序 比定されない辟田川(さきたがわ) 天平時代越中国守に赴任した大伴家持は,数々の歌をこの地に残した。海を歌い山を歌い川を歌い,また花鳥風月の自然を歌にしている。そんな家持が天平勝宝二年3月8日【旧暦】に記録した次の日記がある。
鵜潜るふ歌一首,また短歌 4156 あら玉の年ゆきかはり春されば花咲きにほふ あしひきの山下響み落ち激ち流る辟田の 川の瀬に鮎子さ走り島つ鳥鵜養伴いへ 篝さしなづさひ行けば吾妹子が形見がてらと 紅の八入に染めておこせたる衣の裾も徹りて濡れぬ
反し歌 4157紅の衣にほはし辟田川絶ゆることなく吾かへり見む である。 ここにある辟田川であるが,現在比定されていないという。越中で読まれた万葉集の河川はほとんど比定されているが,唯一この川だけが判らないというのだ。辟田川がどの川であるか?江戸時代から議論がなされ次の三つの説がある。@越中で高岡市北部の二上山(ふたがみやま)から伏木(ふしき)へ流れる射水郡(いみずのこおり)加古川説,A二上山から氷見市へ流れる射水郡泉川説,B砺波郡(となみのこおり),小矢部市の子撫川(こなでがわ)説である。泉川,加古川,子撫川を加えた砺波郡と射水郡の地図を図1に示す。図から判るように泉川は二上山から西北に流れ,加古川は二上山から東北に流れ,両河川とも二上山山腹の急斜面にあり流域が短かく川幅が狭い。一方子撫川は広く長い川で小矢部市の山間部を東南に流れ小矢部川へ合流する。そんな特徴がある。伏木の越中国府から近い順に並べると,加古川,泉川,子撫川である。
図1 砺波郡と射水郡の地図
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それぞれの説の支持者とそのコメント
@射水郡加古川説:黒川総三,清田秀博(『万葉地名雑考』)・・二上山から発し高岡市伏木古府(ふしきこふ)郊外を流れる富山湾に注ぐ加古川 と想定。天平勝宝二年(七五〇)三月初旬に詠まれた「鵜を潜(かづ)けたる歌」の長歌「落ち激(たぎ)ち流る辟田の川の瀬に年魚児(あゆこ)さ走(ばし)る」にある鮎は今の四月上・中旬ごろの子鮎でその生育状態からして直接海に注ぐ川を推定すべきで,小矢部川河口から離れた子撫川には稚魚は至れないことや当時の鵜飼いは川を徒歩づたいで行う浅瀬の川であったこと,更に「辟田川」の万葉仮名表記の意味を分析し国府に近い加古川が地理上から辟田川と呼ばれていたという。 A射水郡泉川説:富田景周(『楢葉越の枝折』),森田平治(『越中万葉遺事』),高沢瑞信(『万葉越路廼栞』)・・二上山北側西田を流れる泉川である。サイダはサキタの音便によって生じた地名である。 B砺波郡子撫川説:福田美楯,杉木有一(『越中国誌』)・・小矢部川支流の子撫川である。稗田菫平・・子撫川沿岸にサキタと言う小字があったと云われ,開田(サキタ)姓の家も現存する。内山年彦(江戸期に万葉集の研究で著名だった射水郡内山逸峯の曾孫)・・「壁田川は子撫川なるべしと伝えり」とする近世国学者,富士谷御杖門人の遊紀行(『万葉集越中事跡考』)を紹介。家持にとって子撫川は越中国内の出挙(すいこ)巡行(国庁が国内の農民に貸与した稲の返納状況等の視察)や,都への往還のつど,その途上で目にする意外と身近な川となっていたと思われる。
それぞれに対する評価:角川日本地名大辞典16富山県(角川書店S54.10.8)より引用 @,Aあまりにも川が小さく,アユが多数遡り鵜漁する川として不適当 Bアユも遡り暖流で万葉歌の趣と合致するが,国府から遠過ぎるのでやや難点あり。
思いを巡らす 私は,歴史学者でもなければ考古学者でもなく辟田川のことについて詳しく研究を続けていた者でもないが,インターネットと図書館で調べ比定されていない辟田川を自由な発想で推定してみた。
私が比定する辟田川・・・辟田川は子撫川では? 前述のように辟田川は比定されないが,私は子撫川と推察した。以下に示す。
空間的な推察 泉川は二上山の山腹を西側へ,加古川は二上山の山腹を東北側へと流れている。これらは急流であり流れの音も大きいが狭く短く,和歌にある・・あしひきの山下響み落ち激ち流る・・にある山裾の瀬の流れのイメージがわかない。一方,子撫川は,山間を緩やかに流れ小さな滝がいくつかある川である。「山下響み落ち激ち流る辟田の川の瀬に鮎子さ走り・・」という小さな滝の瀬音のイメージがわいてくるのである。また川幅もそれなりに広く,長く小矢部川に注ぐ途中は急流ではない。当時は鵜匠が川の中を渡り鮎を鵜のいる方へ追い込む漁法(徒歩鵜漁・かちわたりうりょう)が取られていたから,歩くのにこの子撫川は適度な傾斜と幅がある。そのあたりから,子撫川の方が辟田川を歌ったイメージに近いと見る。
