故郷...時代を探す旅
 part3

高瀬遺跡への旅

高岡市以南,井波(いなみ)へと続く砺波平野(となみへいや)は,かつて大規模な東大寺荘園があったことで知られている。天平時代,地方大豪族の利波臣志留志(となみのおみしるし・・後に国に認められて平民階級から国司となる)が管理した巨大な荘園もある。また,そんな地方豪族が支配する荘園の多い中で,大伴家持(国守として赴任)が辺境の地・荒地で新たな荘園の開墾を余儀なくされたと史実もあり,荘園にまつわる支配者間の確執に色々想像が広がる。

最近,そのような荘園の管理所であった一つで砺波平野南部に位置する高瀬遺跡があることを知った。遺跡発掘後,掘立柱跡や運河跡が残され,遺跡内に建てられた歴史資料館には出土品などの資料が数々展示されているという。富山県下でも色々な所で遺跡が発掘されるが,大概埋め戻されるのが普通であるから,この高瀬遺跡は興味深い。またそれ以来,歴史資料館を訪ねれば,高瀬遺跡のこと以外で砺波平野の広範囲な荘園の詳細や運河の詳細,家持の関わりなど,新たな情報が得られるかもしれないと,ずっと聞きたいことなどまとめ計画を立てていた。そして,今年の夏(20078月)高瀬遺跡を訪ねた。

高岡駅から城端(じょうはな)線に乗り福野駅で降りる。高瀬遺跡は,福野駅から3km東に行った所にある。ちょっと歩いては行けない。この炎天下だとなおさらである。そこで駅前のコンビニエンスストアに入って高瀬遺跡を訪ねたいこと,交通手段,高瀬遺跡の周りに食事をするところがあるのか等聞いてみる。砺波平野も広いので高岡の事情とは異なるのである。店主のおばさんが出てきて,

「バスは,井波行きの朝夕の時間帯にしかなく高瀬遺跡の周りは全部田圃で何もない所・・」

だと言う。タクシーで行くとどれくらい掛かるのか聞いてそれほどの額でもないので,

「それじゃタクシーで行きます。」

と言うと,

「特にサービスしてくれるタクシーの運転手さんを知っているから・・」

と,わざわざ店の前までそのタクシーを呼びに行ってくれた。おばさんは,多分このコンビニエンスストアを開いて長いのだろう? 知り合いが多いようである。

お昼の弁当と飲み物を買い,おばさんにお礼を言ってタクシーに乗り高瀬遺跡まで向かう。運転手さんに里帰りで来ていること,砺波の荘園について調べていることなど話す。運転手さんは遺跡が発見されたとき,お客さんを案内することがあり,場所や名前を覚えているそうである。今日行く杵名蛭の荘(きなひるのしょう)の高瀬遺跡は発見されてやや古いが,最近福野町の北側にある砺波市東部の久泉(ひさいずみ)遺跡で天平時代の大溝が発見されたことを教えてくれた。しかし,そちらの方は色々な出土品が出た後,調査終了し埋戻されているそうだ。

タクシーの中から,荘園であった田圃がずっと続いているのが見える。一面緑色の世界である。運転手さんが,今年の梅雨は災害がなく実りは順調だという。確かにそう感じる。山裾まで緑色に染まった田園があってその中に,散居村が点在する美しい風景が続いていた。

井波歴史民族資料館にて

高瀬神社前を通って高瀬遺跡に着いた。公園になっているだけあって綺麗に花や樹木が手入れされている。公園は駐車場と井波歴史民族資料館と役所跡,芝生広場,運河であった曲水路からなり意外と広い。先ず,井波歴史民族資料館へ入いる。館長と受付の女性事務員の二人が常駐している。今回,荘園のことや運河のこと,天平時代のこと,できれば大伴家持の関わりなどについて聞きたいと事務員に頼み,館長を紹介してもらった。館長のおっしゃるには,先ほどまで市民大学講座が開かれ大学の先生がいらしたそうである。本来ならその方が詳しいとのことであるが,判る範囲で教えて欲しいとお願いする。

