障害者雇用支援機構」)
 1971年10月、「国立特殊教育総合研究所」設置
 1971年11月、金治憲(キムチーフン、韓国出身)が、「国際盲人クラブ」を設立 (1995年、社会福祉法人「国際視覚障害者援護協会」となる。2000年までにアジア・アフリカ・南米の 13カ国 43人の視覚障害者を受け入れ、鍼灸等の技術修得を援助。2000年、第37回点字毎日文化賞受賞)
 1971年、第1回日彫展で、葛飾盲学校生徒の作品が特別陳列として展示される(第2回および第3回日彫展でも展示される)
 1971年、フランスの数学者ルイ・アントワーヌ(Louis Antoine)没 (1888〜1971年。29歳のとき第一次世界大戦で失明。位相幾何学を研究。Antoine's necklaceを発見)
 1972年2月、ソウルで、第1回日韓親善盲人タイピングコンテスト開催
 1972年7月、厚生省が、スモンを難病に指定(SMON: subacute myelo-optico-neuropathy 亜急性脊髄視神経障害。時に失明にいたることがある。1955年前後から患者発生、1968〜69年ころ多発、患者数は1万人を越えた。69年9月スモン調査研究協議会設置、椿忠雄教授のキノホルム説を受け70年9月キノホルム剤の販売停止措置。裁判が全国33地裁、8高裁で起こされ、原告数は計7500人以上。1979年9月、国及び製薬企業がその責任を認めて和解、また同年には薬事法の大改正と新法「医薬品副作用被害救済基本法」成立)
 1972年、日本ライトハウスが、世界盲人百科事典編集委員会編『世界盲人百科事典‐』を発行 (この事典の編纂作業は1942年にまでさかのぼる)
 1972年、「日本盲人作家クラブ」結成(毎年同人誌『芽』を発行。1996年第24号で廃刊となる)
 1972年、障害者雇用促進協会が、千葉県で第1回アビリンピック(身体障害者技能競技大会)を開催
 1972年、長谷川貞夫が、6点漢字を提案。1974年12月、汎用コンピュータを使って、6点漢字で書かれた点字文から漢字を含む墨字文を打出す実験を行う。
  [長谷川貞夫:1934〜。幼児期より強度弱視だったが、一般の学校に高校1年まで在学。網膜色素変性症進行のため、1951年東京教育大学附属盲学校高等部に入学。20歳過ぎに全盲となる。在学中の1955年、高等部の点字教科書を求める全点協運動に参加。1958年3月東京教育大学理療科教員養成施設を卒業し、埼玉県立盲学校教諭、66年から東京教育大学付属盲学校(現・筑波大学附属盲学校)教諭。1995年、定年退職。その後も、鉄道の自動乗車券販売機、金融機関のATMのテンキーによる音声化、テレサポート(テレビ電話による視覚障害者遠隔支援)、体表点字など、各種のバリアフリー活動を行う。1986年、漢点字を考案した川上泰一とともに、第23回点字毎日文化賞受賞。2001年、日本ITU賞授賞]
 1972年、 6人の盲幼児が私立の幼稚園に入園(以後、 1970年代半ばから 80年代に、小学校、中学校、高校へと統合教育が拡大していく。1971〜1988年の間に統合教育を受けた盲児は、小学校 67人、中学校 31人、高等学校 25人。ただし、文部省は公認しなかった)
 1972年、アメリカ、フィラデルフィア美術館が「Form in Art」という盲成人のための美術クラスを開始
 1972年、アメリカ、エド・ロバーツらが、バークレーに世界最初の自立生活センター(CIL)を設立 (「ピア・カウンセリング」の方法がとられる)
 1973年2月、国電山手線高田馬場駅で、ヘレンケラー学院生の上野孝司(当時42歳)が、ホームから転落、電車にひかれて死亡。1975年2月、両親が国鉄に対する損害賠償請求を提訴。1979年3月の一審判決では勝訴するが、国鉄側が控訴、結局1985年12月に和解。(この事故と裁判を通じて、全国的に視覚障害者の鉄道利用の安全を求める運動が広がる。)
 1973年3月、法務省が、司法試験の点字受験を認める
 1973年4月、日本ライトハウス職業生活訓練センターが、厚生省から委託を受け、コンピュータープログラマーの養成事業を開始
 1973年5月、広島の被爆者石田明(1928〜2003年。1945年8月6日、爆心地から730mで被爆)が、厚生省が三度にわたり原爆白内障の認定申請を却下したことに対し、その処分の取消を求めて広島地方裁判所に提訴。要医療性が争われ、1976年7月勝訴。 