季節的な推察 前述の理由にも増して何よりも私がこの子撫川を辟田川とする理由がある。家持の日記によると,天平勝宝二年2月【現暦で3月13日以降】から春の出挙で砺波平野の墾田を検察しており,前述の歌はその後に記されたものである。またその歌は家持の妻である坂上大嬢(和歌には吾妹子と表記)が前年(天平22年)暮れに越中に来てから詠まれており,坂上大嬢が染めてくれた衣(以前に送ってくれたと考えられるが)を天平23年の春に着て出挙に出たと考えるのである。妻の勧めもあって,あえてその紅の着物を着て出かけたと解釈するのである。そしてその出挙した砺波平野には唯一子撫川があるということである。 一方で家持は日記に過去の思い出を歌に記す特徴もあり過去に作った歌の内容を日記にすっぽり入れたとも考えられる。前年に射水郡布施の水海(ふせのみずうみ)を訪ねる際加古川を経由して泉川を通っており,そのとき作った歌または思い出して作った歌であれば不思議でもないが,後述の記録日記のストーリーからするとどうも受け入れにくい。 もし,坂上大嬢が越中に来て以来砺波墾田検察を除いた時期に,射水郡の加古川や泉川へ出向き歌を詠んでいたとすればどうだろうか?時期的には(イ)前年暮れから砺波検察開始前(天平勝宝二年2月初め)までの間と(ロ)砺波検察後から氷見の古江村を訪ねる天平勝宝二年3月9日前までとなる。(イ)については,先ず2月はじめは現暦で3月13日ごろであり,子鮎が溯上しないであろう。資料によると全長35mm程度に成長した稚魚は,現暦で3月下旬から5月にかけて5〜10cm程度となって初めて川を溯上するとある。だから(イ)の説は考えにくい。 次に(ロ)である。家持が砺波検察後,国守館に戻って書いた日記(日付は旧暦)には以下のようにある。
天平勝宝二年三月の一日の暮に,春の苑の桃李の花をみて作める歌二首
4139春の苑紅にほふ桃の花下照る道に出で立つ美人 4140吾が園の李の花か庭に降るはだれのいまだ残りたるかも とび翔る鴫を見てよめる歌一首 4141春設けて物悲しきにさ夜更けて羽振き鳴く鴫誰が田にか食む
二日,柳黛を擧ぢて京師を思ふ歌一首 4142春の日に張れる柳を取り持ちて見れば都の大路し思ほゆ
以下途中略 三日,守大伴宿禰家持が館にて宴する歌三首 4151今日のためと思ひて標しあしひきの峯上の桜かく咲きにけり 4152奥山の八峯の椿つばらかに今日は暮らさね大夫の輩 4153漢人も船を浮かべて遊ぶちふ今日そ我が背子花縵せな
である。 これらの歌は,すべて国守館近くの情景を詠んでいる。二上山や射水川河口の情景である。したがって,これらを詠んだ日には泉川や加古川を訪れていないだろう。きっと砺波墾田検察の資料整理・資料作りをしており,合間合間に和歌を作ったのではないだろうか?そして,続いて次の記録が日記にある。
八日,白大鷹を詠める歌一首,また短歌 4154あしひきの山坂越えて往きかはる年の緒長く しなざかる越にし住めば大王の敷きます国は 都をもここも同じと心には思ふものから 語り放け 見放くる人眼乏しみと思ひし繁し そこゆゑに心なぐやと秋づけば萩咲きにほふ 石瀬野に馬だき行きてをちこちに鳥踏み立て 白塗りの小鈴もゆらにあはせ遣り振り放け見つつ いきどほる 心のうちを思ひ延べ嬉しびながら 枕付く妻屋のうちに鳥座結ひ 据えてそ吾が飼ふ
真白斑の鷹
反し歌 4155矢形尾の真白の鷹を屋戸に据ゑ掻き撫で見つつ飼はくしよしも
この歌の出る前年の記録には三島野で狩をしたとき飼っていた大黒という鷹が行方不明になったことが書かれている。八日の歌にある白オオタカは国守館で飼っている鷹で,大黒のあとのものである。大黒と違う白いオオタカではあるが,国守館の庭で前年鷹狩りに使った大黒のことも思い出して書いているのではなかろうか?この地(越中)に赴任して以来年月が経ち,いろいろとこれまでのことを思い起こしているのだろう。そんな気持ちが伝わってくるのである。 この次に出てくるのが,先の辟田川の鵜飼の歌である。
そして,その歌のあとに 季春三月の九日,出挙の政によりて旧江の村に行き,道のほとりに目を物花に属くる歌,また興の中によめる歌
渋谷の埼を過ぎて,巌の上の樹を見る歌一首 樹名つまま 4159 磯の上のつままを見れば根を延へて年深からし神さびにけり
が記されている。旧江(ふるえ)の村は射水郡にあたる。地図には旧江神社の場所を示す。地図に示すように越中国府からは渋谷(しぶたに)の崎を過ぎる前に現加古川を通り,渋谷の崎を過ぎて現泉川に必ず出くわす。そこで考えるのであるが,この両河川のどちらかが辟田川であるならむしろ九日から家持が出かけた射水の郡,旧江村出挙の折に,鵜飼の歌を詠んでいてもおかしくないであろう。効率を考えると,その行動も十分考えられるからである。以上から(ロ)の説も考えにくい。
鵜飼で生計を立てる産業からの推察
さらにもっと別な面から加古川や泉川が辟田川とみられるかどうか?検討してみる。この加古川や泉川は地図に示すように富山湾に直接注ぐ小さな川である。その近辺の領民は,果たして鵜飼による川魚漁のみで生計を立てていたのだろうか?素朴な疑問がわく。鵜飼による鮎漁は春から晩秋の半期に及ぶ。加古川や泉川周辺の領民は何も川魚漁に専念せずとも,富山湾から獲れる豊富な海の幸で生計を立てられたのではないか?急流の泉川のすぐ下は,天平時代,地図にあるような広い「布勢の水海」という海であった。これに対し子撫川両側は山ばかりである。川魚漁一本であろう。子撫川周辺の領民が川魚漁以外に生計を立てるとし強いて言えば林業も含めた農業である。ここにおいて泉川や加古川周辺の領民との間に鵜飼に対する必然性の違いが出てくるのである。子撫川周辺の領民の方が,鵜飼をした可能性が大きいのではないだろうか?現在,子撫川と小矢部川の合流地点は天然の鮎の漁場として有名である。夏の時期は大きいサイズの鮎が沢山獲れると言う。全国へ出荷されるそうである。こう考えると,射水の郡にある泉川や加古川は,どうしても違うように思えるのである。このようなことから私は,辟田川は砺波の郡にある子撫川とする説を支持する。
家持が辟田川を訪ねたのは砺波墾田出挙の始めの時期か終わりの時期か?
