盲人文化史年表

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◆1990年代

 1990年、福祉8法改正(老人福祉法、児童福祉法、身体障害者福祉法、精神薄弱者福祉法、母子寡婦福祉法、老人保健法、社会福祉事業法、社会福祉医療事業団法の8法の改正)
 1990年6月、イギリス、「国民保健サービスおよびコミュニティケア法」成立(コミュニティケア法の部分は、1993年4月から施行)
 1990年7月、「障害のあるアメリカ国民法」(The Americans with Disability Act: ADA)が施行される
 1990年10月、埼玉県所沢市で「第1回視覚ハンディキャップテニス大会」開催、「日本視覚ハンディキャップテニス協会」設立 (視覚ハンディキャップテニスは、1984年、当時埼玉県立盲学校の高校生だった全盲の武井実良(1968〜2011年。1歳半で失明)が考案。武井は2011年1月JR山手線目白駅でホームから転落死。)
 1990年11月、アメリカ、A.ラビー(Avraham Rabby)が、外交官として任用される (1991年から、イギリス、南アフリカ、国務省本部、ペルー、インド、国連代表部、トリニダード・トバゴで勤務、2007年退官)
  [Avraham Rabby: 1942〜。イスラエル生まれ。8歳の時網膜剥離で失明。10歳の時渡英、リバプール盲学校、ウースター高等盲学校で学ぶ。1962年オックスフォード大学ジーザスカレッジに入学。67年シカゴ大学に留学、経営学修士号を取得。その後アメリカで企業の人事やコンサルタントの仕事をし、80年米国市民権を獲得。85年から外交官試験を受験]
 1990年、ノースカロライナ州立大学のロナルド・メイス(Ronald Mace: 1941〜1998年。9歳でポリオに罹り、酸素吸入しながら電動車椅子を使用。建築家・工業デザイナー)が、ユニバーサルデザイン(「改造または特殊化された設計の必要なしで最大限可能な限りすべての人に利用しやすい製品と環境のデザイン」)を提唱、その7原則も発表
 1990年、河内清彦(12歳で失明)が、論文で筑波大より教育学博士号(視覚障害心理学)。93年同大心身障害系助教授、2004年に同教授。
 1990年、社団法人日本玩具協会が、「晴盲共遊玩具」の普及活動(小さな「凸」の提案)を開始
 1990年、全国高等学校長協会入試点訳事業部発足
 1990年12月、元筑波大学附属盲学校の数学教諭尾関育三(全盲)が、現代数学の分野で京都大学理学部より理学博士号を授与される
 1991年1月、国家公務員試験(T種とU種の行政職)の点字受験が認められる(5人受験、合格者無し)。初の点字受験合格者は、96年U種で福嶋義忠(明治学院大法学部4年)
 1991年3月、社会福祉法人「全国盲ろう者協会」設立
 1991年4月、共用品・共用サービスの普及を目的とする「E&cプロジェクト」が発足(1999年4月、財団法人「共用品推進機構」に発展)
 1991年4月、「日本盲人ゴルフ協会」(JBGA)発足
 1991年4月、中国西安で、世界盲人連合アジア太平洋地域協議会(WBUAP)のマッサージセミナーが開催される(以後ほぼ隔年で開かれている)
 1991年6月、全盲の圓山光正・みち子夫妻が、東京都杉並区で、視覚障害者のためのパソコン教室「スラッシュ」を開設 (1998年に杉並区から視覚障害者対象のデイサービス事業を行う福祉施設として認可され、杉並区民は無料。光正氏は、2013年64歳で亡くなる。)
 1991年7月、「かるがもの会」発足 (子育てをしている視覚障害者の会。1998年『目の見えない私たちがつくった子育ての本〜知ってほしい私たちの子育て〜』発行。現在約100家族が参加。)
 1991年8月、栃木県宇都宮市で、第1回全国盲ろう者大会開催
 1991年8月、障害基礎年金を受給されていない人たちにより、「無年金障害者の会」発足
 1991年10月、花王が、シャンプーとリンスを区別できるように、シャンプーの容器に連続凸点を付けた
 1991年10月、京都と奈良で、国際盲老人大会が開催される(14ヶ国の600人が参加)
 1991年、渡辺岳(1966年〜)が、点字受験で司法試験合格
 1991年、「全国自立生活センター協議会」(JIL)発足 (2006年4月現在 131団体加盟)
 1991年、中国、「障害者保障法」制定
 1991年、韓国、「障害雇用促進法」
 1991年、タイ、「障害者リハビリテーション法」
 1991年、ドイツのオルガン・チェンバロ奏者ヘルムート・ヴァルヒャ(Helmut Walcha: 1907〜1991年)没 (幼児期に種痘の副作用で目を犯され強度の近視となる。12歳から正規にピアノを習う。16歳でライプチヒ音楽院入学、そのころ失明。点字の楽譜は使わず、読んでもらって暗譜する。ギュンター・ラミン(GUNTER RAMIN: 1898〜1956. オルガニスト)に師事、1926年からラミンの助手としてトーマス教会でオルガンを弾く。29年フランクフルトアムマインのフリーデンス教会のオルガン奏者に就任。以後フランクフルトを中心に演奏と教育に当たり、とくにバッハの解釈と演奏で高い評価を受けた。)