 1973年9月、藤野高明が、大阪市立盲学校高等部の社会科の教員として本採用となる。
  [藤野高明: 1938年〜。小学 2年のとき、不発弾の暴発で、 2歳下の弟を亡くすとともに、自らも両眼失明と両手切断の障害を負う。二重障害を理由に、地元福岡の盲学校に入学を認められず、以後13年間不就学を余儀なくされる。18歳のころ、ハンセン病者のうちに唇や舌先で点字を読む人がいることを知り、唇による点字触読を習得。20歳で大阪市立盲学校中学部 2年に編入学、高等部普通科を経て通信教育により大学に学ぶ。31歳で大阪で教員採用試験「高校世界史」を点字で受験・合格、33歳で大阪市盲の非常勤講師に、翌年本採用。全視協の中央役員・第4代会長として活躍。1993年第11回鳥居賞受賞。2002年大阪市盲を定年退職、現在大阪府立大学社会福祉学部非常勤講師。『あの夏の朝から』(点字民報社、1978)、『未来につなぐいのち』(クリエイツかもがわ、2007)]
 1973年、楠敏雄(1944〜2014年。2歳で医療過誤で失明。札幌盲学校高等部を卒業後、大阪府立盲学校、京都府立盲学校普通科専攻科を経て、1967年龍谷大学文学部英米文学科に入学、73年同修士課程修了)が、大阪府立天王寺高校英語講師(全盲で初の公立普通高校講師)になる (さらに、全国障害者解放運動連絡会議事務局長・相談役、障害者の自立と完全参加を目指す大阪連絡会議議長、大阪障害者自立生活協会理事長、DPI日本会議副議長等を歴任し、障害者運動に広く関わる。『「障害者」解放とは何か――「障害者」として生きることと解放運動』などがある)
 1973年、国鉄が、中央線でシルバーシート(優先座席)を導入。以後、次第に全国の私鉄各社にも広がる。
 1973年、木村龍平が、第10回点字毎日文化賞受賞
  [木村龍平:1920〜1993年。1938年和歌山県立熊野林業学校卒業、満州国林野局に就職。41年徴兵のため帰国、陸軍工兵隊員として満州に渡る。翌年イペリットガス(毒ガスの一種)の爆発がもとで失明。48年塩原光明寮で三療の資格を取り、和歌山県田辺市で開業、同年紀南盲人福祉協会創設。53年和歌山県盲人協会会長、64年アメリカで開催された世界盲人福祉協議会総会に出席、72年日本盲人会連合副会長、74年日本身体障害者団体連合会理事。他方、俳句・短歌・川柳・随想・紀行文、さらには校歌などの作詞等、多様な文芸活動を行い、地元で句会を主宰、またテープ雑誌『北海ジャーナル』の選者もつとめ、さらに地元の高校の点訳クラブの指導も長年行う。1958年「七夕」が第9回世界盲人文芸コンクール(審査委員長:パール・バック)でグランプリ受賞。77年毎日新聞創刊百年記念論文「日本の選択(一人のための福祉)」で毎日日本研究賞受賞。著書多数]
 1973年、「近畿視覚障害者情報サービス研究競技会」設立(点字図書館とともに公共図書館も参加)
 1973年、エジプトの文学者ターハー・フセイン(1889〜1973年)没
  [3歳で失明。9歳でコーランを暗唱。1902年カイロのアル・アズハル学院に入るが、その教条的学風に反発してエジプト大学(現カイロ大学)に移り、14年にアル・マアッリーの研究でPh.D.の学位を得て卒業。15年フランスに留学、モンペリエ大学で修士号を得、さらにソルボンヌ大学でイブン・ハルドゥーンの研究でPh.D.を得る。モンペリエ大学でスザンヌ・ブレソーと出会い、結婚して19年に帰国、エジプト大学の歴史学の教授となる。26年に「先イスラム期の詩について」を出版するが、その内容についてアル・アズハル大学の関係者やその他の保守主義者から非難され、31年にエジプト大学を解雇される。その後、カイロ・アメリカ大学に着任し、42年には教育大臣の顧問になり、アレクサンドリア大学開学時には初代総長にもなった。1950年には教育大臣に就任、「教育とは我々が呼吸する空気、我々が飲む水のようなものである」という自らのモットーを実践、識字率の向上・一般教育の普及に貢献し、また盲学生を大いに鼓舞した。自伝的作品『日々の書』(29〜39年。邦訳名『わがエジプト――コーランとの日々』)のほか、多くの小説・論文・評論がある。]