さて家持が辟田川を訪ねたのは砺波墾田出挙の始めだろうか?あるいは後だろうか? 私は後だと思う。子撫川説として推察し墾田検察のストーリーを書くと・・家持は天平22年(天平勝宝2年)2月始め(旧暦),砺波郡(現砺波市,小矢部市その周辺)の墾田検察開始する。 地図にあるように越中国府(伏木)を起点として石瀬野(いわせの,現高岡市野村辺り)を見て,その後雄神川(おがみがわ,現庄川)に沿って南下し拝師庄(はいしのしょう,現砺波市林),石粟庄(いしあわのしょう,現砺波市久泉),伊加流伎庄(いかるぎのしょう),へ移動,さらに南下して杵名蛭庄(きなひるのしょう現南砺市福野)を検察した。それから,旅川に沿って北上し陽知庄(ようちのしょう,現小矢部市道林寺),長岡庄(ながおかのしょう,現小矢部市七社),糸岡庄(いとおかのしょう,現小矢部市五社)へ移動,そして射水川(いみずがわ,現小矢部川)の北にある子撫川で砺波の郡墾田検察最終日の夜,鵜飼の催し物を見る機会を得た・・である。
辟田川と荊波の里の関わり
最終日の子撫川は荊波(やぶなみ)の里(あるいはその北側)にあったと推察する。推察となるのは,この荊波の里も比定されていないからである。ここで荊波の里のことについて重要な記録がある。家持の日記に旧暦2月18日(現暦3月30日)
墾田の地を検察むる事に縁りて,礪波の郡の主帳多治比部北里(たじひべのきたさと)が家に宿れる時,忽ちに風雨起こり,え辞去らずてよめる歌一首
4138 荊波の里に宿借り春雨に籠もりつつむと妹に告げつや
とある。この記録から,荊波の里に泊まった2月18日(旧暦)は風雨のため国府へと戻れなかった砺波墾田検察の最終日であることが判る。この荊波の里を比定するにおいて,荊波の里にあったであろう荊波神社(うばらじんじゃ)の場所が現在5箇所挙げられている。それらは,地図に示すように,高岡駅の西側和田地区,砺波駅の東側池原地区,福光駅北側にある岩木地区,石動駅の西側にある臼谷(うすだに)地区,そして子撫川上流の矢波(やなみ)地区である。でも実際,これらも神社に残された記録から時代とともに荊波神社と言う名前が移されており定かなものがない。 私は荊波の里は小矢部市の旧藪波村(きゅうやぶなみむら)を中心とする子撫川を含む広い範囲とし以下のような推察をする。この藪波村は明治22年に開村し,村名は家持の荊波の里の和歌に由来すると言われ昭和29年に小矢部市として合併されるまで存在した。小矢部市中心石動町(いするぎまち)の南にあった村である。現在でも色んな施設や川に藪波と言う名がついている。藪波村が荊波の里の名残であるとすれば,まんざら考えられなくもなかろう。今年(2008年)の5月に天平時代の越中東大寺領荘園鳴戸村の絵図が発見された。それは高岡駅の南に位置する荘園で9里×13条(横5886m×縦8502m)に及ぶ村である。天平時代の昔,こうした規模のものが一つの村と考えられていたとすれば,前述の荊波村もこれに及ぶものであったかもしれない。これから想像すると,昭和期まで存在した藪波村を中心とするような位置に荊波村という天平時代の大きな荘園が存在したのではないだろうか?こう考えるなら,前記子撫川矢波地区や臼谷地区も全てこの荘園内に収まるのである。 そうすると,家持が砺波墾田検察終了の前夜,子撫川すなわち辟田川で鵜飼の催しを見て多治比部北里の家に泊まったと考えられる。泊まる前日の3月29日(現暦)ぐらいだと稚鮎も子撫川辺りに十分溯上しているのである。家持が墾田検察の後,慰労を兼ね主帳である多治比部北里からもてなしの宴を受けたのであろうか? 日記にあるとおり多治比部北里が荊波の里に住んでいたことに間違いない。この荊波村と言う荘園を旧北陸道(奈良の都と越中国府(現伏木)を結ぶ本道)が貫通していたのではなかろうか? そしてその荊波村と言う荘園の旧北陸道近くに北里の住まいがあったのではないだろうか? この旧北陸道を挟んで荊波村があれば,家持と砺波郡主張である北里は連絡を取り合うこと(家持が北里の家の立ち寄ること)が容易である。日記の説明にあるように・・砺波郡の主帳多治比部北里が家に宿れる時,忽ちに風雨起こり,え辞去らずてよめる歌・・から,前夜宴の後北里の家に泊まって,一夜明けて発ち去ろうとしたのではないか?雨風が強くなってきたか?あるいは北里の勧めで差し迫った予定が無ければ,語らいの場に加わってもらいたいとなったのであろうか? この石動町辺りから越中国府までの本道は大河も無く,早馬でその日の内に使いを送れるだろう。 家持が,もし砺波墾田検察最初に鵜飼の催しを見たとしたらどうだろうか? 国府を出て射水川に沿うようにして須加野庄(すかのしょう,現手洗野,佐加野辺り)へ移動,その後五位庄(ごいのしょう,現小矢部市田川辺り)へ移動,そして,子撫川で夜の鵜飼を見る。その晩はどこかに泊まるのである。しかし,後の予定を残していると川の中に足を入れて余興を楽しむ気にもなれまい。