 

写真1 井波歴史民族資料館の石碑

右側に資料館3階建てがある。 

 

図1 情報を加えた砺波平野の旧地図

 

高瀬遺跡と運河のこと

最初に館長から高瀬遺跡の概要を話してもらい,その後で用意してきた資料を取り出し,地図を開き当時の高瀬遺跡と運河のことを質問する。【図1に館長から教えてもらった情報を加えた,砺波平野とそこを流れる小矢部川(おやべがわ・・旧射水川(いみずがわ)),庄川(しょうがわ・・旧雄神川(おがみがわ))の旧地図を示す。】 地図で砺波平野を流れる川の全体を示しながら,この高瀬遺跡の役所から米などの産物がどのようにして越中国府(現伏木(ふしき))へと運ばれたかを聞く。高瀬遺跡の直ぐ南側に勧行寺川(かんぎょうじがわ)が流れ,西にある旅川(たびがわ)へと繋がり,小矢部川へと通じて伏木へと運ばれていたそうだ。また今回,庄川の本流がかつてもっと西側にあったことを教えてもらった。そうすると,この役所に集められた農産物は,射水川を経由せずとも庄川を通って直に伏木へ運んだ方が早いような気もする。そこで聞いてみると,この庄川は今と同じく当時も極めて急流で,とても運河に適した川ではないということである。砺波平野を巻くようにして運河を利用し越中国府のある伏木へと下るのであれば,途中,領民に情報伝達も確かにできるだろう。その方が意味がある。実際にそのような領民と役人の連絡が運河によってなされていたのであれば,これこそ運河の良さではある。

 

久泉遺跡と運河のこと,大溝建設と家持の関わり

さらに館長から最近の発掘調査で次のような話を聞いた。この高瀬遺跡よりやや古いとされる久泉遺跡が北部の砺波市に発見されたということである。このことはここへ来る途中,タクシーの運転手さんからも聞いた。 平成147月から試掘調査が始まったそうである。奈良―平安の8世紀後半に造られた「大溝」の流路が約2kmに渡って確認されている。最大幅10m,最深部約1.5m,延長約47mの大溝が見つかっているという。大溝が開削されたと見られる8世紀後半は,奈良・東大寺が寺院経営の収入基盤とするため,越中など肥沃な北陸を中心に国の許可を得て東大寺領荘園と呼ばれる田地を占有した時期に当たる。砺波郡では,図1に示すように石粟村(いしあわむら)や伊加流伎村(いかるぎむら),井山村(いやまむら)などが知られ正倉院に絵図が残っているそうだ。

746年から,国司として越中に赴任した大伴家持も墾田開発の使命を担っていたとされるが,家持が任務として用水路の建設や管理に携わったことなどは十分に考えられるそうである。今回見つかった大溝の建設大工事に指揮を振るった可能性もある。大溝が通じていたと推定される石粟村は,当時の役人橘奈良麻呂(たちばなのならまろ)(721年―757年)の所有地である。奈良麻呂は,父諸兄(もろえ)の権勢により出世したが,757年,藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)の殺害や皇位奪取などを計画したが未遂に終わり,奈良麻呂の墾田は没収され,東大寺の所有となったという。色々な政略がこの地の荘園と結びついて誠に興味深い。