 1973年、アメリカ、障害者の教育や職業訓練・就業などについて規定した「リハビリテーション法」(Rehabilitation Act of 1973)成立(施行は1977年) (その504条項は「…単に障害者という理由で、連邦政府からの財政的援助を伴う施策・事業への参加において排除されたり、その利益を享受することを拒否されたり、ないしは差別されてはならない」とする差別禁止条項)
 1973年、アメリカ・オレゴン州で、知的障害を持つ人たちの会合である少女が「わたしは、障害者としてではなく、まず人間として扱われたい」と発言したことがきっかけになって、ピープル・ファーストの運動が始まる
 1974年1月、加藤康昭が「近世日本における盲人の生活と教育に関する社会史的研究」で東京教育大学より教育博士号を授与される
  [加藤康昭: 1929〜2002年。旧制の第一高等学校理科甲類在学中の1948年、敗血症と腎臓炎を併発しそれが原因となって失明。1956年東京教育大学教育学部特殊教育学科入学。1974年、教育学博士、第11回点字毎日文化賞、『日本盲人社会史研究』(未来社)。1980年、茨城大学教育学部障害児教育学科助教授(85年教授)]
 1974年3月、東京都が、一般行政職試験で点字受験を認め、2人採用
 1974年4月、「近畿点字図書館研究協議会」発足 (1996年「近畿視覚障害者情報サービス研究協議会」に改称)
 1974年4月、厚生省が、地域活動促進事業を拡大し、盲人ガイドヘルパー派遣事業を開始
 1974年4月、厚生省が、日常生活用具給付事業開始(盲人用テープレコーダーなどが指定される)
 1974年4月、横浜税関職員馬渡藤雄(1929〜.網膜剥離で失明し、5年半休職・病気休暇)が、労働組合と視覚障害者団体の連携した運動により、復職
 1974年、日本にオプタコンが導入される
 1974年5月、大阪市の長居公園内に、大阪市長居障害者スポーツセンターが開設される(障害者のためのスポーツセンターとしては日本で初)
 1974年6月、国連障害者生活環境専門家会議が、バリアフリーデザイン(建築上障壁のない設計)について報告書をまとめる
 1974年、全日本交通安全協会が視覚障害者安全誘導の研究を開始し、点ブロックと線ブロックを採用
 1974年、日本アイ・ビー・エム(株)が、社会貢献事業の一環として、第1回IBMウェルフェア・セミナーを開催 (以後1992年まで、コンピュータを応用した福祉関連の各種のテーマでほぼ毎年2回セミナーを開催)
 1974年11月、全国社会福祉協議会と厚生省の共催で、「社会福祉施設の近代化機器展」が開催される (その後毎年秋ころ、同様の福祉機器展が開かれる。第2回(1975年)からは「社会福祉機器展」、第13回(1986年)からは「国際保健福祉機器展」(欧米企業も参加)、第19回(1992年)からは保健福祉広報協会と全国社会福祉協議会の主催となり、第23回(1996年)からは「国際福祉機器展」として開催される。)
 1974年、大阪府が、府営大泉公園内に「盲人コーナー」設置
 1975年1月、大阪府八尾市で、未熟児網膜症の2歳の子の母親らが、障害児の一般保育所への受け入れを求めて市役所前で座り込みを開始。この共同保育を求める運動は全国に広がり、東京都立川市、大阪府箕面市・守口市・八尾市などで障害児の受け入れが実現。厚生省も、2月に共同保育補助保育所を全国で18箇所指定。
 1975年1月、日本著作権保護同盟が、文京区立小石川図書館が行っている録音サービスに対し「無許諾録音により著作権法違反」と抗議 (録音については、著作権法37条の 2で、点字図書館など政令で定めた施設が盲人向けの貸出のためにだけ行うことができるとされているため)
 1975年3月、日本オプタコン委員会発足
 1975年3月、笑福亭伯鶴(1957〜.本名 丹羽透。全盲)が、大阪府立盲学校高等部普通科卒業と同時に、六代目笑福亭松鶴に入門。同年5月初舞台。1988年より多彩な異分野のゲストを迎えジョイント。98年、伯鶴の半生をテーマにした『風は誰にも見えない―全盲の落語家の半生』(さとう裕作著、六法出版社)。2008年12月1日、阪急宝塚本線三国駅で電車に巻き込まれ、両足骨折や脳挫傷など重症を負う。2012年6月、高座復帰。
