周水子空港から麗景大酒店へ

 

1992年,9月国際会議の折に母の故郷である大連を訪ねた。学会開催地北京から空路を使い大連に降り立った。初秋とはいえ暑かった。そんなに大きくない周水子空港であるが,それだからなおさら空の広さが感じられる。当時はまだ高い建物も無く地方の空港らしいのどかさがあった。旅行業者紹介のガイドと待ち合わせることとなっていたが,私の勘違いで結局会えず北京から同乗してきた隋さんのお世話になる。隋さんは,世界狭しと駆け回る商人でフラマホテルの御曹司である。隋さん曰く,

 『私は,この大連で二番目の富豪です。一番は,私の父でフラマホテルと大連友諠商店を経営しています。残念ながら父にはかないません。私は今大連友諠商店の取締役をしています。』
である。流暢な中国なまりの無い日本語で語りかけてくる隋さん,かって日本でマーケティングをやり今でも行くことがあるので風習とかは良く知っていると自慢をした。隋さんお抱えの車が来ると運転手,使用人,隋さんと私でそのリムジンカーに乗って宿泊先の麗景大酒店に向かう。ふらりと思いついてきた人間に,

『麗景大酒店も友諠商店を通っていきますから,ホテルまでお送りしましょう。』
などと気安く引き受けてくれる人もいないだろうと,車に乗って有難さをしみじみ感じた。
 周水子から大連市内と入って赤レンガの建物がちらほら見えてくる。なぜかジーンとくる。かつて住んでたわけではないが,祖父母,母,叔母が引き揚げのときに衣類などの中に忍ばせてきたという,そのセピア色の写真に出てくる煉瓦造りの建物が半世紀近くになって見られるのである。イメージと違い,赤レンガというより茶色いレンガであった。半世紀も経っているからそうなったのかもしれない。車は窓を開け天然の大連の風を吹き込んで走った。やたらアカシアが目に付く。大連駅はすぐ見て判った。本当に上野駅そっくりである。しばらく行って隋さんが,
 『これが旧三越百貨店,今は秋林公司です。あの窓のレリーフ模様がロシア風でしょ。』
と自慢げに説明してくれる。程なく行くと隋さんのお父さんの経営するフラマホテルが二つ聳え立っていた。圧巻で只々隋さんは、すごい人なんだと思う。煉瓦造りの出窓の家があちこちに見える。煙突も聞いたとおり写真で見たとおりである。でも,どれが何だったかは判らない。当然のことである。隋さんの勤める友諠商店を過ぎて一路,老虎灘の麗景大酒店に向かう。繁華街を過ぎ智人街(旧桜花台辺り)に来ると,瀟洒な家が丘の緩やかな斜面に点在しているのが見えた。麗景大酒店に着いて,隋さんに最初拒まれたが気持ちのお礼を渡した。本当に有り難かった。

大連駅

大連駅から南側を見る

(右端が秋林公司)

秋林公司(旧三越百貨店)

麗景大酒店

麗景大酒店周り散策

 

 
 

大連観光地図 (1992年9月)

 

 

先ず,チェックインをする。ロビーカウンタで,日本語と英語を使い予約の確認をし大連の地図をもらう。日本語を使うと,どうも自然自然に硬い表現になって現地の人には難しいらしい。それで英語も使う。英語だと自分も片言であるから何か幼稚な表現でも心が通い合う。適当にジェスチャを交えながら観光目的など話した。係長の青年が,
 『もう大連は,すっかり変わっています。昔の面影もそれほど無いでしょう。また日本人に対する大連市民の特別な感情も無いでしょう。若い世代に代わってますから。』
などと英語で答えてきた。少なからずショックを受ける。
 『ただの観光できたんじゃないんです。母の故郷でもあるこの地を見たかったから来たのです。祖父も大連駅で技術助役をやっていました。住んでいた家や母の女学校の跡を見てみたいのです。』

 