 1991年5月、フランスのオルガニスト・作曲家ジャン・ラングレ(Jean Langlais: 1907〜1991)没 (2歳で失明。10歳の時にパリ盲学校に入学。1927年パリ音楽院に入り、オルガンをマルセル・デュプレ、作曲をポール・デュカスに師事、1930年にはオルガンと即興演奏のクラスで1等賞を受ける。1930年から68年までパリ盲学校でオルガンを教え合唱団を指揮。1961年から76年までパリのスコラ・カントルム(Schola Cantorum)の教授。また、1945年から87年まで聖クロティルデ教会(St. Clotild Basilica)のオルガニスト。宗教曲やオルガン曲を中心に254もの曲を作曲)
 1991年、J.A.ウォール(John Anthony Wall: 1930〜2008年。先天性緑内障で、8歳ころ失明。ウースター高等盲学校卒業後、オックスフォード大学バリオール・カレッジで法解釈学を専攻し、1951年卒業。54年ソリスター(事務弁護士)の資格取得)が、英国高等法院衡平法部(Chancery Division)の副所長に就任 (1990〜2000年RNIB議長、1996〜2003年EBU会長。2000年ナイトに序せられる)
 1992年1月、地歌・箏曲家の富田清邦(1945〜)が、文化庁芸術祭賞を受賞 (盲学校中等部を卒業後初代富山清琴に入門。2007年第44回点字毎日文化賞受賞)
 1992年2月、「視覚障害リハビリテーション協会」設立
 1992年4月、大阪府立盲学校高等部専攻科に、 2年制の情報処理科が設置される
 1992年5月、「中途視覚障害者の復職を考える会」(タートルの会)が、活動を開始(正式発足は1994年11月。2007年12月「NPO法人タートル」)
 1992年9月、日本視覚障害ヘルスキーパー協会(JBHA)発足
 1992年11月、第47回国連総会が、「12月3日を国際障害者デー(International Day of Disabled Persons)」とする宣言を採択(1982年12月3日の国連総会において「障害者に関する世界行動計画」が採択されたことを記念したもの)
 1992年、拓殖大学と横浜市立盲学校の協同研究による日本語自動朗読システム「達訓(たっくん)」が発売される
 1992年、日本盲人社会福祉施設協議会・リハビリテーション部会・盲導犬委員会が、「盲導犬訓練基準」「盲導犬施設運営基準」「指導員養成基準」を策定
 1992年、「EYEマーク・音声訳推進協議会」発足 (EYEマーク:視覚障害などで活字の本を読めない障害者のために、録音図書や拡大写本を作成してもよいことを著作者が予め宣言していることを示すマーク)
 1992年、関野光雄(1916〜。10歳ころ失明。1942年京都府立盲学校教諭、1978年明治鍼灸短気大学助教授、1981年全日本鍼灸マッサージ士会会長)が、鍼刺激による深部体温の変化についての研究で、東邦大学大学院より医学博士号を授与される。
 1992年、今井勉が、国風音楽会より平家琵琶検校の官を受ける
  [今井勉: 1958年生まれ。4歳で箏曲を始め、12歳から三品正保検校より平曲を習う。後に土居崎正富検校にも師事。200曲といわれる平曲のうち口頭伝承されてきた8曲(「那須与一」「鱸」「竹生島詣」「横笛」「生喰」「宇治川」「卒都婆流」「紅葉」)を習得。平曲のほか、伝統的な琴・三弦・名古屋独特の胡弓の演奏など名古屋を中心に活躍。1999年名古屋市芸術奨励賞を受賞]
 1992年、ゴッタン演奏家・荒武タミ(1911〜1992年。旧姓・前田)没。麻疹のため6歳で失明。13歳の時2ヶ月ほど三味線の師匠につく。生活苦のあまり18歳になると三味線を抱え門付けもし、19歳で三味線の師匠となる。当時省みられなかったゴッタンを演奏し続け、また大隅地方の伝統的古謡も伝承。1977年、南日本新聞文化賞受賞。78年、CBSソニーより「ゴッタン〜謎の楽器をたずねて〜」発売。(ゴッタン:南九州の庶民が使っていた三味線の一種。皮を使わずすべて杉などの板張りで、撥ではなく指で弾く)
 1992年、鬼木市次郎(1912〜2007年)が、ブラジルのサンパウロに鬼木東洋医学専門学校を開校
  [鬼木市次郎:両親はペルー移民。十代で視力が低下し、1928年福岡県立柳川盲学校入学。卒業後、1934年満州に渡って治療院を開業、1946年に帰国。54年東京で開業。1957年、日本マッサージ学校創設(79年に校名を国際鍼灸専門学校と変更、専修学校の認可も得る)。1961年静岡県下田町で旅館を開業するなど、各種事業を手がける。1973年、父母の墓参のためペルーへ、これを機に、南米に三療を普及させ、また南米の盲人に三療の技術を身に付けさせようと活動を開始。1990年、サンパウロに伯国盲人国際交流教育協会を組織、これを基に94年鬼木東洋医学専門学校開校。2007年現在、マッサージ師として同校を卒業したのは221人(そのうち視覚障害者は87人)、当初は視覚障害者の入学が多かったが、現在は晴眼者が多いという]
 1992年、藤沢市在住の彫刻家・桑山賀行が、「手で触れて見る彫刻展」を開催 (以後毎年開催)
 1992年、京都市美術館で、日展京都展に出品されている彫刻作品を視覚障害者が鑑賞する「手で触れる日展鑑賞会」が行われる (以後毎年開催)
 1992年、ニュージーランドのオークランドで、第1回ワールドブラインドセーリングチャンピオンシップが開催される
 1992年、スイスのサーネンで、国際点字楽譜会議が開催される
 1992年、イタリア、「障害者の援助、社会的統合および諸権利に関する基本法」(法律104号)制定
 1992年、オーストラリア、「DDA法」(連邦障害者差別禁止法)制定
 1992年12月、宮崎市で、第1回世界盲人マラソン大会が開催される(約300人参加)。