不側の事故などまさかあるまいが,まあ落ち着かないのである。衣の裾も検察初日から濡らすようでは明日からの予定が心配ではある。でもそれをやったとして後の砺波墾田検察の行動を推定すれば,一夜明け糸岡庄(現小矢部市五社),陽知庄(現小矢部市道林寺)を南下して,杵名蛭庄(現南砺市福野)を検察し,それから雄神川(現庄川)に沿って北上し拝師庄(現砺波市林),伊加流伎庄,石粟庄(現砺波市久泉)へ移動,荊波の里(砺波市池原に荊波の神社があるからそこを荊波の里とみる)で多治比部北里の家に泊まり,翌日国府へ戻ることになる。そして国府へ戻るとき俄かに風雨に見舞われ多治比部北里の家に籠もるというストーリーである。この場合は,荊波の里は池原説に当たる。この説で行くと,子撫川での鵜飼を見るのは砺波墾田検察前であるから,3月の始め(現暦)である。そうするとこの時期に鮎の稚魚が果たして子撫川へと溯上しているかどうか? あまり可能性が無いだろう。和歌にある「あら玉の年かゆきかはり春されば花咲きにほふ・・」の中にある花は何の花であろうか?小矢部市や高岡市の春は3月半ば(現暦)である。田起こしが始まるのも春分過ぎぐらいからであるからそうだろう。その時期に咲く花は桃の花かカタクリの花か山吹の花であろう。でもそれらの花が満開になるのは3月の始め(現暦)ではなく下旬である。そんなことも考えると,どうも3月の始め(現暦)に辟田川の鵜飼を見たというのは疑わしくも感じられるのである。したがって家持が辟田川を訪ねたのは砺波墾田出挙の始めの時期ではなかろう。
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時代を探す旅
推定した辟田川を訪ねて
そんな辟田川を求めて今年の夏(2008年8月)小矢部市の子撫川周辺を訪ねた。 JR石動駅で降りタクシーをまず拾う。今回は歌碑のある場所も一緒に探してもらわなければならないので,よほど親切なタクシーでないと無理である。歌碑に興味がある人ならば最初からよく判るのであるが・・。さらにお盆でタクシーも忙しいだろうということもあり,実はここに来るまでちょっと心配だった。 駅前に小さな有限会社のタクシーの看板が出ていたので頼んでみることにする。結構年季の入ったタクシー会社である。入り口の戸を開けたが誰一人いない。車庫の奥には車が止まっている。そこで 「御免下さい。」 と言うが何の応答もない。しばらくして年の召した女支配人が二階から窓を開け, 「何ですか?」 と尋ねてくる。 「タクシーを一台頼みたいのですが」 と言うと,あいにく全部出払っていて無理だと言う。案の定お盆で忙しいと,そっけない返事である。それでいったん出て昼飯を食べることにした。しかし食事をする所がない。町の中は土産物店は開いているものの食堂のほとんどシャッターが下りているのである。まさしくお盆である。ちょっと予想しなかった。しかたなく暑い中を歩き回ってコンビニエンスストアを探すことにした。一軒見つけ弁当とドリンクを買い求める。でもこの暑い中食べる場所とて探すのも辛い。それでタクシーの中で食べることにし先ほどのタクシー会社へとまたテクテク歩く。車が戻ってきてくれていればよいのだが・・期待しながらタクシー会社に入った。戻ってきたタクシーであろうか?一台玄関側に停まっている。二階の女主人にもう一度頼んだ。 「どこまで行かれるんですか?」 と言う。 「実は子撫川周辺の石碑を見にきたのです。場所を調べながら観光して戻りたいのですが」 ちょっと躊躇っている。やはり場所が特定されなく時間がかかるのが気になるようだ。しばらくあって年老いた運転手さんが奥から出てきた。 「私が行きましょう。」 と言う。多少女主人とのやり取りがあったが停まっていた車に乗り込むことになる。でも承諾してもらえてラッキーである。タクシーの中で早速,地図と資料を出し歌碑のある所を説明する。無論地図にはポイントで出ていないのでこの地区とこの辺りにありそうだと言うのが関の山である。 「宮島方面ですね。そこへ行ってそのあたりでまた詳しくお聞きします。一緒に探してあげますから。」 となり,子撫川へと一路出発する。どうやら親切そうな運転手さんである。お昼の弁当を出して食べながら少しずつ旅の目的を運転手さんに話した。運転手さんは,家持のことは,少しは知っているが子撫川でかつて鵜飼が行われていただろうということについては想像すらしなかったと言う。そうであろう。私もちょっと前に調べて知ったことである。石碑にある歌に関心を持ってみていればわかることでもあるが,なぜこの辟田川と鵜飼を歌った歌碑がここ子撫川に建立されているのか?理由から突き止めて行かなければならないのである。運転手さんに,現在辟田川が比定されていないこと,その川の説として,他に氷見市にある泉川説と高岡市にある加古川説があることを説明した。 運転手さんは宮島(今日行く矢波の宮中の少し北)の生まれで小さいころ鮎を獲ったことがあると言う。そのことからすると鮎がこの子撫川を遡上することは間違いない。子供の足で川へ入れることから浅瀬の川でもある。運転手さんに昔鵜飼がもし行われていたとしたらどうか?と尋ねてみると川幅といい傾斜といい考えられなくもないと言う。いわゆる篝火をなして川の中に入ってとる漁や篝火をつけた舟に乗って獲る鵜漁がただはっきりとイメージできないだけである。
