2006年8月帰省して家持の縁の里である伏木を自転車ハイクしました。 一度は廻って見たかった所です。自然風景が美しく富山湾が一望できる所でもあります。またこの街には、 歴史的な建物や家持の歌碑があります。・・・天平18年7月、越中国守に任ぜられた家持が赴任するとき、 姑(をば)大伴氏坂上郎女が、次の和歌を贈ったそうです。「草枕 旅ゆく君を さきくあれと  斎瓮(いはひべ)すゑつ 吾(あ)が床の辺に」(17/3927)(訳)草を枕に旅するあなたが、道中無事なようにと、 神酒を奉る壺を据えました、私の寝床のそばに。・・・ 家持が始めて越中国府(伏木)に赴任したときの不安は如何ばかり だったでしょう?そんな万葉の里―伏木を今回、秋の七草も探して巡りました。時期がちょうど良く、秋の七草は全て見つ かりました。撮ってきた写真に家持の和歌(越中で詠まれたもの越中以外で詠まれたもの、万葉集に収録のもの新古今集に収録 のもの)なども織り込んで「故郷・・時代を探す旅 part2」としてまとめています。(写真は巡った順に並べました。 青色文字表題の写真の上にカーソルを移動すると、伏木の地図が現れ撮影したスポットが白く浮かびます。


旧伏木測候所(越中国守館跡)


高岡駅から氷見線に乗って伏木の駅で降りる。改札口のそばに貸し自転車が5台ほど並んでいたので, 駅長さんに頼んで借りることにした。駅前の大通りを渡って西へ坂を上り、少し行くと左手高台に旧伏木測候所がある。 ここが家持が住んでいたと言われる越中国守館跡。見晴らしはいいが、家持の時代に見えた射 水川河口と奈呉の海の風景は見えなかった。住宅が建て込んでいるのと工場が河口に沢山建っているためであろう。昔は、 この高台のすぐ下を射水川が流れていたという。


旧伏木測候所(越中国守館跡)


旧伏木測候所の庭に建てられた越中国守館跡の石碑。石碑の横にサクラが植えられ周りをツツジが取り巻く。


旧伏木測候所(越中国守館跡)


越中国守館跡の案内板・・以下のように書かれている。

「越中国司館跡(万葉遺跡)朝床に聞けば遥けし射水川朝漕ぎしつつ歌う船人  万葉集巻十九天平勝宝2年(750)3月2日、越中国守大伴家持が館舎の朝床からはるか射水川を漕ぎ歌う船人 の声を聞いてよんだ歌である。射水川(小矢部川)は当時この台地の下を流れていた。附近に大友・岸が館・大立 などの地名が残っているが、このあたりを東館と呼び国守館の跡と推定されている。」



勝興寺(越中国庁跡)


石碑には奈良時代越中を統治した越中国庁跡とある。この石碑の裏には、家持の次の和歌が刻まれていた。

「あしひきの 山の木末(こぬれ)の ほよ取りて かざしつらくは 千年寿(ほ)くとぞ」

(巻18−4136) 「ほよ」は宿り木のことで、髪飾りにして長寿をねがったもの。 石碑の左の池は、水が涸れない池と 説明が立て札にあった。この勝興寺にはこのほかに六つの不思議伝説があるそうだ。 実ならずの銀杏(本堂前)、天から降った石(本堂前)、屋根を支える猿(本堂屋根下の四つ角)、 魔除の柱(本堂内南側の奥)、雲龍の硯(宝物収蔵庫)、三葉の松(本堂北側)である。


勝興寺(越中国庁跡)


勝興寺境内の経堂。越中国庁跡の石碑のすぐ東側にあった。相当に古い建物であることが判る 。屋根の一辺が同じ四角錐の屋根でできている。屋根面の頂点が一点に集まる方形造である。 棟飾りは、四角の台の上に球形のものが乗っていて特徴がある。天平様式の建て方のようだ。 これと同じ形の建物を調べてみると、奈良の大安寺、浄土寺、法華堂があった。屋根下に込み入っ た彫刻がなされていて芸術品である。周り一帯蝉時雨・・14時をまわり一番暑い時間である。 勝興寺本殿は、今修復中であった。


