故郷...時代を探す旅
 part5

はじめに

今年の夏,帰省の折(20098),かつて布勢(ふせ)の水海(みずうみ)と呼ばれた氷見(ひみ)平野を訪ねた。縄文時代以前よりこの平野部は富山湾と海続きで,天平時代,大伴家持が越中に国司として就任した時期都からの客をこの水海に招待しもてなしている。とても風光明媚な場所であったという。また藤の花が湖面に映る様を家持は叙情豊かに詠い上げており,澄んだ水,静かな湖面の様子がその数々の歌から汲み取られる。そんな布勢の水海は,家持の時代つまり天平時代以降のある時期から徐々に水位が下がり消滅した。そして今の氷見平野がそこに形成されているのである。

縄文時代以前から,そのように氷見平野が水海で覆われていたことから氷見の南部の山を隔てた砺波平野北部で貝が沢山発掘されている。小矢部市の縄文遺跡である桜町遺跡がことのほか有名である。また近くの田川の小高い所には貝化石と言われる化石が出る層がある。当時布勢の水海の水面が高く,海の産物が山を隔てて容易に砺波平野に流入していたこと,逆に砺波平野部からもそこへ漁に行くことが容易であったということが想像できる。古文書によると氷見方面から塩売りが砺波平野と氷見平野を隔てる峠を越えて高岡市の守山に来ていたとの記録があるので,海産物と野菜あるいは穀物との相互売買が守山あたりでは頻繁に行われていたのかもしれない。

そんな,容易に行き来できた氷見と高岡を隔てる峠には現在,高岡市の勝木原(のでわら)あたり,三方峰峠(さんぽうみねとうげ),二上山(ふたがみやま)の西を通る海老坂峠などがある。ここでは,布勢の水海を訪ねるにあたり海老坂峠を実際に登って下ってみることにした。急であるかどうかも興味深いところである。1に天平時代の布勢の水海を示す。(図中,@,A,B,C,Dの黒い枠線の内部にカーソルをあてると,それぞれ訪ねた場所名が表示され,さらにクリックすると枠線内の拡大地図が表示されます。@→A→B→C→Dの順に氷見平野を巡りました。またそれぞれの拡大図で矢印つき赤線に沿って移動しています。また現在の氷見平野を見るにカーソルを当てクリックすると,現在の氷見平野が表示されます。)

テキスト ボックス: 現在の氷見平野を見る

天平時代の布勢の水海(現在の田圃部分を水色に塗って表示)

 

 

新守山手前で見た二上山

(二上山の向こうに,天平時代越中国府があった)

守山,海老坂峠

 高岡駅から守山経由,灘浦海岸行きの路線バスに乗る。このバスがちょうど海老坂峠を通るのである。朝から曇り空であるが,天気予報によると午後には晴れ上がるというので期待する。バスで非常に緩やかな道を登っていく。峠を越えるといった感じではない。海老坂峠をまず散策することにし新守山で下車した。高岡からはそんなに時間がかからなかった。ここからは家持縁の二上山が非常に間近に見える。雲が二上山の頂上に重く垂れ込めているのでいい感じではないけれども写真を撮る。ここで二上山の前に古墳のようにこんもりとした山があるのに気づいた。この辺でも古墳が発掘されているからどうなんだろう。新守山のバス停から海老坂峠への道は歩いても傾斜をほとんど感じない。そんななだらかな海老坂峠を一通り散策する。なだらかであるから,この峠の広いことがよく判った。また峠の下りに向かうとき,ここから氷見平野(かつての布勢の水海)が一望できるわけではないことを知る。理想の風景をいつも期待しているのだが地図でイメージしたのと実際の風景とは違うのである。                                                   

海老坂峠から見た二上山

(海老坂峠は,現在幅が広いが天平時代当時はどう

だったのだろうか?)

 

歩道脇で秋の七草・・萩と葛を見つけた。立秋を過ぎてはいるがやはり東京よりは開花時期が早いのだろうか? 両方とも鮮やかな色をつけていた。海老坂でしばらく散策した後,さらに海老坂のバス停から今来た同じ路線バスに乗って上田子(かみたこ)(こくたいじ)前へと向かう。

緩やかな坂を下り,バスに揺られていても氷見と守山を隔てるこの峠は,決して急登ではないことがよく判った。ただ道のりが長いだけである。今の田圃のあるところを水で埋めた地図で判るように,かつて塩商人は氷見駅のすぐ近くの(ひみのえ)辺りから,船に乗り布勢の水海をこの峠に向かって直進し多枯(たこのうら)を通り陸に上がってなだらかな坂を下ってきたのだろう。布勢の水海という静かな水路を直進するに先ず時間はかからなかっただろうから,海老坂峠から南の平野に抜けるには便利なルートであったと思われる。