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橋の上から見た小矢部川と二上山 青山北郭に横たわり,白水東城をめぐるの雰囲気である。 |
石動駅の東を北東へ流れる小矢部川(旧射水川)に沿って,国道8号線でまず子撫川の河口へ向かう。国道8号線から小矢部バイパスに左折して,最初に小矢部川を渡る。この橋の上からは手前に子撫川河口,北東へ流れる小矢部川が見え,そのはるか向こうに二上山が見える。駐車できないので運転手さんには先に橋を渡って止まってもらうことにし,私は路側帯から二上山の遠景をカメラに収めることにした。帰省してこれまでの三日間,北陸でも珍しい豪雨と雷雨が続き,今日ここを訪れることも心配だったが,有り難いことに午後から天候が回復し青空と日差しが戻ってきた。今,雨上がりの二上山が実に青々としてくっきりと見える。二上山をこうして見ると何故か郷愁に駆られる。好きな唐詩で李白の「友人を送る」というのを思い出した。・・青山北郭に横たわり 白水東城を遶る 此の地一たび別れを為し 孤蓬万里征く 浮雲遊子の意・・・である。ここから見た二上山は北に位置し,小矢部川はかつて今石動城(いまいするぎじょう)のあった石動の町の東を巡っているので風情もまた似た感がある。 |
子撫川河口と小矢部川と二上山 青い屋根の建物のすぐ向こうが子撫川河口である。 |
このあたりは倶利伽羅峠(くりからとうげ)越えをしてきた旅人が通った古道にあり,家持もこうした二上山の遠景を眺めたであろう。地形的には昔も今も変わるわけではない。伏木にある越中国府がこの二上山の裾に位置するから,おそらくこの二上山を見て旅の疲れも癒えほっとしたのではあるまいか? 小矢部川を渡り小矢部バイパスを少し行き右折すると子撫川河口に出る。この子撫川河口から川下の小矢部川あたりは現在でも投網による鮎漁が行われている所である。私は子撫川河口の瀬の写真を撮りたいので,運転手さんにそちらに行ってもらうことにした。 子撫川河口の土手沿いは舗装されているが狭く一方通行しかで きないので,土手の手前で止めてもらい少し歩いて子撫川の河口に何とかたどり着く。河口には結構洲があり,草が生い茂っていた。こんなに草深い所なのだろうか?想像と違いちょっと驚きである。洲の全く無い場所だと地図から読んでいたのである。しかし川幅は広い方で緩やかな流れである。先ほど小矢部川を見たとき水が澄んでいたのでこの子撫川河口も同じように澄んでいるかと思ったが,茶色く濁っていた。あいにくと昨日以前から続いた豪雨により川上から土砂を削った水が流れてきているようである。豪雨さえなければ,もちろん澄んで美しい川ではある。 |
子撫川河口の洲 降り続いた豪雨で川が茶色く濁っていた。ちょっと残念
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辟田川では天平時代に鵜匠が篝火をなし川に入って鵜に鮎を捕らせる渡渉漁(かちわたりりょう)が行われていたというが,今見た感じで,この子撫川は流れが確かに急でなく又浅瀬であるから,おそらくそれが可能だったろう。さらに天平時代から年代が経って鵜舟による漁が辟田川でなされていたことが二条院讃岐の和歌に詠われている。「辟田川下す鵜舟にさす竿の音さゆるまで夜はふけにけり」という和歌である。二条院讃岐は平安時代後半から鎌倉時代の女流歌人である。源頼政の娘で最初宮仕えしたが後に藤原重頼に嫁いで若狭の小浜に住んだという。後に藤原重頼が陸奥の国へと赴任する際,一緒にここ越中国を通ったのだろうか?当時は単身赴任が無かったというからそう考えるのである。越中に足を運ぶには倶利伽羅越えを先ずするだろう。そうして最初に泊まった所がこの辺り,現在の石動の中心だったのかもしれない。泊まった夜に辟田川の鵜飼を見たのではないかと想像するのである。 |
子撫川河口で見た瀬 浅瀬ではあるが,これだけ幅が広いと水の落ちる様も壮観である。 家持の和歌にある「山下響み落ち激ち流る辟田の川の瀬に・・」と言う雰囲気がわかるよう・・