 1992年12月、スペイン全国盲人協会が、マドリードに視覚障害者のための「ティフロロギコ・ミュージアム(Museo Tiflologico)」を設立 (とくに、スペイン国内および世界各地の有名な建築物模型を展示)
 1993〜2002年、「アジア太平洋障害者の十年」
 1993年、「通級による指導」が全国的に始まる
 1993年、日本障害者協会(JD)発足
 1993年、「日本視覚障害ゴルファーズ協会」発足
 1993年、視覚障害者を中心としたトークパフォーマンス・グループ「こうばこの会」結成
 1993年、名古屋YWCA美術ガイドボランティアグループが活動開始(年数回視覚障害者のための鑑賞会を企画するほか、視覚障害者の個別の希望に応じてガイドもしている。2011年、グループ名を「アートな美」と改称。2001年『視覚に障害のある方を対象とした絵画説明の手引』、2011年『アートでトーク…絵の前でかたりあうのも多笑の縁』を発行)
 1993年、井手信夫(1932年佐賀県伊万里市生まれ。30代で反復性硝子体出血により失明、有機農法で果物や野菜を生産)が、『闇の底抜けた 農に生きる中途失明者の回生の手記』(樹心者)を出版
 1993年、東京ヘレン・ケラー協会が、視覚障害者の支援に貢献した健常者を対象に、「ヘレンケラー・サリバン賞」を創設。第1回は、元全国盲ろう者協会理事長の小島純夫(1928〜2004年。ドイツ文学、元千葉大学教授、ドイツ語点訳にも貢献)
 1993年、「日本色覚差別撤廃の会」発足
 1993年、大阪府が、府営公園をできるだけ多くの人が利用できるよう「ハートフルパーク実施計画」を策定。各公園の整備を進め、また1997年からは公園ボランティア「ヒーリングガーデナー」の養成を始める。1997年には、大泉公園内に五感で楽しめる「ふれあいの庭」設置(その他、服部緑地に「ちかくの森」、箕面公園に「昆虫館」、山田池公園に「花木園」、久宝寺緑地に「風の広場」、りんくう公園に「花海道」がある)
 1993年5月、「身体障害者の利便の増進に資する通信・放送身体障害者利用円滑化事業の推進に関する法律」公布。テレビ放送における視覚障害者のための解説放送、聴覚障害者のための手話・字幕放送などの充実が求められる。
 1993年6月、東京都東村山市に、高松宮記念ハンセン病資料館開館 (2007年4月、国立ハンセン病資料館としてリニューアルオープン)
 1993年7月、日本盲人キリスト教伝道協議会が、バングラデシュの女子盲学校への支援活動を総会で採択
 1993年8月、日本点字図書館が「アジア盲人図書館協力事業」を開始
 1993年10月、日本視覚障害囲碁普及会発足(九路盤を使用。1995年3月第1回囲碁大会、99年6月第2回全国視覚障害者囲碁大会、以降ほぼ毎年全国大会を開催)
 1993年10月、愛盲報恩会より『道ひとすじ――昭和を生きた盲人たち』が出版される (明治・大正に生まれ、昭和時代に教育・福祉・音楽・宗教・文芸・学術研究・会社経営などの分野で活躍した盲人百人の活動歴をまとめたもの)
 1993年12月、箏曲家・作曲家の宮下秀冽没 (1909〜1993年。本名宮下哲郎。中学時代に失明し、1927年東京盲学校中等部音楽家に入学。音楽理論及び作曲を同校講師の田辺尚雄に師事。 1935年同校師範部音楽家、翌年研究科を卒業。1948年「双調の曲」で三曲新作コンクール第1位、53年「箏主奏組曲『平家物語による幻想』」で芸術祭 奨励賞。三十絃の製作に取り組んで1955年に完成させ、三十絃を使った曲の作曲や演奏を行い、1966年には彼の作品演奏会の「三十絃のための独奏曲」「三十絃、尺八、箏三重奏曲『寂』」が芸術祭奨励賞受賞。その他、「日本楽器のための組曲」「竹林精舎」「神秘」「十七絃のための山楽章」「瀬戸内」「火と水と祈り」「生々流転」「蒼空の響」「風花無限」等、洋楽器もふくむ多くの曲を作曲し各種の賞を受賞)
 1993年12月、国連第48回総会で、決議「障害をもつ人々の機会均等化に関する基準原則(Standard Rules on the Equalization of Opportunities for Persons with Disabilities)」が採択される (障害のある子ども、青年、成人について、初等教育、中等教育、中等教育終了後の教育における統合された場での教育の機会均等の原則を認識すべきだとする)
 1993年12月、「障害者基本法」公布(法律名称の改正、障害範囲の明確化、雇用の促進等における事業者の責務と国・自治体の助成施策、公共的施設の利用・情報の利用、国は障害者基本計画、都道府県と市町村は障害者計画を策定、障害者の日の規定等)
 1993年、スウェーデン、LSS法(一定の機能的な障害を有する人々の援助とサービスに関する法律)制定(施行は1994年1月)
 1993年、イタリアのアンコーナに、アルド・グラシーニ(Aldo Grassini.全盲。1966年ボローニャ大学で哲学博士を取得、2003年までアンコーナの中学校で哲学と歴史の教師。エスペランティスト)が中心になって、触る美術館「オメロ」開説(1999年国立美術館となる)。歴史的に著名な建築物模型や彫刻のレプリカなどを展示
 1994年、NFBが「ニューズライン」(視覚障害者のために電話機を使って新聞のニュースを配信するシステム)のサービスを開始(現在やく100紙を読むことができる)
 1994年1月、韓国、「特殊教育振興法」改正(同年10月「同法施行令」、翌年4月「同法施行規則」) (統合教育をめざし、個別教育計画の作成、就学相談への親の参加と異議申立て権、差別に対する罰則規定など)