 1975年5月、大阪市立大学が、一般教養科目として「障害者問題論」を開講
 1975年7月、警察庁の盲人用信号施設研究委員会が基本的な考え方をまとめ、音響信号機を電子音による擬音式(ピヨピヨとカッコー)またはオルゴールによるメロディ式(「とうりゃんせ」と「故郷の空」)のどちらかに統一するよう通達
 1975年7月、日本聖書協会が、聖書から「めくら」言葉の追放を決める(日本盲人キリスト伝道協議会の要請に応えたもの)。
 1975年10月、国立国会図書館が、「学術文献録音サービス」を開始 (1981年4月、視覚障害者図書館サービス協力課に改組)
 1975年、6人の視覚障害児が、公立の小学校に入学。
 1975年、視労協(視覚障害者労働問題協議会)発足
 1975年12月、腎疾患などの治療薬クロロキン製剤の服用によるクロロキン網膜症患者らが、国と製薬会社に損害賠償を求める訴訟を起こす(82年2月、東京地裁が国と製薬6社などの過失責任を認め、患者への賠償支払を命じる判決。88年6月、原告と製薬会社はが和解。)
 1975年、CWAJ(College Women's association of Japan: 1949年に留学生支援のため日米の女性たちにより結成)の中に、視覚障がい者との交流の会(VVI)が発足、視覚障害学生のための奨学金をはじめ、英会話や英研受験の支援、ハンズ・オン・アートなどの活動を行う。
 1975年、津軽三味線奏者高橋竹山(1910〜1998年)が、第12回点字毎日文化賞、および第9回吉川英治文化賞受賞
 1975年、ジャズ・トランペット奏者南里文雄没 (1910〜75年。1934年にモダンなディキシーランド・スタイルのホット・ペッパーズを結成。54年に失明するが活動は続行。日本のジャズの発展に大きく貢献)
 1975年、ふきのとう文庫(札幌市)が、布の絵本作りを始める (布の絵本の製作材料セット販売と作り方の本の発行を行って、その普及に努めている。ふきのとう文庫は、病弱児や障害児もふくめすべての子供に本の喜びを知ってほしいと、1970年に設立。病院小児科や施設での文庫作り、郵送や訪問での家庭配本、拡大写本の製作などもしている。1982年「ふきのとう子ども文庫」開館)
 1975年、第1回「極東南太平洋身体障害者スポーツ大会」(Far Eastern and South Pacific Games for the disabled: FESPIC)が、日本で開催される
 1975年、アメリカ、「障害を持つ個人教育法」(Individuals with Disables Education Act: IDEA)制定
 1975年、ドイツ、「障害者社会保険法」
 1975年、フランス、「障害者福祉基本法」
 1975年6月、第1回極東・南太平洋身体障害者スポーツ大会(フェスピック)開催(大分市・別府市。参加者18か国、973人)
 1975年12月、国連の第30回総会で、「障害者の権利宣言」(Declaration on the Rights of Disabled Persons)採択
 1975年、WCWBのアジア地区委員会の主催(WCWBがWBUに統合されてからは日本ライトハウスが主管)で、アジアにおける盲人福祉・教育・失明防止等に貢献した人を対象に、岩橋武夫賞創設 (2003年度は、カンボジア盲人協会代表のボーン・マオ)
 1975年、アメリカ、ドーラン(Stanley Doran: 1921-1999. 1947年、オハイオ州コロンバスに盲導犬訓練所を開設)等が中心となり、中部オハイオ・ラジオ・リーディング・サービス(CORRS)を設立し、視覚障害者向けのラジオ放送を開始(その後、全米各地に視覚障害者向けの地域ラジオ放送局が設けられる)
 1976年2月、東京都が、職員採用試験で点字受験を認める
 1976年2月、スウェーデンで、第1回冬期パラリンピック開催
 1976年5月、身体障害者雇用促進法の改正(身体障害者雇用制度の強化、とくに雇用率未達成事業所から〈身体障害者納付金〉を徴収する制度。施行は10月1日)
 1976年7月、国鉄大阪環状線福島駅でホームから転落、両足切断(73年)の大原さんが、国鉄の責任を問い提訴