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ここで見る限り子撫川は十分な幅がある。舟を浮かべたとしても,何艘かすり抜けられる。その様子が想像できる。さらに「音さゆるまで」というその和歌の表現からは,周りの風の音も無いことが読み取れる。実に静かな場所であって舟の篝火が川面に映っている様子も想像できるのである。海に近い前述の泉川や加古川であれば,家持が詠んだ春先でも遠くに海鳴りが聞こえるだろうからこうもなるまい。 子撫川の川上方面を見て瀬の様子を写真に撮った。コンクリートで堰を作ってあるので瀬の状況は昔と違うが,水の流れ落ちる様は,さも家持の和歌にあるようにたぎち落ちといった感じで勢いがある。こうした瀬を鮎は上る。昔もきっとこうだったのだろう。この子撫川の上流にもいくつか小さい滝が流れている所がある。その辺りまで鵜飼をしたのであろうか?色々と想像してみる。 |
国道8号線小矢部バイパス下りポケットパークにある家持の歌碑3基 葛の葉にうっそうと覆われていた。これだと見つけにくい。
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小矢部川と子撫川河口の写真を撮り終え再びタクシーに乗って,横谷の小矢部バイパスにあるという歌碑の場所へと向かう。最初運転手さんに,その歌碑の場所名や写真を見せたがよく判らないと言われた。場所は横谷国道8号線小矢部バイパス下りポケットパークとなっているが,運転手さんによると国道8号線で下りと上りと言う使い方がはっきりしないというのである。 「北陸では京都方面は上りという言い方をしますから,その逆で富山方面は下りだろう思いますが,とにかくそのポケットパークへと行ってみましょう。」 となった。ポケットパークはパークと言うから駐車できるくらい広い場所であるはずである。横谷にはそれが一箇所あると言う。 準備した資料に子撫川の付近とあるが,そのポケットパークに着くまでにはやや時間を要した。そこへは緩やかな丘を登る感じでこの炎天下,子撫川河口から登り詰めで歩いてはちょっと行けない所である。ポケットパークを見回してみたが意外と狭い。車の方向転換がかろうじてできるくらいの場所であろうか,運転手さんがバックしたり曲がったりしながら辺りを見回して歌碑を探し出している。 「ポケットパークはここしかないのだがなあ。」 と言いながら写真を何回も見返している。資料に掲載された写真には3基並んで建っているので目立つはずである。しばらくして私は写真の状況が変わっているのに気づいた。写真では歌碑の後ろを刈り込まれた植木がずらっと並びはっきり歌碑が判るのであるが,今来た所は植木が手入れされていないためか鬱蒼としているのである。 |
国道8号線小矢部バイパス下りポケットパークにある家持の歌碑のその1 「あら玉の年ゆきかはり春されば花咲きにほふ あしひきの山下響み落ち激ち流る辟田の 川の瀬に鮎子さ走り島つ鳥鵜養伴いへ 篝さしなづさひ行けば吾妹子が形見がてらと 紅の八入に染めておこせたる衣の裾も徹りて濡れぬ」 とある。
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そこで車から降りて私もその植木を運転手さんと一緒に開いてみることにした。結局見つからず道路の反対側のポケットパークを探そうと車に再度乗り込む。そして運転手さんが車の方向転換したときである。道路脇にある灰色っぽい石碑らしいものが飛び込んできた。コンクリート製の桁ではないようだ。寄ってもらうことにし車をそこへつける。彫った文字が鮮明に見える。間違いない。3基確かに立っている。私は車から降りてそれらの歌碑を写真に収めることにした。樹木の葉をそっくり移動させないと歌碑全部が見えない状況である。いろんな方向から撮る。歌碑の内容も確認する。3基にはそれぞれ,家持が辟田川の鵜飼を詠んだ 長歌と反し歌二首が刻まれていた。 |
国道8号線小矢部バイパス下りポケットパークにある家持の歌碑―その2 「毎年に鮎し走らば辟田川鵜八つ潜けて川瀬尋ねむ」 とある。
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国道8号線小矢部バイパス下りポケットパークにある家持の歌碑―その3 「紅の衣にほはし辟田川絶ゆることなく吾かへり見む」 とある。
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8号線バイパスから見た宮島郷と子撫川 屑の葉の向こうにのどかな部落が見えた。 |
しかし残念なことである。これくらい鬱蒼と樹木が覆いかぶさっていては歌碑も台無しである。でもよくよく考えれば,一体どれほどの人がこれらの歌碑に目を留めるか?である。運転手さんはこんな歌碑があっても気に止めないだろうと言った。無理もなかろう。石碑に関心が無ければ見る気とて起きないわけである。 歌碑の上を見れば初秋の感じの空である。歌碑から少し右へ目をやると葛の葉の鬱蒼と巻きついた金網越しに宮島郷が見え,その中に曲がりくねった子撫川が流れていた。こうしてみるとこの子撫川は山間を曲がり流れる非常に緩やかな川であることが判る。家々こそ様子が異なるが天平時代のはるか昔もこうしたのどかな風景がきっと見られたに違いない。 小矢部川の南西部にあった部落が藪波村と呼ばれるからこの宮島郷は藪波村に含まれない。でも天平時代の荊波の里にはこの宮島郷も含まれていたのではないか?そんなことを想像する。何故なら,これから訪ねる荊波神社(比賣神社(ひめじんじゃ)と現在呼ばれる)は同じ宮島郷の矢波にあり,その矢波は荊波の転じたものという説もあるのである。すなわち荊波神社の矢波説である。宮島郷の情景を何枚かカメラに収める。 |