 1994年1月、船便に限られていた外国向け点字郵便の無料扱いが、航空便にも適用される
 1994年4月、「高齢者、身体障害者等が円滑に利用できる特定建築物の建築の促進に関する法律」(通称「ハートビル法」)成立(公共性の高い建物での、点字ブロックの敷設・階段の手摺り等への点字表示などを含む)
 1994年4月、関西盲導犬協会が「盲導犬情報」を創刊
 1994年4月、「点訳・音声訳集団一歩の会」(理事長・岩野英夫)発足
 1994年5月、治療法の確立と患者の自立を目指して、「日本網膜色素変性症協会」(JRPS)発足(1996年、国際網膜協会の正会員となる)
 1994年5月、「日本ゴールボール協会」発足
 1994年5月、藤野稔寛(1952〜。高校の数学教師で、当時は徳島県立盲学校中等部教諭)が、点図を描くためのフリーのソフト「エーデル(EDEL)」を開発。その後、他の点字エディタとの連携機能、ウィンドウズへの対応、画像テータの自動点図化など多くの改良を行う。2012年に公開した点字・点図編集ソフト「エーデル VER.7」は、点字エディタの機能も合せ持ち、点図作成だけでなく点字文章も処理できるようになった。(2009年、第17回ヘレンケラー・サリバン賞受賞)
 1994年6月、日本障害者芸術文化協会設立。2000年6月「エイブル・アート・ジャパン」と改称
 1994年6月、未生流中山文甫会と大阪YWCAの協力で、視覚障害者のためのいけばな講座「むらさきつゆくさの会」発足(ほぼ毎月1回講座を開く)
 1994年6月、スペインのサラマンカで、「特別なニーズ教育に関する世界会議:アクセスと質(World Conference on Special Needs Education: Access and Quality)」が開催され、「特別なニーズ教育における原則、政策、実践に関するサラマンカ声明と行動の枠組み(Salamanca Statement on Principles, Policy and Practice in Special Needs Education and a Framework for Action)」を採択 (世界のすべての子どもを学校にインクルージョンし、それを可能にするための学校制度の改革をめざす)
 1994年12月、障害者基本法に基づく初めての「障害者白書」を刊行
 1994年12月、第49回国連総会で、『障害者の社会への完全統合に向けて、「障害者の機会均等化に関する標準規則」と「2000年及びそれ以降への障害者に関する世界行動計画を実施するための長期戦略」の実施』を採択
 1994年、「全日本盲導犬使用者の会」発足
 1994年、樺太アイヌ語の最後の話者・浅井タケ(アイヌ名 TAHKONANNA)没 (1902年、樺太西海岸のアイヌコタンに生まれる。生後すぐ失明。終戦後北海道に引き揚げ、最初沙流郡平取町振内に住んでいたが、1961年夫に死別後亡父の長男に引き取られる。1974年に北海道沙流郡門別町立特別養護老人ホーム「得陽園」に入園。1984年、北海道大学教授(当時)の村崎恭子が、最後の樺太アイヌ語話者と確認、その後10年間樺太アイヌの昔話や歌などを収録、そのテキストや音声資料を公表している)
 1994年、アンドレア・ボチェッリ(Andrea Bocelli 、1958〜。トスカーナ地方の村、ライヤティコに生まれる。6歳でピアノを始め音楽の道に進むものの、12歳の時にサッカーボールを頭に受け脳内出血を起こし失明する。障害を乗り越えてピサ大学で法学博士号を取得し弁護士として働いていたが、歌手になる夢は捨てきれず、夜はピアノ・バーで歌うという生活を送る。テノール歌手ルチアーノ・パヴァロッティとロック&ポップス歌手ズッケロに見出されてデビュー)が、サンレモ音楽祭新人部門で優勝、その後テノール歌手として活躍。
 1995年3月、神奈川県小田原市に「県立生命の星・地球博物館」が開館。「だれにでも開かれた博物館」を掲げ、隕石・化石・剥製など手で触れることのできる標本の展示や、視覚障害者等に対するバリアフリー化を推進。1998年には、開館三周年記念事業として、シンポジウム「ユニバーサル・ミュージアムをめざして―視覚障害者と博物館―」を開催し、その報告書を刊行。
 1995年5月、通産省が、「障害者等情報処理機器アクセシビリティ指針」制定
 1995年6月、障害者対策推進本部が、12月3〜9日を「障害者週間」とする(12月3日は国際障害者デーおよび障害者基本法の公布日、12月9日は障害者の日)
 1995年、青木陽子が、「天津外国語学院視覚障害者日本語通信教育センター」(現「天津市視覚障害者日本語訓練学校」)開設 (200人以上の視覚障害者に日本語を教え、これまでに8人の視覚障害生徒を日本に留学させる)
  [青木陽子: 1961〜、全盲。6歳の時の天然痘予防接種の副作用で視力の急激な低下。附属盲高等部から南山大学、ニューヨーク州立大・ペンシルベニアダイで修士・博士課程。1993年、天津外国語学院研修生。1994年「アジア視覚障害者教育協会」を設立。2012年「アジア障害者教育協会」と改称、埼玉県上尾市に就労継続支援(A型:通常の事業所に雇用されることが困難な障害者が対象)「サフィーナ上尾作業所」を開設。2001年中国政府より「中国友誼賞」、02年「第39回点字毎日文化賞」、04年「第16回毎日国際交流賞」、2010年「外務大臣表彰」、12年「第14回ありのまま自立支援大賞」]
 1995年、「全国盲導犬施設連合会」発足(8施設加盟)。「盲導犬同伴可ステッカー」の普及促進活動を始める (2008年6月、NPO法人となる)