海老坂峠で見つけた萩

 

海老坂峠で見つけた葛

 

上田子の国泰寺バス停前にあった家持の歌碑

(正面)

下田子(しもたこ)の藤波神社

国泰寺前で路線バスを降りる。ここは峠を越えた氷見市にある。地図で調べた家持の歌碑が国泰寺前バス停脇にあるというのだが,どうも判らない。通りかかった家の前で掃除をしていたおばさんに尋ねてみることにした。おばさんが,すぐそこにある石碑を指して「あれ」だと言う。確かにバス停の脇にある。細長い何か道標のような感じで見過ごしたのかもしれない。

「どこから来たのか?」とおばさんが聞いてくる。東京から里帰りできており,家持縁の歌碑を見て回るところだと話した。でも本当は不安なところでもある。つまり場所を探しながら歩く旅であり道順やかかる時間も詳しく判らないのである。それでおばさんに聞いてみることにした。「男の人の足だと十分回れる」と言う。念のためタクシーを呼ぶにはどうすれば良いかも聞いてみた。家の中に案内してくれ電話帳を出して「ここの中からタクシー会社をメモっておけば良い」と言う。そういえばバスの中から見ていて気づいたが,この辺は市外から離れた所にあり田畑ばかりである。コンビニも公衆電話も目に付かなかった。ここはそんな所である。

上田子の国泰寺バス停前にあった家持の歌碑

(側面)

 

お昼の食事は氷見駅近くで取るとして,とりあえずタクシーを呼ぶための電話を借りられる場所をついでに教えてもらった。話し好きなおばさんで親切にいろいろアドバイスしてくれる。それで,これから向かう下田子のへの道も教えてもらう。家を出て,おばさんが下田子の方角を指差し,「あの青い屋根の向こうの森が藤波神社だ」と熱心に説明してくれた。時間をかけて準備をしたのであるが,地図ぐらいでイメージするのはやはりおぼつかないものである。きっと歌碑の内容だとか天平時代当時の布勢の水海の状況などばかりに捉われていたのかもしれない。いつも思うが,旅のはじめは何かと躓く。

おばさんにお礼を言って,先ほど教えてもらった国泰寺バス停前の歌碑の所へ行く。道標のように角に建っていて,正面には「大伴家持卿歌碑」とある。

横に移って見ると,漢文で

「多枯乃佐伎許能久礼之氣爾霊公鳥伎奈伎等余米婆波太古非米夜母」
と彫られていた。現代文にすると
多枯の崎木の暗茂にほととぎす来鳴きとよめばはだ恋ひめやも」

田子ノ浦藤波神社の鳥居と藤の木

である。青い屋根の向こうにある藤波神社の森はここからそんなにも遠くない。またここからは,田圃が広がっているのでその青い屋根が隠れることなくずっと方角を追って行くことができるから迷うことはあるまい。そうして一路その青い屋根を目指して田子の浦藤波神社へと向かうことにした。

藤波神社にたどり着く。それでもここへ来るまで結構歩いた。藤波神社は鳥居があってそれに覆いかぶさるように藤の葉が生い茂っていた。右横には田子の浦藤波神社の石碑が建ちその右横に藤波神社社叢と説明書きが建っている。おばさんの話によると「藤の満開の時期(また水田の時期でもある)はことさらに美しい」という。その話を聞いて,たわわに咲いた藤の花が水田に写った風景などを想像してみた。家持の詠った和歌に

「藤波の影なす海の底清み沈(しず)く石をも玉とぞ我が見る」

がある。この鳥居の前は天平時代水海であったから,垂れた藤の花が水面に映る。その情景がイメージできるような気がした。

また介内蔵忌寸縄麻呂(すけうちのくらのいみきなはまろ)は藤波神社の東側にある多枯(たこのうら)