老虎灘公園

と思わず答えたが,事前の下調べも何も無く来たわけで出任せである。気持ちは治めたつもりで,部屋へ行き荷物を置いて早速あたりの散策をすることにした。カウンタの女の子,王英華さん(あとで世話になる)に夕方まで散策できる場所を聞いて出かける。ホテルから降りてきて海沿いを歩くと異様な匂いがしてきた。漁師が魚を干しているのだ。魚の名前は判らないが,それが又数が多い。道の脇にも散らばっている。適当に写真を撮る。ホテルからだらだらと坂を降りてきて見上げるとずいぶん高い所にこの麗景大酒店は位置している。老虎灘の端の見晴らしの良いところに建っているから麗景とつけたのだろうか?更に下り坂が続き老虎灘公園の入り口へと降りると,中でアトラクションをやっていた。日本で言うところのバザール会場のようでもある。色々なものが売られている。中国式の縁日と言うのかもしれない。入り口で並んでチケットを買う。何がなんだか判らないが大人二人分を買わされる羽目になった。後ろに並んでいたおばさんが,売り子に
 『この人は,一人ですよ(日本人で流儀が判らないんでしょ)。一枚分のお金返してあげなさい。』
と言っていたのかもしれないが,結局どうすればいいのか判らず,そんなに高い額でもないのでチケット二枚を持って入ることになる。ぐるりと散策し色んな催し物を見て廻る。名古屋城と書いた店があったので,そこに寄って水を一本注文した。水は北京でも買わなければならなかったので驚きはしなかった。他に鉄板で焼いたパンの類,干物の類を勧められたが注文しなかった。水だけは安全であるということを北京で確かめていたからかもしれない。小さいころ,そう言えば祖母がよく沸かし冷ましなら飲んでよいなどと言っていたの思い出した。店の親父さんに名古屋城というのが日本にあることを漢文に書いて説明する。日本語がだめで英語がだめとなると,中国語しかないが当然話せない。唯一意味を含んだ漢字を書いて示すことが有効である。漢字が判ったと見えて頷いてくれた。奥さんが手招きでテーブルの方へ誘って,まあ座ってくれというジェスチュアをするのでそこへ行って座る。準備よろしくメモ帳を用意して一緒に奥さんも座る。大連,訪問の目的は何かと書いてくる。勿論日本人が使う漢字でなく省略しているので全部は判らない。ここで,你(你:あなたという意味)という言葉を知った。そこで,我と你という主語を使ってコミュニケーションを図る。私は,
 『我母,生於大連。我探母生家跡。我欲知,母生家存在。是即我目的於大連訪問。』
と彼女のメモ帳に書いた。理解されたようで,我歓迎你となりメモ帳で話が弾むこととなる。漢詩の話題に発展し言葉を丁寧に直してもらう。人が集まってきて,何をしているのかと覗き込んでくる。奥さんと会話しているが勿論何も判らない。ただ握手を求める人がいたり笑う人がいたりするので,コミュニケーションは取れているんだなと思った。文法的にでたらめであるが,大勢に漢文で意思を伝えられるなんてそう経験しないだろう。日も傾いてきたのでホテルに帰る。

 

大連市内観光準備

 

夕食を済ませて部屋に戻り早速,母に国際電話をかける。経緯を簡単に説明して縁の地を見て廻りたいということを話した。最初は母も驚いたが,北京の学会に来ていて休日に,飛行機で大連に降り立つことも実際可能であるから納得したらしい。こちらの地図を取り出し,母の手元にある地図を出してもらって照らし合わせる。しかし,年代も経っていて両方の地図の地名も中国語と日本語で違う。まして電話での話であるから誤解も生む。でも丹念に聞く。国際電話料金のことなどいつのまにか忘れていた。老虎灘のホテルに居ることを知ってもらい,次に大連駅の確認,中山広場の確認をする。大連駅は大連火車站となっているが線路が示されていて大きい駅であるからそれとなく理解できた。また中山広場は母の地図では大広場となっている。広場などの名称は現大連市内図にも沢山あるので当てるのも難しい。でも丸い形をしていて放射状に道路が伸びていて大連駅の近く・・ということで理解する。母によると,『大連駅の近くに小村公園があって旅大道路を西に行くと住んでた家があり,芙蓉高等女学校も旅大道路に面しており,近くには引揚げ時に公園予定地となっていた所もある。南の方に行けば,有名な星が浦という海水浴場もある。白雲山から下りてきている道路を目当てに行けば,生家の近くに行けるはずだ。』ということである。しかし,これらは現地図では皆目見当がつかず,ロビーに相談を持ち掛けることにした。地図を持って,ロビーへ行き
 『明日,大連市内を観光したいので助けて欲しい。』
と係りの人に声を掛ける。無論,中国初体験一人旅であるから習慣も判らない。レストランで食事の注文の仕方から始まって,タクシーの拾い方,デパートでのショッピングの仕方まで何でもである。北京で学会に参加しているときは,全てホテル内で食事やショッピングをし更に習慣などの問題は日本から随行の旅行業者に気軽に相談することができた。そのことを考えると,大変なことやろうとしているのに気づく。ここへきて,とにかく熱意を示してガイドを請うしかないと,日本語のできる人にそれを頼んでみる。急な頼みで皆予定があって無理だと言う。おまけに探そうとしている場所の所在も曖昧なままでは,いくら御礼をすると言っても乗れないのが当たり前である。半ば,泣きべそをかくがごとくに説得して,呂さんという青年(アルバイト学生)にガイドを承諾してもらうこととなった。
 『大連駅,中山広場だけがはっきりしているが,唯一有名な海水浴場を手がかりに,この辺りに生家があるから案内してもらいたい。』
とお願いした。(しかし海水浴場の場所を北の海と間違え,地図を南北逆に見て明日の観光をすることとなる。)つい先程まで何もすることはできないんじゃないかと思っていたが,全面的に頼れる人が現れて助けてもらえることになった。どっと疲れが出て,ベッドに着くとすぐ眠ってしまった。