 1995年、家電製品協会が、視覚障害者にも使えると思われる製品リストを公表。2000年、「高齢者・障害者にも使えると思われる家電製品一覧表」(点字・墨字併記)を配布。現在は「ユニバーサルデザイン配慮家電製品リスト−高齢者や障害のある人にも使いやすいと思われる家電製品−」をホームページにも掲載している。
 1995年、「スキー・フォー・ライト ジャパン」発足(代表: 青松利明。「スキー・フォー・ライト」は1975年からアメリカで行われている視覚障害者と健常者によるクロスカントリースキー・プログラムで、R.F.キースらが中心になって国際的に活動する)
 1995年11月、国勢調査で、調査表に点字と大活字が用意される
 1995年8月、香港、「障害者差別禁止法」(Disability Discrimination Ordinance: DDO)成立
 1995年11月、イギリス、「障害差別法」(Disability Discrimination Act 1995)制定 (2005年改正)
 1995年12月、障害者対策推進本部が「障害者プラン〜ノーマライゼイション7か年戦略〜」策定
 1995年12月、劇団昴が、すべての公演で、視覚障害者のための音声ガイド(俳優の動作、舞台装置・衣裳の色や形などの説明)を始める
 1995年、光島貴之(1954〜。先天性白内障のため、幼児期の視力は0.02程度、10歳頃失明。1980年大谷大学哲学科卒。82年鍼灸院開業)が、フラービオ・ティトロ(イタリアの全盲の石彫作家)のドローイングにヒントを得て、レトラライン(製図用テープ)とカッティングシートを用いて「触る絵画」の制作を始める。1998年のアートパラリンピック長野展で、陶芸作品「らせんの手掛かり2」が大賞に選ばれる。さらに1999年には、触覚連画(CGアーティストと互いの絵に手を加えることで作品を創り出していくコラボレーションアート)をインターネットで公開。また、2002年12月〜2003年3月、兵庫県立美術館で「美術のなかのかたち〜手で見る造型〜」展開催。その後も国内外で各種の展覧会・ワークショップ・公開制作をしている。
 1995年、インド、障害者差別禁止法制定
 1996年、小学4年生の国語教科書(光村図書)に「手と心で読む」が掲載される(著者の大島健甫(1924〜2013年)は、1943年に爆弾事故で視力の大半と右腕を失う。1950年国立盲教育学校卒業後、岡山県立盲学校教諭。作品は、息子のために秘かに点字を習い覚えた母に勧められて北原白秋の点字の詩を読んだことが再起のきっかけになったというエピソードをまじえながら点字を紹介したもの。大島健甫は2003年第40回点字毎日文化賞受賞)
 1996年4月、斯波千秋(1949〜。1972年に、父・温(やすし)が盲人用具製作・開発のために設立した「盲人福祉研究会」を継ぐ)が、静岡見浜松市で、視覚障害者対象の全国初の小規模授産所「ウイズ」を開設(白杖の製作、点字印刷など)。中途失明者の福祉にも貢献 (2000年、第8回ヘレンケラー・サリバン賞。06年、NPO法人「六星」設立、代表理事。2011年、第48回点字毎日文化賞)
 1996年5月8日、JR山手線田端駅に、数字ボタンパットを付加した最初の新型タッチパネル式券売機が設置される。
 1996年8月、市橋正晴が、大活字図書を出版する(株)大活字を創業 (翌年4月市橋正晴が急死、長男の市橋正光が継ぐ)
 1996年9月、障害者情報ネットワーク“ノーマネット”(厚生省の委託事業として、日本障害者リハビリテーション協会が運営)開設
 1996年9月、アメディアが、パソコンを用いた読書システム」ヨメール」を発売
 1996年9月、スリランカ、「障害者権利保護法」
 1996年9月、アメリカ、著作権法を改正する法律(Copyright Law Amendment, 1996)公布、一般の文字情報を得ることのできない障害者のための点訳・録音に際して著作権者の許諾が不要となる
 1996年10月、「日本視覚障害者セーリング協会(JBSA)」発足。1998年11月、第1回全日本ブラインドセーリング選手権大会を開催 (2013年5月、第8回ブラインドセーリング世界選手権大会が、相模湾で開催される)
 1996年11月、視覚障害者外出支援ボランティア・グループの全国ネットワークとして、「全国視覚障害者外出支援連絡会」(JBOS)発足
 1996年11月、システムソリューションセンターとちぎが、 Windows画面を音声で読み上げキーボードだけで操作できる「95 Reader」を発売(開発は、日本障害者雇用促進協会の障害者職業総合センター)
 1996年、東京都と大阪市が、盲聾者への通訳・介助者派遣事業を開始
 1996年、日本工業規格(JIS X 6310: プリペードカード 一般原則)で、プリペードカードの種類や挿入方向・表裏を識別するための切欠きが標準化される
 1996年、肥後琵琶の伝承者・山鹿良之(1901〜1996年)没 (4歳で左眼失明、22歳で天草で肥後琵琶の師に就く。以後竈祓などの宗教儀礼や多様な門付け・座敷芸を行う。語物の持ち外題は「小栗判官」など約40種、最後の琵琶法師といわれた。青池憲司監督ドキュメンタリー映画『琵琶法師 山鹿良之』がある)
 1996年、琵琶盲僧高木清玄(1931〜1996年)没 (本名・高木今朝人。小学校6年で左目、17歳で右目失明。祖母の勧めもあり国東町の盲僧橋本清光に師事して天台宗玄清法流の盲僧となる。全盲の妻から点字と白杖歩行を習う。国東半島一帯を中心に活動、筑前琵琶による最後の盲僧といわれる。2009年高木清玄を顕彰するお堂(観音堂)が国東市安岐町の瑠璃光寺に建立される)