「多枯の浦の底さへにほふ藤波をかざして行かむ見ぬ人のため」

田子ノ浦藤波神社の石段と本殿

と詠んでいる。家持と興を楽しむために高ぶる気持ちを抑えながら漕ぎ出したのであろうか?この和歌から長閑で,静かでまた水海の美しい情景が浮かんでくる。

本殿へと登る石段はやや急である。両側に藤の木が杉の木に支えられるように上へと伸びている。本殿前に着くと樹齢の古い木がうっそうとして極めて暗い。先ほどの和歌で言う「多枯の崎木の暗茂に・・」という雰囲気そのものである。ひやりとした空気である。参拝をしているときちょうどヒグラシの声を聴いた。それほど高い所ではない。東京では聴いてないので時期的にはまだ早い気もするが,カナカナと透き通るようにゆっくりと鳴いていた。
 本殿脇に石碑がある。正面は大伴家持卿歌碑と彫られている。側面には歌碑が彫られているのだろうが,風化していて読めなかった。きっと先ほどの和歌のどれかであろう。狭い本殿の裏にはこれまた樹齢の古い大きな「つままの木(タブの木)」が何本か立っており根が大きく盛り上がっている。天平時代,ここからそう遠くない渋谷の崎(しぶたにのさき)で つままの木を詠った家持の和歌があるから,きっとこの木も天平以前から高くそびえていたのかもしれない。

田子ノ浦藤波神社本殿裏のつままの木

田子ノ浦藤波神社本殿横の家持の歌碑

 

明善寺に行く手前で撮った風景

(奥が小松キャスティクスへと続く。このあたりは天平時代に水海であった。)

陽和病院

藤波神社を後にして神社()へと向かう。ここからだと距離にして3km以上ゆうにある所だ。でもその前に,途中の病院によることにする。高台から布勢の水海が一望できることを前もって調べてあるので,どうしてもそこに寄って行きたいのである。いつの間にか厚い雲が少なくなり夏空が見え始めてきた。これから暑くなりそうである。陽和病院までは,そんなに距離はなく2kmぐらいであるが,炎天下だとちょっと辛い。ふんばりどころである。途中歩きながら調子を見て,陽和病院でタクシーに乗るか?あるいはその先の布勢神社で乗るか決めることにしよう。前におばさんに聞いてタクシー会社はメモってありどちらの場所でもタクシーは呼べるのである。
 藤波神社の北側の竹藪の続く細い道を歩いて行くと民家が途中で途絶え墓地のある場所へと出た。地図ではそこまで調べていなかったのである。どこへ出るのか不安であるが何とかなるだろう。ひたすら歩く。幸い竹藪で日光が遮られているから涼しくはある。竹藪が開けてから大通りへ出て下って行くと,小松ックスの工場が見えた。これは大きな会社で地図に出ていたとおりである。一安心する。小松キャスティックスの敷地はきわめて広いから地図でも良く判る。その脇に沿うようにしていけば陽和病院へ通じる

陽和病院から見た北側の氷見平野

(田圃の部分はかつての布勢の水海)

仏生寺(ぶっしょう)太(296号線)に出るので迷うことはないだろう。そこから陽和病院までは一本道である。

小松キャスティックスから下って行くとその道に出た。でも今度はどちらかというと狭い道である。車が時たま通るような静かな道路であった。今歩いている仏生寺太田線は,かつて天平時代,多枯の崎の陸地にあり道の両側が小高い丘陵になっていた場所である。今も道の両脇にはそんな高い木が無く,なだらかな斜面に田畑や果樹園があり非常に開けた雰囲気のいい所である。広い敷地に瓦工場があったりする。また園芸栽培の農家なのだろうか?加茂農場という看板が目に付いた。しかし本当に長閑である。そんな一本道をのんびりと歩きながら空を見上げると青い空がどこまでも広がっていた。ちょっと深呼吸をする。朝方曇り空だったのでここへ来るのを少しためらっていたのだが,今ここにいて少々贅沢なくらいの旅気分に浸る。きっと,このルートは秋になるとハイキングに持ってこいのコースだろう。しばらく行って左折すると緩やかな下り坂に出た。ここからは地図にあるようにかつて水海であった地区へと下りる道である。その道にある明善寺(みょうぜんじ)前にたどり着くと真正面に小高い山が見え,頂上にクリーム色の建物が見えた。陽和病院である。陽和病院はにあるようにかつて布勢の水海に突き出た所の半島の先端にある。病院は明善寺の先の交差点で

陽和病院から見た西側の氷見平野

(田圃の向こう右側にぽつんと盛り上がって見える

のが布勢の円山)

