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家持の里 |
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五位橋付近から見た射水川と二上山 堰の中央に泊まっている鳥はごい鷺である。白鷺も 見られるが,今日はいなかった。射水川は今も緩や かな流れである。夕暮れ時日が沈んだ後,山裾は薄 紫に包まれる。 |
今年の夏(2005年8月),帰省して小矢部川(おやべがわ)の河川敷を歩いた。この小矢部川,古は射水川(いみずがわ)と呼ばれている。射水川といえば,すぐ連想するのが大伴家持である。家持は天平18年(746年),29歳で越中の国司に任ぜられ伏木(ふしき)の国府で約5年間を過ごした。そして都に戻るまでに万葉集に残る479首のうちの223首をこの地で歌っている。その家持が詠んだ射水川の歌や二上山(ふたがみやま)の歌が石碑に刻まれている。我が故郷では,その二上山がちょうど射水川の向こうに眺望できるのである。 射水川は,河川改良され周りに雑木林と水田があった幼少時よりもすっかり変わっているが,唯一二上山の形は変わっていない。この日は折からの長雨が上がって雲が東へと流れ,山がすっきりと見えた。 小学時代,遠足で二上山に登った。頂上からは北に富山湾が見下ろせ,南に砺波平野(となみへいや)が見渡せたのを覚えている。 中学時代,郷土歴史に詳しい社会科の先生がいて二上山や射水川や家持に関することについていろんなことを話してくれたことを思い出す。また春,秋と写生行事があった。五位橋(ごいばし)を渡り麻生谷(あそうや),石堤(いしつつみ),赤丸(あかまる),馬場(ばんば)へと狭い古道を画板を自転車に付けて行ったものである。そう言えば馬場から狭い道の脇に低い山が連なっており城ヶ平(じょうがひら)へ登って写生をしたことを覚えている。城ヶ平は遺跡の出たところでもある。城ヶ平へ登ると,砺波に広がる散居村がよく見え小矢部川が光っていた。大概描く風景は,決まっていて木々の間から見える散居村で春は緑,秋は黄色に染まる水田であった。 あれから何年経ったであろうか? 時代も世の中も変わった。今こうして二上山を見て立っていると郷愁に駆られる。不思議である。都会暮らしを続けてきたこともある。それもあるが昔の時代や風景が愛おしくなる年齢になったのかもしれない。 そんなこともあって,家持のこと,砺波平野のこと,二上山のこと,射水川の変遷について調べてみた。 |
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高岡駅前にある大伴家持銅像 体格のいい人であったようだ・・・ |
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天平時代の砺波平野,小矢部川,庄川 |
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図1 砺波平野と小矢部川(射水川), 庄川の旧地図 @千保川 A祖父川 B中川 C荒又川 D岸渡川 E黒石川 |
今回資料を調べて砺波平野が扇状地であることを始めて知った。砺波平野は庄川(しょうがわ)の源流から扇状地が広がって出来たものである。郷土の歴史も地理も詳しくないので驚きである。昔より当たり前のように肥沃な穀倉地帯だと思っていた。図1に砺波平野とそこを流れる小矢部川(射水川),庄川の旧地図を示す。地図から判るように当時の小矢部川は,東にある幅の広い庄川からの支流が幾重にも注いでいた。小矢部川の源流は刀利(とうり)ダムの南にあり庄川ほど水量が多くないが,平野部で大きく蛇行していて富山では唯一流れの緩やかな川である。当時は今より水量が豊富であったようである。水量が豊富で流れが緩やかであるから,家持の時代これを運河として利用し富山湾から海産物を上流へ米等を下流へと運んでいたらしい。家持が越中の国司に任ぜられた当時は,小矢部川への庄川からの支流は,主に@千保川(せんぼがわ),A祖父川,B中川,C荒又川(あらまたがわ),D岸渡川(がんどがわ),E黒石川である。射水川と庄川の間の砺波平野は重要な稲作地帯であり,これらは小矢部川と同じく多くの船が行き来していた。天平宝字3年(759)の越中国墾田地図では中央貴族の橘奈良麻呂(たちばなのならまろ),大原真人麻呂(おおはらのまひとまろ),砺波在住豪族の利波臣志留志(となみのおみしるし)の私有地が見られる。墾田永年私財の法の施行された天平勝宝元年(749)には東大寺の僧平栄が墾田地占定のため越中国に下り同年砺波郡−伊加流伎(いかるき)・石栗の土地が東大寺の私有地になったこと,さらに翌年家持が墾田の検察に赴き砺波郡−多治比部北里(たじひべのきたさと)の家に泊まったことが記述されている。しかし,もともと肥沃な土地は支配関係が固まっており,家持は中央貴族,地元豪族・国司との墾田支配に対するトラブルに遭遇し,新しく支配されていない湿地や高地を開墾するための苦労を余儀なくされたようである。