 1996年、アメリカ、「連邦通信法255条―Telecommunications Act」制定 (通信・情報機器をあらゆる障害者にも利用できるようにすることが規定される)
 1997年1月、「障害者専門放送研究委員会」発足
 1997年4月、愼英弘(1947〜、8歳で失明、在日朝鮮人二世)が、花園大学社会福祉学部助教授に就任(1984年、『近代朝鮮社会事業史研究−京城における方面委員制度の歴史的展開−』で大阪市大より学術博士号。2003年4月より、四天王寺国際仏教大学大学院教授。統合教育、盲聾者の社会参加、障害者の無年金問題などの実践活動も評価され、2005年、第42回点字毎日文化賞受賞。09年、第27回鳥居賞受賞。著書に『定住外国人障害者がみた日本社会』『盲ろう者の自立と社会参加』『点字の市民権』など)
 1997年4月、障害者の雇用の促進等に関する法律が改正される (民間企業の法定雇用率が1.6%から1.8%に改訂。1998年7月施行)
 1997年5月、デイビット・ブランケット(David Blunkett: 1947〜.先天性の障害のため全盲。1987年下院議員)が、英国労働党ブレア政権発足とともにその教育雇用相に就任。2001年6月、第2次ブレア政権で内相。2004年12月内相辞任
 1997年7月、電子図書館「青空文庫」開館 (2004年6月現在、約400人の4000点の作品を公開)
 1997年8月、全国盲学校野球大会(第12回)が、31年ぶりに京都で開催される (資金不足などで、1966年の第11回大会以来中断されていた)
 1997年8月、コペンハーゲンで、デイジー・コンソーシアム設立会議(日本をふくめ10カ国参加。)
 1997年11月、日本IBMが、視覚障害者向けの音声ブラウザ「ホームページ・リーダー」を発売(同社の全盲の研究員浅川智恵子が開発。2003年現在11の言語への対応版が販売されている)
  [浅川(旧姓・平山)智恵子:1958年〜。14歳のとき事故で失明。1982年、追手門学院大学英文科卒。85年、日本アイ・ビー・エム東京基礎研究所入社、点字入力編集ソフト開発。2004年、東京大学工学系研究科先端学際工学専攻 博士課程修了。同年日本女性科学者の会 功労賞 。09年、IBM Fellow 就任。2012年、第9回本間一夫文化賞受賞]
 1997年12月、介護保険法成立 (施行は2000年4月)
 1997年、箏曲家(山田流)・作曲家高野喜長(1924〜2002年)が、第34回点字毎日文化賞受賞 (10歳で失明。東京盲学校に入学し、12歳で箏と出会う。卒業後1985年まで37年間筑波大附属盲学校の音楽教諭。中南米をはじめ海外での公演も多い。)
 1997年、大阪のミニシアター「シネ・ヌーヴォ」で、字幕朗読上映会(解説もふくむ)が始まる。以後、年8〜9回実施している。
 1997年、桜雲会が、日本財団の助成を得て、あん摩・マッサージ・指圧のベトナムセミナー5カ年事業を開始
 1997年、踊正太郎が津軽三味線全国大会チャンピオンとなる(以後3連覇)
  [踊正太郎: 1977〜。本名・進藤正太郎。6歳で茨城県立盲学校入学、同時に津軽三味線を始める。18歳、盲学校卒業と同時に、津軽三味線の山田千里氏に師事・内弟子入り。2000年プロデビュー。03年ライブハウス「しゃかりき」オープン、05年正太郎流津軽三味線「正太郎の会」設立、2008年「第2回津軽三味線日本一決定戦」で優勝、第6回チャレンジ賞受賞。1994年『母さん、ぼくに光をください』(ポプラ社)出版、2004年CD「しゃかりき」リリース]
 1997年、国連が、フランス東部フィルヴォールテールに「国際障害者センター」開設
 1997年、スウェーデン、「特別病院・入所施設解体法」成立(解体の終了期限を1999年末に定める)
 1997年、全盲の進化生物学・古生物学者ヒーラット・ヴァーメイ(Geerat J. VERMEIJ, 1946年オランダに生まれる。3歳で失明、9歳でアメリカに移る。1968年プリンストン大学卒業、1971年イェール大学で博士号取得。その後メリーランド大学で教え、1988年からはカリフォルニア大学デービス校教授)が、自伝"Privileged Hands"(邦訳『盲目の科学者 ――指先でとらえた進化の謎』)を著す
 1997年、韓国、「韓国視覚障害者芸術協会」発足
 1998年1月、大阪・兵庫など4府県の無年金障害者8人が、法の下の平等を定めた憲法に違反するとして、障害基礎年金の支給を求めて居住地の市・区役所に一斉に申請。
 1998年3月、「特定非営利活動促進法」(NPO法)成立(施行は2000年4月1日)
 1998年3月、伊藤精英(1964〜.緑内障のため先天性の弱視。15歳のとき事故で失明)が、筑波大学大学院心身障害学研究科博士課程修了、教育学博士号取得。2000年4月、公立はこだて未来大学システム情報科学部情報アーキテクチャ学科講師 (専門は生態心理学と視覚障害心理学)
 1998年3月、田中仁(1966〜)が、「The Kakeya maximal operator and the Riesz-Bochner operator on functions of special type」で学習院大学より博士号取得 (2歳で麻疹のため失明。帯広盲学校から筑波大学附属盲学校を経て、89年学習院大学理学部数学科に入学。2007年『線形の理論』、2008年11月東京大学大学院数理科学研究科特任助教)