矢方(やのほう),海津(かいず)を経由して万尾(もお)方面へ行く氷見ス農道を横切ってすぐであるが,下から見るとかなり高い所にある。そびえるように建っている。きっと天平時代には突き出た半島が水海に切り立っていたのだろう。陽和病院への坂を回りながら登って行くと病棟が見えた。ここに来るまで,結構歩いただろうか?汗が後から後から滴り落ちる。
 陽和病院の前庭から北西に展望が開け,そちらの方は山で遮られることも無く氷見平野(かつての布勢の水海)がよく見下ろせる。また低気圧が通過した後の雲の流れが能登方面から東へと移動しているのがよく判った。一望田園である。田圃の中に所々に家々が建っている。また雨上がりでガスがかからないからだろう,遠方には能登の山並みが見渡せた。
 田圃の緑を空を映した水面に置き換えてかつての布勢の水海の風景を想像する。天平時代,ここから真北に垂姫(たひめ)というのがあった。そこでは,きっと万葉人が空の青,雲の白を湖面に映して広大で美しい景色を満喫したに違いない。そんな気がする。遊行女婦土師(うかれめはにし)が詠んだ歌がある。
「垂姫の浦を漕ぎつつ今日の日は楽しく遊べ言ひ継ぎにせむ」
である。日なか風も気にならずじっくりと遊べるくらい舟遊びをしたのであろう。家持は越中国司として約5年間赴任したが,奈良の都と異なる気候や環境に苦労したと言われる。そんな家持に対し

陽和病院から見た西側の氷見平野の拡大写真

(正面に盛り上がって見えるのが布勢の円山)

土地の遊女が一生懸命もてなそうとして船で水海に繰り出し色々なことを語りかけたのだろう。遊行女婦土師の優しさが何となく判るような和歌である。

また田辺史福麿(たなべのふみひとさきまろ)の和歌に,

「神さぶる垂姫の崎榜ぎめぐり見れども飽かずいかに我せむ」

がある。田辺史福麿は天平21年,323日(旧暦)家持が奈良の都から招いた左大臣,橘諸兄(たちばなのもろえ)の使者で造酒司(つかひさけのつかさ)の令史(ふみひと)である。奈良の都に住む福麿にとって,垂姫の崎の神秘的な美しさを目にするのは初めての体験であったようだ。その感動が伝わってくる。水面には波がなくあたかも鏡面のような静かな水海であったのではあるまいか?
 さらに家持の和歌に,

「垂姫の浦を榜ぐ舟楫間にも奈良の都を忘れて思へや」

とある。家持も奈良の都を忘れるくらいにこの垂姫の浦の美しさに惹きつけられていたのだろう。その美しい情景が想像できた。病院の前庭を西側へと移動して平野部を撮る。ここからは唯一湖面に浮かんでいた布勢の円山が見下ろせる。家持は都からの客を,水海遊覧の後,湖面にぽつんと浮かんでいた円山へと招待したという。その当時は広大な布勢の水海を円山から全方位見渡せたから,客の感動もきっとひとしおであったに違いない。

 

布勢神社参道石段

布勢の円山

 陽和病院の坂をぐるりと回って登った頃から,大分バテてきた。それでこれから先はタクシーで移動することにし病棟の公衆電話からタクシーを呼ぶ。タクシー会社によると氷見駅からこちらまで向かってくるというので多少時間がかかるそうだ。そこで病棟の玄関先の日陰でしばし休むことにした。タバコを一服燻らす。ちょうどいい休憩である。大分待ってタクシーがやってきた。運転手さんに家持の歌碑を訪ねて観光していることを話し,あらかじめ準備した地図で風景のいい所で写真に撮りたいとお願いした。ここから布勢までは緩やかな下りで,かつての水海の場所をずっと行くことになる。

布勢神社に着いて早速正面から写真を撮る。参道の両脇には民家が建ち思ったより小さい鳥居が見えた。鳥居をくぐって八十八段の石段を登る。石段のステップの高さは30cm弱であろうか?海抜約20mの頂上までかなり登りづらい。横に手摺があったのでそれに捕まりながら急な石段を登る。天平時代にはこんなに苦労しなくても登れただろうに・・とよくよく思う。なぜなら水位が高く階段をそんなにも登らなくて済んだであろうから。それにしても八十八段の石段は多い。時々下を見下ろすと極めて急な感じであるから,天平時代この円山も水面に切り立つように浮かんでいたのではないかと思われた。

石段を登り切った所にある本殿は四つ道将軍の一人として北陸へ使わされたとされる大彦命が祀られている。先ずここに参拝する。さらに本殿の裏へ行くと御影社という社殿が二つあった。一つは新しく大きなもので鳥居がある。一つはその右横に建つ古い

布勢神社の本殿

(四つ道将軍の一人として北陸へ使わされたとされる大彦命を祀られている。)

 