久泉遺跡は砺波市中心部の真東に位置する。それで今度はこの久泉遺跡への運河はどの川が利用されたのか聞いてみた。高瀬遺跡はこれより南に位置しているので射水川―旅川―勧行寺川となるが,砺波市中心にちょうど入り込む川は,岸渡川(がんどがわ),荒又川(あらまたがわ)などである。そうすると射水川を途中から南下して最短距離で砺波へ到達する川・・岸渡川がそれらしく思われる。館長によるとこの名前の由来からして橋の無い当時射水川を横断して岸を渡せる役割をなしたと解釈できるということである。実は,中学時代社会科の先生から,天平時代交通手段として越中国府から砺波平野に向かうのに岸渡川がよく利用されていたらしいというのを聞いたのを覚えており,それがどこから流れており,どのような荘園から産物が運ばれていたのかを一度確かめてみたかったのである。今館長から教えてもらって,ひょっとすると岸渡川も家持が通ったのかもしれない・・と思っていたことがすっきりしたような気になった。やはり専門家と会って話を聞くということは有益なことである。ここを訪ねてかなりの情報が得られ有難かった。そして何故か石粟村,伊加流伎村の遺跡も訪ねてみたくなったのであるが,現在埋め戻されて国道359号砺波東バイパスが建設されているので見れない。本当に残念である。

 

高瀬遺跡の出土品のこと

質問を終えて,本館3階にある高瀬遺跡の出土品展示物を案内してもらった。この高瀬遺跡は当時杵名蛭荘と呼ばれていた荘園にある平安初期の遺跡である。結構広かったことが展示された地図からよく判る。高瀬遺跡から北に300m行ったところの高瀬神社(天平時代以前に鎮座し越中一ノ宮であったという)の西にある遺跡で線刻円面硯(せんこくえんめんすずり)が発見され,高瀬遺跡から南東約300mにある穴田地区の集落跡で「家成(いえなり)」,「南麻呂(みなみまろ)」と書かれた墨書土器や「和同開珎」「神功開宝」などの銅銭が発見され,いづれもここの資料館に展示されている。和同開珎は歴史の教科書で見たことがあるが,こうして本物を数多く目の前にすると違うものである。触れられるわけではないが,黒い銅銭を見ると重みも感じられた。

また展示されている地図を見ると砺波市の東にある石粟の荘,伊加 流伎の荘,井山の荘と久泉遺跡の位置や距離もはっきり判る。これらの荘園の東側は,地図によると山間部のガレ場であったようである。杵名蛭荘と石粟村との間には地方豪族と中央貴族の支配する荘園がもっと分布したのだろうか? またそれらの境界では領有権の争いがあったのではないかと想像してみたりする。

写真2 曲水路(運河跡)に浮かぶ水蓮

 赤い建物は歴史民族資料館

写真3 井波歴史民族資料館の3階から見た公園の

     遺跡(掘立柱跡が見える)

遠方の山は,八乙女山(やおとめやま)

高瀬遺跡を散策

図2 高瀬遺跡公園の平面図

館長の説明を聞き終えて,ちょうどお昼の時間になったので資料館を出たところのベンチで昼食を取る。このベンチは屋根があり日陰である。そして何より風が吹いてくるので結構涼しい。ベンチから前を見れば曲水路跡に水蓮が咲きとても風情がある(写真2)。食事の後しばらくここで,のんびりと時間を過ごし,それから公園内を廻ることにした。

役所跡は,図2のように主殿,土間敷建物と脇殿からなりコの字型に並んでいる。主殿は5間×4間(10.5m×10.2)の規模で意外と広い。更に主殿では掘立柱の跡が横に6列縦に5列ほぼ等間隔に並んでいる。その主殿の後方には柵列の跡があるが進入防止の目的で作られたのだろうか? 運河であった曲水路は,図3の役所跡鳥瞰図から想像されるように当時は本当に幅が広かっただろう。現在は写真4から判るように花菖蒲が植えられていて,船が通ることすら出来ない。しかし,当時の舟の往来と賑わいが想像できた。この水路跡には北陸で最初に発見された木簡や木製品,瓦塔が埋まっていたという。

高瀬遺跡についての発見からの経緯は・・・

1970.10.8 高瀬土地改良区圃場整備工事中に柱跡を発見。1971年。4.16 県教委は奈良国立文化財研究所の始動により発掘調査を開始。5.17 北陸では初めて,全国で7番目の木簡を発見。5.25 発掘調査完了。建物跡【主殿,脇殿】 河川跡,柵跡,出土品の発見により荘園の荘家跡と判明。1972.3.22 史跡指定【11,610u】・・ とある。