 

 

大連市内観光−第一日目

 

いよいよ,大連市内を歩く朝である。フィルム24枚撮りを2本用意した。朝食を済ませカウンターで呂さんと打ち合わせをする。この呂さん,かつて日本に留学していた経験があり日本の大学の先生にいろいろ教えてもらったということである。そんなことを聞くと,隋さんのことといい自分は運が良いと思った。実際,日本語のできる人たちは他にもいるのであるが,日本人の慣習とか性質とか,もっと言えば感情みたいなものを知っている人間は,やはり日本に行った経験を持つ人達である。会話していて,相槌の打ち方まで日本人になりきっている呂さんに,少なからず安心感を持った。タクシーで一路,大連賓館(旧大和ホテル)に向かう。そこには,呂さんが世話になり,昔の大連の様子をよく知っている日本人がいるというのである。
 『ひょっとするとその人に会え,事情を説明すればいろいろアドバイスをしてくれるかもしれません。』
と言う。しかし運はなかなかいい方に繋がらない。この日は,休暇を取っているということであった。張り切っていて,多分この知り合いに会えば,自信をもって案内できるだろうと呂さんは思っていたに違いない。申し訳なさそうに,
 『残念です。すみません。』

を繰り返す呂さんに,

『何も気にしません。これから地図を頼りに呂さんの知っている日本人街など案内して下さい。』
とお願いする。
 昨日,この地に着いた時は午後で非常に暑かったが,午前9時過ぎぐらいであるとまだ涼しい。大連賓館を出ると,ゆかりのある大連市役所,横浜正銀,大連警察署,朝鮮銀行が目の前にずらりと並んでいる。マロニエの並木もレトロな雰囲気を助け,更にちょっと初秋の雰囲気を持った空が広がっていると何となく異国情緒がある。中山広場の中心からこれら全ての建物が見えるので,呂さんとそこへ行き噴水の周りから写真に収める。ここで南の方を見て,飛び込んできたのが大連病院である。石垣作りの堅固な建物であった。呂さんとそこへ向かって行くことにした。周りを巻くように写真に収める。石垣があるからかもしれないが城のようでもある。緑の木々が周りを覆いいい感じである。
 『往時のままです。』
と呂さんが言った。旧能登町を通って秋林公司(旧三越百貨店)に向かう。並木道にたれ加減にアカシアの葉が生い茂っている。間々に昔風の建物が見える中を呂さんと二人で話しながら歩いた。目に入ってくるものは,すべて魅惑的なものに見えた。秋林公司に着いた。秋林公司は周りの建物が新しいため,余計に古く感じられるが中の様子はそうでもない。新しいファッショナブルな商品が並んでいる。フィルム一本が既に取り終わっているので(こんなに早く終わるとは思わなかった),とりあえずフィルムを補給するためフィルム売り場へ呂さんに案内してもらう。目当てのもの5本を早速買おうとレジに持っていこうとしたら,呂さんに引き止められた。呂さん言うには,先ず用紙に書いて別窓口に購入物品の申請をしなければならないのである。意味が判らなくて呂さんに全てをやってもらう。払うべきお金を渡し自分で用紙に署名だけをした。やっぱり呂さんにガイドしてもらって良かった。今思えば,非常に無鉄砲な大連訪問である。