小さな祠である。いずれも家持が祀られている。古い小さい方の御影社は幅90cm,奥行120cmぐらいである。この祠は年代は古いが天平時代のものではない。後に家持を敬って建てられたものである。そして,その横に説明が書かれてあった。「万葉の歌碑と御影社」と題して以下のように和歌を含め記載されている。「明日の日の布勢の浦みの藤波にけだし来鳴かず散らしてむかも(巻十八・四〇四三) この歌は,天平二十年(七四八)三月二十四日,奈良の都から使者として越中に来た田辺史福麿の歓迎宴の席上,国守大伴家持が「明日はまず越中の名所布勢の水海へ案内しましょう」と福麿を誘ったのに対して,福麿との間にとりかわされた歌のなかの一種,

藤波の咲き行く見ればほととぎす鳴くべき時に近づきにけり(巻十八・四〇四二)

とよんだのに対して家持が「明日眺めようという布勢の海べの波のように咲き匂う藤の花に,ほととぎすが来て鳴かないで,せっかく花をむなしく散らしてしまうのではなかろうかと気がかりです」と答えたもの。

 藤波とほととぎすによって布勢の水海の季節感を美しく歌いあげている。隣りにある小祠は,かつての御影社です。地元,布勢地区で大伴家持卿1千2百年祭(昭和六十年九月)を記念して

布勢神社裏にある古い御影社

(家持が祀られている)

 

 

改集されたので,古いのを移して保存したものです。」

とある。因みに明治33年,その古いのを祀って大伴家持千百年祭の行われたことが後で調べて判った。でもどちらかと言うと古い方が素朴で惹かれる。屋根には落ち葉が少しかかっていた。

先ほどの大彦命を祀る本殿の左横には大伴家持卿遊覧の地と彫った石碑が建っている。これは県内万葉に纏わる石碑中最も古いものだと言う。言われればこの石碑,緑の苔むした所がある。碑の回りは,樹齢の古い木で囲まれ極めて薄暗いのでディジカメでフラッシュ撮影をするが,碑の文字ははっきりとしない。後で多少画像処理しなければなるまい。

 今いる頂上の東側にわずかに木々と木々の間から布勢の水海を眺められる所を見つけた。ほんのわずかな,いわゆる「窓」である。天平時代の当時は,本殿の周りにこんなにも木が生い茂っていなかったから四方の展望はきっと良かっただろう。このわずかな「窓」から一番近くに垂姫の浦が見え,その向こうにこんもりとした丘が見える。今の日ノ宮神社のある森辺りである。またその遠方には青い水平線が見えるような感じである。富山湾があるのだが,もっと天気の良い日は水平線が見えるのであろうか?

古い御影社の脇にあった説明

(家持の和歌と田辺史福麿の和歌が載せられている。)

 

新しい御影社

(大伴家持卿1千2百年祭(昭和六十年九月)を記念して

改集された)

布勢神社本殿横にあった家持の歌碑

(大伴家持卿遊覧之地と彫られている。)

 

布勢神社の木々の間から見た東側の氷見平野

(田圃の向こう右側に盛り上がって見える森は日ノ宮神社の

ある大浦地区である。遠方は富山湾である.天気の良い日

は水平線が見えるのであろうか?)

 

川尻

布勢の円山を後にし,(かわしり)へと向かう。これから行く所は全てかつての水海の中にありほぼ平地である。眺望の良い所があるので,運転手さんにそこへ行ってもらうことにした。川尻橋の少し南側で車を停めてもらい写真を撮る。ここから見る風景はずっと田圃が続き東側遠方に山々の連なる風景である。かつての布勢の水海の水平線上に山が見えるといった感じであろうか?この辺りからは東に二上山が眺望できる。いつも二上山の南から見た形状をイメージしていたが,ここから見るとかなり南北に広い尾根を持った山のように思えた。

川尻地区から見た東側の氷見平野

 

川尻地区から見た東側の氷見平野

(電線の向こうに台形に見える山が二上山である。)

 

 

 

十二町潟と二上山

(白い建物の浄化センターで遮られるが,その向こうに

見える山が二上山)

 

十二町潟(じゅうにちょうかた)水郷公園

川尻で何枚か写真を撮って,十二公園へと向かう。万尾川に沿ってしばらく行くと十二町潟に着いた。運転手さんに車のまま十二町潟水郷公園の駐車場まで入ってもらい写真を撮った後,別の駐車場へ移動してもらうことにした。結構大きな潟(幅約150m,長さ約1200mぐらいの潟)で全て回るのにも時間を要するのである。