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越中の国府へのルート 小矢部川は,図1から判るように庄川からの支流が枝分かれして数多く注ぎ込んでおり雨量が多いときは氾濫を起こした。そして,それぞれの支流が合っては離れ離れては合う状況を繰り返してきた。本格的に河川冶業が行われたのは加賀藩前田家の江戸時代が最初ということである。つまり小矢部川の南に旧北陸道が出来てからのことである。言い換えれば旧北陸道を通すため前田家によって河川冶業が徹底的に行われたのかもしれない。それほど難工事であったようだ。 そんな旧北陸道のない時代,家持が奈良から伏木へと向かう際に石川県との県境の倶利伽羅峠を越えてどのようなルートを取ったのであろうか? 図2に,現在の砺波平野に古道を加えた地図を示す。図で細かい点線部分が古道である。延喜式によると越中国府までの駅(うまや)は砺波関(現在の砺波山の北にある倶利伽羅峠(くりからとうげ)の東側辺り),川合(かわあいと呼ぶのか?現在の石堤辺り),亘理(わたり,現在の伏木(ふしき)港辺り)である。そして国府へのルートとして,砺波関の近くを流れる小矢部川で船に乗り小矢部川を下って伏木へと向かったという説,あるいは小矢部川の北側に走る古道を通ったという説がある。前述のように小矢部川の南を通る旧北陸道は後でできているから,この二説のどちらかだろう。でも古道を通って行ったものと想像したい。伏木に行くまで,手漕ぎの船旅だと休憩も必要だろうし増水や風雨の強い場合は問題がある。雪がちらつくとなおさらのことである。古道は,砺波関から東の石動(いするぎ)を通り桜町(地図で桜町遺跡と表示)へ延び,この桜町辺りから東北へ小矢部川の北側を沿うように延びている山際の道である。西北に山が連なっているので午前中は日が射すが午後は山陰になる涼しいルートである。夏は射水川を船下りするよりも快適である。冬は北風も凌げることから街道として当時良い条件であったように思われる。このルートでも小矢部川に注ぐ川に出くわす。しかしそれらは庄川の支流と違い西北部(能登方面)の低い山に源流を持ち,川幅もはるかに狭いし数も少ない。 |
図2 現在の砺波平野に古道を加えた地図 何年か前に砺波関の北側にある石動で桜町という古道沿いで 遺跡(桜町遺跡)が発掘された。縄文時代の集落跡である。 |
したがって川の氾濫は先ず無かったろう。この古道を通って,最初に田川(たがわ)に着く。ここでは子撫川(こなでがわ)が流れており小矢部川へと注いでいる。古道をさらに東北へ進み石堤(いしつつみ)へ着くと谷内川(やちがわ)が流れ小矢部川に注いでいる。そして手洗野(たらいの)へ着くと広谷川(ひろたにがわ)が流れ小矢部川に注いでいる。手洗野を過ぎると,古道を横切る川がなく二上山の南を巻くようにして守山(もりやま)から最終地の国府へたどり着く。これが古道のルートである。 前述の川合はこの石堤の東で小矢部川の船着場であったらしい。川合は川人(かわど)という説がある。この川人という名前は,増水で船が航行できなくなったとき川合の駅で宿の案内をする人間がいたので付いたとの伝えがある。この川人,しょっちゅう氾濫する川で船渡しの仕事から宿泊まで一切仕切っていたのであろうか? 石堤から西に少し行った赤丸に浅井神社がある。川人権現社とも一説に呼ばれ,増水被害をもたらす小矢部川に対し水神ミズハノメノ神を祭ったという。 |
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赤丸の浅井神社には,中学時代何回か行っているのであるが,境内の説明にあった奈良時代に植えられたという大きな欅のことだけよく覚えている。木肌が黒くごつごつして苔むしている所,穴の開いた所があった。 歴史とは面白いものである。家持がどのようなルートを通ったのだろうかと疑問を持つことから地理の勉強が必要となる。しかし,歴史的事実は不明確でも地理的状況は天平時代と大幅に変わるわけではない。すると地理的条件を掘り下げていって交通手段やそこにあった経済などが読み取れるものである。 |
射水川周辺の当時の産業と家持の歌 豊かな稲の収穫が見られる中で,家持は開墾という職務を遂行する傍ら,底辺にある素朴な領民や自然の美しさに目を向けていた。射水川の下流,駐在地である国府で家持は次のような歌を残している。
朝床に 聞けば遙けし 射水川 朝漕ぎしつつ 歌ふ舟人
である。国府にある家持の住居(現伏木測候所と伝えられる)からは射水川の河口がよく見える。きっと朝早くから働き始める領民の姿に心打たれたことであろう。 |
二上山の西に広がる丘陵 横穴式住居跡が発掘された城ヶ平がある。 |