 1998年4月、名古屋ライトハウスが、デイジー録音図書の貸出をはじめる。
 1998年、サブリエ・テンバーケン(Sabriye Tenberken)が、中国・チベット自治区のラサに盲学校開設
  [サブリエ・テンバーケン:1970年生まれ。ドイツの女性。12歳で失明、ボンのフリードリヒ・ヴィルヘルム大学で中央アジア学を専攻、チベット語学を修め、チベット語の点字を考案。1997年よりチベットで活動。2006年マザー・テレサ賞受賞]
 1998年、三宮麻由子(1966〜)が、『鳥が教えてくれた空』で第2回NHK学園「自分史文学賞」大賞受賞(4歳で失明。上智大学仏文科卒、同大学院博士前期課程修了。外資系通信社勤務とともにエッセイを書き始める。2000年には『そっと耳を澄ませば』で第49回日本エッセイストクラブ賞受賞。2005年、第2回サフラン賞受賞。2009年、第46回点字毎日文化賞受賞)
 1998年3月、バイオリニストの川畠成道が、日本デビュー。 (1971〜. 8歳の時旅行先のロサンゼルスで風邪薬の副作用でほとんど失明。10歳から父の指導でバイオリンを始める。12歳で、第38回日本学生音楽コンクール入賞。桐朋学園を経て、1994年英国王立音楽院大学院留学、97年首席で卒業。日本各地をはじめロンドンやロサンゼルスでリサイタル。『僕は涙の出ない目で泣いた』などの著書も執筆)
 1998年4月、河合純一(1975〜.全盲)が、早稲田大学教育学部卒業後、静岡県舞阪町(現浜松市)立舞阪中学校の社会科教師となる (彼は、パラリンピックの競泳で、1992年のバルセロナ、96年のアトランタ、2000年のシドニー、04年のアテネまで4大会連続出場し、金5個を含め19個のメダルを獲得している)
 1998年7月、日本フロアバレーボール連盟(JFVA)発足
 1998年8月、 Windows用のスクリーンリーダ「PC−TALKER」および「VDM100W」が同時発売
 1998年9月、障害者の情報アクセス権や放送におけるバリアフリーなどを目的に、障害種別・分野横断的な組織「障害者放送協議会」発足
 1998年10月、郵政省が、「障害者等電気通信設備アクセシビリティ指針」制定
 1998年10月、岡山市で、異種鳴き交わし式音響信号機の試験運用が始まる。
 1998年12月、ピアニストの梯剛之(1977〜.生後間もなく網膜芽細胞腫のため失明。12歳でウィーン国立音楽大準備科へ留学)が、ロン=ティボー国際音楽コンクールで第2位 (1999年、第36回点字毎日文化賞)
 1998年12月、平野恒雄が、視覚障害者をメンバーに加えた劇団「ふぁんハウス」を結成
 1998年、デイジー図書再生機「プレクストーク」発売
 1998年、「全国視覚障害者インターネット接続支援連絡会」(ASV)発足
 1998〜2001年、厚生省補正予算事業で、全国の約100箇所の視覚障害者情報提供施設へ2度のデイジー製作システムの貸与・製作講習会、2580タイトルのデイジー録音図書・601タイトルのデジタル法令集の配布、および各都道府県へデイジー再生用機器(約8000台)の貸与が行われる。
 1998年12月、アメリカ、リハビリテーション法改正(508条で、障害をもつ連邦政府職員が他の職員と同等に情報にアクセスし利用できること、障害のある一般の人が連邦政府諸機関の提供する情報を障害のない人と同等に利用できること、さらに、そのために必要な技術および機能に関する「基準」の作成を規定)
 1998年、韓国、キム・ソンテ(金善泰)が、視覚障害者のための総合施設「シロアム視覚障害者福祉館」を設立
  [キム・ソンテ:1941〜。朝鮮戦争時に両親を失いまた自身も爆撃を受け失明。孤児院に入り、学校に通う。韓国で視覚障害者として初めて大学修学能力試験(スヌン)を受ける。哲学を専攻して卒業。69年修士号。長老派の牧師となり、1972年視覚障害者のための協会を始める。79年、日本ライトハウスで研修を受ける。81年、シロアム眼科病院を設立。2007年、アジア地域で社会貢献などに傑出した功績のあった個人や団体に贈られるラモン・マグサイサイ賞(社会奉仕部門)受賞。2012年、第34回岩橋武夫賞]
 1998年、アメリカの原子物理学者バーソン(Samuel Bradley Barson: 1917〜1998年)没 (高校1年のとき友人の銃の暴発で失明、イリノイ盲学校に転校し、のちスタンフォード大学・イリノイ大学で学び、1946年博士号を得てミズーリ大学の助教授になる。その後、アーゴン国立研究所(イリノイ州)に職を得、核分裂の制御などを研究。そこで25年働いた後、さらにワシントンの原子力規制委員会で上級技術研究員として務め、1995年引退。)
 1998年、ブラジルで、第1回IBSAブラインドサッカー世界選手権が行われる(第2回は2000年にスペイン、第3回は2002年にブラジル、第4回は2006年にアルゼンチン、第5回は2010年にイングランド、第6回は2014年11月に日本・東京で開催される)
 1998年、イギリス、視覚障害者のための音声解説団体「ボーカルアイズ(VocalEyes)」発足 (劇場をはじめ、美術館や博物館、史跡や建築物などで音声解説・音声情報提供を行い、またセットや舞台などについてのタッチツアーも行う。スタッフは有給でプロ。2012年2月には音声解説実施回数が1000回を越える)
 1999年、OECDの報告書『インクルーシヴ教育の実際―通常学校における障害学生(Inclusive Education at Work. Students with Disabilities in Mainstream Schools.)』
