シネマ青色青光 ーー(2)

 
★「デッドマン ウォーキング」 
     (1995・アメリカ)

デッドマンウォーキングとは、死刑囚が死刑執行される時の、最後の歩みをつげる言葉だそうです。これは、そういう、死刑囚を描き、「死刑制度」についても考えさせられる痛烈な映画でした。

スラム街でシスターとして働くヘレンの元に、ある死刑囚から何度も手紙が届きます。彼はマシューといい、相棒と二人でアベックを襲い、惨殺してしまったのでした。求めに応じて彼に会いに行くヘレンでしたが、彼の印象は冷酷で傲慢そのもの。

しかし、相棒が無期懲役なのに、マシューだけが死刑を宣告されていることに疑問をもったヘレンは、弁護士にも協力を依頼し、特赦審問会を開き、マシューの母親にも証言させようとしますが、嘆願は却下されます。残る手段は知事への直談判だけ・・。

又、平行して被害者の両親らに会いに行ったヘレンは、怒りと悲しみをあらわにする彼らを前に、言葉が出ず、どちらの立場に立てばいいのか悩みます。

いよいよ死刑執行の日取りが決まり、焦るマシュー。ヘレンは女性としては異例の「精神アドバイザー」として、彼と毎日数時間を過ごすようになります。しかし、相変わらず犯行を否認し、人種差別発言なども繰り返すマシューはヘレンを憤慨させます。そんな彼も、面会の弟たちや家族にはやさしさを見せ、ヘレンにも心を開き始めていきました。

とうとう上訴審も却下され、死刑の当日、午前零時が迫ってきました。マシューのために、死にゆく勇気を持てるよう、ひたすら神に祈るヘレン。そして最後の面会。マシューはヘレンから預かっていた聖書に名前と日付を入れ、そして犯行についても、自分が手を下したことを認め、罪を悔います。

とうとう執行の時、デッドマンウォーキングの声が鳴り響き、マシューは執行の部屋に連れられていきます。ぎりぎりまですすり泣いていたマシューでしたが、最後の言葉は遺族への謝罪の言葉でした。そして、真実をすべて 認めた彼の最後の表情は、どこか晴れ晴れとさえ見えたのでした。

最新のアメリカの死刑は、ガラス張りの部屋で、薬を注射させられて執行され、それを遺族たちがガラス越しに見るようになっています。最後の場面は、本当に見ているのがつらいほどの緊張感を感じさせられました。

直接的には「死刑」を題材にしながら、しかし、この映画は「死刑制度」に関して肯定も否定もせず、ただ考える題材を提供するだけです。世界的には、先進国では「死刑制度」は廃止の方向ですが、アメリカ同様、「死刑制度」が残されている日本でも、考えさせられる問題です。昨今、いろいろ凶悪な事件が頻発しているとよけいにそう思わされました。

また、最後の場面で感じたのは「真の救い」ということでした。世を恨み、ふてくされていたマシューは、結果的に死刑をまぬがれませんでしたが、事実をすべて告白し、罪を自覚したとき、ある意味、彼は真の意味で救われていたのかもしれません。

ヘレンの与えた聖書の中に「汝らは真実を知り、真実こそ自由をもたらす」という言葉がありました。迫りくる死の恐怖の中で、ぎりぎりマシューは目覚めて「真の自由」を得ることができたのではないでしょうか。

ここに描かれる「救済」そして「目覚め」という概念は、宗教を超えて普遍性を持つもののよう思えました。浄土真宗にも「悪人正機」という言葉がありますが、何より自分自身の「罪の自覚=機」こそが、より「大きい救済=法」に遇う必須条件だと言われます。そしてそこには、善も悪も、若いとか老人だとか、他のあらゆる価値は必要ないのです。ただ信心があればいいと述べられています。

世俗的な意味で「悪人」であったマシューも、最後の最後で自分をすべて捨て去った時、神に遇うことができたのでしょう。

                           
END


                              シネマTOPへ