 十二町潟は,最も布勢の水海の面影を留めるものであると言われる。潟にはマコモやハスが繁茂しているが,天平時代はこんなでもなかっただろう。潟の向こうには田圃があるが,その田圃が見えないようなあたかも潟が山際まで続いているようなアングルを狙って写真を何枚か撮った。ちょうど二上山が潟の遥か向こうに眺められるような位置に立つと,天平時代もかくのごときであったかと当時の水海の広大さに驚かされる。水郷公園の東側に潟が南北に走り,その岸に色んな木が植えられている。富山湾の方へ向かって,あるいは反対の山方向に潟を入れ写真を撮る。ここは先ほどの田圃の続く風景と変わって,昔の水海そのものの風景である。

十二町潟と橋

(右が十二町潟水郷公園である。潟にはマコモが茂る。)

 

十二町潟の東側の近い所に白い建物の浄化センターがある。浄化センターの後ろの森がある所が現在のでそのあたりの水海はかつて(おふのうら)と呼ばれていた。そのあたりは天平時代,切り立った奇岩があって遊覧する人たちの人気の場所であったらしい。家持の日記に次のような記録がある。布勢水海に遊覧びたまへる賦に敬和す一首として
「・・うらぐはし 布勢の水海に 海人船に真楫掻い貫き 白布の袖振り返し率ひて我が榜ぎ行けば 乎布の崎花散りまがひ渚には葦鴨騒ぎさざれ波 立ちても居ても 榜ぎ廻り 見れども飽かず・・」
と長歌が詠われている。また家持の和歌に,

「乎布の崎榜ぎ廻りひねもすに見るとも飽くべき浦にあらなくに」
また,田辺史福麿の和歌に

「疎かにそ我は思ひし乎布の浦の荒磯のめぐり見れど飽かずけり」
とある。これらの二つの和歌から天平時代当時いかに乎布の浦が美しい所であったかがよく判る。

水郷公園の中央部に石碑が建っているのを見つけた。調べていた家持の作った長歌が書かれている場所である。

十二町潟

(左が十二町潟水郷公園である。遠方は富山湾である。)

 

石碑の正面には「萬葉布勢水海之跡」と彫られ,すぐ横のステンレス板に長歌が以下のように書かれている。

「物部(もののふ)の八十伴男(やそとものを)の思ふどち心遣らむと馬並べて彼此触(うちくちぶり)の

白波の荒磯に寄する渋谷の崎廻り(たもとおり)松田江の長浜過ぎて宇奈比川(うなひがわ) 清き瀬ごとに鵜川立ちか行きかく行き見つれどもそこも飽かないかにと布施の海に舟浮け据ゑて沖へ漕ぎ 辺に漕ぎ見れば渚にはあぢ群騒ぎ島廻(しまみ)には木末(こぬれ)花咲きここばくも見るのさやけきか玉くしげ二上山に延(は)ふ蔦の行きは別れずあり通ひや毎年(としのは)に思うふどちかくし遊ばむ今も見るごと
布勢の海の沖つ白波あり通ひいや毎年に見つつ偲びばむ」

とある。万葉人は布勢の水海を遊覧しながら切り立った岬をめぐったのであろうが,今では二上山の裾も平野になり工場が建ち並んでいるので, 「延(は)ふ蔦」のイメージも描けない。

十二町潟水郷公園にあった石碑

(脇のステンレス板に家持の長歌が載せられている。)

石碑脇にあった家持の長歌

 

 

 

雀森神社

 十二町潟水郷公園を後にし,雀森へと向かう。タクシーの運転手さんはよく知っているそうである。道路のすぐそばに鳥居が建っており八幡神社の石碑がある。八幡神社となっているが,別名雀森神社と言われる。家持が越中国司として出挙の折,この神社の近くで悪亀が住み汐を吹き上げて田圃を害するため磐を以て圧し鎮められたそうでここをシズメの森,または細女社と云う。・・と伝えられている。和歌に

「雀森立ち超し見れば布勢の海浪のこし路に白彦の神」

と詠われている。ここも急な石段が高くまで続いていて登りつめた所にその白彦を祀る神社本殿があった。社殿の周りは木が取り囲み,極めて暗い。ここは,廻りが田圃でなくて町屋になっているためか本殿の場所は狭い感じがした。参拝を終えて写真を撮る。

雀森神社の鳥居

 

雀森神社本殿

(白彦の神が祀られている)

 

 

十二町潟排水機場の歌碑

 