写真5に,復元されている主殿と土間敷建物と脇殿の跡を示す。真正面が主殿である。主殿は掘立柱が地表に出ていたが,土間敷建物と脇殿は掘立柱の跡が砂で埋められている。でも柱の間隔は判る。直に掘立柱に触れてみたが,結構太いことが判った。これだけの丸太を基礎に垂直に埋め込む技術は大したものである。それぞれの建物跡の中間に立って見渡してみるが,距離はそんなにも無いような気もする。多分建物が無く地面だけを下に見ているためかもしれない。 

写真6に脇殿跡を示す。柱の跡が茶色の土盛りの周辺で縦に6本,横に5本あるのが判る。

写真7に主殿跡のアップを示す。柱の大きさは全て同じでなく,真ん中の一列が細い柱で出来ている。また脇殿(写真6)も主殿(写真7)も廊下のあるところの幅が太い柱で二列に並んでいる。主殿は,この間隔が2.5mぐらいであるから廊下の幅は2.5mの幅広いものだったようだ。

図3 役所跡の鳥瞰図(想像図)

奥が土間敷建物,右が主殿,手前が脇殿である。

写真4 曲水路跡

運河の終点である役所に設けられた曲水路である。

今は狭い水路で花菖蒲が植えられているが,当時

は広く舟が擦り抜ける幅を持っていたであろう。

写真5 主殿跡(正面),土間敷建物跡(左),

脇殿跡(右)

奥には柵列がある。

写真6 脇殿跡

柱のあったところは砂で埋められていた。向こうに

見える山は八乙女山である。

写真7 主殿跡

手前から3列目に細い柱跡が並んでいる。また一番奥には屋敷裏にあったとされる柵列跡が見られる。

 

写真8 南の曲水路から見た役所跡

手前の曲水路には花菖蒲が茂っている。

 

勧行寺川から旅川を散策

高瀬遺跡から,運河は勧行寺川へ移る。遺跡の運河の出入り口から遠方を見ると緑の水田が一面に広がっている(写真9)。この遺跡は平安初期の建物と言われるが,きっとこうした風景が見られただろう。領民が受け継いできた墾田が現在こうして豊かな実りをもたらしているのである。

 高瀬遺跡の南側に沿って勧行寺川が流れている(写真10)。今は細い用水路であるが,当時は川幅も広く水量も多かったに違いない。夏雲を映してゆっくりと川が流れていた。

写真9 高瀬遺跡の中を走る曲水路

出入り口に当たり,ここから右折して勧行寺川へと移る。

役所の外は周りが田圃である。稲穂が実って美しい。

 

写真10 高瀬遺跡の南側を走る勧行寺川

昔はこの用水を舟が通って射水川へと下ったようだ。右が役所後の高瀬遺跡である。

 

勧行寺川に沿って水田地帯を歩く。高瀬遺跡を過ぎ西へ歩いていくとどこもかしこも水田である。コンビニエンスストアのおばさんが言っていた通り,周りには何も無いところである。このあたりの川幅は高瀬遺跡の南の勧行寺川より広く流れが速い(写真11)。水田をぐるりと見渡しながら歩く。稲穂のもう実った水田もある。水田の中に砺波平野独特の散居村が見られた(写真12〜写真13)。散居村の屋敷は東立(あずまだち)という建て方で切妻様式である。東から見た屋敷の正面は,大きな三角の妻面に太い梁と束、そして貫がます目に組まれ、その間が白壁となっていて美しい。さらに屋敷の周りに杉や竹などが囲んでいるのが特徴である。この屋敷林のことを「かいにょ」と呼んでいるそうだ。砺波平野では年中西風を受ける。そんな環境にあって家屋を風雪から守り、また夏の強い日差しを避けるために、家の周りに木を植え、大切に育てたのが屋敷林となったという。その起源については定かではないが、砺波平野の開拓時にさかのぼり、原生林の一部を屋敷林として残したという説がある。この「かいにょ」は,いつの時代からの風習だろうか? 奈良時代からあったのだろうか? ちょっと興味がわいてくる。ちなみに,「あずまだち」は明治以降のことである。