 1976年7月、奈良県で、視覚障害者の外出支援を主な目的に「歯車の会」発足(80年「盲人手引き 110番」開始) (2006年解散)
 1976年8月、全国障害者解放運動連絡会議(全障連)発足
 1976年9月、社会福祉法人日本盲人職能開発センター開設
 1976年12月、国連総会で1981年を国際障害者年とすることを決定
 1976年、大阪地下鉄アクセス運動
 1976年、日本点字図書館が、録音図書のカセットテープ化を開始
 1976年、京都ライトハウスが、視覚障害乳幼児母子通園施設「あいあい教室」を開設
 1976年、山田流箏曲家久本玄智(1903〜1976年)没 (5歳で失明。9歳の時東京盲学校に入学、初代萩岡松韻に師事。 洋楽にも関心を持ち、同校師範科音楽科でピアノと声楽を船橋栄吉(1889〜1932年。ドイツ留学後東京音楽学校教授、バリトン歌手)にまなぶ。卒業後同校教諭、1951年東京教育大学教育学部特設教員養成部教授。1938年初心者用の独習書『久本箏教則本百番』を点字で出版。「飛躍」「三段の調」など500曲にも及ぶ作品を発表。一門の会として常盤会主宰。)
 1976年、韓国、カン・ヨンウ(姜永祐。1944〜2012年。15歳で事故のため失明。盲学校卒業後、68年延世大学教育学部入学、72年同大卒業後ピッツバーグ大学大学院に留学)が、ピッツバーグ大学で博士号(教育専攻哲学博士学位)取得(韓国で初の障害者の博士号)
 1977年3月、石川准が、点字受験で東京大学文学部社会学科に合格(全盲初の東大入学)
  [石川准:1956〜。高校1年のとき網膜剥離で失明。1981年3月東京大学文学部社会学研究科卒業後、同修士課程・博士課程を経て、89年静岡県立大学国際関係学部専任講師、94年同助教授、97年同教授。1995年、東京大学より社会学博士号。社会学分野ではアイデンティティ・ポリティックス論、障害学、感情社会学、多文化共生論など、支援工学分野では自動点訳ソフト、スクリーンリーダー、点字携帯情報端末、GPS歩行支援システムなど、幅広い分野で業績をあげている。また、全国視覚障害者情報提供施設協会理事長、内閣府障害者政策委員会委員長など多くの役職を勤める。著書に『アイデンティティ・ゲーム―存在証明の社会学』『人はなぜ認められたいのか―アイデンティティ依存の社会学』『見えないものと見えるもの―社交とアシストの障害学』など。]
 1977年4月、盲導犬使用者が初めて国会に入り、傍聴を許される
 1977年、「弱視者問題研究会」発足
 1977年、「全国視覚障害者雇用促進連絡会(雇用連)」発足
 1977年、国鉄(現JR)と私鉄の電車に、盲導犬同伴での乗車が認められる (翌年、バスやタクシーへの乗車も認められる)
 1977年、折り紙作家の加瀬三郎と報道カメラマンの田島栄次が「折り紙外交の会」を結成、ベトナム難民の子供たちに折紙を教える。1981年には国連本部やアメリカ各地の福祉施設で子供たちに折り紙を教え、82年にはキューバで盲人や子供たちに折り紙を教えて交流するなど、以後これまでに約 50カ国で折り紙外交を展開。
  [加瀬三郎: 1926〜2008。先天性の視神経萎縮症のため、じょじょに視力が低下し12、3歳ころ失明。盲学校で三療の視覚を取り開業、そのかたわら 29歳からほぼ独学で折り紙を始める。折り紙の種類は約千種。1976年、第13回点字毎日文化賞受賞。日盲連など視覚障害団体の活動にも積極的で、2006年には第2回村谷昌弘福祉賞受賞。2007年には名誉都民]
 1977年、イタリア、義務教育段階では、障害が重篤な場合以外は障害のある児童は通常の教育を受けることが義務づけられる(法律第517号)
 1977年、アメリカのジャズ・サックス奏者カーク(Rahsaan Roland Kirk: 1935〜77年)没 (2歳のとき医療ミスで失明。オハイオ州立盲学校で教育を受ける。同時に3種の楽器を演奏。70年代には「バイブレーション・ソサイエティー」というバンドを結成し、ロック、リズム・アンド・ブルースなどの要素を取り入れながら、伝統的なジャズの味わいも色濃く残した独自の境地に到達)
 1978年2月、運輸省が、視覚障害者が盲導犬と一緒にバスに乗るさいの制限を大幅に緩和する方針を決定、3月全国の陸運局と日本バス協会に通知
 1978年4月、日本図書館協会の中に「障害者サービス委員会」設置