十二町潟排水機場

運転手さんに,十二町潟水機場に歌碑があるからそこへ行ってもらうよう頼む。これが,タクシーで回る最後の所である。運転手さんによると,この施設は海水の逆流を防ぐために最近新設されたものだということだが,運転手さんは排水機場に歌碑のあることは知らないようだった。地図を見せてとにかくその構内まで行ってもらうことにする。排水機場はお盆で休みのようである。しかし門は開いていて前庭まで入ってもらった。綺麗に整備された庭園の中に新しい綺麗な石碑が建っている。

石碑には,十二町水郷公園で見たステンレス版にかかれた家持の和歌と同じもの

「布勢の海の沖つ白波あり通ひいや毎年に見つつ偲ばむ」

が彫られていた。新しい非常に立派な石碑である。

 

氷見駅前で昼食

 氷見駅に着いて,タクシーを降り昼食を取ることにする。ちょっと遅れて十三時を回ってしまった。駅前はお盆でほとんどシャッターが下りているが,一件店が開いていた。そこに入る。氷見きときとの魚料理とある。「きときと」とは方言で新鮮という意味である。氷見の名物「氷見うどん」もあるが刺身定食を迷わず頼んだ。しかし,氷見で刺身を食べられるというのは,かなり贅沢な話ではある。今の時期,冬場と違いあまりネタもないが,それでも氷見漁港で朝獲れた魚で新鮮さは最高なものだからである。ちょっと他では味わえまい。暑いので,生ビールも頼んだ。その店のおばあさんがテーブルのそばに来て,どこから来たのかと聞いて来る。きっとこの暑い時期,デイバッグを背負い,キャップを被り汗を流していたので,すぐ土地の人じゃないと判ったらしい。東京から里帰りで来ていて朝から大伴家持縁の歌碑など見て回っていたのだと答える。おばあさんは,おそらく私の母とほぼ同じ年代であろう。この店,お盆ではあるが関西や関東から来ている客もあり結構忙しそうである。でも料理が出来るまでテーブルの横に座って色んな話をしてくるので何となく土地の話題が懐かしくなり昔の話などをした。かつて氷見駅には来たことは無いが,中学時代島尾(しまお)の海水浴場に来たこと,そこでサングラスを忘れたことなど話す。でも当時と違って島尾もすっかり変わっているという。おばあさんの言うには浜辺にはテトラポットが結構積まれた所があるということである。おばあさんに,氷見駅から高岡へ帰るにはバスと電車のどちらが都合がいいか尋ねた。氷見線の本数よりバスの方がずっと多いという。でも,いい景色が氷見線では見られるから,電車の方がいいとその景色のいい場所のことを話してくれた。小さいメモ帳を持ち出してきて,氷見駅から島尾そして雨晴(あまはらし)の地図を書き,松田江の長浜(まつだえのながはま)について説明してくれる。沿線で降りてみれば本当はいいのだが,電車の本数が無いので時間がかかるだろう。それで電車からその景色を見ることにする。料理ができてきて刺身をつまむ。新鮮さはやはり格別である。また懐かしい魚入りの味噌汁に舌鼓を打ちながら食事を終えた。これからの氷見駅発の電車時刻だと言って,おばあさんが親切にもメモを渡してくれる。店の出口までおばあさんが送りに来てくれるので,「お元気でまたいつか来ますから・・」と,お礼を言って店を後にする。懐かしい話も聞け本当に有難かった。

 

松田江の長浜

氷見駅から,店のおばあさんから教えてもらったちょうど都合のいい電車に乗って高岡へと戻る。また松田江の長浜や,島尾や雨晴はちょうど進行方向の左側に見られるのでその窓側に座った。氷見駅を出発して電車から見る風景はずっと海の風景である。海の風景は好きだから飽きはしない。それでディジカメに単調な海の風景でもどんどん収めた。ほどなく昔の松田江の長浜あたりに差し掛かると,草原の向こうに青い海と松田江浜キャンプ場が見えた。本当なら,降りて白浜を歩いてみたいところであるが,一時間に一本の接続ではやはり時間的にきつい。松田江の長浜から詠んだ家持の和歌に次のようなのがある。

「立山に降りおける雪を とこなつに 見れどもあかず神柄(かみから)ならし」

である。ちょうどこの辺りは,東にある立山連峰が海岸に沿ったかなたに見えるので,海の上に壮大な山を望める絶景の場所である。 タクシーの運転手さんから聞いたが,夏場でも氷見の気象条件と立山方面の気象条件が許せば立山が海の上に見えるらしい。特に秋

島尾駅付近で見た松田江の長浜と富山湾

(草むらの向こうは今も砂浜が続き海水浴客で夏は賑わう。

また松田江浜キャンプ場がある。中学生のときに見たの

と変わらない白く美しい砂浜が広がっている。)