勝興寺(越中国庁跡)


勝興寺境内の鼓堂前の石碑。勝興寺入口総門を入ってすぐの所にある。この石碑に、家持が詠んだ有名な長歌、 「海行かば水浮く屍・・・」が漢文で以下のように刻まれている。

「雲美由可者 美川久可波祢 也未遊可波 久斜武春閑者祢 大君能辺耳古所志那女  駕弊利見者勢之」

 (万葉集巻十八 4094番) 陸奥の国より金を出せる詔書を賀(ほ)く長歌の一節。この和歌、当地以外で詠まれたものとこれまで思っていた。


勝興寺の外側にあった寺の井戸跡


勝興寺のちょうど北西の角に位置する。家持が詠んだ和歌の寺井の伝承地。・・・この辺りは古く清泉が あったと言われているが今は水道工事などで水も出なくなり埋められてしまった。「寺の井戸」なら勝興寺か国分寺にあった 井戸ではないかと推定され、またこの周囲にかたくりの花が自生するところからこの場所を伝承地とし歌碑を建立した。・・・とある。


勝興寺の外側にあった寺の井戸跡


寺の井戸跡の隣に建っていた石碑。揮毫は万葉学者の犬養孝氏。この寺井を詠んだ家持の和歌

「もののふの 八十をとめらが 汲みまがふ 寺井の上の 堅香子(かたかご)の花」

 (巻19−4143) 「かたかごの花」は「片栗の花」のことでユリ科の多年草、3月末から4月下旬頃まで紅紫色の可憐な花をつける。 万葉集の中で「かたかごの花」を詠んだ歌はこの一首のみである。


万葉歴史館の秋の庭


万葉歴史館の秋の庭(歴史館には春夏秋冬の庭がある)で見たキキョウ。 今一番、咲き誇っていると館員の説明だった。このキキョウ、天平時代には「あさがほ」と呼ばれている。 「あさがほ」をこの地で詠んだ家持の和歌を調べてみたが見当たらなかった。次の和歌は別の場所で家持が詠んだものである。            

「かすが野の のべのあさがほ おも影に みえつついもは わすれかねつも」

(3894) 【出典】万8-1630(初二句は「高圓之 野邊乃容花」) 【他出】夫木和歌抄(躬恒)・五代集歌枕・歌枕名寄


万葉歴史館の秋の庭


万葉歴史館の秋の庭で見たオミナエシ。館員によるとちょうど咲き始めた ところだそうだ。家持が詠んだ和歌に次のようなのがある。

「秋の田の穂向き見がてり我が背子がふさ手折りける女郎花かも」



万葉歴史館の秋の庭


万葉歴史館の秋の庭で見たフジバカマ。満開は、まだまだ先だそうだ。フジバカマが全国で 絶滅の危機にあると館員に話すと驚かれ、この地では珍しくないと言う。実家の庭にも花は付けてないが生茂っていたから そうだろう。ナデシコのことを館員に聞くと歴史館ではすでに終わったそうだ。ナデシコは一番先に咲く秋の 七草だろうか?