写真11 高瀬遺跡の西へ流れる勧行寺川

川に沿って行くと旅川へと出る。

 

写真12 水田の中の散居村―1

利波臣志留志は一番巨大な荘園を支配してい

たという。ここなどはそれであろうか?台風で屋敷

林が倒れるなどの被害が数年前にあったようで家

を取り巻く木々が減っているということを聞いた。

屋敷林も時代とともに消えつつあるのか?隣に新し

い家屋が建っている。

 

写真13 水田の中の散居村―2

水田の前にあるのは馬鈴薯畑のようである。

写真14 実りの早い水田

たわわに実った稲,豊作は間違いないだろう。はるか遠方に見える山は,高岡市の西に連なる西山丘陵である。

勧行寺川の岸辺にカノコソウ(後で調べて名前が判った)が咲いていた(写真15)。この花は,初めて見る花である。赤紫の花であり,ハルオミナエシとも呼ばれ今の時期に咲く花だそうだ。オミナエシという花は黄色である。秋の七草の一つである。そのオミナエシは見られなかったが,ここでハルオミナエシが見られて良かった。この花からいにしえの情景をしばし想像する。川を歩いていると田のはるか向こうから太鼓の音が突然してきた。高瀬遺跡の北にある高瀬神社からである。高瀬神社は,奈良時代よりずっと前に鎮座した越中一ノ宮という。遠足で小学生の時には来たことをかすかに覚えている。祈願に訪れる人たちや観光で訪れる人たちが一年中絶えないようだ。

写真15 勧行寺川に咲いていたカノコソウ

ひときわ目立つ,赤紫の花である。始めて見た花であるが,

後で図鑑を調べてカノコソウと知った。

 

写真16 高瀬神社

高瀬遺跡を出て北側の向こうに杜と鳥居が見えた。

越中一ノ宮である。

 

 何の変哲も無いといえばなんだが水田ばかりの中を,真っ直ぐ勧行寺川に沿ってひたすら西へ歩く。今日は,とても暑い。この炎天下の中,さすがに出くわす人もいなかった。ほとんど車も通らない川岸の道である。そんな道を歩き続けてようやく旅川にたどり着いた。ちょっと一息つく。この旅川は,勧行寺川と比べて川幅が広く,深くて流れも速いようである。奈良時代もこうした運河から運河への船の移動をし,伏木の国府へを産物を運んでいたのである。川の傍を歩き,川が変わる度に流れが変わる。そして風景がちょっとづつ変わったりするとまさしく旅気分になる。

写真16 旅川の橋

流れがやや速いようである。

写真17 旅川の橋から見た下流

川下には小矢部川(旧射水川)が繋がる。さすがに,ここからは小矢部川へは遠くて行けないがきっと美しい流れがあるであろう。左側の竹林に囲まれた「あずまだち」の家を見つけた。

 

写真18 あずまだちの家

旅川の岸の遠方に見つけた「あずまだち」の家を

ズームアップで撮る。竹薮の雰囲気がいにしえの

屋敷を髣髴とさせる。

 

旅を終えて

井波歴史民族資料館を訪ねて,いろいろな新しい情報が得られた。運河の利用と砺波平野で発掘された遺跡との関係,新たに見つかった久泉遺跡や大溝,石粟の荘,伊加流伎の荘,井山の荘のこと,それから家持の関わり,橘の奈良麻呂の支配した荘園のことなどである。橘奈良麻呂の政略の失墜から,この地にある墾田が没収された話などきわめて興味深かった。そんな荘園の開墾に関わる領民はどんな生き方をしたのだろうか? 疑問が沸き上京してから,資料で調べてみた。