秋林公司を出て労働公園(旧中央公園)へ向かう。北側の門から入る。入場料は呂さんのおごりだといって聞かず,私の分まで払ってもらった。中に入ると大きな蓮池があって蓮の花が咲き誇っていた。池に張り出した建物といい,ちょっと今までの外の景色と違い中国らしい庭園の風景である。原っぱの所々に崩した家のレンガが積んである。戦前に建っていた建物であろう。レンガの様子からそう思った。又,満鉄球場跡と思しきものの塀が少し残っており,レリーフもあった。呂さんが,私を喜ばせようと旧春日小学校の裏へ案内してくれる。旧春日小学校は,昔のままの建物で手入れがよく行き届いている。レンガは真っ赤に塗られ,窓枠も白ペンキで塗られて大切にされている。屋根に物見のやぐら様のものが突き出ていて,このようなのは日本でも珍しい建物である。呂さんは,

『屋根の上にやぐらの付いた建物は,日本独特のもので市民も大切にしています。』

と賞讃した。近くには玄関の屋根が日本式曲線を持った図書館もあったが,どうもこのような曲線が美しい珍しいと感じるらしい。何枚か写真に収める。

お昼近くになり一路,天津街に向かう。天津街は昔からの繁華街で,色々な商店が集まっているそうだ。天津街は賑わっていた。そう言えば銀座の歩行者天国のようでもある。一通り,街の様子を見せてくれると言うので,呂さんの説明を聞きながら歩いた。どんなものを食べたいか聞いてくる。和食でも洋食でも,勿論中華でもOKである。(値段の)高い所,美味しい所,綺麗な所と本来望むところであるが,旅行業者のツアーでもないわけだから,思い切って市民の入る中華大衆食堂で,とにかくごみごみした方が良いだろうと,

 『普通の人が入る中華料理店に行きましょう。』

とお願いした。目抜き通りからちょっと入った,さしあたり夜は飲み屋街になるであろう狭い中華料理店が並んでいる中の一軒に入る。

お昼時で,入り口から客がぎっしり埋まっていた。いっぱい中国語が飛んでいる。タバコの煙がすごい。客と客の間をすり抜けるようにして行かないと席に着けない賑わいである。

 『ここは,煩いので二階に行きましょう。個室があって数人座れます。カーテンで外から見れないようになってます。』

と言うのでそうすることにする。注文は,呂さんにお任せする。庶民的な食べ物で丸い饅頭のようなものの間に肉を挟んで食べるのが美味しいと言う。私は,北京に行ったとき食べた麻婆豆腐で黒っぽいタレの硬い豆腐で辛いやつが忘れられないのでそれもお願いした。勿論,青島ビールも付けた。今までずっと歩きっぱなしで疲れた。ここは,呂さんとしばらく色んな話題でくつろいで語り合おうと思ったので最適のテーブルとなった。呂さんの日本の大学留学時代の先生の話,日本人に対する思い,将来のこと等を聞いた。暑かったので青島ビールをどんどん注文する。私も,母の話,祖父,祖母,叔母の大連時代の話をする。日本語が通じるのと呂さんが日本人の感情みたいなものをよく知っているので話は尽きない。酒は自分より呂さんの方が強いようである。とにかく腹を割って話し合うことが素晴らしい友好の掛け橋であると,このときほど思えたことはなかった。店を出るとき,呂さんが店の女主人に赤ら顔で何か話し掛けている。気分が良かったのだろう。私は,呂さんに母が大連で生まれたので縁の地を探しに来たということを通訳してもらった。女主人に,

『道中お気をつけて』

と言われたので,知っている中国語で,

『謝謝』

と答えると,にっこり笑っていた。単なる‘しぇいしぇい’でなく北京で学んだ発音が良かったようだ。ちょっと喋り過ぎたのと飲みすぎたのであまり歩く気にならない。これから植物園辺り,南山麓の方を案内したいと呂さんが言うのでお願いする。あちらの方には日本人がかつて住んでいた立派な家々が沢山残されているというのである。多分あの一角に私の母が住んでいた家があるはずだと思い込んでいたのであろう。私も,この時点では何も判らないので呂さんに任せるしかなかった。天津街を出てタクシーで一路,植物園に向かうことにした。

植物園辺りは,これまでと違い閑静で大きな屋敷が多い。森の中の邸宅街といった感じでもある。木々の中に蝉の声が染み渡っていた。石畳を敷いた歩道があって並木も大きいし坂が多い。そんな中,バスや一般乗用車に混じって驢馬車が行くのを見かけた。のどかと言えばのどかである。今はどうだろうか?銀行とか商社の跡のような建物もある。その中に赤煉瓦造りの瀟洒なビルがあり,1936という数字がにレリーフされていた。おそらく1936年に建築されたのであろう。日本では2.26事件のあったあの世相の時代である。それを写真に収める。森の中の坂を登ったり下ったりしながら,桂林街を通り児童公園に行く。この中に池があって,いい雰囲気の所だと呂さんが言う。後で知ったが昔,日本人がよくここへ遊びに来たという鏡ヶ池のある公園である。鏡ヶ池の所はちょっと空が開けていて,向こうに最新建築の美しいビルがいくつか見えた。心地よい木々の香りがする。呂さんも私も,ゆっくり歩いているうちに次第に酔いが覚めてきた。夕方までには,ホテルに帰りたいのであまり時間もない。呂さんに後の予定として,隋さんの大連友諠商店でお土産を買いたいということと,時間があれば星が浦辺りまでタクシーを飛ばして行きたいとお願いした。