越中国分寺跡


越中国分寺跡の東側に咲いていたフジバカマ。紫の他に白い花のものもある。 結構たわわである。フジバカマを詠んだ家持の和歌を探してみたが見つからなかった。フジバカマの和歌は万葉集で 山上憶良が詠んだ二首だけである。その有名な和歌は以下である。

「秋の野に咲きたる 花を指折り かき数ふれば 七種の花」
「萩の花尾花葛花 なでしこの花 女郎花また藤袴 朝貌の花」



越中国分寺跡


越中国分寺跡の薬師堂。8世紀半ば聖武天皇の詔により全国に国分寺と国分尼寺が建立された。 その国分寺の一つである。家持はこの造営に関わったとされる。発掘調査による遺物や研究から、 国分寺跡は広さがおよそ3万3千平方メートル、豪壮華麗な大伽藍であったらしい。又この薬師堂のある一帯から 瓦や土器などが発掘されたという。右側に仁王像のような彫刻があったが、風化で顔や衣服などが認識できなかった。 柱には虫食いの跡か?風化か?沢山穴が開いていた。屋根は勝興寺の経堂で見たのと同じ格好である。屋根は今修復中。 勝興寺と違い周りに塀がなく子供たちの遊び場の様,何か童歌でも聞こえてくるような雰囲気である。


越中国分寺跡


越中国分寺跡の南側に咲いていたオミナエシ(黄色)、キキョウ (白の丈の高い花)、ナデシコ(白の丈の低い花)。 万葉歴史館で見たのと異なり群がって野に咲いているイメージである。ちょうどいい時期に来れたので満足。 家持がナデシコを詠んだ和歌がある。

「なでしこが 花見るごとに 少女らが 笑まひのにほひ  思ほゆるかも」

 越中守に任ぜられ雪深い北国で暮らす家持は、望郷の念にかられ館の中庭にユリを 植えナデシコを蒔き、奈良の都に残してきた恋しい妻、坂上大嬢に思いを馳せたようだ。 天平感宝元年のことである。


越中国分寺跡


越中国分寺跡の薬師堂と石仏。東側に石仏が一列に並んでいる。しかし相当風化しているようだ。野の仏のイメージ。 聖武天皇が国家安泰を願い仏教を奨励した天平時代へちょっとタイムスリップした気分になる。合掌した後、写真を撮る。


大伴神社・気多神社


大伴神社の境内。ここへ来るまで国道415号線を走っているとき、坂は全く気にならなかったが、 この国道から西に分かれる万葉歴史館、国分寺跡への道はかなり上り坂であった。西に二上山がありその東側裾野 に伏木の街が広がっているからであろう。上り坂で結構汗が滴り本殿参道石段の上り口で湧水を飲む。 石段をずーっと登りつめてここへ達したが境内はすごく広い。本殿はまだまだである。


大伴神社・気多神社


やっとたどり着いた大伴神社本殿。地元の人達の信仰が伺える立派な本殿である。1100年ほど前の平安時代のころから社格が一国の首位という越中国唯一の名神大社。 450年程ほど前の再建と言われ室町時代の建築様式の特徴があると言う。


大伴神社・気多神社


大伴神社境内のハギ。大伴神社参拝を終え周りの植物を見ると、ハギ の花が咲いていた。ごくわずか榊の間に鮮やかな色を付けている。今の時期、やや早いような・・・、でもここへ来て思わず目にし感激する。早速ディジカメを構える。頭上から、ひぐらしの声が聴こえてきた 。東京ではまだ聴いていないので、これも早い感じである。見上げると杉が高く伸びていた。越中で 家持が詠んだハギの和歌

「石瀬野に 秋萩しのぎ  馬並めて 初鳥狩(はつとかり)だに せずや別れむ」

「石瀬野」は家持が好んで出かけた猟場の一つと言われる。石瀬野は現高岡市石瀬と現富山市岩瀬の二説がある。


大伴神社・気多神社


大伴神社のすぐ隣にある気多神社。家持が祀られている。家持はその 和歌にもあるように、純朴で貧しい領民や自然を愛した国守、まさに神様である。


大伴神社・気多神社


渋谷の浜を詠んだ家持の歌碑があった。

「馬並めて いざうち行かな 渋谷の 清き磯みに 寄する波見に」



渋谷の浜


大伴神社を後にし再び国道415号線に出て海に向かって走る。緩やかな下り坂で道の真正面に国分海水浴場の青い海が飛び込んでくる。気持ちの良い通りである。写真はその国分海水浴場。草原の向こうに車で来た海水浴客が沢山見られた。子供のとき海水浴で見た風景とは一新している。海の中にある岩は、左側が女岩、右側が男岩, この辺りから西の雨晴方面の浜を昔、渋谷と言ったそうである。家持が、その風景の美しさから、何度もここを訪れている。その家持の歌が以下である。