 1978年5月、青森放送が、企画から取材・放送まで視覚障害者担当のラジオ番組「RAB耳の新聞」開始
 1978年10月、篠田順一郎や池田敏郎らが中心となって、日本盲人経営者クラブ結成(会長 篠田順一郎)
 1978年12月、道路交通法が改正・施行され、その中で「目が見えない者は、道路を通行するときは、政令で定めるつえを携え、又は政令で定める盲導犬を連れていなければならない。」と規定される
 1978年、視覚障害者のクラシック音楽家の団体「新星'78」発足
 1978年、長岡瞽女の小林ハル(1900〜2005年)が、無形文化財伝承者(人間国宝)に指定される(翌年には、黄綬褒章授与) (白内障で失明。5歳で瞽女に弟子入り、以後20年間年季奉公と修行の日々を送る。26歳で独立し、1973年まで瞽女の活動を続ける。2002年第36回吉川英治文化賞受賞)
 1978年、どらねこ工房が、大活字本『星の王子さま』を刊行 (以後、1981年に大活字の英和辞典『KENKYUSHA'S MY ENGLISH DICTIONARY』、1989年に大活字の国語辞典『大活字版新明解国語辞典』を刊行)
 1978年、レイモンド・カーツワイル(電子ピアノなどで有名なアメリカの発明家)が、英語の印刷物をガラス面の上に乗せてその内容を合成音で読み上げる機器「カーツワイル朗読機」を発表(さらに、1988年には「カーツワイル・パーソナルリーダー」を発表)
 1978年、イギリス、マリー・ウォーノック(Mary Warnock)を議長とする障害児・者の教育調査委員会の報告書「ウォーノック報告」が提出される (障害カテゴリーを廃止し、「特別な教育的ニーズ」という概念を提唱。1981年の教育法改正で公式に採用される)
 1978年、アメリカのジャズ・ピアノ奏者トリスターノ(通称Lennie Tristano; 本名Leonardo Joseph Tristano: 1919〜1978年)没 (生まれつき弱視で9歳ごろ失明。幼児期からいろいろな楽器を習い覚える。イリノイ州立盲学校を経て、アメリカン・コンサーバトリー・オブ・ミュージックで学ぶ。12歳でピアニストとして仕事をし、20代まではディキシーバンドやルンババンドもする。1946年にニューヨークに移り、独自の音楽理論を構築し、ギター奏者ビリー・バウアー、アルト・サックス奏者リー・コニッツ、テナー・サックス奏者ウォーン・マーシュらを指導して、いわゆる「トリスターノ楽派」を形成。その音楽はクール・ジャズと呼ばれた。
 1979年1月、第1回国公立大学共通一次試験で、点字による試験実施
 1979年2月、日本ライトハウスで、「ソニックガイド」(ニュージーランドの Leslie Kay が開発した、超音波を利用した歩行補助具)の訓練士の養成講習会が開かれる
 1979年4月、養護学校の義務制実施
 1979年6月、西武美術館が、「手で見る展覧会」開催
 1979年7月、所沢市に、国立身体障害者リハビリテーションセンター開設(国立身体障害センター、国立東京視力障害センター国立聴力言語障害センターを統合して発足〕
 1979年12月、民法第11条の準禁治産者の規定から、盲、聾者が削除される
 1979年、塩屋賢一により、財団法人東京盲導犬協会設立(1989年、アイメイト協会に改称)
 1979年、「全国盲重複障害者福祉施設研究協議会」発足
 1979年、長尾榮一が、血行と経穴・経絡の関係についての研究(「皮下血行動態と経路経穴現象」)で東大医学部より医学博士号 (全盲で日本初の医学博士号)
  [長尾榮一:1931〜2012年。4歳のとき中耳炎から敗血症になり失明(右耳も強度難聴)。1937年東京盲学校幼稚部。1951年同校の理療科教員。1953年早稲田大学第2文学部英文科卒。1985年筑波大学講師、90年助教授、93年教授。94年教授退官後も、臨床家として鍼治療を続けながら、盲人史の研究や彫刻の鑑賞などを行う。2008年、第2回塙保己一賞受賞。著書に『鍼灸按摩史論考』『医学史』『漢方概論』など]
 1979年、野村茂樹(東京大学在学中に失明、弱視)が司法試験に合格(拡大読書器を使用)

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