大連の東側の方に位置する魯迅路をちょっと歩いてから,南山路(旧柳町)を通って大連友諠商店に向かう。大連は,町並みが美しいと言うが,一つにはこの並木でないだろうか。ある所では,アカシアの並木があって,家々の目隠しにもなっている。また先程の南山麓の邸宅街ではケヤキなどの並木が続いていた。そして今歩いているところは,名前の通りしだれ柳の並木である。それぞれの町の赴きも違うのである。午後の陽ざしを受けて往時のまま低いビルが南山路大通り脇に並んでいる。私は,『ああ,これが大連の美しさか・・』と思った。

大連友諠商店に着いて早速土産を選ぶ。買い方は,秋林公司で呂さんに教わったが,やや不安でもあり手助けしてもらう。ひょっとして隋さんに会えるかと期待したが,会えなかった。昨日ホテルから電話したときもそうだったが,マーケティングに出かけていていないと秘書の返事が何回もあったので忙しいのだろう。周水子空港から同乗してきた隋さんの部下の一人が店内にいるのを見つけた。お礼を呂さんに通訳して言ってもらう。大連友諠商店は,品数の多い方であると呂さんが言う。日本人観光客もかなり訪れるそうである。店内をいろいろ見て廻り,田舎の両親へ掛け軸の思い切りでかいのを買うことにした。勿論絵が気に入ったものをである。それから弟夫婦へサイドボードに置く小さな屏風。家内への土産に香の付いた扇子を買うことにした。彫刻品などは,中国独特のすばらしい技術を駆使したものがあったが,迷う前にこればかりは,やや値段的に無理であった。しかし今度来たときは,同じくこの隋さんの店でそれを買おうと思った。

 ちょっと大連友諠商店で買い物をしていたつもりであるが,外へ出るとかなり陽は落ちている。まだまだ初秋であるが,日の落ちるのが早く感じられる。ビルの窓に陽光が反射して夕方もまた日本と違った趣がある。急いでタクシーを拾い,大連湾(星が浦を大連湾の一角と間違えていたのが,今晩母に電話して初めて判るのであるが)の北側へと向かう。運転手さんに飛ばしてもらったおかげで,どうにか明るい中で大連湾を見ることができた。呂さんに色々説明してもらうが,海水浴をするような場所かどうか私も呂さんも判断しかねた。大連湾の遠方,南側に重工業と思しき煙突が沢山見えて貨物船が霞んでいた。タクシーに乗り老虎灘の麗景大酒店まで飛ばす。もう5時近くとなったので呂さんにも申し訳ないと謝る。呂さんは,大酒店へ向かう途中に住まいがあるのでそんなに遅くはならないと,気にも留めていないようである。ただ大連湾が星が浦かどうか悩んでいたようだった。タクシーの中からは,色んな興味深い建物などが見える。でも残念ながら時間がなくて降りるわけには行かない。仕方なくタクシーの中からカメラを構え写真を撮る。多少のぶれもピントも何もあったものではないが,やっぱり一日で廻るということは大変である。母が引き揚げ時に公園予定地になっていたという中山公園や大連市政府などをカメラに収めた。呂さんの家の近くに来たところで別れる。これからよほどの機会がないと会えないだろうと思うと,今日一日の呂さんとのことは忘れがたい思い出になる。丁重に呂さんにガイド料の御礼をした。大酒店に着くまで小高い丘に,赤い斜陽を受けた家々の点在するのが見えた。

 

大連賓館(旧大和ホテル)

旧大連市役所

旧横浜正銀

旧大連警察署(左)と旧朝鮮銀行(右)

旧大連病院

旧能登町

労働公園(蓮池)

満鉄球場跡

旧春日小学校

天津街(旧伊勢町)

天津街(旧浪速町,旧浪速ホテル)

植物園付近を行く驢馬車

植物園付近

1936年建物

旧鏡ヶ池

魯迅路

南山路

中山公園

大連市政府(旧関東州庁)

 

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