「澁谿を 指して我が行く この濱に 月夜飽きてむ 馬しまし停め」



伏木万葉ふ頭・・クズの花


伏木の北側に万葉ふ頭という風情のある埠頭がある。結構広くてコンビナートのタンクがずらっと 並んでいるが、ドライブ、サイクリングも釣りも良し、また家族で憩えるような場所でもある。その一角、 雑草が生い茂る中にクズの花を見つけた。富山湾の風を受けて揺れていた。東京と比べると、やはり開花が早いんだろうか? 北陸の秋は早い。家持の和歌で、越中でクズを詠んだものを探したが見つからなかった。 以下は、クズを詠んだ家持の和歌である。

「神なびの みむろの山の くずかづら うら吹きかへす 秋はきにけり」

(15) 【出典】家98 【他出】新古今集285・秀歌大躰・時代不同歌合・歌枕名寄


伏木万葉ふ頭・・緑地


伏木万葉ふ頭の突端にある灯明台(白い建物)。写真の白い柵の向こうは開放されており、海釣りをする人がいた。 昔、この辺りから射水川の河口東側の海を奈呉の浦(なごのうら)と呼んだそうだ。家持の詠んだ和歌がある。

「あゆの風 いたく吹くらし 奈呉の海人の 釣りする小舟 こぎ隠るみゆ」



伏木万葉ふ頭・・緑地


万葉ふ頭緑地から見た富山湾。 昔は、奈呉の浦と呼ばれた。家持の歌にあるようにあゆの風という東から吹く風が強かったようである。 この写真の感じからするとなるほど波が少し荒いようでもある。沖に見えるのは富山新港の工場地帯。家持の詠んだ奈呉の浦の和歌

「水門風(みなとかぜ)寒く吹くらし奈呉の江に嬬(つま)呼び交し鶴多(たずさは)に鳴く 」



射水川河口


伏木をぐるりと廻り最後に射水川河口の風景を撮った。夕方の風景である。空の色も斜陽の 反射も違った趣である。河岸は工場が並ぶ。かつて、 家持が国守館の場所からこの辺りを見て和歌を詠んだが、当時はどんなにか長閑だったことだろう。


射水川河口


川の両岸には化学工場が建つ。波静かな川をちょうどレジャーボートが走って行った。 天平時代この射水川、海産物を陸部へ米などを河口へと運ぶ運河の役割を果たしたという。 この辺りは船人たちが往来したようである。家持とは関係ないが、近くに「如意の渡」という船の渡し場がある 。かつて義経主従が奥州落ちの途中、乗船の際に怪しまれ、弁慶が義経を扇で打ちのめすという機転 で無事対岸に渡ることができたという伝えがある。


伏木駅


駅の入り口にある小さなポストに家持の銅像が乗っていた。右手に筆を持って和歌をひねっている姿であろうか? 29歳のとき越中に国守として赴任したという。そのときの若い姿のようにも映った。しかし、美男子ではある。


伏木駅


秋の七草のススキを伏木駅で見つけた。プラットホームからふと見るとわずかに 穂が付いている。電車の来る前にディジカメに納める。このススキを詠んだ和歌はこの地に 見つからないが、他の場所で詠んだ次のものがある。題名は「きじ」とある。

「すすきのに さをどるきぎす いちしるく なきしもなかむ こもりづまはも」

(1182) 【出典】万19-4148 【他出】夫木和歌抄・五代集歌枕・歌枕名寄 【補記】校註国歌大系は作者名なし。