 1999年、日本障害者リハビリテーション協会が、財団法人広げよう愛の輪運動基金の委託を受け、「ダスキン・アジア太平洋障害者リーダー育成事業」を開始
 1999年、学習指導要領の改訂により、「養護・訓練」の教科名が「自立活動」と改められる
 1999年4月、福岡県立福岡高等盲学校に、三療の免許を持つ視覚障害者がより高度な専門知識・技能を習得する場として、研修科が設置される。
 1999年4月、1995年10月大阪市営地下鉄御堂筋線天王寺駅ホームで電車に接触して転落し重傷を負った佐木理人が、大阪市を相手取り事故現場の早期改善(転落防止柵の設置など)を求めて大阪地裁に提訴。2001年10月15日、第1審で敗訴。2003年6月30日、控訴審で和解成立(和解条項:視覚障害者のホームからの転落事故等の発生防止に努力、和解金300万円、自己現場に転落防止柵を設置)
 1999年4月、阪急電鉄が、「全席が優先席」という方針のもと、専用席としての優先座席を廃止 (2003年12月から、横浜市営地下鉄も全席を優先席に。阪急電鉄は、2007年10月優先席を復活させる。2012年、横浜市衛地下鉄も優先席を復活)
 1999年5月、「障害者欠格条項をなくす会」発足
 1999年7月、松坂治男(30代半ばで網膜色素変性症を発症)が、SPAN(視覚障害者・パソコン・アシスト・ネットワーク)開設
 1999年8月、「視覚障害者議員ネットワーク」結成(代表は堀利和参議員議員)
 1999年8月、WBU(世界盲人連合。加盟130ヶ国)がルイ・ブライユの誕生日である1月4日を「世界点字デー」に制定
 1999年10月、東京で、ミュージアム・アクセス・グループ「MAR」(Museum Approach & Releasing)が活動開始
 1999年12月、花王が、視覚障害者向け音声情報DAISY版CD「商品と暮らしの花王ボイスガイド2000年版」を発行
 1999年、遠藤貞男(1922〜2008年)が、第7回ヘレンケラー・サリバン賞を受賞 (1976年から継続的に視覚障害者のために観劇会を企画)
 1999年、東京都美術館が、各企画展ごとに、各展覧会の会期中の休館日1日を利用して「障害者特別鑑賞会」を開始 (毎年4回程度実施されている。視覚障害者は、希望すればボランティアの案内でともに鑑賞できる)
 1999年11月、全米盲人連合(NFB)が、インターネット・プロバイダー最大手のアメリカン・オンラインAOL社をADA法違反で連邦裁判所へ提訴
 1999年、スウェーデン、「雇用における障害者差別禁止法(Prohibition of Discrimination in Working Life of People with Disability Act: SFS 1999:132)制定
 1999年、ONCE(スペイン全国盲人協会)が、視覚障害者の生活の質を高める技術開発を促進することを目的に「視覚障害者のためのテクノロジー研究・開発奨励賞」を創設(隔年で実施)
 1999年、イタリア、ボローニャ市のフランチェスコ・カヴァッツァ盲人施設内に、触る絵の美術館「アンテロス」が開設される (有名な絵画作品を、浮彫のように半立体的に翻案して展示)
 1999年、イギリス、全国触図センター(National Center for Tactile Diagrams: NCTD)発足。2000年、2002年、2005年に触図に関する国際会議を開催
 1999年、スイス・チューリッヒで、視覚障害の牧師ユルグ・シュピールマン(Jurg Spielmann)が、「Blindekuh(暗闇レストラン)」を開設(2005年にはバーゼルに第2号店がオープン)。同様の暗闇レストランは、2001年、ベルリン、ケルン、ハンブルグに「unsicht-Bar」として、2004年、パリに「Dans le Noir ?」として、2006年、ケベックに「O.NOIR」として、2007年、北京に「巨鯨肚」としてオープン。2008年以降、日本でも同様の試みが行われている。
 1999年、アメリカの音楽家(作曲とともに演奏やボーカルもする)であり詩人でもあるムーンドッグ(Moondog; 本名はLouis Thomas Hardin。1916〜1999年)が、ドイツ・ミュンスターで没
  [少年期よりドラムなど打楽器の演奏をしていたが、17歳でダイナマイトの雷管の爆発のため失明。姉から哲学や科学などの本を読んでもらい、その中の『第一バイオリン』という本に感動して生涯の仕事として音楽を選ぶ。セントルイスやアイオワの盲学校で点字を覚え、またいろいろな楽器を弾きこなすようになるが、音楽はほぼ独学。1943年にニューヨークに出て、そこでレナード・バーンスタインやアルトゥーロ・トスカニーニ、チャーリー・パーカーやベニー・グッドマン等と知り合って、かれらの影響を受けるとともに彼自身の音楽的才も評価される。74年まで30年間ニューヨークで、自分で考え出したバイキング風の奇抜な服装で路上ミュージシャン・詩人として暮らす。1947年からペンネームとしてムーンドッグを使い始め、また回りの人たちからは「6番街のバイキング」とも呼ばれた。1974年、「聖なる川=ライン川が流れる整なる土地」として理想化していたドイツに移住、イローナ・ゾマーの援助を得て、作曲をはじめ多彩な音楽活動を続ける。なお彼は、トリンバという打楽器など数種の楽器も発明している。]

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