8号線バイパスから見た宮島郷と子撫川 真ん中に見える赤い橋を右に行くと法楽寺地区へたどり着く。 |
8号線バイパスから見た宮島郷と子撫川 遠方に見える青く高い山の向こうには能登の海が広がる。 |
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法楽寺への途中・・山際を流れる子撫川 豪雨で土砂を運び茶色く濁っているが,普通は清流である。 川の向こうには,小さな滝が流れ落ちる宮島峡がある。 |
横谷ポケットパークの歌碑3基の写真を撮り終え,矢波の比賣神社の前に法楽寺(ほうらくじ)地区にある歌碑を撮りに行く。その歌碑は,先ほどの二条院讃岐の歌碑である。その場所が判らないので,運転手さんに一緒に探してもらうことにした。法楽寺への道路は国道8号線バイパスから西北に出る国道74号線で宮中まで子撫川を右に見るように伸びている。地図で調べて知っていたのであるがこの道路は途中,山際を通り真下を子撫川が流れている箇所がある。家持の和歌・・山下とよみという表現のそんな風情のある場所である。そこをちょうど通りかかったので車を止めてもらった。先ほどの下流よりはやや川幅が狭いが,それでも十分舟を通せる所である。ここも豪雨の影響で水かさが増えて濁っているが流れは決して速くない。 |
法楽寺への途中・・子撫川 川の両側には水田と畑が広がる宮島郷である。
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川上の情景と川下の情景を撮った。山際ではない所をはるかに望むと川の両側には水田や畑が広がっている。本当にのどかな部落の風景である。このあたりもきっと荊波の里と呼ばれたのではないか?想像を巡らす。午前中に降った雷雨がすっかり上がり,じりじりと暑い日ざしが頭上を照りつける。 |
法楽寺のやや小高い所の原っぱ,地蔵堂の前にあった歌碑 「あまさかる越にはあれどさきた川みやこを懐ふ鵜をかづくると」 と彫られている。作者名は無かった。遠方の家々が並ぶ所は,昭和期まで存在したという旧藪波村の辺りである。 |
法楽寺地区に着いた。この地区にある歌碑の場所は持ってきた資料で子撫川河畔となっている。ひょっとすると子撫川のそばの法楽寺と言う寺の境内にあるのかもしれない。あるいは法楽寺鉱泉の庭,あるいは一般民家の間だろうか?そこまで調べることができなかったので皆目見当がつかないのである。それで運転手さんに任せて行ってもらうことにする。運転手さんによるとその歌碑のことは初耳だそうである。先ず法楽寺鉱泉へと一路向かう。私は,これだと子撫川河畔からどんどん離れるので, 「川岸にあるのでないですか?」 と尋ねた。運転手さんもあてずっぽうで法楽寺鉱泉は観光客も来るから,そこに歌碑があるのではないかと思い込んでいたのである。法楽寺地区はそんなに広い場所ではないから途中民家によって尋ねてみようとなった。でもよほど関心が無いと土地の人もその歌碑のある場所も判るまい。タクシーで割りと狭い坂道をずっと上って行く。一軒の民家の前でタクシーを止め, 「この家で聞いてみましょう。」 と運転手さんが私の用意した資料を持って降りて行った。民家の人が庭先に出てきて運転手さんと話をしている。しばらく時間が経って民家の人が手でガイドしているから,きっとその歌碑のある場所が判ったのかもしれない。運転手さんがタクシーに戻ってきた。 「タクシーでは行けない,ずっと細い道をここから下っていった所にあるそうです。あちらの道を下って行けばよいとそうです。」 と説明してくれる。 |
二条院讃岐の歌碑 裏側に求めていた二条院讃岐の歌が彫られていた。 「辟田川くだすう舟に指すさをのおとさゆるまでよはふけにけり」 とある。後ろに木造の地蔵堂が建っていた。お盆でお供えがしてある。