から冬の澄んだ日には立山がよく見えるという。でも家持の和歌にある とこなつに雪を頂いた立山を見られるという状況は,今では珍しい光景ではないだろうか? 地球の温暖化や自然の後退,産業人口の増大などが挙げられよう。そんなことを思ったりする。

家持は奈良の都に住んでいて越の国に赴任するまで,こうした風景を見たことが無かったろう。目の当たりにして神柄ならしと結んだのは感動の言葉を選択し得ない人間の本能的な震えにも似た表現である。現代人であってもそうした風景に直面すると神々しく感じるものではある。

また家持の長歌に

「大王(おおきみ)の遠の朝廷(みかど)と御雪降る 越と名に負へる 天ざかる 夷にしあれば山高み 川透白し(かわとほじろし) 野を広み 草こそ茂き・・」

というのがある。家持は,ひなびた越中にあって川は長く美しく雪を頂いた山は高く,野は広く・・と詠っている。越の国の自然の大きさに感動していた様子が判るようである。

 

 

 

渋谷の崎

電車が松田江の長浜を過ぎ島尾の海水浴場あたりに差し掛かる。島尾の海水浴場は中学時代に来たことがあり,その懐かしい場所を思い出しながら電車からしばし眺める。島尾から氷見方面はずっと白浜と松林が続いていたのを覚えている。でも店のおばあさんが言うには,浜辺には結構テトラポットが積まれるようになったらしい。あの中学時代から年月が流れ,もうその当時と全く同じ情景は望めないのである。

義経岩(右側の祠のある所)と女岩(海側)

(この辺りは,天平時代渋谷の崎と言われていた所,水平

線の向こうには気象条件が良いと立山連峰が見られる

という。)

 

電車が雨晴に差し掛かると車窓から義経岩が見えた。義経がみちのくへ逃れていくとき,能登からこの海岸線を通ったと伝えられる。折からの雨で義経主従がこの岩穴で雨宿りをしたというその岩である。岩の上には祠がある。海の中には女岩があって,ここからも海の遠方に立山連峰を眺めることができるそうであるが,今日は条件が悪くて見えなかった。しかしこの岩と海の風景は古代より変わらない美しい風景である。この辺りが渋谷の崎で,家持がつままの木を詠った和歌がある。

渋谷の崎を過ぎて,巌(いそ)の上(へ)の樹を見る歌一首 樹名つまま

「磯の上(へ)のつままを見れば根を延(は)へて年深かりし神さびにけり」

である。家持は好んで,渋谷の浜から布勢の水海を訪れているが,神々しい風景を自然の中に捉えることにより,何回も心洗われたのではあるまいか?

旅の最後に

電車に揺られ海を眺めながら家持のことを考えた。家持は,天平時代,藤原氏と対立した左大臣橘諸兄に師事していた。橘諸兄は藤原氏を抑え出世し七四三年,左大臣となり聖武天皇の時代太政官首班として政治に当たった人物である。そんな諸兄の権勢下,家持は七四六年,越中国司として赴任し三年後に橘諸兄の使者,田辺史福麿を布勢の水海に案内している。このときは橘諸兄の下,若い家持にとっては何の不安も無く充実した地方官の仕事と和歌作りに専念できたに違いないだろう。そして七五一年,家持は越中国司の任を解かれ奈良に戻る。ところが七五七年,諸兄が亡くなると勢力を挙げてきた藤原仲麻呂を暗殺するという計画が,諸兄の子である橘の奈良麻呂らによって企てられた。橘の奈良麻呂の変である。家持はこの暗殺計画に参画したという。奈良麻呂は謀反の疑いで獄死したが家持は刑を逃れる。都に戻って六年後に,こんな政争に巻き込まれることなど家持も越中時代想像だにしなかったであろう。ひなびた越中の自然を謳歌した後,人間同士の血なまぐさい争いに巻き込まれるのである。そして和歌作りはある時期を最後にやめてしまった。またその事件以来家持はいろいろなことで咎められ,地方転任を繰り返す運命をたどったと言う。人の運命とはこんなに悲しいものであろうか?地方転任しても自然を見ることは可能であるが,これは人間同士の争いごとの中に身を置いて見る自然風景である。ゆとりが無いというか,純粋に自然に対し感動することはできなかったかもしれない。その意味から家持の越中での自然体験,とりわけ布勢の水海で自然に対峙した体験は,後々も幾度と無く良い思い出となって蘇ってきたのではないだろうか?そんな気がするのである。 

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