当時律令制を支えたのは農民の農業生産と人身労働である。班田収授法によって国から,口分田を与えられて農作業に励む農民は班田農民と呼ばれる。しかし,税や労働の負担が大きかったようである。律令的負担として以下のようなものがある。

1.土地税(租)が徴収される。2.人頭税(庸・調)・・主に布を生産して徴収される。3.雑徭(力役)が地方国司の権限下で徴発される(令条外の雑徭・・調庸運脚,春米運京もあり)。4.兵役(衛士,防人),これは課(調)・役(庸または庸と雑徭)の一部または全部免除される。5.雇役・・食料,最低賃金の支給される有償労働(律令国家の中央における土木工事などはこれが多く,農民は逃亡すること多し)6.出挙・・公出挙(国家により利息付で種籾を貸与し収穫期に利穂を含めて返還させる。)・・とある。これらの全てが農業生産力の低い当時農民を窮迫させたということが資料に出ていた。

班田農民は,公民で(A)自己の家族労働力の中に多数の奴隷労働力を持ち,私有地も多量に有する層で郡司層に代表される地方豪族級の農民 (B)自己の家族労働力により土地耕営に当たる階層で少量の墾田も有する中堅農民 (C)広汎に存在する貧窮農民で,大土地所有者などの主たる労働力提供者(圧倒多数)に分けられる。一方班田農民以外では奴隷階級があり (D)奴婢・・綾戸,官戸,官()奴婢と呼ばれる公民(良民)の下層の賤民で口分田は公民と同等提供される者,および私人(賤民)で口分田は公民の三分の一が提供される者に分けられるという。(B)の階層も中には,負担に耐え兼ね浮浪・逃亡に走る者もいたということである。そうした国家全体の動きの中で,北陸−東大寺初期荘園の成立という説明が出ていた。北陸は未墾の野地が半ば以上を占めており東大寺大仏建立などで開墾急務となり,灌漑設備,農作業道具,収容倉庫,管理機関などが北陸現地に建設されたと言う。もし北陸において,労働に刈り出されたのが(C)や(D)の階級が大半であるとなれば大変なことである。しかし,資料によると北陸において開発のための主要労働力は在地の班田農民とあった。(D)の階級の農民も少しは含まれていただろうが・・やや胸をなでおろす。おそらくは生産能力よりは地の利が勝っていたのであろう。言うに及ばず年中,水に恵まれ自然に恵まれた扇状地が砺波平野である(川の氾濫は不可避であったが)。中堅農民がつましくやっていこうとすれば,可能なことではある。さらに郡司級の地方豪族(利波臣志留志など)の手を通して徴発され(ただし自己の墾田を熟田化しようとも期待した)寺側の灌漑工事に積極的に参加したとある。そして熟田化された寺地を賃租する権利を確保しようとした(小規模治田により経営維持し,のちのち力田となる)と説明があった。

ところで,大伴家持が越中に赴任し新たな開墾を迫られる状況において,砺波平野が例えば利波臣志留志によってほとんど開墾され,未墾の地が荒地や例えば庄川のがれ場しかなかったため開墾に苦労したというのはどうだろうか?これは地形的の問題だけを言っているように感じられる。大伴家持は,国司まさしく国の使いである。それが悪いというわけではない。まして大伴家持を領民が気に入らなかったというわけではさらさら無いであろう。資料を読み進むと,浮浪逃亡に走る農民の中には生活の破壊の結果としての逃亡のほかに課役忌避による国家への抵抗の一手段として積極的に行うものが増えていたという記述がある。そういうことを考えると,この天平時代末期から,反律令的な動きが地方(多分富裕な自然環境にあるところ)で芽生えつつあったのではないかと想像されるのである。

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

参考資料)安部真琴,他2名,入門日本史上巻,(吉川弘文館)

 

額縁: PART1へ戻る