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運転手さんと一緒に結構急な細道を下って行くと,平になった場所に出,そこに石碑が一つあった。これであろう。そんなに大きい石碑ではなく丸石そのものに歌碑が刻まれている。横谷バイパスで見た歌碑と違って何の変哲もない丸石である。実に素朴である。意外と小さかった。近寄ってみるとそれには, 「あまさかる 越にはあれど さきた川 みやこを懐ふ 鵜をかづくると」 とある。作者名は判らない。歌碑の反対側へ行って見ると,探していた二条院讃岐の歌碑が出ていた。ほとんどひらがなを使って以下のように刻んである。 「辟田川 くだすう舟に 指すさをの おとさゆるまで よはふけにけり 二条院讃岐」 歌碑の所どころに苔が生していたから,横谷ポケットパークで見たも石碑よりはずっと古いようである。こちらから歌碑を見ると向こうに古い木造の地蔵堂があった。お盆でお供え物がしてある。するとこの歌碑も地元の人は結構見ているはずである。でも「二条院讃岐の歌碑」,「辟田川を詠んだ歌碑」と尋ねて判る人が少ないのは歌碑の内容が詳しくないか?そのことについてあまり関心がないかである。このことを運転手さんに話すと, 「全くそうでしょう。」 と言った。 この一角は狭いとはいえど平らになっていて見晴らしの良い所である。最近の子供はどうか知らないが,地蔵堂の空き地は私の年代の人間から見るとよい遊び場であるような気がする。南には法楽寺地区の田畑が見え,その中を子撫川が曲がりくねって流れており,はるか小矢部川の向こうには旧藪波村のあったという石動町の家々が見えた。 |
矢波の宮中にある比賣神社 別名;巌谷門神社とも呼ばれる。砺波にある荊波神社の一つとして挙げられている。鳥居のすぐ後ろに樹齢の古い杉が一本立っていた。境内は鬱蒼としている。 |
歌碑の写真は,求めていたものを全て撮り終えたので満足した。運転手さんに,暑い中一緒に歌碑のあるところまで下ってもらったことを含めお礼を言う。本当に有難かった。 最後にこの地で,荊波神社として挙げられている矢波の宮中(みやなか)にある比賣神社へと向かう。宮中はここのすぐ北にあり近い。運転手さんは神社名は知らなかったが, 「宮中にあるお宮さんは,ただ一軒だけしかなく場所はよく知っています。」 と言うので安心する。そこへと向かう途中,荊波神社のことについても,運転手さんに色々説があり比定されていないことを話した。今行く所が比定されない5つの荊波神社の一つであることも含めてである。神社に着き,運転手さんにこの神社でいいかどうか確認してくれと言われたので確認する。鳥居の案内を調べると延喜式・・比賣神社と出ている。間違いない。鳥居の向こうには樹齢の相当古い杉の大木が一本立っている。いつぐらいのものだろうか? 階段を上り鳥居をくぐって境内を見回す。正面に意外と小さい神社本殿があった。周りが樹木で鬱蒼と覆われ中は暗い。鳥居をくぐったすぐ左手に説明板があったので,それを写真に撮った。案内板には以下のように書かれていた。
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比賣神社の本殿 北陸は雪深いからか?最近はアクリル板で本殿の周りを覆った社が目立つ。そう言えば,砺波市池原にある荊波神社も同じように覆ってある。 |
延喜式内 宮中比賣神社 小矢部市宮中に鎮座する比賣神社は,延喜式内社として知られる。 所謂「式内社」は,律令国家がその社格と由緒を公認した神社で,神社の地位を示すものである。延喜式神名帳には,越中国三十四座礪波郡七座とあり,この中のひとつとして当社の名が見える。 市内には,当社と長岡神社が式内社に比定されており,この地域が律令国家にとって無視できない重要な地域であったことを示している。 また,神社本庁編「神社名鑑」などには,当社は古来より尊崇厚く,越中国司大伴家持参拝の際,斎木貞信を従六位に叙し,当社および長岡神社の神官に任じ,砺波郡神祇の府とし宮島郷四十三ヶ村氏神惣社としたとある。 平成四年十月十一日 宮中比賣神社奉賛会 小矢部市教育委員会
この説明の長岡神社は長岡庄(現小矢部市七社)にある神社で地図を見ると旧藪波村東側にある。比賣神社も長岡神社も小矢部川を挟んで南北にあり旧北陸道からそう外れたところにあるわけではないので,きっと家持もこの北陸道を行き来する際,参拝したのであろうか? 地図によると藪波の村は結構広い範囲である。ここでまたそれを包含するような荊波の村が天平時代に存在したのではないかと想像は広がるばかりである。 |
鳥居の後ろにあった大杉 所々割れているところと苔生している所がある。樹齢を今度調べてみたい。 |
大杉の脇にあった狛犬と鳥居 |
比賣神社境内から見た宮島郷の風景 秋の空が現れていた。 |
比賣神社境内から見た宮島郷の風景 屋敷の周りを取り巻く竹薮が結構多い。 |
旅を終えて
今回,比定されていない辟田川を求めて小矢部市子撫川周辺を訪ねた。家持に関わる荊波の里といい現在比定されていないものが 多い。それでも一年ほど前から,自由な発想で文献を調べ独自に思いを巡らし,それでこの辟田川を現在の子撫川と推定し訪ねたの である。実際に子撫川の流れを観察し,川幅の広い緩やかな流れであることが判った。そして天平時代に鵜飼がされていたという説 も判るような気がした。子撫川河口から見える田園の風景も天平時代に家持が見たであろう荊波の里の風景に思える。 |