国府の西南に守山,手洗野,佐加野(さがの),麻生谷,四日市,三日市がある。今は水田地帯が広がっている所であるが,古文書によると射水川流域は麻糸,麻布の産地で,守山は麻製品の集散地として栄えていたと言う。麻生谷という地名が麻の産地の名残を留め,四日市,三日市という場所からは四日,三日で市が立って商いの行われていた様子が窺える。麻生谷は,祖父の姪の嫁ぎ先があったので,小さいとき祖父に自転車に乗せてもらって行ったことがある。秋の時期で柿もぎや栗拾いをした。その当時は土壁の家がまだあったのを覚えている。麻生谷と言う名前がなぜそうなのか聞いてみたことがある。しかし,祖父もまた親戚も誰一人としてその謂れを知るものもいなかった。今納得である。 守山の西に五十里(いかり)がある。ここから氷見(ひみ)に通じる道が二上山の西を取り巻くように延びている。当時,氷見から近道をして塩を砺波平野へ運んできたと古文書にある。海産物を射水川を経由しないで平野部へ運ぶとなれば流通事情も変わる。平野部領民には,安いより良い塩が売れたようである。当時は当時なりに市場の知恵が生まれていたようだ。 ともかく,この水田地帯の広がる所で農業以外にも商業が非常に発達したことは間違いないだろう。今は旧北陸道に加え国道8号線,北陸本線が小矢部川の南に通りその沿線に商業中心が移動しているため,麻の集散地として栄えた守山も昔を偲ぶ縁もない。麻製品のことは知らなかったが,この地を発祥とし農業から繊維業が生まれ今の高岡中心部で盛んな捺染業へと発展したのではないだろうか。 手洗野や佐加野辺りでは,今でも西に連なる低い山と東に射水川の流れる素晴らしい風景が見られる。それはまさしく万葉の里のイメージ(秋の七草の写真←クリック)である。以前にサイクリングして,霞が二上山から射水川へとたなびいているのを何回か目にした。耕地整理されているので万葉の時代と比べ野の花は少ない。でも花が咲き乱れていた当時はきっと美しかったであろう。この辺りを詠んだ,次のような家持の長歌がある。(二上山の北には,これほどの平野はなく主に海を詠んだ歌が多い)
射水川 い行き廻れる 玉くしげ 二上山は 春花の 咲ける 盛りに 秋の葉の 匂える時に 出で立ちて 振りさけ見れば・・・(家持・巻17・3985)
これなどは,そこの雰囲気が今の時代でもよく判る歌である。 |
射水川は変わらず |
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小矢部川の土手に揺れていた野アザミ 長雨が上がって,雲が東へどんどん流れていた。小矢部川の下流部ではオイカワ,ウグイ,貴重種であるイトヨ,トヨミが生息する。又昆虫類の貴重種として,ハッチョウトンボ,タガメ,クロムラサキ,トヤマオサムシが生息するという。自然が豊かである。 |
小矢部川に注ぐ庄川からの支流の河川冶業が,現在においても進められている。家持の時代以来いつの時代も難工事だった河川工事の積み重ねにより今ではそれぞれ支流に立派な護岸が形成されつつある。そして氾濫の無い肥沃な水田地帯が砺波平野に広がっている。 こうして小矢部川の土手にたたずんでいると,古道を行く家持一行の馬の蹄の音が聞こえるようである。古道沿いには神社仏閣が点在するし古墳も出ている。きっと人の往来も多く当時は賑わっていたであろう。氷見から来る塩商人が通り,麻生谷の麻商人が市を開いていたという情景が想像される。家持もそれを見ながら歩いたのであろうか? 二上山が眼前に見えてきたとき,家持はどのような心持を抱いたであろうか? 越中国司赴任はわずか五年であるが,家持は何回か奈良と伏木を行き来する度にこの砺波平野を第二の故郷のように感じるようになったのではあるまいか? そして領民のことを歌い,射水川や二上山をはじめ富山の豪壮な立山連峰,伏木から見た富山湾(当時有磯海と呼ばれた),花や鳥,風,月,雪などの自然を詠んでいる。奈良へ帰還して藤原氏と対立した橘諸兄の失脚後,因幡の国にも赴任したというが歌はあまり遺さなかったらしい。家持は学門武門に秀で皇室に近い家柄であったという。しかし反主流派であったことが生涯を決定付けた。政争に翻弄されながらも自然の美しさや領民のけなげさに目を向けこの越中の地で歌作りに徹した。それ故この家持に惹きつけられるものがある。越中赴任中に家持が残した歌に素朴な女子の愛らしさを歌い上げたものがある。
もののふの やそ乙女らが 汲みまがう 寺井の上のかたかごの花
である。かたかごはカタクリのことで野に咲く素朴な花である。純朴で愛らしい乙女たちをよく表現している名歌であろう。 私は,幼いころから洪水災害のことを知らずに育った。例年のように祖父川で水があふれたという程度ぐらいである。強いては農家の苦労も然りである。我が故郷が,北陸有数の穀倉地帯として発展しているのは,言うまでもなく氾濫の地であった砺波平野の治水事業と開墾に力を注いだ家持によるところが大きいだろう。資料を調べてこれを一番強く感じた。 射水川は,今夏も美しい流れを留めている。そして射水川の向こうに見える二上山は,また美しい裾野を広げている。(終わり) |